無料ブログはココログ

« 80年代以降のニッポンのプロレス界と思想界の共通点 | トップページ | プロレスというのはじつにやっかいなものだと改めて思う »

2009年10月 3日 (土)

逆に「夫婦別姓」は日本の良き精神を受け継ぐ制度である

10月1日付けの産経ニュースに、「【主張】夫婦別姓 家族の絆を壊しかねない」という記事があがっていた。(以下、このエントリーでの引用はその記事より)



夫婦が別の姓でも婚姻関係を保てるとする選択的夫婦別姓制を導入する民法改正案が来年の通常国会に提出される見通しになった。推進派の千葉景子法相と福島瑞穂男女共同参画担当相が早期法改正に意欲を見せているためだ。
この夫婦別姓問題に関して、以前より様々な問題点が指摘されている。婚家主義から生家主義的傾向が強くなるとか、家族の絆が弱まるとか、離婚がしやすくなるとか...

しかし、それらの多くは、漠然とした懸念の域を出ていないように思える。上記の記事の中にも以下のような指摘があった。



家族は夫婦だけではない。親の都合だけで考えれば、別姓で支障がないかもしれないが、子供は必ずしもそれを望んでいないのだ。親子の絆(きずな)を強めるには、やはり夫婦が同姓でいることが教育上、好ましいことは言うまでもない。
何故、「教育上、好ましいことは言うまでもない」のかが全くわからず、反論のしようもない感じだが、こういった感慨を抱く中高年が多いことは想像は出来る。

そして、おそらく、夫婦別姓を反対する人々を「保守層」とか言うのだろう。

しかし、こうした議論が出てくる際に、いつも感じることではあるが、それらの「保守層」は一体何を保守しようとしているのだろうか?それが、今ひとつ不明なのである。



姓に関して言えば、日本は世界で二番目に数が多い国として知られている。一位は、アメリカである。それは移民が多く、世界各国の姓を持つ人が集まっているためという理由は納得しやすい。それでは、何故、日本ではこれほど姓が多い(一説によると300,000と言われている)のであろうか。

古代日本には氏姓制度というのがあって、その頃は、氏は天皇が下々に与えるものであった。蘇我氏、物部氏、藤原氏、源氏、平氏などというのがそれだ。そして、その氏というものは、基本的(公式的)には父系の氏を受け継ぐものであった。

しかし、それだと、例えば、藤原氏なら藤原氏を姓とする人が多くなりすぎて、朝廷近辺の狭い人間関係社会だけならまだしも、日本全国に人々が広がりだすと、どこの藤原氏だかわからなくなってしまう。それで、平安時代に、都落ちした貴族の末裔(いわゆる武士)はそれぞれの開拓地の名前を「氏」とは別の「名字」として私称しはじめる。これが名字の始まりである。

勿論、その後、古代からの「姓」を、名字として使用し続けた人々もいたり、地名とは関係なく、自分で勝手に名字を作った人も多くいた。だから、日本の名字は多いのである。



逆にお隣の朝鮮やシナでは、儒教的な、「姓は天から授かり物」的な観念が強く、それによるしばりが強かったため、名字という「自己申告的な名前」ようなものは発生しなかった。

だから、例えば、韓国では現在、200余りしか姓は無いし、中国(漢族)では2000程度しかないといわれている。

ようするに、日本ではなしくずしに名字が増えていったのである。それはある意味では、日本人のルーズさを表しているし、べつな意味では、自立心の強さ、日本社会の中央権力の弱さ等をも表している。

「なんとなく既成事実が積み重ねられて、自然成立したかのように物事が作られて行き、さらにその歴史すら忘れられていく」、あるいは、「理念にとらわれずに、それぞれの裁量と冒険心をもって人間関係を作り、たくましく生きていく」という、僕はそういった風土こそ極めて日本的だと思う。だから、日本に名字が多いことは、日本人のそういったたくましい伝統の証だとすら思っているのだ。



したがって、基本的には政府が法律で名字に対する規制をしていることは、本来の日本の伝統からは反していると思う。よく、江戸時代には、武士以外には名字を持たなかったといわれているが、それは間違いで、実は、大多数の庶民も名字を持っていたのだ。ただ、公式にはそれを持っていないことになっていただけなのである。逆に言えば、お上は下々の名字などに対しては、全く不干渉だったとも言えるのである。

僕は、そういった意味で、逆に夫婦同姓という明治以降の中央集権国家的な規制は反日本的であると思うし、だからこそ、それを積極的に肯定したいとは思わないのである。

また、全然、別の観点だが、日本人の豊富な名字を守っていくには、夫婦別姓の方が有利という点も見逃せない。同姓を強制されることによって、希少姓が消滅してしまうのは極めて残念だったが、これで残されていく可能性が増えたのである。これだって一つの伝統を保守することになるのではないのか。



話を戻すが、だいたい「家族の絆」をお上に守ってもらおうという発想自体が古代から歴史を視野に入れた時に、「日本的」ではない。それは個々人の問題であり、「どういった家族のあり方が幸せか」などということをお上に決めてもらわなくても結構だ。名字が親子で違うと絆が損なわれると思う人は同じにすればいいではないか。それだけの話である。



さらに言えば、おそらく、現在、夫婦同姓という規制があることによって、不自由な人々がいるのであろう。特に結婚によって、片方(特に女性)が名義を書き換えたりすることは多大な面倒になっているのではないかと想像される。

そういった事をわずらわしいと思う人々が少しでも生きやすい社会になるのに、関係ない人が何故、反対するのかがよくわからないのだ。



ただ、夫婦別姓が認められると、本人同士は、同姓にしたかったのに、例えば、結婚を認めたくない片方の親から、無理やりに別姓を強制されたお嫁さんが、結婚後、何年にも渡って自分が夫と違う名字を見るたびに、逆に差別されたようにとか、あるいは、夫の家に認めてもらえないなどとと感じてしまうようなことも起こるかもしれない。制度を利用した新しい不幸が生まれてしまう可能性だったありうるということだ。



しかし、どんな制度だって、いいところもあれば、悪いところもある。それは、それぞれが乗り越えていく問題なのだと僕は思う。



まさむね

« 80年代以降のニッポンのプロレス界と思想界の共通点 | トップページ | プロレスというのはじつにやっかいなものだと改めて思う »

社会問題」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 逆に「夫婦別姓」は日本の良き精神を受け継ぐ制度である:

« 80年代以降のニッポンのプロレス界と思想界の共通点 | トップページ | プロレスというのはじつにやっかいなものだと改めて思う »

2021年8月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

最近のトラックバック