「動物化するポストモダン」は尖閣事件以降も有効か
東浩紀の「動物化するポストモダン」(講談社新書)(以下「動ポス」と略す)を改めて読んでみた。
自分の著書である「家紋主義宣言」を東浩紀のポストモダン論から見たらどう見えるのかをシュミレートしてみたかったからだ。
つまり、僕は何故、家紋という日本古来のアイテムに注目したのだろうか。そして、その家紋を一つのきっかけに日本人、一人一人が、日本という国と結びついた物語を、個々に再生するということはどのような意味を持っているのだろうか。
それを「動ポス」的文脈から考えてみたかったのである。
家紋には、はるか先祖が抱いた切実な祈りや、誰にも負けない誇りや、曲げられない反骨心や、美意識の結晶や、ささやなな願望が込められているのだ。家紋を眺めていると、僕らの先祖が現代の日本人一人一人に静かに語りかけてくれる様々な物語がほのかに浮かび上がってくる。そんなロマンチックな眼を開いてみよう。
僕は「家紋主義宣言」の中でこのように書いた。それは大東亜戦争によって断ち切られてしまった日本人の歴史を取り戻すためには、とりあえず、日本という「大きな物語」よりも、家紋から見えてくる先祖史という個々の小さな物語から徐々に構築していけないかというようなことを考えたからである。
それは、東浩紀氏が、敗戦によって、それまでの伝統が消滅した後に出てきたものそれがオタク系文化だと言う主張とも重なっているようにも思えたのだが、話はそれほど単純なものなのであろうか。
実は僕は「動ポス」の以下の箇所を読んで、実は眼から鱗が落ちるような感じがしたのである。
オタク計文化の根底には、敗戦でいちど古き良き日本が亡びたあと、アメリカ産の材料でふたたび擬似的な日本を作り上げようとする複雑な欲望が潜んでいるわけだ。
オタク系文化の日本への執着は、伝統のうえに成立したものではなく、むしろその伝統が消滅したあとに成立している。言い換えれば、オタク系文化の存在の背後には、敗戦という心的外傷、すなわち、私たちが伝統的なアイデンティティを決定的にうしなってしまったという残酷な事実が隠れている。
ここには、オタク文化と江戸文化の類似性を指摘するという(岡田斗司夫などによる)「素朴で普通」の思考には、見えていなかった、その二つの文化の間に歪に挟まっていたアメリカ文化の存在が指摘されているのだ。
そして、その指摘を敢えて、家紋主義に照らしてみる。
すると、ルーツを探すという発想自体が実はアメリカ文化かもしれないということに気づいてしまった。そういえば、アレックス・ヘイリーの「ルーツ」というテレビドラマ(1977年)を僕は真剣に見た記憶があるのだ。
もしかしたら、戦後、日本回帰と言われた数多くの現象は、日本の現状そのものから眼をそらすためのアメリカ経由の「失われた日本という物語」への回帰現象だったのかもれないではないか...
「動ポス」は、そんな愕然とした真実をも射程に入れている書物なのである。
★
さて、この「動ポス」は、時代認識のモデルとして、60年代までの、「大きな物語」が生きてきた時代を近代の世界モデル、70年代~80年代の物語消費で特徴付けられる過渡期のモデル、そして90年代以降のポストモダンのモデルに分ける。
ここで言う「大きな物語」というのは、簡単に言えば、戦前の日本の国家主義や戦後のマスクス主義など、みんなで一緒に信じていれば幸せになれたような物語のことである。

確かに、僕も80年代に大塚英志氏の「物語消費論」に激同したクチであった。正直なところ、同意という勝負では、蓮實重彦氏の「表層批評宣言」よりも「物語消費論」の方が勝っていたのである。
大塚英志(1958年生まれ)は、僕とほぼ同じ年代だ。その意味で、僕らの年代はどうしても、背後の物語という幻影から抜けきれないのかもしれない。
そんな年代性を背景として、僕は「家紋主義宣言」の中の桔梗紋の章において、桔梗紋者と平将門の戦い、つまり天皇と反天皇の戦いを書いたのだ。それはもしかしたら、背後にあるかもしれない「大きな物語」の幻影をいまだに追わずにはおれない僕の嗜好が生み出した説ともいえるのではないだろうか。
しかし、「動ポス」によれば、そんな偽物語の時代は90年代に入って収束し、その後は、データベース消費の時代になったという。これがポストモダンの時代と対応しているのだ。
そして、90年代以降のオタク文化では、人々は僕のような「深読み」に興味を持たなくなったという。「動ポス」ではこのような現象の例として「ガンダム」と「エヴァ」の消費の仕方をあげられている。
「ガンダム」のファンの多くは、ひとつのガンダム世界を精査し充実させることに欲望を向けている。つまりそこでは、架空の大きな物語への情熱がいまだ遺児されている。しかし、九〇年代半ばに現れた「エヴァンゲリオン」のファンたち、とりわけ若い世代(第三世代)は、ブームの絶頂期でさえ、エヴァンゲリオン世界の全体にはあまり関心を向けなかったように思われる。むしろかれれは、最初から、二次創作的な過剰な読み込みやキャラ萌えの対象として、キャラクターのデザインや設定にばかり関心を集中させていた。
さらに「動ポス」では、小さな物語の背後にありながら、もはや物語性を持たないこの領域を「大きな非物語」と呼んでいる。そして、これ以降のオタクは、その背後の非物語領域をデータベース化し、そのデータベースを参照しながら、表層に漂う「萌え要素」をまさに動物的に消費するようになったというのが「動ポス」の主張である。
しかし、もしも、この近代からポストモダンへの流れが非可逆的であれば、どんなことがあったとしてもこれからの人々は背後の物語には興味を示さなくなるはずである、が、はたしてそうなのであろうか。
例えば、今回の尖閣海域における衝突事件、そしてその顛末は、今後、多くの日本人の中で、戦後、凍結していた「日本」という「大きな物語」を新たに呼び覚ますきっかけになるとは言えないだろうか。
僕らは想像以上に大東亜戦争によって傷つけられていて、しかし、その傷から眼をそむけるようにさせられ続けてきた戦後社会の矛盾が民主党政権の無邪気な政策によって、意図してか、せずしてかはわからないが、明らかになりつつある。
今回の事件に意味があったとすれば、今まで自民党政権=官僚依存体制が巧妙に隠していた「平和の構造」が実は、非常にデリケートな「お盆」の上に乗っかっていたということが白日のもとに露呈したということだろう。
もしかしたら、戦後最左翼政権の誕生が、逆に今まで擬似右翼政権がそれなりに抑えてきた国家主義を台頭させるという歴史上の皮肉が起こるかもしれない。
自分が今まで平和に暮らしていた場所が、実はあまりにも不安定だと知った現代日本人は、それでも「動物」でありつづけるほど強靭な精神を持っているのだろうか。
あるいは、動物化したポストモダンは尖閣事件以後も普通に続いていくのであろうか。
実は「動ポス」で展開したデータベース消費論自体が、戦後のデリケートな「お盆」の上での虚構の物語の一つだったのではないだろうか。
まさむね
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