「Q10」では、年寄りほど明るく、若者ほど暗い
「Q10」を見ていると、時々物凄く絶望的になるときがある。
主人公の平太(佐藤健)は、何故あんなに暗いのだろうか。
常に悩む。しかし、その悩みが何なのかも自分では把握できない。心の中に黒い雲が立ち込めて視界が全く見えないのだ。
今回の最後に、同級生達を全部、鉄塔に喩えるシーンが出てきた。あれは一体何を意味するのであろうか。
みんな、それぞれが細い電線でつながりながら、しかし、それぞれの場所で立っているだけで動けず、空に向って叫んでいる。
それが僕らだというのだ。
それはどこにも行けないという苦しさであると同時に、常にそこに存在できるという安心感もである。
そして、今回の「Q10」はむしろ、後者の安心感としての鉄塔の方が勝っているようにも思える。
平太は鉄塔オタクなのだ。
それにしても、その人間観、社会観はかなり絶望的である。
おそらく、このデッドロックした話の鍵を握るのはすべてが見えていない平太の対極的な存在=すべてが見えているひきこもりの少女・月子(福田麻由子)の存在だ。
来週からの彼女の動き、そしてそれと連動した話の展開に期待したい。
それにしても、エンディングの「ほんとうのきもち」(高橋優)の歌詞はすばらしい。「Q10」のドラマの雰囲気にぴったりだ。
「あれは何だったんだろう」という過去の抑圧された曖昧さ、それでも僕らは歩いていかなくちゃ行けないという未来に対する不安、そして今、君が好きだというただそれだけのリアリティ。
勿論、ヒットするかどうかは全く別の問題だが、今の時代の雰囲気をつかんでいるようにも思える。
話を「Q10」に戻す。
この学園ドラマが他のその種のドラマと違うのは、年寄り(校長先生と小川先生の母親)ほど明るく、逆に言えば、若くなるほど暗く描かれているということではないだろうか。
もしかしたら、それは現在の日本そのものの姿だ。
こんな質問がある。
お金持ちの65歳と貧乏な15歳、どちらになるとしたらどちらを選ぶか?というものだ。
もしかしたら、今の日本人の多くは、前者を選ぶような気もする。
もしそうだとしたら、そんな国がいい国のはずはない。
まさむね
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