無料ブログはココログ

« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »

2011年11月の30件の記事

2011年11月30日 (水)

今日は、11月最後の日です。どうでもいい事を書きます。

今日は11月30日、11月最後の日です。

実は、自分の今月の目標はとりあえず、1ヶ月間、毎日、一つづつエントリーをアップすることでした。

いくら、時間があるとはいえ、そして、何を書いてもいいとはいえ、1ヶ月間、毎日書くというのはそれなりに大変なことでした。新聞記者とか、作家とか、プロで毎日、文章を書かれている人って本当に凄いと思います。



というわけで、明日からは、また、元のペースに戻って、アニメなどについても書き始めたいと思います。アニメ修行100と言いながら、48で止まってしまっていましたからね。



さて、今日は、たまたま、外で人に会う用事があり、その前にちょっと青山霊園に足を運びました。

変に思われる方も多いかもしれませんが、僕にとっては青山霊園は都会のオアシスのような場所です。あそこに行くと、なんだかホッとします。

そういえば、今日、初めて気づいたことがありました。



青山霊園は、1種イ、1種ロ、2種イ、2種ロというように、墓所が、4つのランクで分かれています。2種よりも1種の方が、そしてロよりもイの方が、いい場所にあり、しかも、立派な墓も多いようです。

それで、気づいたことというのは、実は、青山霊園には、1種イ14という地区が存在しないのですね。1種ロ14や2種ロ14は存在するのにです。これはなんとなく、不気味ではないですか。

そういえば、その昔、ゲゲゲの鬼太郎に4階の存在しないビルというのが出てきたことがありました。そこには人間は行けません。確か、妖怪・達磨が住んでいたんですよね。そこで、僕は、この1種イ14には、何か別世界への入り口があり、普段は地図にも載っていないが誰も気づかないでいる...そんなエリアではないのではないかと想像してしまいました。



以前にも書いたことがある(4番ベッドの無い病院、13階の無いビルなど)のですが、僕は4番が存在しない場所やビルがなんだかとっても気になります。

例えば、毎週土曜日に、C型肝炎治療のために、ネオファーゲンの注射をしてもらいに、病院に行くのですが、そこの治療室には4番のベッドがありません。その治療室に入るたびに、今でも、3番ベッドと5番ベッドの間の"不在の4番ベッド"を見ちゃうんですよね。



まぁ、それはともかく、今日、撮ってきた家紋はまた、おいおい「有名人の家紋」にアップしたいと思います。また、伊地知彦次郎の家紋も撮影したので、こちらも、近々、「NHKドラマ「坂の上の雲」 主要登場人物 家紋一覧」の方へアップしたいと思います。



それでは、今日は疲れたので、このあたりで、お休みなさい。



まさむね

2011年11月29日 (火)

稀勢の里昇進問題、あるいは合理主義とノスタルジーの葛藤

今日、Yahoo!トピックに「稀勢の里、32勝での昇進に異様な空気」という記事が出ていました。

普通ならお祝いムード一色だが、短時間で会見を切り上げるなどピリピリムード。29日に予定されていた使者待ち会見も急きょ中止に。後援会関係者も32勝での昇進に戸惑いを見せるなど異様な空気が漂った。


僕としてはなんだか複雑な心境ですね。個人的には、今場所の勝ち星数、相撲内容からいえば、大関は無理だと思っていたところ、琴奨菊との一番を前にして早々と大関昇進の速報が流れたのですから、「アレッ」という感じを抱きました。

それだったら、白鵬に勝ち、12勝を上げた先場所に琴奨菊と同時昇進させておけばよかったのに、と思ってしまったのです。

おそらく、そういった空気は日本中の相撲ファンの多くが共有していたことでしょう。そして、その空気こそ、冒頭の空気とどこかで通底しているものだと推察されます。



もう、この空気を払拭するには、来場所以降、稀勢の里が大活躍するしかないですね。そして、そのことを最もよく判っているのが稀勢の里だと僕は思っています。



それにしても、千秋楽の琴奨菊との一番は微妙でしたね。元々、苦手とはいえ、琴奨菊の一気の出足に後退を続ける稀勢の里。土俵際で、捨て身の突き落としを見せたのはいいのですが、明らかに先に土俵を割ってしまいました。



それに対して、正面の貴乃花審判部長が物言いをつけ、土俵上で協議、結局は、「確認の意味での協議で、軍配通り、琴奨菊の勝ち」ということになりましたが、その物言い自体が、なんとなく不透明な印象すら与えてしまったのは失敗でしたね。

