神は乗り越えられる試練しか与えないって幕末にアリ?
「JIN-仁」の最終回85分間拡大版の視聴率が25%を超えたようだ。
凄い数字である。
しかし、結局、初回から続いていた南方仁(大沢たかお)の悩みは解決されなかった。
その悩みとは、究極的には、「自分は何故、幕末の江戸にいるのだろうか。」という悩みである。
これは、仁がタイムスリップすることによってもたされるSF的、非現実的な苦悩ではあるが、実はこれって、「自分は、何故、この世に存在しているのだろうか」という極めて現代的で、実存主義的なテーマと近接している。
現代人の多くが共有しているものなのである。
おそらく、このドラマの高視聴率の背景には、この現代人の否在感と仁の悩みが通底していることが関係しているのだと思う。
そして、このドラマの結論は、残念ながらそれまでのドラマの芳醇さとはかけ離れた凡庸なものであった。。
例えば、福田和也は「日本の近代(上下)」(新潮新書)のあとがきで次のように書いている。
人生に意味も意義もない、ただ自分のすべきこと、やれることをするだけだ、よしんば意義があるとしても、それは動き、働き、役に立つことにしかないだろう、と。
仁が最後にたどりついた「生き方」はまさに、日々、精一杯生きるということだった。
そして、その結論の陰で、僕ら視聴者をずっと振り回し続けた以下のような、根源的な謎は全くうやむやになってしまった。
仁は何故、タイムスリップしたのか...
あの幼形の脳腫瘍は何だったのか...
手術室に運ばれたあの男は誰だったのか...
野風(中谷美紀)と、未来(中谷美紀)の関係...
未来の状態と写真の陰の薄さ...
この続きが映画になるのか特番になるのかはわからないが、TBSが考えそうなことは誰しもが想像がつく。
結果として、僕らはあまりにも長い前フリを見せられただけではないだろうか。
さて、その他、最終回でいくつか気づいた点を記しておきたい。
「JIN-仁」に流れる一つ命題は「神は乗り越えられる試練しか与えない」というものだ。
僕はそのセリフを現代的観念の持ち主の仁が口ずさむことに関しては、違和感はなかった。しかし、最終回、そのセリフを咲(綾瀬はるか)がつぶやくのだ。
ちょっと待った!!
ここは幕末の江戸だ。旗本の娘に「神」という概念はあるのだろうか。彼女が口ずさむ「神」とは大国主命だろうか、天照大神だろうか、それとも八幡神だろうか...おそらく、人間に試練を与えるような「神」は明らかに、明治以降に輸入された西洋の概念ではないだろうか。
ここまで、タイムスリップという荒唐無稽な状況を下支えするかのように、比較的丁寧に時代考証がなされていただけにこの概念の歴史的混乱は残念だった。
また、小さく気になったのが、仁が手術している小屋を壊しにやってくるチンピラ侍達、その頭領と目される男の羽織についていた家紋が丸に花菱の紋だったということだ。

家紋というのは今で言うところの社章のようなものだ。意味があるものなのだ。それを、架空のチンピラの紋と勝海舟の紋を類似の紋にするというのはなんらかの製作意図があったのだろうか。
ちょっとした気の緩み、ただのあるいは無関心なのだろうか。
ただ、最後に一ついい意味で指摘しておきたいのが、緒方洪庵先生の墓参りのシーン。今でも南北線・本駒込駅近くの高林寺にある緒方洪庵の墓とそっくりな石塔を用意していたことだ。こういうところの丁寧さは、評価すべきだと思う。
まさむね
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