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2010年5月19日 (水)

「寝ながら学べる構造主義」が30年前にあったらなぁ

内田樹の「寝ながら学べる構造主義」(文春新書)を読んで、思わず自分が学生時代にこんな本があればいろいろと苦労しなかったのに、と思ってしまった。この本は、それほど、すんなりと構造主義がよくわかる本である。



僕が学生時代、「現代思想」という雑誌などでは構造主義はもてはやされていたが、大学の教室ではまだまだ、マルクス主義、実存主義が全盛だった。僕の指導教授も実存主義、マルクス主義の流れにある人だった。

僕らは真剣に、日本人に生まれたことはそれだけで、先の戦争に対する責任があるのだ、それがアンガージュマンというものだというようなことを話していた。また、他の学生はサルトルとかカミュとかが好きだったみたいでそういった作家を卒論のテーマとしていた。

ただ、僕は教室で、フーコー、レヴィストロースなどの名前を出してその教授に嫌な顔をされていた(多分)。

僕は本当に世間知らずだったのだ。



しかも、僕は構造主義もよく理解していなかった。だから、自分が考えていたことすらよく説明できなかった。

ただ、実存主義がなんだか変だということだけは直感でわかっていたのである。



しかし、あれから30年、僕は今、内田先生の本が平明に感じるようになった。

おそらく、現代という時代は、それほど、構造主義が常識になった時代なのである。



この本の中でレヴィストロースがサルトルに対してこう述べたという引用箇所がある。孫引きしてみよう。



サルトルの哲学のうちには野生の思考のこれらのあらゆる特徴が見出される。それゆえにサルトルには野生の思考を査定する資格はないと私たちには思われるのである。逆に、民族学者にとって、サルトルの哲学は第一級の民族誌的資料である。私たちの時代の神話がどのようなものかを知りたければ、これを研究することが不可欠であるだろう。




今読んでみると、当たり前にも感じるが凄い箇所だ。

時代の指導的立場にいたサルトルをいきなり博物館の標本みたいにしてしまったのだから。



こんな文章を、今から30年前の社会学のゼミで引用出来たらかっこよかったのにといまさら後悔するのでした。



まさむね

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