敢えて、言うならば、「稀勢の里の負けをより惜しい負けに見せるための演出」に見えてしまったということです。

しかも、貴乃花審判部長の説明があまりにも淡白という印象を、普段はあまり相撲を見ない人(土日にしかチャンネルを合わせない人)に与えてしまったような気がします。

例えば、産経ニュースの「稀勢の里の大関昇進、どうも釈然としない」というコラムでは、以下のように指摘されています。

物言いの際の場内説明では、なぜ物言いがつき、どういう協議内容だったかの説明がない。


毎日、大相撲を見ている人には常識になっているのですが、実は、貴乃花審判部長の場内説明は、この一番に限らず、説明がとても淡白なのです。僕はそんなところにも貴乃花審判部長の現状を改善しようとする意欲のカケラを見るのですが、長年、大相撲を見てきた多くの人々にとっては、微妙な違和感を与えているのではないかと思います。事実、今場所も、13日目あたりだったと思うのですが、貴乃花審判部長独特の簡潔協議説明に対して、イナセな解説者として知られる北の富士さんに「ずいぶんと、簡単な説明だねぇ。」と言われていました。



僕らに染込んでいる、場内説明とは例えばこんな感じです。(あくまでも例です)



ただ今の協議について説明いたします。行司軍配は、西方××の寄りが有利と見て、××に軍配を上げましたが、向う正面審判の△△から、東方◎◎の左足が先に出ていたのではないかと物言いが付き、協議の結果、軍配通り、西方××の勝ちといたします。


ところが、こういった、日本人の誰でも(というのは大げさか?)が真似のできるような定型フォーマットの口上を、貴乃花審判部長は、こんな風に簡単に説明してしまうのです。

協議の結果、軍配通り、西方××の勝ちといたします。


思えば、大相撲というのは、日本人にとって、慣習と様式の塊のようなところがあります。例えば、中島みゆきの「蕎麦屋」という歌に、こんな一節が出てきます。

風はノレンをバタバタなかせて、ラジオは知ったかぶりの大相撲中継♪


大相撲の中継というのが、何も変らない日常のBGMとして聞こえているという、その感覚が凄くよくわかる、僕は大好きな一節です。



話がズレましたが、そういった大相撲というものが身にまとった慣習と様式に違和感を与えるような貴乃花審判部長の協議説明が、今回、最悪のタイミングで、勘繰られるように解釈されてしまったというのはちょっと残念だったですね。



また、勘繰りネタという意味では、以下の言葉はいかがでしょうか。

相撲で場所前、師匠(元横綱隆の里)が亡くなるという不遇に見舞われたにもかかわらず、ここまでよく10勝した。


これは、稀勢の里昇進に関して、貴乃花がインタビューに答えた言葉の一部です。

確かに、心情的には非常によく理解できるのですが、昇進理由に人情物語を介入させることは、受け取り方によっては、その昇進審査の客観性が疑われかねない、「危うい言葉」ではないでしょうか...誠に残念なことに。



おそらく、こういった「勘繰り」や先に述べた「異様な空気」というものは、大相撲を今まで、曖昧なまま、成り立たせてきた日本的村社会の常識自体が、微妙に揺るぎだし、それに連れて、今までは問題にもならなかったようなことが、段々、問題視されてきているという事象の一つなのかもしれません。

社会の様々な動きに呼応して、大相撲も、現代的に変貌していくべきなのか、それとも、伝統(慣習)は伝統として、守り続けていくべきなのか。それは、合理主義とノスタルジーの葛藤ということなのでしょうが、答えは簡単ではないように思えますね。



まさむね



2011年九州場所関連エントリー



2011.11.25:21回目の優勝を飾った白鵬について改めて考えてみた

2011.11.22:期待の大相撲・阪神四天王(豪栄道、栃の若、妙義龍、勢)

2011.11.21:大相撲で頑張る白人達の話

2011.11.20:九州場所の注目の二人・琴奨菊と稀勢の里について

2011年11月28日 (月)

NHKドラマ「坂の上の雲」 主要登場人物 家紋一覧

「江」が終了し、12月より、「坂の上の雲」の第三部が始まります。それを記念して、ドラマ主要登場人物の家紋を一覧表にしてみました。

主人公関連人物(秋山家と正岡家)








秋山真之(あきやまさねゆき)伊予国松山
1868年4月12日 - 1918年2月4日海軍軍人
物語の主人公。日露開戦に際し連合艦隊参謀に就任。
丸に抱き茗荷本木雅弘
秋山好古(あきやまよしふる)伊予国松山
1859年2月9日- 1930年11月4日陸軍軍人
真之の兄。日本騎兵の育成に尽力する。
丸に抱き茗荷阿部寛
正岡子規(まさおかしき)伊予国松山
1867年10月14日 - 1902年9月19日俳人
真之の幼馴染。日本の近代文学に多大な影響を及ぼす。
丸に三つ鱗(違い鷹の羽)
※剣片喰、五三桐、三つ引両という説あり。
香川照之
海軍関連人物








































