「その男凶暴につき」は「寅さん」の陰画だったのか
1980年代最後に登場した画期的な映画、それが北野武の「その男凶暴につき」であった。
映画の歴史は、作品と制度との戦いの歴史でもある。
いい映画は、どれも"映画という制度"と戦っている。その意味で、この「その男凶暴につき」はいい映画だったと思う。
この映画が戦っていたのは、それまでの映画の中の暴力という制度である。
現実世界での暴力は常に唐突だ。しかし、この映画までの映画の中の暴力は、まるでプロレスの技のような「芸」に過ぎなかった。
この映画で、ヤクザの流れ弾に当たって死んだ女子高校生、この瞬間、映画は進化したのだと、僕はこの映画を観たときに思ったものだ。
しかし、この唐突の暴力は北野武の「芸」だったということを後で知った。
やはり彼は天才だ。
この映画のラスト近くのシーンで、アズマは気の狂った妹(川上麻衣子)を銃殺した。凄いシーンだった。
映画における兄と妹、僕はそのシーンで「寅さん」を思い出した。
「その男凶暴につき」は「寅さん」の陰画だというのがそのときの直感である...が、おそらく、それは正しくなかった。
僕の直感は大抵が間違える。
そして、この映画はその間違いの一つと一緒に僕の心の中に残った。
まさむね


あの頃(1989年頃)はちょうど、カナダから帰ってきたばっかりで、何かを埋めるかのように映画を観まくっていた。
どれも素敵な映画だったけど、その三作の中で最も印象に残っているのが、世界最北のラップランドで炭鉱が廃坑になり失業した男が"ほっかむり"をして雪風を避けながら、オープンカーのキャデラックで、とにかく南に向うシーンである。
「北京の西瓜」は1989年の大林宣彦の映画だ。日本にやってきた中国人留学生とそれを受け入れる八百屋の親父(ベンガル)との心の交流の物語である。
この間、ラジオを「ながら」で聞いていたとき、今年2009年が映画「
20年ではないが、「
ぼくが最初この映画に感動したのは、これもまたあまりにも有名なラストの古い映画のキスシーンの数珠つながりのシーンだ。洗礼の水でも浴びるようなフィルムの切れはしたちの映像の連鎖。検閲にひっかからないようにフィリップ・ノワレ演じる映写技師アルフレードがそれらのフィルムを切り刻んでいたわけだが、その「記念品(形見)」を主人公が上映してながめるシーン。ここには過ぎた時への回想とともに、トルナトーレ監督自身による古き映画への紛れもないオマージュもあったはずだ。
そして映画の最後のほうで、アルフレードの死の知らせをうけて故郷へ帰る決心をした主人公はなにかと和解し(過去と現在に連なる時間と?)、その葬式参列の日にかつての知人たちの多くの顔に出会う。そこに見いだされるのは、時が確実に刻みつけた人々の顔の変化であり、それと同じだけ主人公も年を重ねたという事実、そしてそれらがある懐かしさをともなって現れてくるのだ。ちょうどプルーストが「失われた時を求めて」における最終巻の「見出された時」の仮装パーティーで「時」の交差と出会ったかのように?・・・・。
21世紀を前にしてその最後の10年の手前で公開されたニュー・シネマ・パラダイスは、そう思えば予見的な映画だったのかもしれない。それは華やかな未来よりもどこか追憶の過去にひきよせられ、新しさよりも追憶のさざ波に揺れているような映画だからだが、それこそまさに現代の風景そのものにも思える。現代において新しいものはまだあるのか? あるのは追憶だけなのか? 失われた過去への記憶だけなのか? 果たして、ぼくらはこの老いた日本の再生の果てに、ニュー・パラダイスを見ることができるだろうか?
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