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2010年8月22日 (日)

歌枕「武隈の松」と「竹ノ熊さん祭り」、蝦夷と熊襲。

今月の28日に、ロフトプラスワンで、旧友・竹熊健太郎君の「竹ノ熊さん祭り」があるという。

先日、コミケでお会いした際に、うかがう約束をした。今から楽しみだ。

さて、その際には、竹熊君のお父様のビデオが上映されるという話を聞いた。お父様はすでに80歳越だそうだ。

話によると竹熊一族は、景行天皇の部下の「タケノクマ」という人物の末裔という。

僕はその場で、タケクマという名前はむしろ、熊襲の末裔を思わせるのではないかとの話をした。つまり、景行天皇の息子のヤマトタケルが熊襲退治に熊本の地に来たという古事記の一節が頭をよぎったのだ。



たしか、もともと、この地にいたクマソタケルを倒すことによって、ヤマトタケルは、それまでの小碓命(おうすのみこと)という名前をヤマトタケルという名前に変えるのである。

しかし、その時の戦いは正々堂々というよりも、宴会で女装してクマソタケルに近づき、酒を飲ませ、酔ったところを殺すというどちらかといえば卑怯な戦法であったという。

大和民族が熊襲や、蝦夷を倒すときは、こういった酒席での「裏切り」が常套手段である。たしか、坂上田村麻呂が東北のアテルイ軍を倒したときにも、そんな逸話があったような。ちょっと記憶が曖昧だが...



話を戻す。そして、コミケでは、僕は自分の興味に引きつけて「お父様に家紋が何か聞いておいてくださいね、それでは、竹ノ熊さん祭りでまた。」という挨拶をして別れた。



しかし、一方的に聞いてきてくださいというのもアレなので、僕も一応、竹熊一族のことを調べてみた。まずは家紋だ。『都道府県別 姓氏家紋大事典』(柏書房)によれば、熊本県の竹熊氏は藤原秀郷流、家紋は下がり藤が代表的とのことだ。

そして僕は次に、タケクマという地名を探した。僕の師匠の長谷川順音先生は、名字というのは9割が地名から来ていると言われていた。だから、先祖を探すときにはそれと同じ地名を探すのが第一なのである。



すると、タケクマという地名は、宮城県の岩沼市にあるではないか。

しかも、それは「歌枕」にまでなっている有名な土地だったのである。



そして、さらに言えば、そこには名所特有の名物があった。それは「武隈の松」という松である。

        ★

平安時代に能因法師という歌人がいた。彼は生涯、放浪しつづけた最初の歌人としても知られている。彼はこの武隈の松をこう詠んでいる。

武隈の松はこのたび跡もなし 千歳を経てや我は来つらん
(武隈の松はもう跡形もない、長い時間を経て、私はここに来たのに...)(まさむね適当訳)

また、あの西行もこの松を詠んでいる。

枯れにける松なき跡の武隈はみきと言ひても甲斐なかるべし
(武隈には、すでに枯れてしまった松の跡しかない。「幹=見来」と言っても来たかいがないなぁ)(まさむね適当訳)

        ★

さて、この「歌枕」という言葉はどこか魅力的だ。荒俣宏氏もその『歌伝枕説』(世界文化社)の冒頭でこのように述べている。

歌枕とは、ふしぎに想像力を刺激する、なんとも絶妙な用語だと思う。


そして、荒俣氏は、この本の随所で歌枕となった土地が蝦夷、縄文、鬼など、まつろわぬ民の滅亡の記憶と関係があるのではないかと繰り返している。例えば、136ページ。

東北の歌枕は、どれも滅亡した過去のおもかげを伝えている。その過去とは、亡びた蝦夷であり、消された歴史上の敗者であり、また汚された聖地のことである。


また、151ページ。

歌枕が消し去った陸奥の古い実像とは、当時、高度の発達していた蝦夷独自の文化と、戦闘の傷跡である。とくに後者の戦争の記憶は、巧妙に抹殺されたに相違いない。官軍側を破ったアテルイのような英雄は、”悪路王”あるいは”鬼”として悪役に回され、他方、勝利をもたらした田村麻呂が英雄にまつりあげられるのだ。


そのことが明確に論証されるところまではいっていないのは残念だが、この荒俣氏のドタ勘は鋭い。

確かに、さきほど引用した能因と西行の歌の中の「武隈の松」はそんな過去の記憶の残骸として歌われている。それはいずれも、「武隈の松」を見に来たのだが、すでにそれはなかったという追憶の歌なのである。



しかし、武隈という土地には確かに、遠い過去に「何か」があったに違いない。

だから歌枕として残されたのだろうし、僕らの想像を掻き立てるのである。



ここからは僕の勝手な想像だ。

この武隈の地は、多賀城のすぐ手前の地だ。おそらく、大和朝廷軍と蝦夷軍の激しい戦闘があったのだ。そして、蝦夷軍は敗れ、多くの戦士がここに倒れたのである。

その後、この地に巨大な松が植える。松という植物は、正月の門松や羽衣でも知られているが天の神を地上に降ろす依代(よりしろ)であると同時に、地霊を天に昇らせる。つまり、地と天との霊的な通路なのだ。人々は、この地に生えた松を見上げることによって、遠い昔に倒れた地霊が天に上って御霊となったという幻想を見たのではないだろうか。

武隈というのはそんな蝦夷にとっての怨念の地=聖なる地だったのではないだろうか。(画像は現在、この地に植えられた武隈の松。岩沼市のHPより)

そして、そこに住んでいた蝦夷の末裔は、ある時期、一族そろって、新しい土地を求めて、西国のもう一つのまつろわぬ土地=熊襲に、自分達の第二の故郷を見つける。それが熊本の竹熊一族なのではないのだろうか。

名字というのは、多くの場合、本貫の地(もともと一族がいた土地)を現している。例えば、かつての自民党の実力者・二階堂進は、鎌倉の二階堂(鶴岡八幡宮の裏あたり)にいた一族が薩摩に移住した一族だ。

同様に、竹熊という名前は、陸奥の武隈から来た人々ということの刻印なのかもしれないと僕は思うのであった。



蝦夷、熊襲、いずれにしても、日本のまつろわぬ一族と、なんらかの関係性を感じさせる竹熊一族。

その一族に代々伝わる「竹ノ熊さん祭り」とは何か。

たけくまメモ」には、こう書かれている。

俺の父親の口から、竹熊家に代々伝わっている謎の奇祭「竹ノ熊さん祭り」の真相について赤裸々に語られることでしょう! 


ますます楽しみだ。



まさむね

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