「クルマ買うなんてバカじゃないの?」と言われたら「そうだよ」と言えればいいのに
「嫌消費」の研究~経済を揺るがす「欲しがらない」若者たち~は、その題名よりも、「クルマ買うなんてバカじゃないの?」というキャッチコピーのインパクトにひかれて思わず買ってしまった本である。
この本が面白かったのは、今の20歳代後半の世代、名づけて「バブル後世代」の嫌消費現象をアンケートなどの客観的調査によって論理的に裏付けている点、そして、この世代の成長をその時の社会的事件、現象と平行して追い、そして、そこから浮かび上がる世代的特徴を割り出しているところであった。
簡単に言えば、この世代は、バブル崩壊を小中学生の頃に向かえており、それ以来の長い経済的停滞の時代がすっぽり、いわゆる青春期と重なっている。長期デフレによって、「今買わないと損!!」という経験をしていないということである。
一般的に言えば、彼らは非正規雇用等の影響によって、収入が低いために消費が低調なのだと思われているのだが、おそらく、そうではないとこの本は言う。
だから、景気が回復しても、消費は回復しないだろうという。
非正規雇用者、正規雇用者関係無く、嫌消費意識が強いというだ。実際の調査を元にした結論だけに説得力がある。
そして、彼らは「仲間から馬鹿にされないか」「他人がどう思うか」というという他者依存性が高く、一方で他者不審や被害者意識や劣等感が強い、そういった他者からの視線、自虐的な視線が自分の欲望以上に消費を決定付けているというのである。
僕は今の若い人が消費をしないことに対して、それが、個々人がそれぞれの価値観に従った結果ではないかとして評価をしていたのだが、もしも彼らが消費をしない理由が本書がいうように、他人の目を気にした結果だとしたら、その評価は全く逆になってしまう。
そして、むしろ、彼らが他者からの目を必要以上に気にしてしまうその心の抑圧を解いてあげたいとすら思う。
さらに、その抑圧の原因が、僕ら年長世代の振る舞い、あるいは存在自体にあるとしたら、何とかせねばと思う。
もちろん、僕らが20代後半だった頃の自分達が誉められた存在だったとは全く思わないが、不幸感は少なかったように思う。
悩みは沢山あったが、楽しいことも沢山あったように思う。
文芸評論の本を片手に毎月のようにプロレスを観に行って、週に一度は映画を観ていた。
ちょっと退いて自分を見ればそれは本当に、バカだったのかもしれない。
で、その名残りで、今でもTBC(東京墓石倶楽部)とか言いながら、朝の青山霊園で後藤象二郎の墓の家紋などを撮影しているのだから。
おそらく「クルマ買うなんてバカじゃないの?」と言われたら、「多分、そうだよ。」と言えればいい、ただそれだけのような気がする。
しかし、そのためには、そういう風に言える人間関係を作らなければならない。
それだけは、待っていても自然に出来上がるものではない。
まさむね
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