平太のメランコリーは、僕らのメランコリーでもある
最終回が目前に迫った「Q10」第8話。全てのエピソードが最終回のための準備に入った感がある。
大学受験を控えてあせる恵美子(高畑充希)に、現実を見ろといわれる、影山(賀来賢人)。
貧困ゆえに学校を辞めてパン職人として働く藤丘(柄本時生)。そこに父親(柄本明)が金の無心に来る。
生きがいだった漫画の連載が突然終わり、叫びだす中尾(細田よしひこ)。
病気の悪化で死にそうになる久保(池松壮亮)。
そして、月子(福田麻由子)の脅迫に対して、なんの抵抗も出来ずにQ10をリセットしてしまう深井平太(佐藤健)。
これだけ登場人物の男子達が全員、壁にぶつかるという学園ドラマというのも珍しいのではないか。
しかし、それがまさに、2010年という現代をあらわすのドラマなのであろう。
かつてフロイトはメランコリーについて単なる悲しみと比較し、単なる悲しみは、失った愛を別の愛で補償しようとしようとするのに対して、メランコリーは、対象を失った愛は憎しみに変わり、それが自己嫌悪に結びつくとを言った。そして、文芸評論家の三浦雅士は、そんなメランコリーをあたかも未来からの視線でしか現代を見れない症候であると定義づけた。
その意味で、そして、同時にQ10のリセットボタンを押してしまったこと=Q10という愛の対象を失ったことの後悔の念にとらわれて落ち込む平太、そして、Q10という未来からのロボットの視線でしか自分を見れない平太はまさしくメランコリックな存在である。
しかし、我に返ってみると、最近の僕はそんな平太の心情や行動が痛いほどよくわかる。
リアルな世界で僕らはいつも、何の抵抗も無く、将来的には後悔することになるであろうことをしてしまう存在である。
目先のトラブルを避けられれば、とりあえずはそれでいいというような近視眼的な行動しか動けない僕ら。
そしていつも自己嫌悪と後悔でメランコリックになる僕ら。
唐突かもしれないが、例えば、尖閣事件に対する民主党政府の態度は、そんな僕らの毎日の行動の合わせ鏡である。
だから、僕らは、過剰に憤激し、その鏡を叩き割りたいと思うのである。
影山が言われた言葉、「現実を見ろ」ということ、それは、僕らが自分自身に言うべき言葉なのである。
「平太はまさしく、今の日本人だ、民主党だ、そして僕だ。」そんなリアリティを感じるドラマはどこか恐ろしくもある。
さて、来週の最終回、平太は一発逆転を見せるのか、そして、その他の男子達も、それぞれの壁を破ることができるのだろうか。
さらにいえば、「あの素晴らしい愛をもう一度」が流れるのだろうか。
来週が楽しみである。
まさむね
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