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2009年1月23日 (金)

与六の女っぽさは兼続の兜の「愛」にどう繋がるのか

NHKの大河ドラマ「天地人」。直江兼続の少年、青年時代の与六(妻夫木聡)の放映が続いている。



ここで気付くのは、少年時代はともかく、青年時代の彼は、なんとも「女性的」に描かれているということだ。

      ◆

例えば、後日、妻になるお船=おせん(常盤貴子)との出会いの場面だ。



人々でごった返す道路に、突如としてあばれ馬が突っ込んでくる。

逃げ遅れそうになった女の子を助けようとして、身を挺して女の子を抱きかかえ、その場にうずくまる与六。

そこに迫り来る暴れ馬。

与六の大ピンチだ。

その時、その暴れ馬に飛び乗り、暴走を止める一人の女性の姿が。その場を収めてその女性が与六に言う。

「この頃の若サムライは馬の扱いも出来ぬと見える」

その態度に、ムッとする与六。

遠目からその女性を2度見し、鏡を見る女性らしさに微妙な笑顔。

そして、次の日の宴会で、その女性と再会して驚くのである。



言うまでも無く、この出会い>不快感>まんざらでもなく思う>再会というパターンは、ラブコメにおける出会いの紋切型である。

しかし、典型的なパターンではあるが、かつては男と女の立場は逆だったはずだ。

     ◆

また、与六は、主君の景勝(北村一輝)が、そのお船に惚れていると知ると、二人を接近させようとして、(景勝がお船に逢いたいという)偽りの手紙を書き、二人を逢わせ、それを影から覗く。

さらに、その後、故郷の母の体調が悪いと知ると木陰で一人泣き出すシーンも出てくる。



これら、与六の振る舞いは、どれもこれも、どう見ても、彼が「女性的」ということを表すエピソードである。

勿論、この「女性的」というのは、現実の女性がそのように振舞う仕草ではなく、芝居やドラマの中での「意味づけ」としての「女性的」にすぎないのであるが、どうして、これほど執拗に、与六を「女性的」にしたがるのであろうか。



そういえば、前作、「天障院・篤姫」では、少女期の篤姫(=於一)に対して、木登りをしたり、野原を駆け回ったり、「源氏物語」よりも「大日本史」が好きだったり、碁が得意だったりと、与六とは逆に「男性性」が付与されていた。

まるで、於一と与六、篤姫と兼続は合わせ鏡のようなキャラクタ設定だったのである。

     ◆

最近のドラマの多くが女性は「男性的」に、男性は「女性的」に描くのが勝ちパターンのようではある。

しかし、そのパターンを、現代ドラマと同様に、視聴率のために時代劇に持ち込むというのはいかがなものか。



一俗説によると、直江兼続が上杉家で重きをなしていく要因の一つとして謙信との衆道関係(ゲイ)にあったという。

真実はわからないが、例えば、篤姫の男性っぽさが、結局は、彼女が処女のまま生涯を終えるという「悲劇」の伏線になっていたように、この与六の女性っぽさが、大河では描けない「ひとつの可能性」の「ほのめかし」として、示唆的に扱われ、物語に厚みを加えるものであって欲しいというのは贅沢な願望だろうか。

そうなってくると、兼続の兜の「愛」の意味もより深みを増すと思われるのだが。



まさむね



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