広瀬武夫(ひろせたけお)豊後国竹田
1868年7月16日 - 1904年3月27日海軍軍人
日露戦争の第二次閉塞作戦の際に戦死する。
丸に並び鷹の羽藤本隆宏
八代六郎(やしろろくろう)尾張国丹羽郡楽田村
1860年1月25日 - 1930年6月30日海軍軍人
真之に稲生季子を紹介し、結婚の際には仲人を務めた。
折敷に三の字片岡鶴太郎
日高壮之丞(ひだかそうのじょう)薩摩国
1848年4月26日 - 1932年7月24日海軍軍人
日露戦争直前に常備艦隊司令長官を罷免される。
割り杏葉菊に違い鷹の羽中尾彬
東郷平八郎(とうごうへいはちろう)薩摩国鹿児島城下
1848年1月27日 - 1934年5月30日海軍軍人
日露開戦の時、連合艦隊司令長官に任命される。
丸に蔦渡哲也
山本権兵衛(やまもとごんべえ)薩摩国鹿児島郡
1852年11月26日 - 1933年12月8日政治家
日露戦争時は海軍大臣。「日本海軍の父」と呼ばれた。
抱き鬼梶の葉石坂浩二
加藤友三郎(かとうともざぶろう)安芸国広島
1861年4月1日 - 1923年8月24日軍人、政治家
日露戦争開戦時の第2艦隊参謀長。後に首相(第21代)。
蛇の目草刈正雄
島村速雄(しまむらはやお)土佐国
1858年10月26日 - 1923年1月8日海軍軍人
日露戦争開戦時の連合艦隊兼第一艦隊参謀長。
丸に変り三つ蔓蔦舘ひろし
有馬良橘(ありまりょうきつ)紀伊国和歌山
1861年12月16日 - 1944年5月1日海軍軍人
日露戦争開戦時の連合艦隊兼第一艦隊参謀。
丸に二引両加藤雅也
岩村団次郎(いわむらだんじろう)土佐国幡多郡宿毛
1866年10月5日 - 1943年11月9日海軍軍人
陸軍第三軍への連絡将校。
抱き柏山口馬木也
佐藤鉄太郎(さとうてつたろう)土佐国幡多郡宿毛
1866年8月22日 - 1942年3月4日海軍軍人
第二艦隊参謀。
源氏車杉山文雄
山路一善(やまじかずよし)愛媛県松山市
1869年4月24日 - 1963年3月13日海軍軍人
第三戦隊参謀。
丸に大割蔦内倉憲二
財部彪(たからべたけし)日向国都城
1867年5月10日 - 1949年1月13日海軍軍人
広瀬と兵学校の同期。日清戦争後、英国への留学生に選ばれる。
丸に打板飯田基祐
伊地知彦次郎(いちじひこじろう)薩摩国
1860年1月6日 - 1912年1月4日海軍軍人
日露戦争時には、連合艦隊旗艦「三笠」の艦長として従軍。
丸に隅立て組み井桁ダンカン
山下源太郎(やましたげんたろう)出羽国置賜郡
1863年8月26日 - 1931年2月18日海軍軍人
日露戦争開戦時、佐世保に在泊する連合艦隊に命令書を手渡す。
五瓜に唐花鷲生功
伊東祐亨(いとうすけゆき)薩摩国鹿児島城下
1843年6月9日 - 1914年1月16日海軍軍人
日露戦争時の海軍軍令部総長。
庵木瓜山野史人
鈴木貫太郎(すずきかんたろう)和泉国大鳥郡
1868年1月18日 - 1948年4月17日軍人、政治家
大戦果を挙げ、日本海海戦の大勝利に大きく貢献。後に首相(第42代)。
上がり藤赤井英和
安保清種(あぼきよかず)佐賀県
1870年11月8日 - 1948年6月8日海軍軍人
日露戦争時、戦艦「三笠」の砲術長を務める
丸に実付き三つ柏土平ドンペイ
陸軍関連人物




























