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2011年3月10日 (木)

「リアルのゆくえ」 大塚英志の東浩紀へのいらだちとは何か。

大塚英志と東浩紀の対談本「リアルのゆくえ おたく/オタクはどう生きるか」を読了した。この本は2008年に出版されている。ということはもう、3年も前の出版物だ。

最近は時間の流れが異常に早い。3年前の本など古典とは言わないまでも古書である。

しかし、おそらく、僕が今年も関わるであろう「オタクの夏」を前に自分なりに、オタクに対する見方を固めておきたくて、タイトルにつられてこの本を手にとったのである。



ところが、この本はオタクを理解するための書というよりも世代を理解するための書、いや世代闘争の書であった。あとがきで、東氏も書いているが、この本の主題は、「大塚英志の東浩紀にたいする苛立ちの原因はどこにあるのか」ということになってしまっていたのである。

だから、対談というのは、一方では期待はずれであるが、他方、ものすごくエキサイティングなのだ。



それでは、大塚氏による東氏への苛立ちの場面を拾ってみよう。以下はあくまで僕の思いつきで選ばせてもらったところだ。しかも、話の流れの都合上、言葉尻を若干いじったり、かなり間をはしょったりさせてもらった。(興味のある方はこの本を買われるほうがいいかと思います。)



東:柄谷行人さんも、大塚さんも、宮台真司さんも、いまほとんどの知識人が異口同音に言っていることは、基本的には近代人としての教育を再強化すべきだということです。


大塚:君の言うとおり、ぼくはいちばん嫌っていた「啓蒙」という言葉を使いかけているし、「近代的な個人」の暫定的な維持という努力しか選択肢はないと、考えている。


東:(2000年代から、赤木智弘さんの「丸山真男をひっぱたきたい」という論文に象徴されるような嫉妬の感情が、特にネットで吹き荒れることに対して)、「お前をそういう悲惨な状態にしている奴がいるでしょう。搾取している奴がいるでしょう。そういう奴に対してこそ想像力をもたないとダメだ」ということは僕もまったくその通りだと思います。ただ、赤木さんの登場が意味しているのは、現にその想像力が共有されなくなったということです。


大塚:赤木君が体現しているルサンチマンや在り方は、もっとも統治しやすい大衆の典型だよね。だから左右問わずしてそれこそ「階級」を維持したい人たちには使い勝手がいい。


東:いまの日本という国が、大量の若い正規雇用を現実に受け入れられないという現実がある以上、ぼくたちは、正規雇用じゃないとダメだとか、正社員じゃないと人生が不安定できついという発想そのものを変えなきゃいけないんです。


大塚:でもそれだと、さっきのルサンチマンの問題と同様に、経営する側の論理とすごく整合性が出てきてしまう。


ようするに延々とこういった議論が続き、東氏は東氏で現実論を語り、大塚氏はその認識や処方箋に対して苛立つという展開が、この対談の流れなのである。



おそらく、これは物を書き始めたその時代の違いによるものだと僕は思う。それは簡単に言えば、ネットの存在を前提としているかいないかという世代間の違いということだ。

簡単に言ってしまえば、大塚氏は、論壇という狭い世界で通用する論理的整合性を重視し、一般の読者とは別格として存在することに意義を見出す批評家であり、東氏はネットの存在によって、批評家が、一段高いところに存在するということが、欺瞞であることが露呈してしまった後の存在であるということである。

例えば、昨年、NHKで放送された日本人と韓国人との討論番組において、リベラルを代表する崔洋一監督は、「日本は朝鮮を併合したのは当時の価値観で仕方がなかった」というような発言をしてした青年に対して「あなたは歴史を語る資格が無い」と発言し、その崔監督の発言に2chは炎上した。

僕には、大塚氏の東氏に対する苛立ちは、上記の例における崔監督のその青年に対する怒りとパラレルなように感じられるのだ。



極論するならば、戦後の言論や思想というものは、自分が認める意見以外を持つ人々を無視することによって成り立ってきたのだ。さらに言えば、一段高いところから、無知な大衆を啓蒙することを使命とするという建前を共有しながらも、実は大衆には伝わらない言葉で仲間同士で談合していたということなのだ。

それゆえに、そんな言論人たちのポジションの欺瞞をあばかれそうになるとムキになる、それが大塚氏の東氏に対する苛立ちの原因だと僕は思う。

大塚氏:東浩紀のポジションはどこにあるの?国家なんて、ある特定の人間が洗練されたシステムの中で運営していけばいい、残りの人間は考える必要もないと言ったときに、東浩紀は考えない側にいるの?それとも運営する側にいるの?それともそれを傍観する立場にいるの?


東氏:傍観する立場です。官僚でも政治家でもないですから。


大塚氏:うーん・・・それでも、批評家っていう仕事は成り立つの?


東氏:成り立たないかもしれませんね。


大塚氏:じゃあ、なんで批評家やってるの?


これを読んで多くの一般の読者は、大塚氏に「じゃあ、あなたは批評家として何かを変える事は出来たの?」と、聞きたくなるであろう。

残酷かもしれないが、批評家が普通の人に対してに出来ることは何も無い。

普通の人に近代人になれと啓蒙することは無駄である。

ただ、普通の人の中の一部の物好きが、批評家の書く本をエンターテイメントとして読んで、批評家の生活を支えているだけなのだ。



個人の趣味的には大塚氏の「物語消費論」は大好きな書物だ。彼のビックリマンチョコレートに関する考察=「偽史」に対する感性に僕は多くの影響を受けたと言ってもいい。

しかし、現時点での社会や自分自身に対する認識では東氏に軍配を上げざるを得ないし、信頼が置ける。



そして、僕らの課題は、どうやったら近代人などにならずに、自立して幸せになれるのかということ、つまり、どうやったら普通に生きられるのかということである。



まさむね

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