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2011年6月10日 (金)

「タイムスクープハンター」こそ日本が輸出すべき映像コンテンツではないか

昨日、22:00からNHKで「タイムスクープハンター」を見た。前々回の「髪結い ちょんまげ騒動記」以来、2度目の視聴である。



この番組は、時空を超えて過去に生きた名もなき人々を記録していくことを使命とするタイムスクープ社が目撃した、様々な人間ドラマをドキュメンタリ風に描いたSF時代劇である。

とにかく、面白い。

リアルな画面だけではなく、二転三転するシナリオも出色。また、このドラマには有名な俳優が出ていないところが逆にいい。

時として、有名な俳優は、その「格」ゆえに、登場自体に余計な意味を持ってしまうことがある。そしてそれが純粋なドラマの醍醐味を殺いでしまうこともあるのだ。

さらに言えば、おそらく、「タイムスクープハンター」の地味な配役は、現代のテレビドラマの(数字持ち)俳優至上主義へのささやかな批判となってもいる。そんな姿勢も素晴らしいではないか。

播磨屋さんはこの番組を称して「NHKの底力」と表現されていたがまさにその通りである。



さて、昨日放送された「修羅場決戦の妻たち」も大変、興味深い内容であった。以前より、僕自身、「ストーカーの日本史―神話時代から江戸時代まで (ベスト新書)」などを読んで「後妻討ち(うわなりうち)」に関しては関心を持っていたが、それが具体的に映像化されていて、思わず、手に汗を握って番組に惹きこまれてしまった。

そして、さらに具体的に言えば、この時代(江戸時代初期)の武家女性は胡坐(あぐら)をかいて座るとか、成人女性はお歯黒をしているとか、人々は、はしかを死にいたる病と認識していたなどという細かいところのリアリティがドラマをさらに迫真なものにしているのである。



さて、このドラマでも解説されていたが、「後妻討ち」が面白いのは、その集団暴力行為はけっして感情に任せた暴行ではないということ、それはある種のルールと儀式に基づいて行われるということである。そのルールとは...



1)先妻側は事前に後妻方に、押し入る日時、人数、武器を伝えておくこと

2)お互い刃物は使用しないこと

3)お互い、女性だけが戦闘に加わること

4)ある程度、先妻側の攻撃を自由にさせてから後妻側が反撃すること

5)双方とも遺恨はその日を持って終わらせること



ということだ。

そして、そのため、攻める方(先妻側)だけではなく、受ける方(後妻側)もそれなりの準備をしてその日を迎えるというわけである。



野暮になるので、ドラマの詳細はここでは述べないが、先妻側の人集め、後妻が仕掛けた罠、そして思わぬ逆展開...

う~ん。思わずうなってしまう。



ここで、僕はそんな「後妻討ち」に対して、もう少し考えてみたいと思う。

一般に結婚の日は人生のハレ舞台といわれるが、この後妻討ちは、離婚の儀式化、ハレ化ということも言えるのかもしれない。

日本では古来、いかに怨霊を発生させないか、あるいは、いかに発生した怨霊を御霊化するということに文化的、宗教的リソースが割かれてきた。井沢元彦氏によると和歌、神社、物語文学、能などあらゆる日本文化にはそうした機能があるという。

僕はこの日本文化を生み出してきた独特の(怨霊発生を未然防止するという)問題意識の解決法の一つとして、この「後妻討ち」が連綿と受け継がれてきたのではないかと考えるのである。

ちなみに、歴史上の有名人で言えば、北条政子亀の前に対する仕打ち、日野富子今参局に対する島流しなどが、広い範囲での「後妻討ち」とされることもあるという。

また、今年の大河ドラマ「江」における北政所淀殿との争いも壮大な「後妻討ち」として視るというのもありかもしれないと思ったりもする。



さて、この「タイムスクープハンター」を見ていてフッと思ったのは、現在、TBSで放送しているもう一つのタイムワープ物「JIN」のことである。勿論、「JIN」は最近のドラマの中では良質ではあるが、今回の第二シリーズでは、第一シリーズ以上に「タイムパラドクス」が酷くなってきているように思われるのだ。もともと、荒唐無稽なのだから、そのあたりおおらかに視たいところではあるのだが、ストーリー自身がそのパラドクス自身をテーマにし始めており、それがなんとも最近、窮屈な感じを出してしまっているのだ。

おそらく、多くの視聴者は幕末という様々な点で制限の多い時代に、一生懸命に人を助けようと頑張る南方先生の姿を見たいのであって、SF的謎を解き明かすという点は、どちらかといえば、それほど重きを置いていないのではないかと思われるのだが、いかがだろうか。

その点、「タイムスクープハンター」では、タイムワープという難しい部分には、あまり深く触れようとしないのが慎み深くていいと僕は思うのである。

そして、最近の他のテレビドラマには見られない知的な展開と、時代劇の常識を覆すようなリアリティは今後の日本の時代劇に多大な影響を与える可能性すら持っていると言えるだろう。



そして、最後に言わせてもらえれば、僕はこの「タイムスクープハンター」こそ、海外に輸出されるべきだと思っている。一方で「JIN」が海外80ヶ国で放映されるというニュースは、それはそれで喜ばしいことではあるが、それなりの特定の歴史知識を持っている人こそ、より楽しめる「JIN」よりも、「タイムスクープハンター」の斬新さとシナリオの秀逸さにこそ、全世界100カ国にアピールできる輸出品としてのクォリティの高さがあるのではないかと思うのであるが、いかがであろうか。



まさむね

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