「Q10」が描く漠然とした不安と北山修の世界
来週の「Q10」の予告編ムービーが公式HPにアップされていなかった。
全てがスケジュール通りに運ぶわけでないのだろうが、ちょっと残念だ。撮影が相当に押しているのだろうか。
もしかしたら、脚本も、随時手が加えられている可能性もある。
例えば、週末の第6話で、ビンボーの藤丘(柄本時生)が働かなくてはならなくなり、ついに学校に来れなくなる。
同級生達は藤丘のアパートの前で「さらば恋人」を合唱するが、近所の住民達が警察を呼ぶ。警察が来て、校長先生が謝罪。
みんなは座り込んでしまうが、校長先生は「規則を破らないとメッセージを伝えらないこともある」というようなことを言って、みんなを励まそうとする。
おそらく、これは尖閣ビデオを流出させたsengoku38の行為とそれに対する日本人の支持という社会現象がその背景にあったに違いないと僕は見た。
これなど、まさに、生ものの脚本でないと表現できないことだろう。
さて、今回もこの「さらば恋人」がいい場面で登場した。「戦争を知らない子供たち」「風」に続く北山修の世界である。
来週の予告ストーリーには、平太(佐藤健)がQ10を連れて逃げるというようなことが書いてあるが、これは「花嫁」を彷彿させる展開だ。
さらに言えば、そのうち、必然的に「あの素晴らしい愛をもう一度」が登場するに違いない。これはあくまでも勘ではあるが。
60年代、北山修の詞は、田舎から都会へ出てきた若者達の心細さを代弁したものであったが、「Q10」ではそれぞれ別々の道を歩まざるを得ない現代の高校生達の時間に対する抵抗感を代弁している。
おそらく、いつの時代も不安というものは漠然としたものなのである。
確かに、今回の冒頭では、平太のモヤモヤとした心情の吐露から始まった。彼は自分の悩み、不安に関して漠然としか把握できていない。
おそらくこの曖昧さが、この物語をわかりにくくしているところであるが、一方でリアルにしているところもである。
かの哲学者ヴィトゲンシュタインは「悩みを解決するためには悩みが悩みでなくなるしかない」というようなことを述べているが、多くの場合、人は漠然とした不安があって、その不安に対して後づけの物語を付与し、それを悩みと称する。
そして、いつの間にか、その不安が霧散すると、その物語もどうでもよかったこととなり、悩みが解消する。こんなことの繰り返しで若者は大人になっていく。
僕は「Q10」には、そういった心情のリアリティを感じるのである。そして、このドラマでは「逆にそれを際立たせるために、悩みを持たない永遠の存在としてロボット=Q10の存在を置いている」ともいえるのではないだろうか。
おそらく、この悩みの構造は時代が変わっても、あまり変わらないことのようにも思える。北山修の詞が「Q10」の中で今でも生き続けているのはそのためである。
ちなみに、「Q10」に出てくる高校生の名前はみんな古風な名前だ。謎の少女・月子、秀才・恵美子、赤髪のロッカー・民子。もしかしたら、これらの娘達の命名は、脚本家がこのドラマに忍び込ませた60年代と現代とを自然に結びつける一つの仕掛けではないかと思えてくるのであった。
まさむね
« 壱岐が生んだ「電力の鬼」松永安左エ門の謎 | トップページ | 東京で一番家紋が楽しめる街は神楽坂である »
「テレビドラマ」カテゴリの記事
- 「平清盛」 雑感(1999.11.30)
- なずなはヒールだ(2000.08.15)
- 大仁田と鶴太郎(2000.08.22)
- 鹿男あをによし 最終回で全ての謎はとけたのか(2008.03.20)
- ROOKIES 高福祉型×ネオリベの代理闘争(2008.05.10)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント