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2009年5月 3日 (日)

清志郎の死。東京の西部に憧れていた時代があった僕。

忌野清志郎が死んだ。



80年代の最初頃、大好きだったRC。

「スローバラード」「トランジスタラジオ」「雨上がりの夜空に」「多摩蘭坂」「ダーリンミシン」いい曲いっぱいあった。

東京都中野で生まれて、育った僕は、高校、大学の頃、吉祥寺とか、国分寺とか立川とか中央線の西の方の多摩文化にあこがれていた。反権力、自由、サヨク、マリファナ、ヒッピー、エコ野菜、そんなサブカル的な宝島的なものがかっこよく感じた時代、その一つの象徴がRCサクセッションだったのである。アルバム「BEAT POPS」の赤い目のメンバーを見ながら、共感を覚えたりしたものだ。



高校時代、東京では、東から西へ行くにしたがって、聴く音楽が違った。ようするにカルチャーが違った。

墨田区とか荒川区とかの下町の小僧が渥美二郎とか榊原郁恵を聴いていた時代、僕が住んでいる中野あたりでは、ちょうどビートルズ系、もっと西の三鷹とか武蔵境では、QUEENとかプログレとか、そしてさらに西の国分寺とか、立川に行くと、フランクザッパとか。あくまでイメージの話だけど、そんな音楽に象徴される文化圏があったような気がする。



そんな時代、東京の西のほうから聴こえてきた日本の音楽が、RCサクセッションとユーミンだったんだな。

70年代、どちらかといえば、地方出身者が東京での孤独を歌った「なごり雪」とか「心の旅」とかがメインだった時代。東京の山の手のロック、つまり、サブカル西東京の音楽を創ったのがRCだった。



四畳半でキャベツばかり食べていたり、一人、部屋で真っ白な陶磁器をながめたり、駅のホームで時計を気にしたり、じゃなくて、授業をさぼって、屋上でラジオを聴くっていう、どちらかといえばサラリーマン子弟のプチ不良的な世界=70年代後半に山の手で学生時代を過ごした僕らにぴったりくる歌を歌ってくれたのがRCだった。

男と女の歌にしたって、RCは、俺=お前関係じゃなくて、僕=君関係、微妙な育ちの良さがその特徴だ。でも、どこか上品なバンカラ気質を持っていて、敢えて「かぶいた」ダサい格好をするのがカッコいいっていう感覚、ありましたよね。

清志郎が高校の同級生の三浦友和をバンドから追放した理由が「こいつ、Gパンにアイロンかけるんだもんな」っていうシャレに納得したのを覚えている。



あと、だいぶ時間がたった後だけど、「お墓と離婚」という岩松了の映画で、実にイヤ~な、墓石のお客様役をやった清志郎、確か、風呂場で泳ぐんだよね...



清志郎の事を思うといろんな断片が、バラバラに思い出されて、収拾がつかなくなるのでこの辺で止めておこうかな。



まさむね

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