やっぱり僕にはヴィトゲンシュタインは理解出来ない
学生の頃、静かにヴィトゲンシュタインが流行っていた。
友達の部屋には、必ず、オレンジと緑のヴィトゲンシュタイン全集(大修館書店)があったような気がする。
80年代初期を文学部の学生として過ごした青年達のインテリアのようなものだ。
みんな今頃、どこで何をしているのだろうか。
★
『はじめての言語ゲーム』(橋爪大三郎)を読んだ。
「もっともわかりやすいヴィトゲンシュタインの入門書」というキャプションのが目に入ったからだ。
僕が学生の頃読んだヴィトゲンシュタイン、その一行、一行は理解できた。そして口にもしてみた。
「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」
「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」
「語りえぬことについては沈黙しなければならぬ」
でも、彼が本当に何を言いたいのかはわかっていなかったと思う。
そして、その時のちょっとした恥ずかしさがこの本を手に取らせたのだ。
★
橋爪先生はヴィトゲンシュタインのメインコンセプトである言語ゲームについてこう語る。
その結論。「痛い」は感覚の名前ではない。感覚の名前だと考えると、自分が痛いときだけしか、「痛い」と言えなくなる。相手が痛いかどうか、自分にはわからないからだ。そうではなくて、「痛い」は、自分が痛いとき、そして相手が痛いときのふるまいである。ふるまいだから、お互いに観察できる。自分も相手も、誰もがひとしく「痛い」という権利があって、それは、痛いということなのである。-これが、ヴィトゲンシュタインの明らかにした私的感覚の言語ゲームのしくみだ。
この見方は、究極的には、「神」がいるかどうかが問題なのではない。「神」がいるかのようにみんなが振舞うから「神」が実在するようになるということ、つまり宗教(キリスト教)というものは、「神」が実在するというルールを前提とした言語ゲーム内でしか存在し得ないものとなるのだ。
勿論、その言語ゲームを外から見ている人々も別の言語ゲームの中でしか生きられないのであるが。世界について語る時、言語ゲームという考え方はしっくりくる。それが、現代社会批判に通じ、相互理解への足がかりになるということも理解できるのだ。
★
しかし、一方で日常感覚に話を戻してみる。
「痛み」という話であれば、僕はどうしてもプロレスに関して考えないわけにはいかないのだ。
プロレスというのは、最低限の「痛み」を最大限にふるまうゲームである。
しかし、最大限に「痛み」をふるまうために、身を削るレスラーたちも沢山存在する。先日、リング上で亡くなった三沢選手もその一人だ。多くのレスラーは、リング上では「痛み」を強調しながら、そして、私的にも確実に、普通に痛がる日常を過ごしているのである。
一方で、全く痛くないのに、「痛み」をふるまうこともある。全く当たっていない技でフォールされてしまうこともあるし、病院の定期健診に行ったら、「運動不足」と診断されたレスラーすらいるのだ。
しかし、中には、「痛み」を全く感じさせるようなふるまいをしてはいけないようなタイプのレスラーもいる。今は懐かしき、ロード・ウォーリアーズなんかはその典型だ。
このようにいろいろと考えてくると、言語ゲームというのが「ふるまい」の総体だというのもよくわからなくなってくる。
世の中、そんな単純化できるのだろうかとも思う。
やっぱり僕の頭では理解出来ない。
歳を重ねれば、思慮深くなり、いろんな事がわかってくるというのは多分、ウソだ。逆に、わからないことが多くなる。
そして、最後はヴィトゲンシュタインの言葉通りに振舞わざるを得ないのだ。
「語りえぬことについては沈黙しなければならぬ」
もしかしたら、80年代初期の文学部青年達もどこかで沈黙を守っているのかもしれない。
まさむね
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