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2011年1月25日 (火)

みんなでタンバリンを叩くだけが幸せではない

コミュニケーション能力という言葉がある。


人と上手くやっていく力、交渉する力、空気を読む力、様々な文脈でいろいろに使われる言葉である。


例えば、大学の新卒者の就職難が言われる昨今、大事なのは学力ではなく、コミュニケーション能力であると。


また、定年退職した中高年が、地域に溶け込めないでいる、彼は会社員としてのポジションはあったが、真のコミュニケーション能力がなかったため、老後は孤立するしかないと。



しかし、僕は最近、このコミュニケーション能力という言葉がとても胡散臭く感じる。というか、それは人間の様々な能力の一つに過ぎない、逆にこのコミュニケーション能力が無いことがそんなに致命的なことなのかという思いがあるのだ。



これは僕の想像ではあるが、日本人は農耕民族である。江戸時代には八割以上の人が農民であった。彼らは、日々、自分の田畑を耕し、作業をする。


そこでは、そんなにコミュニケーション能力など必要は無かったはずなのだ。少なくとも、タフな交渉術などは不要な人がほとんどだったのではないだろうか。


他人に騙されることもなければ、他人の機嫌をとる必要もそれほどない、各人が決められたしきたりの中で、それぞれの日常をそれほど、選択肢も無い中で生きていたというが僕の想像なのである。



そんな僕らが、幕末の開国を皮切りに、富国強兵の明治、昭和初期を経て、戦後の高度経済成長、そして平成の大不況を迎えた。もちろん、その間、飛躍的な技術革新があり、僕らは他人とのわずらわしいかかわりなく生きていけるような社会を作ってきた。


それが家族解体(核家族化)であり、自由の獲得である。それは、おそらく、僕らが望んで来た道なのである。確かに、得たものがあれば、失うものもある、それが世の常である限り、僕らはその道程で、過去に大切な何かを失ってきたという感慨を抱いている。それは一つの真実だ。



しかし、その一方で、僕らはもう後戻りは出来ない。いや、したくもないというのが多くの人の本音だと思う。


たとえば、徳富蘆花の「ほととぎす」という明治期の大ベストセラーがある。Wikipediaを引用するとそれはこんな感じの小説である。



片岡中将の愛娘浪子は、実家の冷たい継母、横恋慕する千々岩、気むずかしい姑に苦しみながらも、海軍少尉川島武男男爵との幸福な結婚生活を送っていた。しかし武男が日清戦争へ出陣してしまった間に、浪子の結核を理由に離婚を強いられ、夫をしたいつつ死んでゆく。浪子の「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」は日本近代文学を代表する名セリフの一つとなった。



ようするに、家という古い制度(共同体)の中で、苦しむ個人の叫びがこの小説の主題なのである(かなり端折りすぎか?)。


おそらく、いくら共同体を憧憬するといっても、浪子のような人生がうらやましいと思うような人はもういないだろう。


それは過去の忌まわしき遺物なのである。



おそらく、こういった過去の共同体の崩壊にともなって、僕らにとって必須になってきた力、それがコミュニケーション能力なのである。そして、このコミュニケーション能力がなければ、これからのタフな時代は生き抜いていけない、そして充実した生活も送れない、みんなそのように思い込まされているのだ。



先日、「任侠ヘルパー」という草なぎ剛主演のテレビドラマを見た。そこには、まさに絵に描いたような寂しい老人が出てきた。定年退職後に社会とのつながりを失った、男、妻にも離婚され、かつての仕事仲間とも疎遠になった男、彼が過去のプライドを捨て、老人達と新しいコミュニケーションを築き、めでたし、めでたしという話であった。


たしかに、そのようにして絆の中から新しい幸せをつかむ人々もいるだろうし、それを非難する気は全く無いが、僕はそれだけが生き方ではないような気がする。


逆に生暖かい老人ホームのコミュニティから一人でて、自分を見つけるという老人を描くようなドラマがあってもいいのではないかと思うのだ。



同じようなことはいわゆる「ひきこもり諸君」にも言える。たいていの場合、彼らの「幸せ」の結末は、社会に出て、人と触れ合うことによって、孤立から脱するというものだと思うが、果たして一律それが、そんな諸君の幸せなのだろうか。


それはただ、より多くの人から税金を徴収したい公共機関の宣伝にすぎないのではないだろうか。あるいは、イヤイヤながら低賃金で仕事をさせられている多くの人々の嫉妬が生み出したイデオロギーにすぎないのではないだろうか。


おそらく、現代人は自主的な動機でしか、社会参加に意義を見出すことの出来ない動物である。このままではマズイと感じる「ひきこもり諸君」や、孤独老人には社会参加を促すようなシステムは必要なのかもしれないが、そう感じない人をほっておける社会、それこそ僕は暮らしやすい社会ではないかと思うこともあるのだ。



土曜日の朝日新聞に「弧族の国」というコーナーがあって、そこにある大学教授がこんなことを書いていた。



地域社会の再建は大切だが、住民同士の支え合いだけでは限界がある。見守りやサロン活動の網にかからない部分で、孤独死などの問題が発生している。地域包括支援センターの役割は大きいが、職員の数が少なく、出来ることは限られている。援助を拒否している人たちにも介入できる「公的ヘルパー」のような制度が必要と考える。



”援助を拒否している人たちにも介入できる「公的ヘルパー」のような制度”という押し付けに唖然とするばかりだ。


毎日、郵便物や電気メーターをチェックされて、定期的に生存確認をして欲しい人はされればいいが、コミュニケーションを拒否して、「ぽっくり死」を日々願い、自分だけの世界をそっとしておいて欲しい人にはそっとしておいてあげたい。


みんなでタンバリンを叩くだけが幸せではないと思う。



まさむね



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