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2009年7月15日 (水)

東国原知事は政界における長州小力のようなものである

政治とプロレスは似ていると昔から思っていた。



政治家になるにも、プロレスラーになるにもライセンスは必要ない。みんなが政治家と認めれば政治家、あるいはプロレスラーになれる。いや、実は自分が政治家だ、あるいはプロレスラーだ、と言い張ってしまえばなれるのである。



また、政治もプロレスも実力の世界であるようでいて、その実力の実態というのが不明なのである。政治家ならば相手を論破できれば、それで実力があるといえるのだろうか。また、プロレスラーならば、相手よりも強ければ実力があるといえるのだろうか。

両方とも違うのである。そこには、「実力」の他にも、人気、人柄、さらには家柄、弟子筋までもが重要になってくる世界なのだ。

そして、そこで彼らに必要なのは、リアリティと説得力なのである。



さらに言えば、プロレス団体と政党にも類似性が多い。それは一見そう見えたとしても民主的=平等主義の組織ではない。メインイベンター(=党首)とは全く別に陰のフィクサーが実は院政を強いたりして、幅を利かせている。主義=ポリシーが大事であるようでいて、実はあまり関係がない。仲間割れをして離脱したメンバーがいつの間にか、許して、抱え込んでいる。そこには、仁義があり、裏切りがあり、嫉妬があり、友情がある。

日本人が作る組織なのだから、同じようになるという説もあるが、それにしても似ている。歴史的に見てもそうだ。



70年代~80年代前半、プロレス界は新日本プロレスと全日本プロレスがお互いいがみ合いながら並存していた。それは、自民党と社会党がイデオロギーで角を突き合わせていた政界とパラレルな状態であった。

80年代後半~00年代、最大与党の新日本プロレスが分裂して、UWF、ジャパンプロレス等様々な団体が発生。野党の全日本プロレスからもSWS、FMW等の分離、独立運動が起きた。政界でも、自民党が分裂して新生党、日本新党が出来る。社会党からの流れと合流して民主党が出来る。



そして、そうこうしているうち現在、プロレス界は、世間からの信頼=関心を失った存在となってしまった。

一方、政治に対する信頼も地に堕ちた感がある。誰が首相になっても、党首になっても庶民は心からは支持できない。相対的にマシというスタンスでとりあえず支持しているだけ、誰がなっても同じという意見が大勢を占めてしまっている。

これでいいとは誰も思っていないが、逆に独裁者に出てこられても困るみたいと感じている。なんとも八方塞な状態なのである。



最近、東国原知事が「自分を総裁候補にしてくれるのならば、自民党から立候補してもいい」というような発言をしたということで世間を騒がせた。

ついに、お笑い芸人が首相になるような時代になろうとしているのか。

僕は彼の発言を聞いて、長州小力と長州力の関係を思い出した。

長州力と長州小力。いろんな意見があるだろうが、ある視点から言えば、本質的には、違うようでいて同じなのだ。

それは、普通の人(=芸人)と政治家が違うようでいて同じということと違いはない。

そして、それがみんながわかってしまったのが現代という時代なのである。



ある種の幻想が破られてしまった後、すなわち、みんなで一線を越えてしまった後に残るのは、面白くもない平等主義社会、薄暗い嫉妬の渦巻く世界、宮台先生が言うところの「田吾作村」なのかもしれない。



麻生首相が解散、総選挙を口にした。それに反発するグループの動きも活発化しているようだ。古賀選挙対策委員長も辞意を表明した。

これから先、どうなっていくのだろうか。興味深いと同時に憂鬱でもある。



まさむね

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