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2011年1月24日 (月)

そのひとのこと

まさむねさんがエントリー記事で書かれたM君はぼくの知り合いでもあった。ぼくなりに故人の追悼文を書かせていただきたいと思います。彼とは大学時代と職場のある時期に一緒だったのだが、その後10数年はしだいに疎遠になりこの10年に限ればおたがいに音信が途絶えてしまい、連絡を取り合うこともなくなっていた間柄だった。



だから早すぎるその晩年において、彼がどんなことを考え、どんなベクトルを目指して生きていこうとしていたのか、今となってはまったくわからないとしか言えない。その後のかれのことを、もう知る術はない。ただお葬式でご親族や奥様のお話をうかがう限りでは以前から彼が持っていたある種超然とした形のダンディズムやクールさとどこか暗い思考に基づく独自な視点を貫いたまま最後まで生き通したようにも思えてくる。妹さんは「兄は好きなように生きたと思います」とおっしゃっていた。



案外ひとはそんなに変わらないともいえるからきっと変わらずに貫き通して完結していったのだとも思いたいし、一方やっぱりその晩年をふくめてそのひとのことはわからない、謎のままに終わったともいえるだろう。こういうとき、言葉はいつも多すぎるか少なすぎるかのどちらかでいずれもそのひとの周りを経巡るだけで終始するしかない。

だからもうこれ以上書くことはなく、何かを書くこともできず、今はかれの霊が安らかに眠られんことを静かにお祈りしたいと思うだけです。



M君、きみが好きだった宇宙のどこかの星雲のしたで永遠の眠りを憩われんことを。

地球科学科の学友として上記のことばを捧ぐ。

最後に、故人をおもい短歌を作ったので、それを以下に掲げてこの拙い文の終わりとしたい。



亡きM君へ



閉じるべき生命線も燃えゆきて夢の回廊、空に融けゆき 



晩年の片隅知らぬ朋逝きて空洞のみが残れり 今は 



ひとは皆異端の天賦信じつつ昏きひとりのともる火の果て
  



合掌。



よしむね

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