『誰も知らない「名画の見方」』は優れたオタク向け深読み基礎講座だ
様々なジャンルで達人というのはいるものだ。
高階秀爾氏は今更言うまでもなく、西洋近代絵画に対する造詣の深さに関しては右に出るものがいない達人である。以前にも「キース・ジャレットとブリジット・フォンテーヌ。そして姉貴」というエントリーで書いたことがあるのだが、僕の姉は芸術系の大学院に行っていたのだが、僕が学生の頃に、姉の口から飛び出す高階秀爾や若桑みどりといった名前は、それこそ憧れの的であった。おそらく、当時(70年代後半)から、高階秀爾氏は、そのキリッとした容姿と明快な論理、上品な物言いによって、日本の知的階級の象徴のような存在だったのである。
『誰も知らない「名画の見方」』 (小学館101ビジュアル新書)は、その達人の芸を、僕ら素人に分りやすく解説してくれている絵画鑑賞の入門書である。ただ、それだけの本ではない。
その高階氏はこの本の「はじめに」でこう語る。
多くの作品に接し、互いに比較し、また歴史や背景を探っていくうちに、まるで山道を突然、眺望が開けるように、今まで気づかなかった新しい視点が浮かび上がってくる。それは思いがけない細部の特質であったり、歴史とのつながりや、あるいは画家の仕掛けた密かな企みなど、さまざまだが、そのことに気づいて改めて絵を見直してみると、そこに新たな発見があり、理解が深まり、喜びと感動は倍加する。「絵の見方」というようなものがもしあるとすれば、そのような視点を見出すことに他ならないだろう。
おそらく、このように語る高階氏は、まぎれもなく"おたく(≒オタク)"である。その視線の先に西洋絵画があるか、アニメや漫画があるのかの違いはあるかもしれないが、この本は、僕らの世代の"おたく"にとっても、現代の"オタク"にとっても、こぞって「対象物をいかに深読みすべきか」ということを学ぶための技術論になっているのだ。
これがこの本の凄いところである。


高階氏は語る。
そのことによって、瞳はたんに外光に反応する肉体の一器官としての「目」ではなく、内部に精神を宿した「まなざし」となる。そのとき画家は、自分が見た対象としてではなく、画家を見ている「人間」を描くことに成功したのである。
また、こうも語る。
絵を前にしたとき、それが一見、写実的な作品であるならば、その画面にはどこかに画家の工夫が隠されていると思って間違いないだろう。ある画家がどのような工夫を凝らしたのか、そのポイントを見つけるのが、写実絵画を鑑賞する際の醍醐味といえるだろう。
僕は高階氏のこうったロマンチックかつ、冷徹な言い切りが好きだ。
「リアル」に感動するというよりも「リアリティ」の文法を解き明かそうとする高階氏の姿勢は、例えば、プロレスを見るときに、レスラー達の実際の「痛み」に共感する見方ではなく、痛さを伝えるレスラーの技術に納得するという「目利き」の基本姿勢に通じるからだ。
繰り返しになるが、この、ものを見る姿勢(そして技術)こそが、本のテーマであり、それは、極めて優れたおたく(≒オタク)のための"深読み基礎講座"でもあるのだ。
まさむね
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