靖国問題は将門の桔梗への怨念が起しているの(かも)
桔梗伝説というのがある。
話は平安時代、場所は関東。平将門が新皇と称し、その地に新しい国家を創ろうとした時のことである。
中央から見れば、それは明らかに反逆だ。京の貴族達は右往左往する。
そして、将門を討伐するためにある武将が指名された。
それが、藤原秀郷。あのムカデ退治で有名な猛者である。
戦いは、最初、風を背にした将門軍が有利に進めたという。
しかし、勝ち誇った将門が自陣に引き返す途中、急に風向きが変わり、秀郷軍の猛反撃が始まる。
将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦するが、馬の歩みが乱れ、将門も武勇の手だてを失い、いずくからか飛んできた矢が将門の額に命中。
あえなく討死したという。
こうして、平将門の乱はあっけなく鎮圧されたのであった。
しかし、あれほど、武勇の誉れ高かった将門がたった一本の矢で絶命したという事から一つの伝説が残された。
将門には七人の影武者がいたというのである。
さらに、それらの影武者たちの中で本物の将門の特徴とその弱点(こめかみ)を桔梗姫という愛人が知っており、裏切って、その事を秀郷にこっそりと伝えていたらしいのだ。
それ以降、将門を信奉する人々は「桔梗」を忌み嫌い、自分の土地に桔梗を植えないばかりか、桔梗模様が入った物品も使用を控えたという。
また、江戸時代に入って、将門を奉る神田明神の明神祭には桔梗紋の家は参加出来なかったともいわれている。
それほどまでに将門に嫌われた桔梗紋であるが、実は、将門調伏のために、朱雀天皇が京都神護寺の不動明王を奉じさせたのが起源のあの成田山新勝寺が属する真言宗智山派の代表紋なのである。
これは偶然なのであろうか。
(写真は、田無にある智山派の総持寺で撮影した桔梗紋)
そして、実は、将門(=神田明神、反天皇派)と桔梗紋勢力(=親天皇派)の戦いが日本史を舞台に繰り広げられているのである。
有名なのは明智光秀。信長を本能寺で討つが、その直後に秀吉に討たれ、最後は土民の竹槍の餌食になった。
光秀の背後には天皇勢力が存在したという説は根強い。
そして、次に歴史に登場する桔梗紋者は幕末の坂本龍馬だ。
土佐の脱藩浪士の龍馬だが、「大政奉還」「薩長同盟」等の親天皇派の政策を画策する。
しかし、最終的に幕府の見廻り組に暗殺される。
さらに、坂本龍馬と同時代には、天皇派桔梗紋者として、江戸攻めを行った大村益次郎がいる。
彼は官軍の長として彰義隊を蹴散らした。いわば、将門が守る江戸を蹂躪したのである。
勿論、彼の最期も暗殺という悲劇で終わっているのだ。
天皇派の桔梗紋者の悲劇は偶然なのであろうか。
しかし、大村益次郎は、ただでは死ななかった。
彼は天皇のために死んだ人々のために、ある神社を創設したのだ。
それが靖国神社なのである。
彼は、現在でも靖国神社の表参道中央に大きな銅像として、顔はやや背けて(上野の西郷像を見ている?)はいるのだが、体は神田明神に正対している。
すなわち、東京という魔都を支配すべく、靖国神社を根城にした大村益次郎と、江戸時代以来の主神田明神に鎮座する平将門がいまだに緊張感を保ちつつにらみ合っているのだ。
靖国問題というのは、もしかしたら天皇派桔梗紋勢力に対する将門の怨念の延長上にある一つの事象にすぎないのかもしれない。
まさむね
参考エントリー
2011.1.13首都圏にある「京」の字がつく私鉄(京成、京急、京王)の秘密
2009.4.03 平将門魔方陣と明治政府魔方陣が交錯する都市・東京
2009.3.28 平将門と桔梗との因縁都市・東京の歴史
2009.3.18 東京・闇の戦いの図式 〜『東京魔界案内』を読んで〜
2009.3.15 靖国問題は将門の桔梗への怨念が起しているの(かも)
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