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2010年9月12日 (日)

『「地域再生の罠」-なぜ市民と地方は豊かになれないのか?-』という罠

現代日本の課題の一つに「地方再生」というのがある。

現在、衰退が著しいと言われている日本の地方都市、それをかつてのように活気ある場所にしようと多くの人々が知恵と金を投入したが、その結果の多くが失敗したようである。

自分も2003年頃だったと思うが、プロレス興行の取材で、南は熊本から、北は北海道まで、熊本>福岡>出雲>福井>越前高田>酒田>秋田>釧路>旭川と自動車で移動したことがあったが、多くの都市の駅前は、いわゆるシャッター街となっており、これが地域衰退なんだなぁと実感したことがあった。

しかし、状況はあれからさらに悲惨になっているのかもしれない...と一応思ってみたりもする。



久繁哲之介氏の『「地域再生の罠」-なぜ市民と地方は豊かになれないのか?-』は、そんな苦境に喘ぐ、地方都市、つまり、地方再生のための一つのヒントとすべき本なのであろう。

この本に書かれているのは、簡単に言えば、地方再生は、人々は私益ではなく、公益を考えるべきであり、「ハコモノ」に金を使うのではなく、ソフト面に知恵を使うべきであり、観光客が立ち寄るためのスポットを作るよりも、まずは地域住民が交流出来るような場所を作ることが大事だと説く。そして、店を出すのであれば、徹底的に消費者目線の店を作るべきだという。



例えば、「宇都宮109」という若者向けのファッションモールの失敗を冷静に分析している。109に100円ショップはありえなかったのだろうし、建物の向かいに八百屋というのも致命的だったという。しかし、この本をその八百屋が読んだら何を思うだろうか...



また、こんな例も出ている。左は、この新書の挿絵だ。上の屋台村(A)と下チェーン店(B)を比較して、どちらが消費者に受け入れられる店で、ゆくゆくはどちらが地域再生に役立つ店であるのかという問いがついている。

そして、著者もBを持ち上げ、Aを「断罪」している。Aはあくまでも供給者の押し付けが見えるからだ。地鶏産品応援というのはあくまで隠しテーマであり、店頭に掲げるようなネタではないという。確かにそうだ。論理的に正しいことでも、時には鬱陶しく感じる。多分、僕もA店は友達と一緒のノリで入ってしまうことはあっても積極的に一人でノレンをくぐろうとは一生思わないだろう。



こういう具体的な例をあげるというのがこの新書のいいところだ。「地域再生プランナー」というどちらかといえば、敵を作りたくない御用ビジネスの立場でありながら、この「断罪」の潔さには思わず拍手である。



しかし、それにしてもこの本を読み終わった後、僕は彼の立場の限界を感じざるを得なかった。この本はあくまでも「地域の商店街が儲かるためにはどうしたらいいのか」というテーマ自体に限界があるのではないかということである。



確かに、昭和の日本人の多くは現代人よりも、近所の人と人との交流は濃密であった。僕は東京の中野で生まれ育ったが、同居していた祖母が縁側に座って待っていると、毎日、近所の誰かが遊びに来て、お茶を飲んで帰っていった。お茶菓子は漬物だった。

決して、みんなで喫茶店に行ったりレストランに行っていたわけではない。外食など、1月に1度あれば多いほうだったと思う。

そんな祖母のような人々は、地域社会が儲かるという視点からすれば、最悪の存在だったにちがいない。そんな祖母は、近所の商店街にスーパーマーケットが出来ると、それまで行っていた小汚い八百屋に目もくれずに毎日、安くて便利なスーパーに買い物に行くようになった。それが庶民の感性というものであろうと僕は思う。



市役所の担当者や、お抱え社会学者、都市プランナー、そして商店街振興会会長が絆や地域再生に頭をひねっても、一般の人は思うように動いてくれない。

僕は、現在の地域衰退というものはあくまでもそういった専門家の問題であり、住民は確かに寂しいとか、昔はよかったと感じても、積極的にもとに戻そうと動くことはあまりないのではないかと思っている。究極的には、面倒や負担を抱え込むより、今のままで楽して生きたいと思っているのである。



前回の参議院選挙で菅総理がちょっと消費税のことを口にしただけで、地方の人々は民主党を嫌った。そのレベルなのである。



そして、彼らは、駅前がシャッター街になったとしても、案外、家の中で普通に幸せに暮らしているのだろう。そして、今度の民主党党首選挙でも、どちらがより、地方にお金を回してくれるのかで見ているのに違いない。



もしかしたら、政治は、地域再生が本当に必要なのかから考える必要があるのではないだろうか。

「地域再生の罠」を謳うこの本であるが、実はこの本によって、今までとは違った地域再生の方法があるにちがいないと考えてしまった方々に一言。地域再生しなければいけないということ自体が「罠」かもしれないと一瞬でも考えてほしい。



実は、地域再生事業こそ事業仕分けすべきものなのかもしれないのである。



まさむね

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