児玉源太郎(こだまげんたろう)周防国都濃郡
1852年4月14日 - 1906年7月23日武士、陸軍軍人
好古在学時に陸軍大学校の教官を務める。
唐団扇笹高橋英樹
山県有朋(やまがたありとも)長門国阿武郡川島村
1838年6月14日- 1922年2月1日政治家、軍人
元老。枢密院議長。陸奥・川上の根回しで日清開戦を支持する。
丸に三つ鱗江守徹
大山巌(おおやまいわお)薩摩国鹿児島城下
1842年11月12日 - 1916年12月10日政治家、軍人
日清戦争では第2軍司令として好古らを率いて旅順を攻略。
丸に隅立四つ目結米倉斉加年
乃木希典(のぎまれすけ)武蔵国江戸
1849年12月25日 - 1912年9月13日軍人
日露戦争では第3軍司令官として旅順総攻撃を指揮する。
四つ持ち合い井筒(市松四つ目結い)柄本明
明石元二郎(あかしもとじろう)筑前国福岡
1864年9月1日 - 1919年10月26日陸軍軍人
ロシア国内の革命勢力を支援しロシアを内部から揺さぶろうと画策。
丸に撫子塚本晋也
川上操六(かわかみそうろく)薩摩国
1848年12月6日 - 1899年5月11日陸軍軍人、華族
日清戦争時の陸軍参謀次長。日清戦争開戦を主導。
丸に桔梗國村隼
伊地知幸介(いちじこうすけ)薩摩国
1854年2月3日 - 1917年1月23日陸軍軍人
日清戦争時は第2軍参謀副長。日露戦争では旅順攻略を実施。
三ツ盛り山村田雄浩
森林太郎(もりりんたろう)石見国津和野
1862年2月17日 - 1922年7月9日小説家、軍医
第2軍軍医部長。従軍記者として清国を訪れた子規と出会う。
乱れ追い重ね九枚柏榎木孝明
有坂成章(ありさかなりあきら)周防国岩国
1852年4月5日 - 1915年1月12日陸軍軍人
参謀本部技術審査部長。三十年式歩兵銃の開発に成功。
五瓜に唐花矢島健一
長岡外史(ながおかがいし)周防国都濃郡末武村
1858年6月23日 - 1933年4月21日陸軍軍人
軍大学校で好古の同期。日露戦争時は参謀本部次長。
丸に一文字に剣山の字的場浩司
奥保鞏(おくやすかた)豊前国小倉
1847年1月5日 - 1930年7月19日陸軍軍人
日露戦争開戦に伴い第2軍司令官として出征。
中陰五瓜に唐花伊吹剛
落合豊三郎(おちあいとよさぶろう)武蔵国江戸
1861年4月7日 - 1934年3月31日陸軍軍人
第二軍参謀長。
丸に三つ柏伊藤祥三郎
野津道貫(のづみちつら)薩摩国鹿児島城下高麗町
1841年12月17日 - 1908年10月18日軍人、政治家
第4軍司令官に就任し、日露戦争に参戦。
六つ追い丁子宗近晴見
政府関連人物




















伊藤博文(いとうひろぶみ)周防国熊毛郡束荷村
1841年10月16日 - 1909年10月26日政治家
日清戦争時の首相。日露戦争では外交交渉に奔走。
上がり藤加藤剛
高橋是清(たかはしこれきよ)江戸芝中門前町
1854年9月19日 - 1936年2月26日政治家
日露戦争時、日銀副総裁として戦費の調達に奔走する。
三つ追い沢瀉西田敏行
小村寿太郎(こむらじゅたろう)日向国飫肥
1855年10月26日 - 1911年11月26日外務大臣
外務大臣として日英同盟の締結。一方、露国との交渉も行う。
丸に揚羽蝶竹中直人
陸奥宗光(むつむねみつ)紀伊国
1844年8月20日 - 1897年8月24日政治家、外交官
外務大臣。川上参謀次長と組んで日清開戦を主導する。
仙台牡丹大杉漣
井上馨(いのうえかおる)周防国 湯田村
1836年1月16日 - 1915年9月1日政治家、実業家
日清戦争が起こった第二次伊藤内閣では内務大臣を務める。
桜菱(割剣酢漿草菱)大和田伸也
桂太郎(かつらたろう)長門国阿武郡萩町
1848年1月4日 - 1913年10月10日陸軍軍人、政治家
日英同盟成立を推進。日露戦争開戦時の首相。
花菱綾田俊樹
金子堅太郎(かねこけんたろう)筑前国早良郡鳥飼村
1853年3月13日 - 1942年5月16日官僚・政治家
憲法の起草にも携わり、「伊藤博文の懐刀」とも呼ばれる。
高崎扇緒形幹太
松方正義(まつかたまさよし)薩摩国
1835年3月23日 - 1924年7月2日政治家
日露戦争に関しては積極的に開戦を主張。
抱き菊の葉に抱き茗荷大林丈史
伊集院彦吉(いじゅういんひこきち)薩摩藩
1864年7月22日 - 1924年4月26日外務大臣
明治、大正時代の外交官。後に外務大臣。
丸に三方剣花菱亀山忍
皇室




明治天皇(めいじてんのう)京都・中山忠能邸
1867年1月30日 - 1912年7月30日第122代天皇
外交交渉の決裂を受け日露戦争開戦の聖断を下す。
十六八重表菊(画像は靖国神社)尾上菊之助
市井の人々関連人物




















