ゲゲゲの女房の布美枝の「まぁいいか」顔について
僕はたまにしか見れないのだが「ゲゲゲの女房」の視聴率がいいらしい。
僕の大雑把な印象だと、ヒロインの布美枝(松下奈緒)は今までのヒロインとは違って、内気だ。茂(向井理)が結構、自分勝手な性格なのだが、彼がやることに対して、何も言えない。時々、思い余って、彼女の感じている不満を茂に話をすると茂は布美枝の気持ちがよくわからない。そして、最終的には布美枝は仕方ないと諦める、みたいな場面が多かったような気がする。
これは、断片によるあくまで印象だが...
でも、この布美枝の、その「しょうがないな」という顔がいいのだ。そして、多くの視聴者にとって自分に置き換えやすい表情なのだ。今まで、多くの朝ドラのヒロインは、「おしん」がその典型だが、自分の価値観を持って、前向きに生きようとしていた。
しかし、今回の「ゲゲゲの女房」の布美枝の「まあいいか」的な、状況に逆らわない身の処し方の方が、現代ではより共感を得たのかもしれない。
さて、このドラマを見ていて思うのは、当時の漫画家という職業の置かれた社会的地位の低さだ。今でこそ、大学にマンガ学部が出来る時代であり、漫画家といえば、うらやましがられる職業の一つだ。
しかし、当時は、一般の人から見ると真っ当な職業とは言えなかったのだろう。布美枝の悩みの何割かはその職業意識から来ているようにも思える。
あまり知られている話ではないが、例えば、マンガの神様、手塚治虫は学歴詐称をしていた。大阪大学医学部出身というのが通称だが、実は、大阪帝国大学附属医学専門部が実際の学歴なのだ。同様に、梶原一輝も、早稲田大学文学部を詐称していた。彼ら、60年代のマンガ関係者にとって、その社会的地位を上げるためにも詐称は必要だったのかもしれない。
ちょっと観点は違うが、力道山が身長詐称をし、野坂昭如が逆学歴詐称(早稲田大学卒業なのに中退と言い張っていた)のも当時の話である。僕は、それらを攻めるよりも、60年代を生き抜いた人々のたくましさを感じざるを得ない。
さて、ゲゲゲの話に戻そう。僕は12年ほど前に、水木しげる先生の妖怪を使った、CD-ROMソフトやロールプレイングゲームを作っていたことがあった。その時、その一枚一枚の絵の力に関心したものだった。人物は個性的なタッチでいわゆるマンガなのだが、その背景の野山や家屋などは本当にリアルなのである。その絵の奥は、日本の民俗社会の奥深さにそのまま通じているような独特の暗さ=恐さを持っている。そこには本当に妖怪が住んでいそうな雰囲気があるのである。
かつて、手塚治虫が、水木しげるに嫉妬して「僕にも妖怪漫画が描ける」と言い張り、「どろろ」を描いたというのは有名な話である。「どろろ」が百鬼丸の人間性回復のドラマと、戦争で両親を失ったどろろを通した反戦という、手塚的ヒューマニズムの枠内の作品であるのに対して、水木の漫画は、どこまでも暗く、それは現実社会と同じようにオチの無い世界であるように僕には思えたのである。
それにしても日本は水木しげるという漫画家がいたおかげで妖怪というものが可視化され、これからも日本人の中で、共通の財産として生き残っていくだろう。それはあまりにも大きな功績だと、僕は思う。
まさむね
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