有元利夫さんの画はこの世のものとは思われないこの世の絵である
昨年のちょうど今頃、画家の有元利夫さんの展覧会「天空の音楽」が目黒の庭園美術館で開催されて絵を見に行ったことがあった。ぼくは有元さんの絵が以前から大好きで、ご存知の方も多いと思われますが、独特のフレスコ画のような風合いと極端にデフォルメされた女性たちの姿態に特徴がある。いずれも太った女性が多く、顔が極端に小さい。どこか天上的で、祈りに満ちていて、祝祭的かつ音楽的な画風で、何度見ても新鮮で飽きない。




左より「ある経験」「花火の日」「花降る日」「厳格なカノン」
あれからほぼ一年。一年後にこんな大震災が起きて、原発の事故が起きるなんて夢にも想像していなかったが。よく言われることだが、好むと好まざるとにかかわらず、たぶんいろんな作品が持つインパクトがおそらくこの3・11以前と以後で鑑賞の意味や評価が大きく分断されて変わってゆくだろうと思う。
震災以前に評価されていたものがあまり評価されなくなったり、逆に震災後により評価が高まる作品が出てくる可能性もあろう。そのように評価が高まる作品はもともと震災前から今日のカタストロフィ的なものを内在化していたり、どこか予見的で、先駆的だったりしていたとも言えるのだろう。
そういう意味でいえば、ぼくにとってはまさに有元さんの絵は震災以後なおいっそう輝きを増すような作品のひとつだ。いつになったら自分の家に帰ることができるか分からない避難地域の方々がまだまだ多い状況が続いていますが、そのような状況下でなおさらその静かな祈りにみちた作風が妙にリアルでなつかしいと思えます。
なかでも同展覧会でみた「花火の日」「七夕の夜」と「出現」に描かれていた慈愛にみちた聖母のような女性像にはその軽さと厳かさのすべてにおいて完璧無比で形容すべき言葉が見当たらない。ただ素晴らしい!としか言うことができない。
これらの絵の聖母の祈りのようなものがぜひ被災地の方々にも届くように。いつか当たり前に目にする機会が出現する日が早く来ることを! もうすぐ七夕だ、そして好むと好まざるとにかかわらずまた夏がやって来る。




左より「七夕の夜」「出現」「春の少女」「遊戯の部屋」
よしむね
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