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2011年10月 2日 (日)

「墓場鬼太郎」それは置いてきてしまった昭和30年代である

水木しげる原作『墓場鬼太郎』全11話を観た。



ご存知の方も多いかと思うが、この作品は2008年にフジテレビ系列の深夜アニメ枠『ノイタミナ』枠で放送され、高視聴率を記録したシリーズである。

また、内容的に言えば、それまでの「ゲゲゲの鬼太郎」とは全く違う鬼太郎が描かれていることで知られている。



確かに、僕が子供の頃(60年代~70年代)に見た鬼太郎は、正義感に溢れた人間の味方。しかも親孝行で、メチャクチャ強いという、ようするにヒーローであった。

もっとも、ドラマ全体に流れる空気は、人間達の欲望が生み出す現代社会の矛盾、自然破壊の罪などを告発するというトーンではあったが、基本的には妖怪(悪者)を退治して、平和を取り戻すのが鬼太郎の役割だったのである。



それは、言うならば、抑圧された者、差別された者、異界の者が、一般の大衆のヒーローとなる(役に立つ)ことによって、社会に溶け込んでいく(協調していく)という話型である。おそらく、広義に解釈すれば、「鉄腕アトム」や「タイガーマスク」「巨人の星」といった当時の人気アニメも同系統の話である。鬼太郎は妖怪、アトムはロボット、タイガーマスクは孤児、星飛雄馬は貧困層という違いはあるが、彼らは一様に、苦境に生まれながらも、正しい動機を持ち、正統な道筋で生きてき、成功するのである。



しかし、この鬼太郎は、180度違うキャラクターなのだ。これには驚く。



彼は、好きな女の子にだけは優しいが、基本的には、他人には興味がないエゴイストである。そして、彼には正義感も、思いやりも無い、しかも努力もしないのである。

例えば、第六話の「水神様」では、借金取りの手先となった鬼太郎(この設定自体が「ゲゲゲの鬼太郎」では考えられない)が、物の怪が制止するのも無視して、眠っていた水神を起こし、その怒りに触れてしまう。水神は町中に様々な被害を及ぼすのであるが、鬼太郎の家にもやってくる。その時、鬼太郎の育ての親である水木(水木しげるとは別人と思われる)が渦に飲み込まれてそうになり、「鬼太郎!」と助けを求めるのであるが、鬼太郎は、「じぁ!」と言ってあっさりと見捨てて自分だけ逃げてしまうのだ。



このあっさり感は凄い。しかも、一般社会との関係で言えば、こちらの鬼太郎は、社会から疎外されながらも、それを宿命と認知して、あまり気にも止めない。(さすがに、学校に持ってきた目玉親父特性・ドブネズミ弁当は隠して食べていたが...)

逆に、そんな社会に恩恵を施そうなど少しも思わずに、それをいかに、利用して生きていくかということを、シニカルに考えているのである。

それに、
敢えて名付けるとするならば、「サバイバル鬼太郎」とでも言えようか。




しかし、このサバイバル第一主義的な鬼太郎は、鬼太郎だけの属性ではなく、他の登場人物にも共通しているのがこの話のさらに、面白いところでもある。

つまり、エゴイストなのは鬼太郎だけではない。登場人物のほとんどがそうなのである。



鬼太郎を育てた水木にしても、最初は墓場で泣く赤子の鬼太郎に哀れみを感じて、すがってくる鬼太郎を育てるのだが、その後は、まるで惰性で一緒に住まわせてやるという感じなのである。さらに、同居している水木の母親などは、ずっと鬼太郎に対して不気味に思っており、行方不明になった息子のかたきとばかりに、占い師の言うとおりに今度は鬼太郎を崖から突き落としてしまうのである。

さらに、ねずみ男が、薄情な裏切り者なのは「ゲゲゲの鬼太郎」と同じであるが、目玉の親父にしても、鬼太郎の命を何度か救うことがあっても、鬼太郎自身に対する愛情というよりも幽霊族の血を絶やさないために彼を助けるという、どちらかといえば冷たいモチベーションで動くのである。



