タイガー&バニーの企業タイアップをどう楽しめばいいのか
先日書いた「「あの花」に観られるプロダクトプレイスメントの自然化の流れ」というエントリーへのコメントで、よぽんさんから紹介いただいた「タイガー&バニー」の現時点での放映分を一気に観た。
公式サイトをみていただくとよくわかるのだが、アニメ自体が協賛企業とのタイアップを強く打ち出している。とても、斬新な試みだ。
協賛されている企業は、SoftBank、サントリー(ペプシ)、BANDAI(ANIMEドットアニメ)、牛角、DMM.com、カルビー、USTREAM、富士通(FMV)などで、登場人物(ヒーロー)の衣装(ヒーロースーツ)にはそれぞれの会社のロゴマークがデザインされている。





ストーリーは、近未来都市を舞台に繰り広げられる勧善懲悪のヒーローモノであり、全体のテイストはアメコミ風である。勿論、一番の売りはサンライズ得意のメカニックアクションであるが、ストーリーの中には、そこかしこに人間ドラマも織り込まれていて、全く飽きずに1話から14話を楽しむことが出来た。
僕は今年に入ってアニメ修行をしているのだが、こういうアニメは決して「下らない」などと思って見てはいけない。
そんな僕の敵は「偏見」なのである。
おそらく楽しむコツはその世界に入り込むことだ。すると僕のようなオジサンにもワクワク出来る要素はたくさんある、言うまでもなく僕だってかつては子供だったのだから。
正直なところ、僕がこういったアクションアニメをリアルタイムで楽しんだのは、小学生の頃だから約40年も前の話。実は、エヴァも、マクロスも、ガンダムも、マジンガーZも通り越して、ジャイアントロボとか、ウルトラセブンの時代になってしまうのであった。
さて、それはともかく、僕がワクワク感という子供心と同時並行に持って楽しんだのは、やはり、広告がいかに、アニメと絡んで展開されていくのかという部分であった。
繰り返しになるがこのアニメは、当初から企業のタイアップありきで進められたようだ。そのため、ヒーロースーツーには上の画像のように、それぞれの企業のロゴが恥ずかしげも無く登場する。
しかも、ストーリーの中でも、これらのヒーローは、実際に起きた事件を解決するという警察的な役割と同時に、「HERO-TV」というテレビ番組のタレントとしての側面を持つ。それゆえに、彼らが企業スポンサーのおかげで収入を得ていることが臆面もなく出されているのだ。例えば、「スポンサー様のために、テレビ映りのいい場面に登場しなきゃ」的な皮肉たっぷりな台詞がところどころ登場してくるのである。
それゆえ、それぞれのヒーローはお互い協力をしながら、しかし、オイシイ場面では、ライバルとなるという関係もであるのだ。
そして、この高度資本主義的なヒーローの計算高いありかたを、主人公のタイガーに批判させるという用意周到さで、広告タイアップの胡散臭さを若干でも薄めようとする意図も見え隠れしている。しかし、そのあたりは逆に、日本におけるタイアップ広告の垢抜けなさを物語ってしまっているのだ。

しかも、「タイガー&バニー」の舞台は、近未来の都市であり、そこには現在の日本とは一線を画している、誰が見てもその世界は、ニューヨークの延長上に存在する都市に見えるだろう。
つまり、そうした現実とはかけ離れた時代(近未来)・場所(アメリカ)設定がゆえに、広告タイアップがようやく「リアリティ」を得られる、あるいは許されるというヨミが見えるのである。(それはちょうど、WWEのプロレスが武道館ではなく、MSGだからこそ許されるという感覚に近い。)
その意味で、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」(通称:あの花)に描かれた現在の埼玉県・秩父の日常生活でのプロダクトプレイスメントとは似て非なる広告とアニメのスタンスというべきかもしれない。
おそらく、こうした思い切ったタイアップであるがゆえに、放送メディアは、毎日放送(MBS)TOKYO MX、BS11、USTREAMといった、言い方は悪いがマイナーな場所なのであろうことも想像される。つまり、失敗したときのリスクヘッジ(あるいは実験)がされているというわけである。
しかし、ヒーロースーツに描かれた企業ロゴによって、いつの間にか企業イメージアップを刷り込まれるほど、僕らは素朴ではないのも確かである。



さて、先日書いた同じエントリーのコメントにおいて、じつにさんから、そして、Twitterのメッセージで僕のアニメ師匠であるすがりさんからご紹介いただいた映画評論家・町山智浩氏が紹介する「POMワンダフル・プレゼンツ ザ・グレイテスト・ムービー・エバー・ソールド」批評では、プロダクトプレイスメントの過剰がギャグでしか成立し得ない広告とハリウッド映画の微妙な現況が解説されているが、そこには、今後、明らかに映像と広告が融合していくに違いない「明日の日本」が予告されているようにも思える。
問題は、こういった動きを批判し、毛嫌いするだけではなく(勿論、それも大事だが)、作品自身の楽しさに加えて、そういった広告と作品の関係の微妙な水準を楽しむリテラシーが求められるのだろうと思う。
そしてそのリテラシーとは、僕には、ちょうど、プロレス的感性と通底するようにも思えるのだ。
つまり、何が本当で、何が嘘か、どう観れば楽しくみれて、どう見れば野暮になってしまうか、そしてどの嘘ならば騙されてもいいけど、どこからは警戒しなければならないか...などといったことを、視聴者それぞれが自覚しながら、しかも眼の前のアクションを純粋に楽しむという複雑怪奇な感性が必要ということである。
ちなみに、上記の町山さんは、僕が別冊宝島の「プロレスにささげるバラード(1992年)」にプロレスの記事を初めて書かせていただいた時の担当編集者で、このエントリーを、今、書いているのは、その時、彼とはじめてお会いしたその部屋である。
まさむね
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