「家紋主義宣言」は50歳のサラリーマンのもがきの書だ
よしむねさんが、先日書かれた「ますます薄っぺらになったように見える経済という魔物」というエントリーのエンディングの一節、”お金なしでは生きられないが、いかにお金や経済の起伏と上手に別れていけるかも考えていきたい”というのは確かにそのとおりだと思う。
僕らは現代社会を生きていく上にどうしても、資本主義に最適に振舞わなくてはならない。
それは基本だ。
しかし、と同時にどこか現代の社会に嫌悪感を感じている。
つまり、僕らに求められているのは、何も考えずに社会人としてすべきことをするという行動力である一方で、僕らは、自分としてのかけがえへのなさに対するこだわりをどうしても捨てることが出来ない。
おそらく、これは古くからある問題意識だ。
四捨五入して言えばそれはマルクスの思想にも通低している考え方である。
マルクスは「経哲草稿」の中で労働から疎外されてしまう自分自身をとりもどすべきだと主張していたのではないかというのが僕の「読み」である。
実は、僕ら中高年のサラリーマンには一つの大きな課題がある。それはグローバルスタンダードを受け入れ、IT革命を経たた日本が、必然的に陥る労働価値の低下(終身雇用、年功序列といったいわゆる昭和的労働価値の崩壊)に対して、頭では理解しながら、しかし体では既得権益にしがみつかざるをえないという矛盾に対して、どうすべきかという点である。
おそらく、30歳代の多くのサラリーマンとは違って、ギリギリ逃げ切れそうな立場の僕たち。
もう一花咲かせるべく、勝負してみようと考えている人もいるかもしれないが、黙って、惰性に従ってズルズルあと10年を生きていこうと思っている人も多いのではないだろうか。
僕らはそんな人々の話をなるべく多く聞いてみたいと今思っている。
いずれにしても、今の時代、思想と行動を一致させることの困難さを感じざるを得ない。
僕らの使命としては、出来ることならば、次の世代に新しい生き方、考え方、そして日本のあり方を伝えていくべきなのだろう。
恥ずかしながら、6月中旬に発売する「家紋主義宣言」は、そういった問題意識のなかでもがく50歳の普通のサラリーマンの心の中の葛藤の物語になる予定である。
いかにお金や経済に上手に別れることが出来るか、そんなことの考えるヒントになっていればいいのだが。
まさむね
« 「邪悪なものの鎮め方」は、考えるヒントの佃煮である | トップページ | ラッシャー木村の死で思い出した「レイジングブル」 »
「社会問題」カテゴリの記事
- 「平清盛」 雑感(1999.11.30)
- オタク文化の将来(2000.08.23)
- 若者が消費しないという話(2008.06.23)
- 寺山と永山と加藤智大(2008.07.02)
- 美輪明宏が死刑賛成するのって意外!(2008.07.10)
この記事へのコメントは終了しました。
« 「邪悪なものの鎮め方」は、考えるヒントの佃煮である | トップページ | ラッシャー木村の死で思い出した「レイジングブル」 »
コメント