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2010年10月 9日 (土)

「異形の日本人」という日本論は怨念の書でもある

上原善広氏の「異形の日本人」は面白かった。

この日本というある意味、閉鎖的な空間の中で「自分」というものを持って生きた人々の実録である。

それぞれの逸話は、対象となった人々への愛情に溢れている。

この本の面白さは、上原氏のそうした人への愛情にあるというのは僕の直感である。

しかし、彼の筆はたんに異端の人々の姿を追っていくだけではない。

その裏には彼独特の視線があるのだ。上原氏はこの本の「はじめに」にこう書く。

そのため私は路地と同時進行で各分野におけるマイノリティ「異端」とされてきた人たちを取り上げてきた。そうした人々の物語や、一種タブーとされてきた出来事の中にこそ、日本人の本質的な何かが隠されていることがあるのではないかと思ったからだ。

彼らの本当の声が、テレビなどの大手メディアで報道されることはけっしてない。それは、彼らの映し出す「本質」が、時に反社会的でもあるからだろう。


この本で扱われている異端者は、50年前に鹿児島で生存していたというオオカミ姉妹、「血だるま剣法」を描いた漫画家の平田弘史、独自の練習法で世界最高レベルまで達した槍投げの溝口和洋、筋萎縮症でありながらも「わいせつ裁判」を戦い抜いた西本有希、「花電車芸」を得意とするストリッパーのヨーコ、そして路地(被差別部落)に生まれながら、その才能で破天荒は人生を生きた阪田三吉と桂春團治などだ。

彼ら、彼女達は日本という保守的な風土に対して「自分」を通して生きようとした人々だ。



一般的に、日本という国はマイノリティが生きにくい国だと言われている。彼らは陰に日向にマジョリティから差別を受け、疎んじられる。ところが、マイノリティ(=異端)は芸能、スポーツ、事件などを通してマジョリティ(=世間)の心を揺さぶることがある。つまり、彼らのパワーが一瞬、社会の秩序に亀裂を走らせるのだ。そして、時として今まで差別されてきた人々が一躍、カリスマになる。しかし、あるタイミングで、そのカリスマは地に堕とされ、そして、人々の記憶から消される。そうして社会の秩序は、何事もなかったかのように維持され続けるのだ。

上原氏はそのことを明言してはいないが、僕の解釈によると、上原氏が「日本人の本質的な何か」というのはそういった極めて日本的な残酷なシステムではないかと思う。



阪田三吉と桂春團治の箇所で、彼はこう書いている。

突破な者にさせるドグマのような何かが、彼らの中に確かにあった。それが「路地」そのものであったように思う。例えば、世間というものに対してある種の虚脱感を抱きながら、逆に異常なほどの執着も示している。この矛盾が、彼らの奇行と実力の原点のように思えてならない。世間に対する虚しさは、生まれゆえに悔しい思いをしてきたひねくれた気持ちであり、世間に対する執着は、出自はどうあれ社会に認められたいという怨念である。


この「怨念」という言葉は重い。おそらく、それは彼らのエネルギーの源泉であるが、心の中にあって消せないものでもあるのだ。そして、芸能というものは、この「怨念」が隠し味となってこそ、「華」があるように思える。



例えば、僕がかつて好きだったプロレス。そこで活躍していたかつての名レスラー達、馬場、猪木、長州、前田、大仁田、三沢...彼らには、そのような意味で、世間に対する「怨念」と「華」があったような気がする。

そして、現在のプロレス界が衰退しているとすれば、それら「華」のあるレスラーがいなくなった事、あるいはパワーが落ちたことであると同時に、逆に言えば、そういった異端の「華」を逆側から光らせていた旧来の世間自体が衰退してきているということかもしれない。



まさむね

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