「ロンバケ」の再放送を見ている若者たちに言えない言葉
「ロングバケーション」が再放送しているという。
なんと9年ぶりだそうだ。
日本のテレビドラマ史に燦然と輝く「ロンバケ」。
低視聴率にあえぐテレビ業界がついに切り札をだして来たという感じだろうか。木村拓哉と山口智子という当時の黄金コンビが織り成す微妙な恋の駆け引き。ジャパニーズメロドラマの王道である。
才能がありながらくすぶる若き一人暮らしのピアニストの瀬名(木村拓哉)のアパートメントに、ひょんなことから30歳過ぎの行き場を失った南(山口智子)が迷い込む。
今で言えば、草食系男子の典型である内気な青年と、強気でお節介焼きの年増女が、時に励ましあい、時に傷つけ合う、そして結ばれていく、その二人の微妙な距離感がこのドラマの生命線である。
昨年再放送した「29歳のクリスマス」でもそうだったが、南の溌剌とした色気はなんとも魅力的だ。あくまで自分の欲望に忠実(自分に正直)でありながら、しかし、そこはかとなく優しい。そして、最終的には瀬名にとって無くてはならないような存在になっていく。それはまるで、幸せを運びこむ座敷童子のようでもある。
柳田国男は「妹の力」という評論で、女性というものが持つ根源的な男に幸せをもたらす霊力について語っていたが、「ロンバケ」における南はまさに、そういった意味で、日本民俗学的にも典型的な女性像なのかもしれない。
このドラマが放映されたのが1996年で、この時、南が31歳だから、彼女は、逆算するとちょうど男女雇用機会均等法が成立した1985年に20歳(短大卒が社会人になる年)、時代の流れに乗ってキャリアウーマンとして社会に出るが、そこで様々な挫折を繰り返して、「これでいいのかと振り返ってみたら31歳、人生の節目にぽっかりあいたエアポケットのような時間、それをこのドラマでは「神様がくれた長い休み=ロングバケーション」と表現している。
しかし、あの時代の彼女達はまだ幸せのように思える。まだ、希望、そして何よりもファイトがあったからだ。最終的に瀬名と結婚してボストンに行く南だが、それまでの過程はまさに社会と、そして自分との闘いがある。
闘っている女性は美しい、だから彼女も輝いている。山口智子がこのドラマを最後にして女優としての一線を退いた、その潔さも含め、このドラマは永遠に「闘いにおける勝利のドラマ」として僕の記憶に残り続けるのだ。
一方、ピアニストとしての自分にどうしても自信を持てず、しかし、南の「霊力」を借りて世界に羽ばたいていく瀬名。彼もまたロングバケーションというエアポケットに迷い込んだ戦士である。
おそらく、今回の再放送は、現代、平日の夕方という時間帯に自分を見失った多くの若者が見ているにちがいない。しかし、瀬名が持っていたピアニストという漠然とした夢ですら、それらの若者は持っているのだろうか。余計なお世話を百も承知でそんなことを考えてしまった。
あの時代、瀬名はまだ、「今はロングバケーションだ」とその現状を人生の波の底辺として解釈する余裕があった。しかし、今の若者の多くは「もしかしたらこのまま沈んだままではないのだろうか」「負のスパイラルに迷い込んだのではないだろうか」との不安を持っているに違いない。
実は、この「ロンバケ」が再放送された今から11年前、僕はフリーという名前の失業者=自宅警備員だった。今で言えばニートだ、いや、既に35歳を超えていたからニートですらなかったのかもしれない。
しかし、それでも僕には漠然とした希望があった。今思えば、なんとも無謀で危うい希望ではあったが...
おそらく、「ロンバケ」が放送された15年前、そして僕が再放送をみた11年前に比べ、その「時代が持つ希望の有無」という点が一番大きく変わってしまった悲劇かもしれない。
これらの不安の観念の大部分が「幻想」なんだよ、だから大丈夫なんだよ。と僕は、今、夕方のこの時間に「ロンバケ」を見ている若者に言ってあげたい。
しかし、それも言えない現代という時代というのは一体何なのだろうか。
まさむね
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