陸羯南(くがかつなん)陸奥国弘前
1857年11月30日 - 1907年9月2日ジャーナリスト
新聞「日本」の社長。大学在学中から子規の面倒を見ていた。
幸い菱に花菱佐野史郎
古島一念(一雄)(こじまいちねん)但馬国豊岡
1865年9月20日 - 1952年5月26日ジャーナリスト
雑誌「日本人」の記者。玄洋社の頭山満と結んで孫文を援助。
鶴の丸建蔵
福本日南(ふくもとにちなん)筑前国福岡
1857年6月14日 - 1921年9月2日ジャーナリスト
陸羯南らと共に新聞『日本』を創刊。編集者として活躍。
五三桐小林利也
高浜虚子(たかはまきょし)愛媛県松山市長町
1874年2月22日 - 1959年4月8日俳人、小説家
少年期は真之を慕い、後に子規を追って東京へ出る。
九曜森脇史登
河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)愛媛県温泉郡
1873年2月26日 - 1937年2月1日俳人・随筆家
少年期は真之を慕う。虚子と子規門下の双璧をなす。
丸に三つ鱗大藏教義
内藤鳴雪(ないとうめいせつ)伊予国松山
1847年4月15日 - 1926年2月20日俳人
正岡子規を俳句の師としホトトギスの俳句選者になる。
真向い月に杵加世幸市
伊藤左千夫(いとうさちお)上総国武射郡殿台村
1864年9月18日 - 1913年7月30日歌人、小説家
正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめる。
丸に抱き茗荷岸本光正
夏目金之助(なつめきんのすけ)江戸牛込馬場下
1867年2月9日 - 1916年12月9日小説家
東京大学予備門時代の真之・子規の同級生。のちの文豪。
菊菱小澤征悦
山田武太郎(美妙)(やまだたけたろう)武蔵国江戸神田
1868年8月25日 - 1910年10月24日小説家・評論家
東京大学予備門の学生。言文一致体および新体詩運動の先駆者。
三つ割亀甲中野雄一


※同じ家の人物は、基本的に一人だけ。ただし、秋山真之と秋山好古は主役なので、二人掲載しました。

※表示順番は、Wikipediaの人物順に従う。

※略歴、生年月日などは、Wikipedia、「坂の上の雲公式」ページを参照。

※家紋が判明している人物のみ掲載。判明次第、順次追加していきたいと思います。

※正岡子規の家紋に関しては、日本家紋研究会の高澤等先生より、ご教授いただきました。

===========オマケ=============

俳優の家紋一覧

文学者の家紋一覧

政治家の家紋一覧

実業家の家紋一覧

芸術家の家紋一覧

軍人、格闘家の家紋一覧

学者、思想家の家紋一覧

コメディアン、歌手の家紋一覧



有名人の家紋(とりあえず、代表300名)



あ行

相田みつを青島幸男赤塚不二夫明智光秀浅利慶太麻生太郎渥美清安倍晋三天知茂新井白石有吉佐和子安藤広重アントニオ猪木飯星景子いかりや長介池内淳子池田大作石川啄木石田純一石田三成石立鉄男石ノ森章太郎石原莞爾石原裕次郎和泉元彌出雲阿国板垣退助伊藤博文犬養毅伊能忠敬井上靖井原西鶴井深大井伏鱒二岩崎弥太郎宇多田ヒカル内柴正人内村鑑三宇津井健梅宮辰夫江角マキコ江戸川乱歩榎本武揚遠藤実大石内蔵助大川橋蔵大久保利通大沢たかお大塩平八郎大谷吉継大仁田厚大原麗子大山倍達緒方洪庵岡本太郎沖田総司尾崎行雄大佛次郎小沢一郎織田信長落合博満オノ・ヨーコ小渕恵三小和田雅子 ...

か行

海音寺潮五郎梶井基次郎梶原一騎片倉景綱勝海舟勝新太郎桂三枝加藤清正角川春樹狩野英孝嘉納治五郎狩野探幽狩野芳崖加山雄三川嶋紀子川島なお美川端康成菅直人菊池寛北一輝北大路魯山人北里柴三郎北島康介北島三郎北野武北原白秋木戸孝允木下惠介木原光知子木村拓哉曲亭馬琴草野仁国木田独歩久米宏黒川紀章黒澤明黒柳徹子久和ひとみ小泉純一郎小泉八雲幸田露伴河野太郎児玉清琴欧洲琴奨菊小堺一機後藤象二郎小林多喜二今東光近藤勇近藤重蔵 ...

