宮藤官九郎のドラマに共通する"実は~だった"の現代性
昨日、「うぬぼれ刑事」を見た。
テレビドラマは「龍馬伝」以外で見ることはほとんどなくなったが、宮藤官九郎の脚本ということもあり久々に興味深くみさせてもらった。
フっと思ったのだが、彼の作品には必ず、「実はそうだった」という意外なキャラクタが登場するということ。
「木更津キャッツアイ」の謎の男・うっちー(岡田義徳)は、”実は”船上に住んでいた。
「マンハッタンラブストーリー」のタクシー運転手・赤羽伸子(小泉今日子)は、”実は”一流のコーヒー焙煎士だった。
「タイガー&ドラゴン」で裏原宿の服飾デザイナー・谷中竜二(岡田准一)は、”実は”落語の天才だった。
そして、昨日の「うぬぼれ刑事」に登場した美人の元バドミンドン日本代表選手の萩尾ゆみ(小雪)は、”実は”ホームレスで馬鹿だった。この意外性が宮藤官九郎のドラマの一つのポイントだ。
実は、この”実は”は、古くからの共同体が崩壊した後の人々のつながりが必然的に生み出す”実は”である。現代人の多くは、お互いの素性が知れた共同体を前提とした付き合いから、なんとなく集まっていくうちに仲間意識を持ち出すという絆を生きている。お互いがお互いにとって全人格というよりもある一部の「キャラ」としてつきあうようになっているということだ。
いい悪いは別にして、それがこの時代の必然なのだろう。
その意味で、この「キャラ」の影から垣間見られる”実は”というネタは極めて現代的だ。
おそらく、この他人の不透明性が、自分自信にも向けられた時、それは、自分自身ですら、何なのかわからないという方向に行く。それはここにいる自分とは別に、もう一人の自分がいるはずだという想念にも、簡単に結びつく。
この想念の延長に先般の幼児死体遺棄事件があるとすれば、ソフトバンクのCMで犬が実は昔サーファーだったという話を僕らはただ笑ってみていてもいいのだろうか..とも思ったりする今日この頃である。
まさむね
PS.90年代の前半、下北沢のスズナリで観た「大人計画」の「ゲームの達人」の中で宮藤官九郎が演じていた天皇仮面は究極的に危ないキャラ。テレビでなんてとても出来ないネタであった。あの頃の官九郎にはもう戻らないだろうな。
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