宮沢賢治さん、ぼくらもサラリーマンとして複数的に生きるのです
宮沢賢治が晩年を営業サラリーマンとして生きたことは意外に知られていないのではないか。「宮沢賢治 あるサラリーマンの生と死」(佐藤竜一著、集英社新書)はそのサラリーマン時代に比較的照準を合わせて書かれた本だ。
宮沢賢治についてはこれまで農業学校の教師や自ら農民となって活動したりという、いわゆる聖人ぽい紹介が多くなされてきたように思うが、晩年のサラリーマンとしての賢治像を読むと、長くモラトリアム青年であることをひきずり理想と現実の違いに悩み、病弱で転職を繰り返すような、どちらかというと現代の若者像とも交差する等身大の像に触れるようで共感を覚えた。
いま賢治が生きていたら、間違いなくブログやツイッターにはまっていたかもしれない。それにiPhoneやiPADにも。宮沢賢治はどこまでも未完成で、探し続ける実業の人という一面があったのだと思う。今でこそ詩人・童話作家として有名だが、存命中はもちろん無名に近く、生涯において原稿料は一度だけしか手にしたことがなかったという。
ぼくがサラリーマンとしての宮沢賢治に興味を感じるのは、もちろん自分が現にサラリーマンを生業としているということもあるし、世の多くの人がその生涯の大半を過ごす形態である以上避けて通ることのできない関心事であることにもよるが、それよりも複数の生としてのあり方に関する示唆のようなものを賢治の生き方に感じるからというのが一番の理由かもしれない。
回りくどい言い方かもしれないが、ぼくらは今後ますます多数的に生きてゆくほかないように思う。ネットの普及によってプロとアマの垣根が曖昧になりつつあるとはよく言われる。誰でもが自分が書いた小説や記事のたぐいをネットで公開することが可能になった。極端にいえばプロの新聞社に伍して個人でも新聞記事を書き、毎日配信することができる。
いっぽうプロとアマの間には依然として深い溝があり、いわゆるプロとアマの作家の違いには歴然としたものがある、という議論も成り立つだろう。ここでどちらが正しいというのではない。ただひとつ言えるのは、これからはプロとアマの間のグレーな部分がますます大きくなり、従来の既得権益に乗ったようなただの権威づけではもはやプロの定義にはなりえなくなるだろうということだ。もっといえば従来の境界を越えて、自由に行き来できるような感性のあり方こそがますます必要になると思われる。境界(クロスオーバー)の動きに鈍感なひとは多分何にせよもはやプロにはなりえなくなるだろう。
宮沢賢治の詩や童話がいまでも新鮮だとしたら、それはサラリーマンのような視点をけっして否定せずにむしろそこから書かれているからだとも言えると思う。なにかを特権視しないこと。書くことが偉いわけでも絶対でもないし、食べること、生活すること、楽しむこと、書くことを同じ視線で並べること。みんないろんなキャラクターに基づく複数の生を生きているのだ。
あるときは童話作家であり、詩人であり、法華経の信者であり、サラリーマンであり、広告マンであり、農業の実践者であるような生。そうした複数性こそが宮沢賢治の新しさであり、今も未来的な詩人に見える理由ではないかとおもう。
よしむね
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