さ行

西園寺公望雑賀孫一西郷隆盛斉藤道三斉藤茂吉堺正章坂本九坂本龍馬佐久間象山笹川良一佐々木小次郎さだまさし佐藤栄作里見浩太朗志賀直哉獅子文六柴田勝家渋川春海渋沢栄一島左近島崎藤村清水次郎長志村けんのバカ殿様ジャンボ鶴田ジョージ川口湘南乃風正力松太郎SHOCK EYEジョン万次郎白洲次郎陣内智則新門辰五郎杉田玄白関孝和関根勉世耕弘成芹沢鴨千利休 ...

た行

大鵬幸喜高岡蒼甫高島忠夫高城剛高杉晋作高田万由子貴乃花高橋是清高村光太郎高山右近滝田栄武田信玄武田泰淳武市瑞山竹中半兵衛竹中労竹久夢二太宰治伊達政宗立原道造田中角栄田中正造谷垣禎一谷川俊太郎谷崎潤一郎タモリ田山花袋丹波哲郎近松門左衛門千葉周作長曾我部元親千代の富士津川雅彦蔦屋重三郎鶴見俊輔手塚治虫寺田寅彦寺山修司東郷青児東郷平八郎東条英機東野英治郎徳川慶喜徳富蘆花豊田佐吉豊臣秀吉 ...

な行

直江兼続中岡慎太郎永井荷風中井貴一中上健次中川翔子中沢新一中島敦中曽根康弘中田敦彦(オリラジ)中原中也中原誠中村勘三郎中村獅童中山晋平夏目雅子夏目漱石名和長年新島襄西島千博西田幾太郎新渡戸稲造二宮尊徳乃木希典野口雨情野口英世野沢尚 ...

は行

白鵬橋本真也橋本龍太郎馳浩長谷川平蔵鳩山由紀夫羽生善冶浜口雄幸林芙美子林家三平原敬張本勲把瑠都日馬富士ピーコ東山魁夷樋口一葉土方歳三一青窈平尾昌晃平賀源内平田篤胤平田オリザ平塚雷鳥福沢諭吉福田康夫藤子・F・不二雄藤原紀香双葉山舟木一夫フランキー堺フランク永井古田織部星新一細野晴臣本田美奈子 ...

ま行

前田利家牧野富太郎正岡子規増位山升田幸三松下幸之助松田聖子松永久秀松本幸四郎松本清張間宮林蔵円山応挙丸山真男三浦綾子三島由紀夫水木しげる三角寛美空ひばり南方熊楠三波伸介三波春夫みのもんた三船敏郎宮尾登美子宮城道雄宮沢賢治雅山宮本武蔵向田邦子武者小路実篤陸奥宗光棟方志功村田英雄村松友視毛利元就最上徳内本居宣長森鴎外森進一森喜朗森蘭丸 ...

や行

八百屋お七矢沢永吉柳宗悦柳田国男山岡鉄舟山県有朋山下清山田康雄山南敬助山内一豊山口智子山本五十六山本勘助湯川秀樹由利徹横井庄一横溝正史横山やすし横山大観与謝野晶子吉川英治吉田茂吉田松陰吉田東洋吉野作造吉永小百合淀川長治萬屋錦之介...

ら行

力道山笠智衆レオナルド熊 ...

わ行

若山牧水輪島大士和辻哲郎渡辺崋山渡辺淳一渡辺文雄 ...













まさむね

2011年11月27日 (日)

「江~姫たちの戦国~」の最終回に感じたちょっとした違和感

NHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の最終回を観終わりました。



最終的には、終わりよければ全てよしというハッピーエンドで締めくくられた感じでした。

最後、秀忠が江に向って「そなたは私の希望だ」という言葉をかけるシーンはクライマックスの名シーンなのでしょうが、残念ながら、僕にはその意味がよくわかりませんでした。

家康が亡くなり、幕府の基礎作りが終わり、江も大奥制度構築に着手。全ての憂いは無くなり、家光に家督を譲った後の台詞としては、ちょっと座りが悪い感は否めませんでしたね。

ただ、ドラマとして、未来に向けてのなんらかのメッセージを発したかったのでしょう。そういった製作者側の意図はなんとなくわかりました。



一言で言ってしまえば、今回の大河ドラマの基本コンセプトは歴史を舞台にした「ホームドラマ」でしたね。

夫と妻、父と娘、母と息子といったどこの家にでもあるような家族内の葛藤を徳川家を舞台にして演じたらこうなるという脚本・演出だったように思います。

国松(次男)が江(母親)と秀忠(父親)にかわいがられているところを、竹千代(長男)が柱の陰から覗いて嫉妬するというようなシーンが何度も出てきましたが、思わず「江戸城は2LDKか?」と突っ込みを入れたくなりました。



