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2010年10月26日 (火)

秋の夜長に『一億総ガキ社会』を読むと...

片田珠美の『一億総ガキ社会 「成熟拒否」という病 (光文社新書) 』を読んだ。題名を見るとすぐに内容がわかる本だという位の認識で読み始めたのだが、これが読み応えがある。

さすが、現役の精神分析医だけあって、現代日本の精神分析には説得力がある。80年代に流行った岸田秀の「ものぐさ精神分析」の破天荒さとは比べると大人しさは否めないが、それは仕方がないだろう。岸田先生の精神分析は彼の一代芸のようなものだからである。



さて、この『一億総ガキ社会』の中にはいくつかの「考えるヒント」が含まれている。読後、しばらく考えさせられるのだ。例えば、現代社会についてのこんな箇所がある。

もっとも、よく考えてみれば、我々は、実はこういう社会を望んでいたのではなかったか。人があまり死なず、規範から解放された自由な社会、そしてお金さえあれば欲しいものが手に入る豊かな消費社会を。欲望を実現させてみたら、社会全体に思いがけぬ副作用が出ただけの話である。


確かにその通りかもしれない。おそらく、僕らの一世代、二世代前の人々の欲望がいつの間にか実現したのが現代なのである。



現代社会は人々に「あきらめる」ことをさせない時代であると、この『一億総ガキ社会』は何度も繰り返している。

かつては「あきらめる」=「明める」=「世の中というものが分る」=「分をわきまえて生きる」ことだった。例えば、禅の思想家・鈴木大拙もその著作で「あきらめる」ことの大切さを語っていたように記憶する。

しかし、いつの間にか、その「あきらめる」ということが悪いことのようになってしまった。

それは欲望に忠実に生きることこそ正しい生き方なのだということとほぼ同意である。

そしてそれは、向上するのが当たり前という価値観ともシンクロしている。

しかし、日本人はそれで本当に幸せになれたのだろうか。「風呂の水をながしていて一緒に赤ちゃんも流してしまうような~」という言い方があるが、まさしく僕らは「赤ちゃん」のように一緒に「幸福感」も流してしまったのではないだろうか。おそらく誰しもがそんなことを薄々感づいているのが現代なのである。



しかし、僕らは一方で、失望ばかりしているわけではない。もしも、現代が二世代位前の日本人の欲望だとしたら、50年後には、今の若者の欲望する方向になっているにちがいないからである。

例えば、今の若者の間には、「リア充」という言葉がある。それはリアル社会で充実している人々という意味らしいのだが、その充実の要素には決して、出世や物欲などは含まれてはいないという。それよりも、友達と楽しく時を過ごすセンスの方が大事だというのだ。



もしそれが、次の時代の日本社会の価値観だとするならば、それはそれで、決して住みにくい世の中ではないのではないか。

切磋琢磨しながら、周りと競争しながら、世界の一流国でありつづけようとする戦略よりもそれは、よほど成熟しているではないか。



もちろん、それによって、現代、当たり前に享受している様々なサービスは受けられなくなるかもしれないし、プライドのレベルも下げざるを得ないかもしれない。



しかし、それでもいいのではないだろうか、面被りクロールはそろそろ終わりにしてもいいのではないだろうか...



秋の夜長は、とフッそんなことを僕に思わせる。



まさむね

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