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2010年3月 2日 (火)

京都・吉田神社でみた「トマソン」=「やしろ」

この間の週末、奈良・京都の小旅行の際、京都の吉田神社にも行ってきた。もともと私の姓と同じであり、家紋の話(これについてはまさむねさんが専門家)などからもこの辺り一帯が祖先のルーツ(出)かもしれないという興味もあって訪ねてみた。吉田神社そのものは有名かつ立派な神社なので特にここで紹介めいたことは書くつもりはない。

 今回行ってみて改めて思ったのは、以下のような二つのこと。

 神社や寺に限らず、良い空間というのは、かならず「奥の院」のような配置、いわゆる奥行きを持っているということ。それが本当の奥でなくてもいいし、周りに散らされていてもいいのだが、そうした適度な散らばりや広がりがあること(庭園もこれに加えていいと思う)がとても気持ちが良いということ。歩き回る楽しさがある。


 それから、関連したことだけれど、日本には何もない空間をいわゆる「やしろ」として崇める慣習があったと言われているようだが、同じように良い空間にはかならずそうした意味のない空間を寿ぐような場所があるということ。ゆとりともいえるだろうし、遊びの空間とも、赤瀬川原平さんならそれこそまさに「トマソン」だとおっしゃるかもしれないような場所。添付写真は吉田神社で見られた「やしろ」のような空間の数々。これについては神聖化している理由はちゃんとあるのかもしれないが。

いずれにしても吉田神社には上記のような空間がたしかにあった。それから、君が代で歌われている「さざれ石」の原形(?)を祭っていることを知ることができたのも僥倖だった。


 神社の空間というのは、まさむねさんも以前言っていたのだけれど本来誰にでも開かれた空間なわけで、その何もないといえば言える空間だからこそ面白い。現代の都市開発も先祖がえりじゃないけど、効率性ばかりを追求してきた反転として一見無意味とみえる空間(無駄な遊びの空間)をいかに上手に設けるかに回帰しつつあるようにも思える。

 

因みに「トマソン」とは、赤瀬川さんによって、当時読売ジャイアンツに高額の契約金で雇われたゲーリー・トマソン選手が役に立たなかったことにちなみ、「超芸術トマソン」と命名されたことに起因する造語。いわゆる役に立たないもの、無意味なもの、不思議なものから来る妙なおかしさ、翻って貴重さ等々の広い意味に捉えることができると筆者は勝手に拡大理解しています。



よしむね

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