実は、僕は、最終回に、この竹千代(家光)がどのように世継ぎを宣言され、どのように成長していくのか、そしてどのような性格として描かれるのかというところを注目してみていました。ところが、残念ながらというか、逆に言えばよかったのですが、それらのシーンは極めて普通に通り過ぎていってしまい、アレっという感じがしましたね。



以下、その「アレっ」の中身についてもう少し詳しく書いてみたいと思います。



大雑把に言えば、家をどのように相続させるのかというのは、鎌倉、室町、江戸という武家の三時代を特徴付ける一つのシステムです。

例えば、鎌倉時代は、主に男子に対しては均等に財産を分与し、家を分家させるシステムでした。日本では他国に比べて名字が多い(世界第二位)のは、この時代のそういった相続システムが一因だと思われます。しかし、これは、平等は平等なのですが、家がどんどん細分化され、弱体化するという欠点を持っていました。



そして、それでは困るということで、室町時代に採用されたのが、息子の中で一番、優秀な子が全部を相続するといういわゆる惣領制です。これは、確かに合理的ではありますが、実は誰が優秀かということで争いが起きます。室町時代が戦国時代に発展していったのは、そういった相続システムにも一因があると考えられます。「江」においても、最初、「世継ぎには、江は国松が相応しいと思う」というようなことを述べていましたが、それは彼女自身まだ、精神的に室町時代、戦国時代を引きずっていたということでしょう。



そこで、江戸時代、平等分配でも、惣領制でもない、秩序ある平和な世の中を第一優先として、採用されたのが、長子相続制というシステムでした。大げさに言えば、竹千代が、第三代将軍になるというのは、そういった価値観の大転換を天下に示すという意味があったということです。



その意味で、僕は、世継ぎシーンがどのように演出されるのかに期待して、「江」の最終回を見ていたわけです。



勿論、秀忠から竹千代に対して、そういった沙汰が下されるシーンでは、「長幼の序云々」といった口上はあったのですが、ドラマとしては、竹千代の跡取りは、前回放送回の江と竹千代との抱擁によって決定付けられたという流れになっていたように思われました。まぁ、このあたりは解釈の違いということなのでしょうが、僕には、江が竹千代の本心を理解し、謝罪するという「わだかまりの氷解」こそが、竹千代の世継ぎを江が納得した本質のように見えたということです。



しかも、僕の「アレっ」という感覚にはもう一つの原因があります。



それは、子供時代の吃音や女装趣味、わがままといった、竹千代の人生をも特徴付けるようなキャラ設定はいつの間にか無くなっており、極めて普通に成長した家光という姿がそこにあったからです。しかも、優しい正論で江を諭すようなシーンさえもあったり。



あの幼少の頃のキャラは、成長後の伏線になると思っていたのですが、それは僕の勘違いだったわけです。

というのも、竹千代が成長した家光は、異常な男色家として知られていただけではなく、海音寺潮五郎が「武将列伝」で書いているように、辻斬り(夜間にお忍びで市中に出かけて、浮浪者、無宿者などを斬殺)を趣味とするような過激マッチョな男だったらしいのですが、最終回では、そういった性格には、全く触れられていませんでしたからね。



一応、史実を確認しておくと、後日、徳川忠長は、家光によって蟄居謹慎されられたあげくに、切腹をさせられています。



ちなみに、僕は、先月、高崎の大信寺にある忠長の墓に参ってきたのですが、墓所についていた三つ葉葵には、葉脈が省略されて(左画)いましたね。また、右画は、最終回に登場した保科正之の子孫・松平勇雄(元福島県知事)の家紋の会津葵です。河骨紋にも似ていますね。



まさむね

2011年11月26日 (土)

押井守監督発言と、長嶋茂雄と「ファンタスティック・プラネット」

つい先日のことですが、Yahoo!のトピックで『「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ』という記事が話題になっていました。



これは、asahi.comの中の小原篤さんのコラム『「若者は夢を持つな」と監督が言った』の中でも紹介されていますが、押井さんが、ある講演会で、以下のように述べたことが物議を醸したというちょっとした事件でした。

僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない


実際、このような意見は、最近、僕の近くのアニメファンからも多々、聞くことがあります。

その背景としては、現代のアニメ製作者達の多くが、育ってくる過程で、アニメ、ゲーム、漫画といったいわゆる「オタクコンテンツ」のみを受容して来ているということがあると言われています。

例えば、岡田斗司夫さん等が、その著作「オタクはすでに死んでいる」なんかで主張していることとも近いのですが、かつてのアニメ製作者達は、「オタクコンテンツ」以外にも、SFや映画、文学、哲学等を幅広く勉強し、しかも、個々人がいくつかの深い得意ジャンルを持っていました。そして、それらの教養をバックボーンとして、作品を作っていました。

