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2010年1月28日 (木)

人間は自分自身の歴史を作るが、思うままにではない。

人間は自分自身の歴史を作るが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、あたえられた、持ち越されてきた環境のもとで作るのである。
死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものを作りだそうとしているかにみえる時、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間は己の用をさせようとして、こわごわ過去の亡霊どもをよびだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語と衣装をかり、この由緒ある扮装と借り物のせりふで世界史のあたらしい場面を演じようとするのである。


これは、マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の中の一節である。
人間が世の中を変革しようとするとき、それは一直線にではない。それは必ず、蛇行するものだ。人間は意識しないがそれを行うのである。
小沢一郎という人物の歴史的役割は、選挙によって政権交代ができる、すなわち、日本を民意で政治を変えられるような国にすることだったのだと思う。
おそらく、数十年後から現在を見たとき、そんな人物として彼は評価(酷評も含めて)されると思う。
だから、彼の政策が「日本改造計画」時から、180度変化したことは当たり前のことなのだ。それは、常に反対側と逆のことをいうことによって、国民に選択肢をもたらすことを目的としているのだから。
90年代の彼は、小さな政府、自立した国民を政策の柱としたいわゆる新保守主義である。しかし、小泉政権によって、そのテーマが奪われると逆に、「国民の暮らしを守る政治」という大きな政府、国民に依存させる政策の道を進むようになった。それを指して、一貫性がないという人がいるが、確かに、そうだ。
しかし、いいのだ。彼の目的は政権交代が出来るような国にすることなのだから。

一方で小沢一郎は民主主義的ではないという。独裁者だという。しかし、僕ら一般の人から見れば、それはあんまり関係ないことだ。それでは、今までの自民党政治の時代は、僕らの意見は本当に政治に反映されていたのだろうか。僕らはその話しあいに一度だって参加などしたことがない。
いつも、官僚や政治家や財界、が談合して物事を決めてきただけだ。彼らの多くにとって、小沢一郎が独裁的に見えるだけであって、僕らからしてみれば、選挙で選んだ党が自分のやりたいことをやるという話にすぎないのだ。どこが悪いのだろうか。悪いとしたら小沢一郎ではなく、自分の意見を言わない人たちだろう。悪いとしたらね。

小沢一郎が独裁的だという人は、民主主義を談合主義だと思っているのだろう。それは日本的には民主的かもしれないが、はたしてどうなのだろうか。

しかし、僕は小沢一郎の歴史的役割はすでに終わったようにも思える。社会変革の第二段には彼の出る幕はないだろう。ここですっぱりと辞職すれば、それはそれで彼は男を上げると思うのだが、そうもいかないのだろうか。

モーニング娘。の名曲「ハッピーサマーウェディング」で中澤裕子が「だって、お父さんが『釣り好きの人には悪い人はいない』っていってたし」というせりふをいう箇所があるがあるが、小沢一郎は、ただの釣り好きの親父にもどればいいと思う。

まさむね

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