おそらく歌舞伎における伝統とは生きた遺伝子が泳ぐ海なのだろう
ご存知のとおり、歌舞伎座がこの4月で閉館し建て替えに入る。完成は2013年。4月まで「さよなら公演」と銘打って興行が行われているが、今年も初春歌舞伎を観た。
夜の部に行ったので、演目は以下の4つ。
「春の寿」
「菅原伝授手習鑑―車引」
「京鹿子娘道成寺」
「与話情浮名横櫛」
「春の寿」と「京鹿子娘道成寺」は踊りもの。なかでも道成寺は今をときめく勘三郎と団十郎の組み合わせ。玉三郎が時代を超えた天才だとすれば(その踊りのやわらかさ!)、勘三郎はいま中堅世代ではもっとも脂が乗っている。とにかく相変わらず生きのいい踊りを観る楽しさがあった。
「車引」は布陣が豪華。芝翫、吉右衛門、幸四郎、富十郎、等々。初春公演ならではというところか。特に一堂が会したお仕舞い(エンディング)はなんと豪華な見世物だったことか。「与話情浮名横櫛」は染五郎と福助の人情話。これもそれなりに楽しめる機微のある人情ものだった。
こうしてみると、歌あり踊りあり人情ものありで、やはりなかなかのエンターテインメントではあった。今、歌舞伎がその充実さからある種のブーム(戦後何番目かの?)になっているというのも分からないではない気がする。長老、中堅、若手と陣容も粒が揃っているし。若手の今後ということではやはりポテンシャルとしては海老蔵であり、女形の期待値では七之助かな。
ぼくは歌舞伎の専門家ではまったくないが、当時の江戸の人たちは、ぼくらが今3Dで「アバター」を観たり、スターウォーズを観るような感じで歌舞伎を観ていたのではないか、つまりそこにその時代の先端や先行きを感じたり未来を予感したりして、いわば宇宙ものを見るように歌舞伎の舞台を観ていたのではないかと勝手に思っている。歌舞伎役者は今でいえばマイケル・ジャクソンであり、マドンナのようなものであり、おそらく芸能を通じて先端世界と交信してくれるような役割を担っていたのかもしれないな。
「我国の舞踊はつまり遠来のまれびとが大きな家を訪れて、その庭で祝福の歌を謡ひ、舞を舞って行くことに始まったことは、先に申し述べた通りです」(日本藝能史六講、折口信夫)。歌舞伎役者はまれびととして舞台に出て、みんなを代表して、その時代の世相を先んじて生きてくれる(舞い、踊り、歌う)存在だったのかもしれない。
そもそも歌舞伎には翌年にどんなテーマに基づいた演目を取り上げるかを決める「世界定め」があり、その定めに基づいて顔見世が行われる慣わしだったと言われる。これは今風にいえば婚活がブームだから、来年は婚活をテーマにした作品をもっと上演していこうというようなものだろう。ぼくらはある程度普遍的になった話や舞台を観ているわけだが、江戸時代の人たちには歌舞伎はもっと当時のなまなましい世情と表裏一体のものだったろう。
そして今歌舞伎を観ていてぼくがあらためて羨ましいと感じるのは、伝統という生きた無形に支えられている歌舞伎役者たちの立ち振る舞いのことだ。特に勘三郎や団十郎の踊りや舞いを観ていると、彼らが歌舞伎の伝統を信じて疑わず、いわば悠々とその海のなかを泳いでいこうとしているように思える。もちろんそこには多大の苦労があることは言うまでもないが。
ただしそこでの伝統とは、なにも形骸化した、決まりごとのようなものではなく、生きたフォルムとして、たえず当事者によって更新されていくフォルム(遺伝子)のようなものだ。型であって型ではなく、デザインとは異なるようで、まさにデザインそのものであるようなもの、肉体という物理が実現するもの。とても柔軟性があり、けれどその背景として連綿とした歴史によって支えられてきたもの、等々。歌舞伎役者たちは多かれ少なかれその生きた遺伝子を受け継ぎ、伝統を信じ、伝統と対話し、その「伝統という同じように刻々と生きている海」のなかを泳ごうとしているように見える。
これはぼくらのビジネス社会とは対照的だと思う。曲がり角に来つつあるとはいえ、未だぼくらの現代社会ではいかに他者に先んじるか、同じことをしないか、差異をすばやく生き抜くか、伝統や習慣のような形式化したものからジャンプできるか、「かつて」と切れているか、そうしたことがより問われ、そうしたことがビジネスチャンスと捉えられがちな社会だからだ。弱肉強食。だからなるべく振り返ったりしているわけには行かないし、たえず前方の新しいものばかりを見ようとするわけだ。蓄積にならない社会、フローの社会。
そんなこんなに追われているなかで、ほんとうは違う可能性もあるのかもしれないと、そんなことをふと思いながら、ぼくは取り壊される日が近い歌舞伎座を後にしたのだった。
よしむね
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