『ザ・クイズショウ』を見てしまう自分はまだ自分探し病?
自分探しの必然と胡散臭さが、『ザ・クイズショウ』のテーマである。
毎回登場する回答者は、クイズに正解していく過程で、成功の影に捨ててきた「本当の自分」=「本当の夢」にたどり着くという心理劇である。
さらに、連続する大きなストーリーとして司会者の神山悟(櫻井翔)が、徐々に自分の過去=「本当の姿」に気づいていくという筋立てである。
実は、この神山は、精神科に通う青年である。その昔、ある女性と心中して自分だけ助かったという過去があるらしいのだが、その事実を記憶から抑圧している。そのことを、番組ディレクタの本間敏雄(関ジャニの横山裕)が、回答者に、神山の過去と関係している人々を次々と呼ぶことによって、記憶に蘇らそうとするのだ。
まだ、本間の真の目的は不明であるが、どうやら、神山に対してなんらかの恨みを抱いているということだけは想像させる。
この『ザ・クイズショウ』は、こうした毎回の回答者、そして大きな流れの中での司会者の本当の自分を暴いていくという、ややもすれば難解な二重の物語構造を飽きさせずに展開する。細かいところでのツッ込み所はあるものの、少なくとも意欲作とは言えるだろう。
★
もし、この作品が多くの視聴者を惹きつけているとするならば、おそらくそれは、現代社会が必然的に生み出してしまう「現実の自分」と「本当の自分」の乖離、すなわち、"自分探し病"の病根の深さを物語っているのかもしれない。
学校という場所が大人になるための訓練場から、夢を育てるファンタジー工房となって久しいが、それによって生み出される自分探し病の若者たち、大雑把に言えば、そんな人々の心のスキマをチクチクとこのドラマは刺激する。
かつてデュオで活動していた時は、ヒットメーカーだったが、ソロになって不遇な時代を過ごすロックシンガー、他人が書いた携帯小説の表向きの顔を演じさせられている少女、影で振り込め詐欺の元締めをしている教育ボランティア...どれもこれも、現代社会のどこかに存在していそうな、自分探しをやめられない胡散臭い人々...
見たくはないが、思わず見てしまうというこのドラマの引力圏内にいるということは、僕自身もまだ自分探し病中なのかもしれない。
★
あるいは、さらにうがった見方をするならば、僕は、問題作『銭ゲバ』では提供から表面上隠れていたが、このドラマでは何事もなかったかのように無事番組内CM枠に復帰し、堀北真希、松山ケンイチ、劇団ひとり、堤真一を使って携帯の新機種と自分探しを連動させる新マーエッティングプランを展開しているdocomoの計略(『ザ・クイズショウ』を見て自分探しに不安を感じる若者をdocomoの携帯で救うという)に、ひっかかっているのかもしれない。
また、考えすぎって言われるかもしれませんが。
まさむね
« 日本人は何故、ヤンキーに優しいのだろうか | トップページ | 清志郎の死。東京の西部に憧れていた時代があった僕。 »
「テレビドラマ」カテゴリの記事
- 「平清盛」 雑感(1999.11.30)
- なずなはヒールだ(2000.08.15)
- 大仁田と鶴太郎(2000.08.22)
- 鹿男あをによし 最終回で全ての謎はとけたのか(2008.03.20)
- ROOKIES 高福祉型×ネオリベの代理闘争(2008.05.10)
この記事へのコメントは終了しました。
« 日本人は何故、ヤンキーに優しいのだろうか | トップページ | 清志郎の死。東京の西部に憧れていた時代があった僕。 »
コメント