雨の日は、鎖国もいいかなぁと思ってしまう今日この頃
陳舜臣の「蘭に思う」の中に「南京の雑踏で考えた日本人と中国人」というエッセイがある。
この本は、1970年代の前半に書かれたもので、このエッセイは1973年のものだ。
その中のこんな記述に目が留まった。
中国のまちの雑踏には、日本の雑踏にあるおなじみのものがない。その欠落が、スカみたいなかんじを生むらしい。(中略)
そのなじみのにおいがない。それが何であるか、旅行の半ばになって、やっとわかった。それは生存競争のにおいなのだ。
いろんな意味でも競争を戦わねば生きて行けない。そのために日本の群衆には、一種の緊張感がある。中国の雑踏に抜けているのはそれであった。
仲間を押しのけてでも前に出ようとする気迫が、対人関係の中に生まれにくいのが、中国の現状である。
今から40年前の中国の様子である。
しかし、おそらく現代の中国は、これとは全く違う様相なのだろうと反射的に思った。そして逆に、今の日本がこの状態に近いのかもしれないとも思った。
日本はいつの間にか、競争というものを忌避するような風潮になってきたようにも思えるのである。
40年かかって、中国は共産主義から資本主義へ、日本は資本主義から社会主義へといつの間にか、その立ち位置を入れ替えてしかったのかもしれない。
僕はこれからの日本の進む道は大きく二つあると思っていた。一つは、規制緩和=小さな政府=他国との競争の道。そしてもう一つは、高福祉=安心安定社会=しかし停滞の道である。
民主党が問題なのは、実際は二つ目の道を行こうとしているのに、口では一つ目の道を主張しているところである。どちらかにしてほしい。
子供手当てにしても農業補償にしても、競争しなくても生きていけるような社会への道に通じている。排出ガス規制も、事実上、産業の発展の足を引っ張るのは目に見えている。
一方で、生活保護世帯も130万を超えたというニュースもあったし、若者が消費しないという話もよく聞く。
おそらく、多くの国民も、どちらに行けばいいのか、その判断に迷っているのではないだろうか。しかし、多分、どちらに行くにしてもイヤなのだ。そして、出来れば考えたくない問題なのだ。
それは、ストレス社会にするのか、貧しい社会にするのか、といったような負同士の選択のように感じてしまうからだ。
僕にしても、少し前までは、日本は世界に伍して行くべきだと当然のように思っていたが、最近は、二つ目の道でもいいのかぁと思うこともある。
半分鎖国して、人口も減って、エレベータとかエスカレータもなくなって、自動車に乗る人も少なくなって、夏のクーラーが昔話になる。昔のように寿司は一年に一度の贅沢品となる。つまり、物質的価値から一線を引くこと。
特に、雨の日なんかにはそんなことを夢想する。冬は家で蒲団に入っていればいいかと思ってしまうのである。
まさむね
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