僕は先日、「『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』とアニメの倫理」というエントリーで、昭和に対するノスタルジー批判を内包する作品として、これを評価したばかりであった。そこでは、「ALWAYS三丁目の夕日」的な「美しき昭和30年代の理想像(幻想像)」をしんちゃんの現実への欲望によって打ち破るという点を評価したわけであるが、この「墓場鬼太郎」は、昭和30年代という時代をネガティブ・リアリスティックに描くことによって、反「ALWAYS三丁目の夕日」的な作品になっているのである。

例えば、僕自身の記憶とも重ねて考えれば、昭和30年代はまだまだ、汚く、臭く、ひもじい時代であったが、ネズミ捕り機を手にする美少女や、家の前に止まるバキュームカー、肥溜めに落ちる物の怪、こっぺパン一つだけの食事等を普通に画面に登場させるこの作品は、圧倒的に「わかっている」作品である。



そして、ある調査によると「自分にとって一番大事なものは何?」というアンケートによると40年前と現代を比較して一番減ったのが「お金」そして一番、増えたのが「家族」という結果も出ている。つまり、昭和30年代の日本人の方が、現代人よりも「家族」よりも「お金」を大事に思っていたのである、実は。

その意味で、この「墓場鬼太郎」において、ねずみ男だけではなく、鬼太郎もつねに「金儲け」のことを思案し続け、最終的には「あの世保険」のセールスマンになってしまうその展開は、夢を抱いて芥川賞を狙う「ALWAYS三丁目の夕日」の茶川竜之介よりも、ずっと、”現実”を描いているのかもしれない。



さて、そういったダーティリアリズムを根本に置いたこの
「墓場鬼太郎」は、それゆえに、勧善懲悪や因果応報といった倫理性、つまり、物語の制度からも逸脱している。




早い話が、お話になっていない話ばかりなのである。しかし、別の言い方をすれば、この「墓場鬼太郎」は、そんな平凡な物語的整合性よりも、怪奇的感触を優先させた作品ということでもある。



それでは、この怪奇的感触とは何か。

それは、「もしも、偶然、物の怪に出会ってしまった時に、おそらく感じるであろう感触」であり、それは理屈を超えたゴツゴツした感触のことである。



例えば、柳田國男の「遠野物語」の河童の項のところに、子供を産んだ母親が、それが赤い河童みたいな子だったので、気持ち悪くなって村の境界へ行って捨てる話が出てくる。

しかも、捨てるだけならまだしも、帰り道に、「もしかしたら、見世物として売れば、高く売れるかもしれない」と思い直して、取りに戻るのだが、すでに赤子はいなくっていて、がっかりしたという話があった。



そして、僕はこの「遠野物語」のサバサバしたリアルな残酷さと同じものを「墓場鬼太郎」に感じ、その感触のことを怪奇的感触と呼んでみたのであった。



さて、先ほど、僕は、この「墓場鬼太郎」のことを「サバイバル鬼太郎」と呼んでみたが、実は、鬼太郎の様々な社会に対する働きかけは、なかなか上手くいかない。

つまり、成功しない。

しかし、彼は悪びれるわけでもなく、次々と、新たな儲け話に乗っていくのである。それは、まるで、「ゲゲゲの鬼太郎」におけるねずみ男のような行動パターンである。



もしかしたら、
「ゲゲゲの鬼太郎」における鬼太郎が、ねずみ男のことを毛嫌いするのは、いつしか置いてきたもう一人の自分に対する自己嫌悪なのかもしれない。つまり、ゲゲゲの鬼太郎とは、改心したねずみ男であり、それは、世間の役に立つことを選択することによって生き延びようとする差別された人々のことなのである。
「墓場鬼太郎」を見て、僕はそんなことすら想像してしまった。



そして、それは同時に、置いてきてしまった昭和30年代なのかもしれないと思った。



まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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