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2010年6月 4日 (金)

I-padは10年後の木簡だと想像させる力がこれにはある

I-Padに関する狂騒はまだまだ続いている。



1)画面が水平に置ける

2)操作がタッチパネル(キーボード不要)

3)複数人で操作できる



結論から言えば、I-Padの特徴はこんなところだ。



昨日、職場でI-Padを囲んでみんなで驚きあった。

I-Padの一番大きな特徴は、このみんなで一つの画面を見れるということにあることに改めて気づいた。



実は、そこに動いていた画面は15年前にあったCD-ROMの動きとほぼ同じだ。僕にはそれ自体は全く新しいものには思えなかった。

しかし、I-Padというマシンの上で机の上で「みんな」で見られるというのが決定的に新しい。

おそらく、I-Padは、全然新しくないものを新しく見せる魔法を有している。そこが新しいのだ。



画面が水平に置けるということとならんで、タッチパネルで操作できるというのも別に新しい技術ではない。

これもおそらく、十数年前には存在した技術だろう。しかし、複数の人間でタッチパネルを同時に操作できるというのは確かに面白い。

I-Padはその意味で、パーソナルであったPCを一瞬、「みんな」で操作できるおもちゃにした。それは、各人がコントローラを持ち、一つの画面をみるという風景とはまるで違う。

これも画期的だ。



多くの人が指摘し、僕も同意するが、今後、雑誌というのはどんどん紙から離れて、こちらに移行してくるだろう。

なぜならば、こっちのほうが数倍おしゃれだからだ。

近々、人々は紙の雑誌の読みにくいところを親指と人差し指で思わず広げようとしてしまう錯覚にとらわれるだろう。

ちょうど、ゲーマが言ってはいけない事を言ってしまった時に、リセットボタンを探してしまうように...



すると、その場にいた誰かが言った。「普通の機器というものが大体、大きなもの→小さなものという流れになるのだが、このI-Padは小さいI-Phoneから、大きくなった。この、あえて方向の逆流させたということも面白い。」確かにそうだ。これぞアメリカ的発想といえるかもしれない。

しかし、心の中でつぶやいた。小さなもの→大きなものと進化したものが無いわけではない。例えば弥生時代の銅鐸だ。つまり、実用品ではなく祭司用具ならありうるのだ。ということは、I-padとは、実用ツールの顔をした「神呼び器具」なのかもしれないと思った。じつはその時、僕の頭の中には無用の長物と化した僕と等身大のI-padがあった。



一方、I-Padはまさに未来への窓だ。しかし、僕はI-Padを囲んでワイワイ話しをしながら、さらに次の世代のことを考えさせられた。おそらく、このI-Padは、もっと薄く、軽くなり、そして、まさに紙のように折りたためて、ポケットに入るようになるだろう。

そうすると、その時代の人はI-Padを振り返って見た時に、どう感じるのだろうか。

もしかしたら、僕らが奈良時代の遺跡から出土する木簡のように感じるのかもしれない。



そうだ。I-padは10年後の木簡なのだ。僕はそう直感した。

そして、そう直感させるのも目の前のI-Padの力なのかもしれないと思った。



まさむね

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