無料ブログはココログ

« 西野カナの「Dear・・・」と浜崎あゆみの「Dearest」は確かに.. | トップページ | 偶然、樋口一葉の一葉忌とぶつかった休日の本郷を歩く »

2009年11月22日 (日)

デフレを受け止めきれない僕らの近未来イメージの不在

よしむねさんが「大江戸温泉の無国籍化でブレードランナーのことなどを思いながらわしも考えた」で指摘されたお台場の混沌とはおよそ対極な人工的なの空虚感は僕も感じるところだ。微妙に観点は違うが、僕も等身大ガンダムは土地の霊不在のお台場に似合いすぎというようなことを考えていた。



先日、所用で青海のフロンティアビルに行ったのだが、その時、1Fの食堂の自動販売機に千円札を入れたら、その千円札が、一旦は、販売機に引き込まれながらもそのまま戻って出てきた。誰にでも経験があるであろう日常のシーンだと思うが、僕はその時とっさに映画「スワロウテイル」でフェイホン(三上博)が、自動販売機に偽札を入れようとしたところを警察に捕まるシーンを思い出した。

お台場という人工的な場は、それゆえに、人工的な映画のワンシーンを思い出すようなイメージ喚起力があるのかもしれない。そういえば、あの「スワロウテイル」も湾岸地区のガラクタ屋敷で、人々(無国籍人や子供達)が再生する物語だった。

この映画が封切られたのは1996年。すでに10年以上も前の話だ。

80年代が想定する近未来が、「ブレードランナー」に象徴される高層ビル群の麓のジメジメしたアジア的混沌だとしたら、90年代が想定した近未来は、この「スワロウテイル」が描き出したガラクタの中でたくましく生きる子供達だったのかもしれない。それは正確に、80年代の日本による西欧諸国への経済的侵食に対する白人達の不安、そして、90年代のバブル以降の漠然とした日本の没落に対する僕たちの不安に連動している。近未来というのはいつの時代も、その時代の夢や不安の投影にすぎないのだ。



僕らが2009年の現時点でお台場に感じるある種の空虚感は、それが、裏切られた90年代の夢の跡だからである。誰しもが、子供の頃に持っていた夢が今の自分を残酷に締め付けるような心的経験を持っていると思うが、お台場がかもし出す「昨日見た無邪気な明日」が2009年の僕らを饒舌にさせるのは、もしかしたら、その残酷さから目をそらそうとする弱さからくるものかもしれない。しかし、現代は、その饒舌の先に次の近未来を描き出せているのだろうか。もしかしたら、僕らは今、近未来のイメージすら持てない時代に生きているのである。



さて、自分は1959年の生まれ、今年で50歳になる。僕らの世代の子供の頃の近未来は、手塚治虫の漫画の世界だった。それはビルの合間に浮遊した乗り物と巨大コンピュータによって制御された世界だった。一方、その世界は同時に、人間らしく生きようとする主人公(例えば『火の鳥』の復活編のレオナ)が恐ろしい管理社会から逃げまくるシーンに象徴される息苦しい世界でもあった。

誤解を恐れずに敢えて言うならば、あの市橋容疑者の逃亡するたくましさにどこか共感してしまう僕の感性は、その頃の近未来SFに下地があるのかもしれない。



ところで、先日、政府は11月の月例経済報告で「日本経済は緩やかなデフレ状況にある」と宣言した。新聞各紙は「将来を見通した成長戦略」を訴えている。しかし、誰もいい案が思い浮かばない状況だ。事業仕分けの流れでも明らかなように、これまでの日本はあまりにも公共的なバラマキ予算で食べてきた人が多すぎたということなのである。そして、その結果としての900兆円の借金なのである。

社会の役に立つ仕事をしていたと思っていた多くの"善意の人"が、実は政府に食べさせてもらっていただけの"子泣き爺"(=お荷物)だったということが白日の下にバレてしまったのだ。なんと残酷な話だろうか。

勿論、それは公共事業だけではない。今までビジネスとして成立してきた多くの業界の虚構がはがれつつあるのが昨今の状況だ。



昨年来、若者の自動車離れが言われているが、都会居住者にとって、それらはもともと無理して所有する必要などなかったということなのだ。

酒造業界も不況といわれているが、多くの人が飲みたくもないのに飲まされていただけなのだ。

テレビの視聴率も下がっているが、面白くも無い芸人のバラエティ番組など、他にすることが無いからチャンネルがあわされていただけなのだ。

当然、そうなると物が売れずに、景気が悪くなる。それは仕方が無いことなのだ。



だって多くのモノは、要らないんだもの。



日本の行く先として、競争しながら頑張りつづける自由主義路線で行くか、みんなで一緒にもたれ合いながら徐々に沈んでいく社会主義路線で行くかという2つの大きな選択肢があると思うが、僕らはどちらに行こうとしているかすら決められない。



おそらく、僕らの近未来イメージの不在は、この優柔不断さの投影でもあるのだ。



まさむね

« 西野カナの「Dear・・・」と浜崎あゆみの「Dearest」は確かに.. | トップページ | 偶然、樋口一葉の一葉忌とぶつかった休日の本郷を歩く »

社会問題」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: デフレを受け止めきれない僕らの近未来イメージの不在:

« 西野カナの「Dear・・・」と浜崎あゆみの「Dearest」は確かに.. | トップページ | 偶然、樋口一葉の一葉忌とぶつかった休日の本郷を歩く »

2021年8月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

最近のトラックバック