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2010年8月18日 (水)

偽装生存老人事件、つまり動物化する日本人の事件

人間は、いかにして、動物から人間になったのだろうか。

古い問いである。ある人はそれは言葉だといい、ある人は、道具だともいう。

しかしおそらく、人類だけが死者を畏怖し、それを弔うという儀式を持っているということが動物と違うところではないだろうか。そんな話をかなり前にどこかで読んだような気がする。多分、構造主義の本だったかとも思うが覚えていない。



昨今、社会問題化している偽装生存老人問題は、一つには社会や家族の底が抜けてしまった絆の問題でもあるだろうし、別の視点から見れば、偽装年金受け取り問題という行政システムの問題でもある。

しかし、僕らがそのニュースを聞いて震撼するのは、そういった事件の当事者達の死者に、対する畏怖が全く感じられないという点である。隣の部屋で死んでしまった母親をそのまま放置しただけとか、父が即身成仏したいといっていたので自由にさせてあげたとか、まるでわけがわからない。

つまり、なんだかんだ言ったとしても、結局は、そういう状況の人々にとって、死者を弔うということ、すなわち人間であろうとすることよりも、己が、死者を生きたままということにして、その年金もらい、細々と生き続けること方が重要だということなのだろう。

しかし、それは全くの他人事なのであろうか。正直なところ、そんな状況に陥った人々というのは別に特別な人ではないと思う。それは、もしかしたら将来の僕達かもしれないのである。



数年前に東浩紀が「動物化するポストモダン」という本を書いた。彼は、この著書の中で「動物化」という言葉で、消費社会において、複雑な人間関係や社会関係抜きで、身体的な欲求を即座に求める傾向を説明したが、その究極のグロテスクな姿が、これらの偽装生存老人事件にあるように思える。東氏は、そのことをオタク文化(若者文化)を例にして語っていたが、僕らが今、目にしている「動物達」は、おそらく戦前、戦中に生まれたような「大人な」人々なのである。



日本人は、自らの手で何千年もかけて作り上げてきたユニークな文化、つまり、「死者は正しく弔わないと怨霊として生者を呪う。その死者に対する畏怖ゆえに、怨念を持って死んだ者こそ、盛大に奉り、護霊(御霊)として生者を護ってもらおう」という弔いの文化を無くそうとしているのだろうか。

現在、靖国神社を語る多くの言葉は、それが右から聞えようと、左から聞えようと、そのことよりも、死者に対する畏怖が感じられないことの方が問題なのではないかと僕は密かに思っている。

もしかしたら、日本人は、民族として動物への道をひた走っているのではないだろうか。



実は数日前の終戦記念日に、コミケでコスプレを見ながら、僕はそんなことを考えていたのであった。



まさむね

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