オタクはすでに死んでいるという悲しすぎる現実
ここ数年来の秋葉ブーム、いわゆる萌え~と言ってる輩に違和感を持つオタクは多いと思う。
そんな輩こそがオタクだと言われたとき、元祖オタクのオタキング・岡田斗司夫さんが黙っていられず、オタクの死を宣言する気持ちはよくわかる。
実は、僕もある意味、オタクだからである。
ただ、僕の場合、その対象はかつては現代思想、そしてプロレス。最近は家紋だ。
この本では、マンガ、アニメ、ゲーム、鉄道、PC、アイドル、SFなどがオタクの対象として語られているので、僕のような存在はオタクの中でもさらに邪道、あるいはオタクですらないなのかもしれない。
まぁ自分のことに関しては、後日語るとして、問題は岡田さんはどうして、この本で「オタクの死」を語っているのかである。
岡田さんの話をかいつまむと、かつてのオタクは、オタクになるためには修行が必要だったという。
時期で言えば、70年代以前に成長したオタク(第1世代)である。
例えば、SFオタクであれば、主要なSF小説を全部把握し、時には原書にも手を出す。そして、知識を増やし、それを布教してまわる。
そういった修行に耐えられるツワモノがオタクの称号を得る、それを岡田さんは貴族的存在と表現する。
しかし、その後、宮崎務事件が起きたり、宅八郎がメディアに露出するようになると、オタクという存在がかなりネガティブな色を帯びてくる。
それゆえ、彼等はオタクでありつづけるために、社会との間に緊張関係を持たざるを得ない存在になっていくのである。
時期で言えば、80年代後半から90年代前半までの話だ。
だから、その時期に成長したオタク(第2世代)は、オタク論が好きである。それが社会と対峙するための武器になるからだ。
その世代のオタクを岡田さんは、エリート主義オタクと命名する。
そして、時は21世紀。オタク文化がすでに、成熟した時代をむかえる。
それは、第1世代が、アニメの成長とともに成長し、第2世代がゲームの成長とともに成長したような経験の無い世代の誕生である。
彼等、いわゆる第3世代は、修行や理論武装の必然性を感じない。
ただ、自分が萌えられればいいのだ。
大事なのはその対象でもなければ、対象を普及することでもなければ、ましてやその対象を守ることでもない。
彼等にとって大事なのは、その対象に萌えてる自分だと岡田さんは分析する。
そして、そんな新しい世代のオタクを目の前にした時、岡田さんは明らかに断絶を感じ、オタクの死を宣言した。
それがこの本なのである。
それにしても、そんな新しい世代がクリエイティブの最前線に出た時、彼等は新しいものを作り出すことが出来るのだろうか。
それが心配である。
先日、全世界における日本のゲームソフトのシェアが20%に落ちたという報道があった。
一時期、日本の得意技とされていたゲームが段々、世界で通用しなくなってきているのだ。
また、コミックも日本の代表文化と言われた時代があったが、最近では、コミックを読む若者が減ってきてしまっている。
マンガすら読めない子供達が増えているという話もある。
はたして、そんな先細りの業界に、次の時代の手塚治虫や鳥山明といった天才は生れるのだろうか。
残念ながら、それは誰にもわからないだろう。
ただ言えるのは、だからと言って、ある種の公共事業のように、巨額の補助金をゲーム会社やアニメスタジオに投資すればいいという話ではないという事だけは確かだと思う。
まさむね
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