『Q10』における平太の挫折と足踏みのリアリティ
『Q10』主人公の平太(佐藤健)の曖昧さは、それこそドラマ史に残るほどのものではないだろうか。
彼は、これといった特徴があるわけではない。
友達もいないし、しかし嫌なやつでもない。いつも悩んでいるが、その悩みの正体すら自分で把握できていない。
ぼんやりと暗いのである。
しかも、行動力もない。先週の土曜日の回では、Q10を連れて遠くに逃げようとするが、途中で挫折して、電池切れしたQ10を置き去りにして、コードを取りに帰ろうとするが、途中で迷い、森のようなところでうずくまってしまう。全く持ってどうしようもないのである。出掛けにお父さんからもらった聖徳太子の一万円札は一体なんだったのであろうか。伏線でもなかった。
この逃亡の挫折こそ、『Q10』のリアリティを支えている現代性だと僕は思った。
最近、僕は個人的に川島雄三の『幕末太陽傳』のラストシーン、ダスティンホフマンの『卒業』におけるラストシーン、『俺たちに明日はない』の最後、銃撃に合うラストシーン、そして『ブレードランナー』のラストシーンというように様々な逃亡を密かに比較していたのだが、その中に『Q10』を置いてみると、その情けなさと中途半端さは群を抜いて見える。
これは、外部というものは全て、内部が抱いた幻想であるというポストモダン的現代を表しているのであろうか。
そして、平太の逃亡の挫折の後にはまた、彼が見た平凡な学園風景が再開されるのであろうか。
いや、おそらく、月子によって撤収されるであろうQ10と平太の運命はどうなるのかというのは気になる。
平太は再度、「逃走」を試みるのか、あるいは、何者かわからないものとの「闘争」に撃って出るのか。そしてまた挫折してしまうのか...
次回からがますます楽しみである。
それにしても、平太以外の生徒はみんな明日(将来)に目が向いているというのに、平太だけは、今日から前に進めない。
この彼の足踏みに共感してしまう僕らは、一体なんという時代に生きているのであろうか。
平太のことを考えていると、こちらまで、一体自分は何を考えているのかがわからなくなる。この不透明感は意外に楽しい。
まさむね
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