w-inds.ライブ、その隠れキリシタン的恍惚は特権的だ
ライブ会場に足を運ぶ楽しさは、アーティストのパフォーマンスを楽しむというは勿論だが、同時に、自分と同じ価値観を共有した人々に囲まれる楽しさでもある。
具体的に言えば、例えば、w-inds.ファンは、周りが全部、w-inds.ファンという空間にいること自体が幸せなのである。
だから、現在、VISION CAST(携帯のみ)で無料で見られる各会場でのコンサート終了直後のファン達の喜びの表情がなんとも嬉しい。
その画面には当然、w-inds.の面々は映っていないのだが、彼女ら(とほんの少しの彼ら)のはちきれんばかりのw-inds.に対する感謝の叫びを聞いているだけでこちらまで幸せになってくるのである。
さらに細かく言えば、これらの叫びは各会場でも個性があることに気づく。
例えば、東京の国際フォーラムでの収録では、アジア圏からの人々もこれに参加していて、さすが「国際的」だと感心させるし、新潟県民会館では何人かの娘が「コシヒカリ」を、仙台サンプラザホールでは「牛タン」をアピールしていた。それがまたほほえましいのだ。
さらに、各会場でのw-inds.のメンバーたちが披露したパフォーマンスやMCの内容も垣間見られて、さらに僕らの想像をかき立てる。それはそれで楽しい。
おそらく、彼女達のボルテージの高さは、w-inds.というグループが、地上波各局の自主規制という名の締め出しによってゴールデンタイムの音楽番組に出演できないことから来る、ある種の抑圧が逆にいい意味で結束感を生んだ結果かもしれないと思う。
いわゆる「秘められた楽しみ」を、よく言えば、特権的に、悪く言えば、孤立的に味わうことの出来る恍惚感とでも言おうか、そんな感じすら受けるのである。さらに、ツアーの中盤にボーカルの慶太が気管支炎で舞台を降りるというアクシデントもあり、そういった彼女達の結束力をさらに強めたということすら言えるのではないだろうか。
この僕でさえ、その事件があった次の日、思わず四谷のたんきり地蔵に走った。さらに、熱狂的な彼女達がどんだけ心配したか。想像を絶する。
昨年の龍一の怪我といい、まさに「受苦的」存在としてのw-inds.、そしてそれを応援する「隠れキリシタン的」ファン、その結束は固い、そう信じさせるライブの一体感は、今年も健在といったところか。
勿論、今年のツアーでは、女性ダンサー問題が物議を醸したという一面もあったが、それはそれで、w-inds.ならではのピュアさが生み出した一つの事件だ。誰が悪いわけでもない。
僕は今回のツアーの国際フォーラムに参戦し、観客が全員居なくなるくらいまで会場内でボーッとしていた。
そしてファンが一人一人会場をあとにするのを横目で見ながら、ライブというものの熱狂と儚さを体で感じた。
一人一人が満足して帰路につく。心の中にそれぞれのw-inds.像を秘めながら。そして残された静かな会場は、まさに「夢の痕」状態...
来年また、天使達はここに降りてくるのだろうか。なんて少しロマンチックすぎるか50歳になろうとしているのに。
まさむね
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