カワイソウな物語は資本社会の究極兵器になるのか
「美丘」というテレビドラマを偶然に見た。
不治の病で半年後に死ななくてはならない女の子の恋と友情の親子愛の話である。
見始めて1分でわかるそのストーリーの強さは典型と呼ぶのにふさわしい。「セカチュウ」「恋空」のカテゴリーだ。
おそらく、死を宣告された美丘という美少女は「カワイソウ」なのだろう。
しかし、この話をぼんやりと観ていた僕は「カワイソウ」ということの合意すら、ままならない現代という時代を考えてしまった。正直な話、頭では分っているのだが、僕にはこの美丘がそれほど「カワイソウ」とは思えなかったのだ。
世の中には、僕にとって琴線に触れる「カワイソウ」なものはたくさんある。それに比べて、彼女はむしろ幸せのようにも感じられた。あと半年とはいえ、理解のある父母がいて、恋人がいて、友達がいて...
しかし、それ以上に僕が気になったのは、ドラマの最後の方で、恋人の男の子が「だからこそ、僕らは今を一生懸命に生きなければならない」というようなことを口に出していた。そのセリフだ。
今、多くの若者が将来に希望を持つことが出来ず、今、この瞬間よりも老後のことを考えて貯金をするようになっているという。ようするに、消費をしなくなっているのだ。そして、それが日本の経済に大きな負の影響を与えている。マクロでみたらそれは困ることなのだ。
そういえば、このドラマの提供はある自動車メーカーだった。
ここからは、ドラマの中の話だ。引越しを終えたばかりの6人の若者。死を宣告された女の子が突然に海に行こうと言い出す。死のことを知っている恋人は彼女の身体のことを考えて、一瞬躊躇するが、「今をこそ生きようとする」彼女の気持ちに負けて、「行こう、行こう」と言い出す。そして、男女6人は、即、自動車で海に行くのであった。
そして、海でなんだかんだあって、共に生きる意味を確認する。
そんなシーンの後、CMになり、自動車メーカーが「今なら、エコ減税、補助金も...」と言って、今、こそ自動車を買うのがお買い得という。
正直な話、国の税金を投入して商品を買わせようとする業界自体、もう終わりも近いとは思うが、それはともかく、消費しない若者に対して、この「カワイソウな物語」は資本社会の究極の兵器になりうるのだろうか。
なんでもありだなと思った。
まさむね
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