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2010年9月20日 (月)

オタクサマー2010も終わった 〜僕のコスプレ論〜

東京ゲームショウ2010も終わり、僕のオタクサマー2010も終わった。



実は、僕は今回の東京ゲームショウ2010のコスプレイベント関連の仕事をさせていただいていたのだ。

今まで、何度かイベントにかかわったことはあったが、今回は規模、内容ともに僕にとって刺激的で画期的なものとなった。

とにかく、多くの方に足を運んでいただいた。

今年の東京ゲームショウは過去最高の20万人を動員したというのだから凄い。



ゲームというジャンルがどちらかといえば、世間の目に触れにくくなったり、過去数年の間に、例えば、バンダイのゲーム部門がナムコが統合したり、ハドソンがコナミの完全子会社になるというように業界の再編が進み、どちらかといえば停滞期に入った感のあったゲーム業界。

さらに言えば、PCのネットゲームでは、お隣の韓国に、またソーシャルゲームでは中国系ゲームメーカーに主導権を取られるなど、今ひとつ元気がなかった日本のゲーム業界ではあるが、観客動員数を見るかぎり、お家芸としての底力はまだまだというところを感じさせてくれたのが、今年のゲームショウだったのではないだろうか。



そして、今回僕が関わらせてもらったコスプレ。ほんの数ヶ月前までは、別世界の話だったが、スタジオハードデラックスの高橋社長と出会ったり、ワンフェス世界コスプレサミットコミケなどを通して、徐々に僕の中で大きな存在となっていった。



今回、コスプレイベント(17日のコスプレカンファレンスと18日のコスプレダンスナイト)で大きな役割を果たした道斎忠明氏(通称ジャッキー道斎)によると、コスプレというものは、ユーザー各人がゲーム(あるいはアニメ、マンガといういわゆるオタク文化)から受け取った多大なインパクトに対する感謝の気持ちを表現したものではないかと言う。

つまり、文化人類学的に翻訳して言えば、ゲームから受けた”わけのわからない”<贈与の一撃>によってユーザーの内面に溜まった過剰物(マルセル・モースがいうところのハウ)を、表現することによって吐き出しそうとた一形態がコスプレという現象なのである。

だから、彼らの姿には「愛」が溢れているのだ。ゲームから受け取った愛情をクリエイター達に投げ返すと同時に世界に発信する。こうした一連の愛情の連鎖がコスプレ文化だと僕はいささかロマンチックに捉えたいのだ。



様々なコスプレイベントに顔をだして思ったのは、コスプレイヤー達の「各人が影響を受けた作品を自らに憑依させて体全体で表現した混沌とした愛情」を受け取る役割・つまりカメラ小僧(と言っても年齢上限は不明)の存在の重要性だ。

一般に、オタクなどと言われて日陰者の印象もある彼らだが、おそらく学生、社会人としてはそれぞれ持ち場でご活躍されているのだろう。たまのハレの日に、恋人や奥さんに隠れてカメラ片手に、「愛情交易の広場」にやってきているのだと僕は想像する。

彼らは本当に礼儀正しい。メチャクチャな人ごみの中でもほとんどの方々はルールを守り、そしてコスプレイヤー達に声をかけて「写真を撮らせていただく」という態度がすがすがしい。ここでは、見ず知らずの人たちが、ファッションとカメラという二つのツールを通して精神を交流させるのである。

そして、そんな交流の儀式には暗黙の作法がある。そうしないと憑依神=コスプレイヤーというわけのわからないものを扱うのにはあまりにも危険だからだ。逆にいえば、その作法を守るものだけが、この儀式に参加できるのである。

おそらく、日本人は世界の中でもシャイな民族の一つだと思う。そんな日本人独特の作法に守られたハレの日の精神の交流こそ、このコスプレイベントなのだと思わず言ってみたくもなる。また、さらに加えれば、その交流の隠し味(実は露骨)がエロスだということだとするならば、それは、まるで現代の「歌垣」なのかもしれないと...



一方で、大きく行き詰った日本経済の突破口の一つとして、ビジネス界が、こういった新しい交流や絆化の動きを活用しようとするのはある意味、自然の動きだとは思うが、現状、少なくとも意識的には一人一人のコスプレイヤーはそれぞれのコスプレ感を持っていて、市場ターゲット化としてまとめようとするのも時間がかかりそうだ。望遠鏡で見れば、「コスプレ」という言葉でひとくくりに出来るものでも、近寄って顕微鏡で見てみると、そこには無数のトライブ(部族)が存在しているのである。

今回、東京ゲームショウでは、幕張メッセの「やすらぎのモール」に大きな背景画(通称、バックドロップ)を設置して、それぞれのコスプレイヤーにそれを使っていただこうという企画をしてみた。もちろん、松本城のバックドロップの前では戦国系ゲームのコスプレイヤー、プロジェクトDIVAのバックドロップの前では初音ミク系のコスプレイヤーに喜んで使っていただいたようにも見受けられたが、逆にそれを避けて、打ちっ放しのコンクリート前でしか写真を撮らせないコスプレイヤーも多かった。

彼女、彼達は自分達の頭の中のイメージに合えば使ってくれるし、そこから1mmでも離れたものだと興味も示さない、逆に邪魔なのだ。そのあたりの複雑さをも感じることが出来た。

また、ゲームショウに来られるコスプレイヤーはゲームのキャラになりきって自分が好きなゲームの最新版を試しに来るのが楽しいのだという意見も聞かれた。

おそらく、コスプレイヤー達は、自主発生的に生まれてきただけに、マスコミやマスビジネスに対して一定の距離を置きたがっているようにも思える。彼らは決してマスメディアの思うようには動かないし、利用されることを拒み続けるのだ。

もしかしたら、コスプレとは、極めて現代的な反体制的、あるいは非資本主義的なホットムーブなのかもしれない。



さて、最後になるが、シナの古典『荘子』の中にこんな話がある。その昔、混沌(こんとん)という神様がいた。その神様には目や鼻が無かった。ある日、その混沌が寝ている間に、友人が目と鼻をプレゼントした。そうしたら朝、起きたら、混沌は死んでいたというのだ。

つまり、混沌とした状態はそれだから生き生きしているのであって、それを秩序立てようとすると、すぐに死んでしまうセンシティブな「生き物」なのである。コスプレという混沌を資本社会という秩序が取り込もうとする時、死なないように目鼻をつけられるのだろうか。



僕が今回のゲームショウの会場を走り回りながら、考えていたのはそんなことだ。



まさむね(西村昌巳)

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