「平凡パンチの時代」で学ぶべきはその往生際の悪さだ
塩澤幸登氏の『平凡パンチの時代』(河出書房新社)はそのまま優れた1960年代論だ。
この本は、1964年の創刊された平凡パンチという雑誌が1988年に休刊するまでの歴史を、特に60年代に大きくフォーカスして描き出した力作である。中で塩澤氏は60年代についてこう語っている。
昭和のあの時代に描かれたさまざまな夢はわたしたちの心の内奥に希望に満ちた日々の鮮やかな記憶として、また、あるものには抵抗と挫折の記憶として残っている。それは、過去でありながら、まるで輝かしい未来のように、意味深く、わたしたちの心のなかにいまも存在し続けている。
あるいは別のところではこうも記している。
なにが正しく、本当にうつくしいものはなんなのか、そのことがわからないくなっていた。その時代を生きるひとりひとりの人間の気持ちの大きな動きの背景には、なによりもまず、人間が生き方や考え方を変えざるをえないような、ものすごいスピードで変化し続ける生活状況、さらには社会状況、たとえば、高度経済成長の巨大なうねりがあった。

だから、みんなが「夢」を見ていた時代といういう意味では60年代的共有感はあるのかもしれない。おそらく、明治の後半、いわゆる「坂の上の雲」の時代と60年代は日本が最も輝いていた時代の双璧だ。それは、世界と日本との格差がエネルギーとして、日本人を駆り立てた時代である。「憧れ」と「謙虚さ」を持っていた時代と言い換えてもいい。
しかし、日本人はどうもトップに立ったと思った途端に、傲慢になり、破滅に向う性質があるようだ。
戦前では、第一次世界大戦後に五大国として、一応世界のトップに立ったと思った瞬間から、日英同盟解約、満州事変、日華事変、開戦、そして敗戦までのコースだ。
また、60年代に高度成長した日本は、紆余曲折はありながらも、80年代のジャパンアズナンバーワンのバブルの時代にまでたどり着くが、結局は一気にしぼんでしまった。平凡パンチという雑誌は、まさに、そんな昭和の「坂の上の雲」からバブル崩壊までの疾風怒濤の時代の証人だったということなのである。
塩澤氏の筆が面白いのは、そんな平凡パンチの時代を決してノスタルジーとしては語っていないことだ。彼自身、編集者としては「遅れてきた60年代世代」だからであろうか、こんな500ページにも及ぶ大作を書いても、まだ、あとがきにこう書いているのだ。
わたくしのなかにはいまも、やはり、やり残した思いや未練、違う選択肢への拘泥、そういうものからどうしても自由になれない自分がいる。

平成のCMでは考えられないワンカットではあるが、つまり、ここには夢を生きる人生と同時に厳しい現実を生きざるを得ない人生も、さりげなく描かれているのだ。そして、この二つの人生を一緒に生きること、つまり「違う選択肢への拘泥」こそがいかにも寺山修司的=60年代的な正直さだと僕は思うのである。
おそらく、同じような事は、生沢徹、佐藤忠雄、立木義浩、大橋歩、青木勝利、そして横尾忠則...、この『平凡パンチの時代』に描かれた人物には誰にとっても言える。彼らは、同時に二つの相反する自分を己の中に内在させ、その葛藤に引き裂かれるようにあの時代を生きたのである。だから面白いのだ。
60年代とは全く逆の方向ではあるが、現在も塩澤氏が言うように「ものすごいスピードで変化し続ける」時代にはちがいない。おそらく、現代の若者がこの本から学ぶべきは、塩澤氏が持つ「違う選択肢への拘泥」かもしれない。
「君達にはまだまだ可能性がある」などと言うといささか陳腐にも響きかねないが、別な言い方をすれば、今の若者はもっと、この往生際の悪さ、つまり"未練力"を持って欲しいと思う。
この本には、未練の達人達の勝利と敗北の物語、すなわち生き様が溢れているのだ。
まさむね
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