ただのノスタルジー本ではない福田和也の「日本の近代」
福田和也の「日本の近代(上下)」は日本の近代史を、知識として理解するのではなく、感覚として納得するための本である。明治維新から、日清、日露戦争を経て、太平洋戦争で敗北するまでの怒涛のような近代をまとまった物語として書き綴った、誰にでも読めるわかりやすい書物だ。
大きく分けるならば黒船来航によって、いやおうなしに開国を迫られた日本が、西洋の列強に対抗して一等国をめざし、自助努力によって、一応、それを達成する明治と大正が「上巻」、目標を見失って中国に進出し、結局は太平洋戦争で完敗し、国土が焦土化してしまった敗戦までが「下巻」である。
そして、それらの上下の物語には、それぞれ、何故、250年もの間、鎖国をしていて世界から取り残された日本が、どの国よりも素早く近代国家建設を成し遂げることが出来たのかという疑問と、その日本が何故、世界大戦という今から考えれば無謀な戦いを挑み、しかも負けてしまったのかという2つの疑問が自然な形で提示され、答えられているのだ。
この本が読みやすいのは、ただ、事件が羅列されているのではなく、そういった物語の背骨がしっかりと意識されているからである。
簡単に言えば、明治期と大正期、日本は様々な立場や葛藤はあったとしても大筋では「世界の一等国になる」という目標が国全体に共有されていた。そして、それを実現するための底力が前の江戸時代に蓄積されていたということなのだ。
江戸時代は、幕府という中央政権はありながら、実際は藩という地方分権がそれぞれの地域を治めていた。各藩は、それぞれに工夫をし、個性的な存在として自立していたのである。だから、幕府がその巨体ゆえに、身動きが取れなくなっても、それに変わるシステムが個々に醸造されていたのだ。そして、藩の中でも近代に適応できる組織を持ちえた薩摩、長州といった藩の下級武士が新政権を動かすことが出来た。もしも、江戸時代、日本全体が一つのシステムで動いていたとしたらこうも上手く近代をスタートできなかったかもしれないのだ。
また、江戸時代、既に国民の既に三割が読み書きが出来た。この質の高い教育システムが自主的になされていたこと、このことが明治以降の近代発展の大きな下地となっていたのだ。
当たり前の話であるが、江戸時代と明治時代はつながっている。ある日、急に人々が目覚めて、近代が出来上がったわけではない。そこには連綿と続く歴史という物語があるのだ。
しかし、坂道を駆け上がるように近代を達成した日本は、第一次世界大戦後の「パリ講和条約」で五大国の一国として列強に認められたあたりから、目標の共有が出来なくなっていくのだ。日本をどの方向に導くべきなのかといった理念が共有できなくなった昭和期、政党、財界、軍部、官僚が個々に各々の既得権益のみを第一優先に考え、国全体のことを考えるような戦略を失っていってしまったのである。そして、軍部の暴走を誰も止められず、大衆化した国民がそれを後押しする形で、太平洋戦争に突入していった。福田和也の見立ての大筋はそういったところだ。だから、例えば、昭和期においても、原敬や、石原莞爾といった戦略家に対しては、福田の視線は暖かい。しかし逆に、ただの秀才・東条英機や人気者・近衛文麿に対しては冷たい。その割り切り方がいかにも福田的で面白いのだ。
ところで、この本には実は重要な隠しテーマがある。それは現代に生きる僕達が次の時代にどのような国づくりをすればいいのかというヒントを内包しているということだ。近代という時代が「一等国になる」という目標が達成された前期と、目標を見失い敗戦に突き進んだ後期という折り返しマラソンのようなものだとすれば、終戦後も「国民の生活が豊かになる」という目標が達成された前期と、バブル以降に行き先を見失った後期という2回目のマラソンコースを走り終えたのが、ちょうど現在だととも言えるのではないか。
しかし、現在、僕達は、明治初期や終戦直後に日本国民が持っていた「目標」を共有しえているのだろうか。さらに、それぞれの時期に持てていた前代からの遺産としての底力(教育力、エネルギー、倫理観等)を保持できているのだろうか。残念ながらそれははなはだ危ういというしかない。
本著の最後に福田和也はこう述べている。
今日、社会の中枢を占めているのは、「自分探し」や「自分らしさ」、「個性」に執着した世代です。まったく無縁にみえて、「自分らしさ」という発想は、実は「国体」と対して変わらないのではないか・・・と、私は危惧しています。それは、日本人が現実感覚を失っていく兆候に他ならないから。まったくその通りだ。福田和也が言うとおり、現代の日本に必要なのは、虚構に満ちた自己イメージではなく、リアリズムだろう。
自分らしさなどというものはない、身の丈通りの己がいるだけだ。人生に意味も意義もない、ただ自分のすべきこと、やれることをするだけだ、よしんば意義があるとしても、それは動き、働き、役に立つことにしかないだろう、と。
幕末、そして終戦直後に比べて、日本人は劣化しているなどとは思いたくないのだが、それが現実なのかもしれない。
まさむね
« JIN、プロレス、事業仕分け、様々な事が頭を巡る日々 | トップページ | 西野カナの「もっと・・・」で気になった「君」と「あなた」 »
「書評」カテゴリの記事
- 「韓流、テレビ、ステマした」が前作よりもさらにパワーアップしていた件(2012.07.14)
- 「ものづくり敗戦」という現実を僕らは正視しなければならない(2012.07.19)
- 検索バカとは誰のことか? ~『検索バカ』書評~(2008.11.17)
- この本は格差論の本である。 ~『ブログ論壇の誕生』書評~(2008.11.17)
- 闘っている女性は美しい ~『女の読み方』書評~(2008.11.18)
この記事へのコメントは終了しました。
« JIN、プロレス、事業仕分け、様々な事が頭を巡る日々 | トップページ | 西野カナの「もっと・・・」で気になった「君」と「あなた」 »
コメント