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2009年11月27日 (金)

たしかにガラパゴス化した国で皆が子泣き爺になっているようだ

まさむねさんが「デフレを受け止めきれない僕らの近未来イメージの不在」で書いているように「事業仕分けの流れでも明らかなように、これまでの日本はあまりにも公共的なバラマキ予算で食べてきた人が多すぎたということなのである。そして、その結果としての900兆円の借金なのである。社会の役に立つ仕事をしていたと思っていた多くの”善意の人”が、実は政府に食べさせてもらっていただけの”子泣き爺”(=お荷物)だったということが白日の下にバレてしまったのだ。」という感想にはぼくもまったく同感だ。



昨今の報道のサマを見ていると、国民の側も報道する側も、税金を取られるほうも取るほうも皆が皆でまとまって、国全体がもう病的なまでにお金の取り合いのことを考えるしかないような袋小路に追い詰められているようにみえてならない。清貧の思想が良いとは思わないが、どこかに、凛として、節度あり、いわゆる自分の分をわきまえ、ほどほどを知る、という引き算の姿勢があってもいいような気がするし(この主題についてはいつかまとまってまさむねさんと一緒に考察してみたいところだ)、一方もっと大きな視点で、つねにどこかに全体最適から考えていくような発想が抜け落ちていると、必ず瑣末な論議の積み重ねで、どこにも出口のない堂々巡りに落ちてゆくことになりかねないとも思えるからだ。



そもそも事業仕分けの前半戦をわりと好意的に報道していたTV局の姿勢も、後半のいわゆる科学技術の事業仕分けに入ってきた段階で、その報道姿勢をやや批判的なトーンに変えだしてきている。ムダの一掃とばかりに、いわゆる科学のような「現在」の役に立たないものを「ムダの視点」だけで切っていいのか、将来の発展のためにはムダもまた必要なのではないかという論調だ。

だが、民放に代表されるTV局自体がいわゆる長年の電波行政の規制の御蔭で競争にさらされることもなく格段に高いサラリーを享受できてきた業界であり、まさにそれこそ事業仕分けの対象にふさわしい存在だろう。さすがに昨今は景気低迷の影響もあり広告収入の大幅な落ち込みと番組の質と視聴率の低下、ネット広告の脅威などで安閑としてはいられなくなってきているようだが。



ここで問題にしたいのは、その報道の仕方に首尾一貫したものがなく、場当たり的なことなのだ。もちろん何が正しいかは確かに誰にも分からないが、たとえば事業仕分けについていうなら、とにもかくにも、そのテーマにかかわりなく聖域なく皆の前で議論する機会になっていることは以前の政治風土よりは良しとするような一貫した評価の姿勢があってもいいし、その逆に批判し続ける姿勢があってもいい。要は、マスコミ自体にはもうまったく主体性がなく、その時々でいいといってみたり、悪いといってみたりする傾向があまりにも強すぎるのだ。近年はその傾向に拍車がかかってきているように思えてならない。

皆が子泣き爺になっているこの国で、たぶんいまもっとも必要なのは、全体をデザインする力=構想力=グランド・デザイン力なのだと、ぼくは個人的に勝手に思っている。それを愚直に発信していくような場こそが必要だと思う。なぜ日本でiPhoneが作れなかったのか。iPhoneを構成している電子部品のほとんどは日本製だったのに、というあまりにも有名な命題・疑問。その答えもまたあまりにもしばしば言われすぎていて、今更繰り返してもしょうがないかもしれないが、日本にはそれを作りあげる構想力を持った人がいなかった、アップルのスティーブ・ジョブスがいなかった、というのがその一番の答えだということに尽きるだろう。



科学技術の事業仕分けに遭遇して、大学の総長たちが集まって危機感の表明会見を行おうと、ノーベル賞の学者先生があつまって反対意見を述べようと、そこに欠けているのは、ではあなたたちは大学教育をどう考えているのか、どうありたいのですか、技術立国というなら、あなた方はそのあるべき姿についてどうデザインしているのか、まずそれを大上段に愚直に常日頃から発信してほしいということだ。その一環で予算削減について批判的に述べるのならそれはそれでいい。だが、ぼくらの目に映るのは、まずもって「これ以上削られたらもう大変なんだ、大変なんだ、競争できなくなるんだ」という大合唱の光景のようにしかみえない。これで生活している研究者たちの暮らしをなんとか支えてほしいという願いが透けてみえるようで悲しい。科学する心の大切さを漫然と話されても心には響かないのだ。

そもそもの何の疑いもないかのように、日本を技術立国と呼ぶこと自体があやしいものだとぼくは思っている。技術立国と呼んでいるその根拠について話せる人がどれだけいるのだろうか、なにをもって技術立国と定義しているのか。ハイテクの先端である半導体や液晶ディスプレイ産業を例にとるなら、製造業としての日本はもう上位の座を韓国、台湾のメーカーに奪われており競争力を失って久しい。携帯電話然り、PC産業然りである。かろうじてその川上に位置する部品産業はまだ競争優位を保っているようだが、需要の盛衰という意味では完全に新興国であるBRICs頼みの構図となっている。



ニホン人の多くが日本でしか通用しない規制に守られて、日本というガラパゴス島のなかで独自の進化を遂げ、独自になんとか生きてきたが、今、それが壊れつつあり、多かれ少なかれみんなが子泣き爺と化して既得権益にしがみつこうとしているのだ(悲しいかな、ぼくもその一部に含まれているのだろう。)

かつて幕末の志士たちにはなによりも次の時代をどうしようかという構想力があったと思う。それがいいか悪いか、正しいか正しくないかは別にして。デザイン力だけはみずみずしいまでに溢れていたと思うのだ。今の日本にはそれがない、というのはとてもさびしい。ものづくり、よりは、むしろデザイン力の復権こそ、とぼくは言いたい。




よしむね

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