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2011年3月27日 (日)

放射能汚染された土地の霊はどのようにして慰めればいいのだろうか

震災による福島第一原発の事態は一向に収束する気配が無い。僕らはただ、祈るばかりだが、それにしても落ち着かない毎日である。


そして、日に日に増していくのはマスコミから流される情報の信憑性、あるいはその楽観的とも思えるその解釈への不信感だ。


例えば、今日の「放射性物質含む水の除去続く」というNHKのニュース。


最後はこう締めくくられている。



また、経済産業省の原子力安全・保安院によりますと、2号機の原子炉が納められた建物から、発電所の雨水などを流す排水溝に水が流れた跡が見つかり、現場からは1時間当たり15ミリシーベルト程度の放射線が検出されたということで、東京電力や原子力安全・保安院が、水がどこから流れ出たか調べています。



それぞれの原子炉を格納している建物の地面には放射能を含んだ水が溜まっており、それがどこから漏れたものかも、未だわからず、それが排水溝を通して、外へ流されていた(あるいは、流され続けている)というのである。それなのに、その記事のタイトルが、「水の除去作業続く」というのは、明らかにミスリーディングではないのか。より重要なのは、「放射能を含んだ水が漏れ続けている」ということではないのだろうか。


おそらく、今こそ、僕らの情報リテラシイが試される時なのかもしれない。



さて、今回の原発事故に関して、金曜日の夜の「朝まで生テレビ」で勝間和代氏は、「津波の死者に比べて死者が出ていない」というようなことを発言されていたらしい(もし違ったらごめんなさい)。これは、ようするに、原発の周辺の土地が放射能汚染されたとしても、そこの住民は避難すれば、命は大丈夫だから、それほど大きな問題ではないと言っているということか。


しかし、実際にはまだ、多くの人が「避難区域」に残っているという。テレビ報道では、「自分はもう死ぬだけだから、この土地から動きたくない」という老婆が放送されていたが、僕には勝間氏の言うことよりも、この老婆の言うことのほうがずっと、理解できる。


僕ら都会人の多くも何代か遡れば、田舎の農民である。おそらく、明治以降、なんらなかの事情があって、田舎を離れ、都会に出てきた。その事情はそれぞれであっても、多くは故郷を残してきた人々に託して出てきたに違いないのだ。実は自分も祖母(父の母)は福島(会津)の出身であった。だから、今回の福島の土壌汚染に関しては、他人事には思えないのだ。


その土地に暮らしてきた人々、おそらく何代にもわたって、土地を切り開き、時に自然災害と闘いながら、一方で自然と共存して、土地とともに生きてきた人々。


現在、その土地にいる人々もおそらく、そうした幾多の御先祖の想いを引き受けて、それを次代につなぐためにその土地で行き続けてきたのであろう。


それが、明らかに人災ともいえる原発事故によって、その土地が「人間が生活できない土地」にされてしまうことはなんと残酷で無情なことであろうか。


それは、農業がダメなら、他の産業をすればいいではないかというような話ではないのである。それは経済合理的な物差しでは計れない人間(先祖から子孫までをも含む)の心情の問題なのだ。


象徴的な話で言えば、避難区域のお墓は誰が守ればいいのか、避難区域に眠っている死者、そして土地の霊をどうやって慰めればいいのかのという問題なのだ。



実は、この事故が起きる前まで、僕はどちらかといえば、原発容認の考えを持っていた。しかし、今回の事故によって、失うものがあまりにも大きいことを思い知った。


僕らはこれからは、源発に反対するとともに、原発を許容してきてしまった自分自身を、そして社会を変えなければならないのではないだろうか。



まさむね



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