ところが、近年、そういった製作者側の教養の幅が、オタク周辺ジャンルに偏って、来たことによって、その同じ狭いオタク文化的知識や嗜好を共有している「仲間」には受け入れられても、なかなかその外に通用するコンテンツが生み出せない、いわゆる「先鋭化」が進んでいるというようなことですね。



勿論、アニメなどの作品は、例えば、文部省などからの補助金によって、文化事業の一環として作られるというのなら別ですが、ある面で、商品として存在せざるをえません。それは真理であり現実です。

そのため、視聴者の嗜好に添った作品になっていくというのは仕方が無いことだとも言えます。

例えば、僕も、アニメの歴史というのは、男性キャラの存在感、(あるいはマッチョ主義)がどんどん希薄になっていく歴史ではないかと考えていますが(「「けいおん!」という商品をぎりぎりのところで作品に踏みとどまらせたもの」)、それも、こうしたコンテンツ製作者及び、視聴者が共に、先鋭化していることが原因だと思われます。



ただ、僕は、一見、そうした概観を持っているアニメであっても、その中には、1ミリでも、新しい試みや、時代の息吹、そして、作品としての意地のようなものを感じ取ることが出来るのではないかと思っています。そして、むしろそうした可能性を見出すことこそ、作品を鑑賞することではないかとすら考えています。まぁ、それはそれで、結構、疲れる鑑賞法ではあるのですが...



さて、それはともかく、こういったアニメの先鋭化は、作品の質の問題もそうなのですが、同時にマーケットをも狭めているという指摘もあり、むしろ、こっちの方が大きな問題なのです。そのためには、マーケットがある程度、大きい現段階にこそ、様々な可能性を試してみることが重要になってくると思います。マーケットが縮小してしまってからでは、多分、遅いのではないでしょうか。

しかし、様々な可能性と言っても、それはなかなか難しい、人間は、知らず知らずのうちに固定観念の枠に嵌められてしまうと、その外がなかなか見えなくなってしまうからです。



話は変りますが、先日、立川談志さんが亡くなりました。僕は談志さんのファンだったので、そのタイミングでYOUTUBEにアップされている談志さんの動画をいくつか観てみました。すると、その中に、談志さんと上岡龍太郎さんと長嶋茂雄さんの三人が鼎談をしている動画がありました。

そこで、長嶋さんは、自分が現役時代にセカンドゴロを二つ捕ったことがあるというような話をして、談志さんと上岡さんはそれを聞いて大笑いしていました。

勿論、それは常識外の、むしろ、想定外のプレイなわけです。つまり、当時、一緒に内野を守っていたであろう広岡さんだったら最も嫌がるようなプレイだったということですね。

ただ、その時、僕は思いました。おそらく、長嶋さんという人は、野球が野球という制度になる以前の、なにか別のものになる可能性を感じ取れる人だったんだなぁと。長嶋さんが天才と呼ばれるのは、おそらくそうした感覚においてだと僕は確信しました。それは、決して、彼が残した記録によってではないと。

そして、その話に続けて長嶋さんは、野球選手は、野球を専門にする以前に、バスケットボールやサッカーや格闘技など、様々な別ジャンルのスポーツをすべきだと、そのためには、プロ野球にも一軍、二軍に加えて、三軍を作るべきだと...



話を強引にアニメに戻すと、今、アニメ界に必要なのは、こういった長嶋的な感覚ではないでしょうか。もしかしたら、アニメがアニメという制度になる以前のなにかを感じ取れる製作者は、それまでアニメとは全く関係の無いことをしていた人々の中にいるのかもしれません。

あるいは、そのヒントは、アニメがアニメという制度になる以前に作られたアニメを観ることかもしれません。その意味では、例えば、1973年にフランスのアニメ作家・ルネ・ラルーによって作られた「ファンタスティック・プラネット」こそ、現代のアニメ製作者が見るべきアニメだと僕は思います。



このアニメについては、別途語ってみたいと思いますが、このエントリーでは、現代の日本に生きる僕らの感覚とは完全にねじれた位置に存在する異物のようなアニメであること、つまり、アニメというジャンルが、もう一つ別の「なにものか」になりえる可能性を秘めているアニメだということだけお伝えしておきたい思います。



まさむね



※この「ファンタスティック・プラネット」は、アニオタ保守本流の古谷経衡さんに教えていただきました。

2011年11月25日 (金)

21回目の優勝を飾った白鵬について改めて考えてみた

大相撲九州場所で、白鵬が13日目にして早くも21回目の優勝を飾りました。



ほとんどの人が場所前に白鵬の優勝を予想していたと思いますが、その予想を裏切らないのブッチぎりの優勝。圧倒的な強さと言う外無いでしょう。

これで貴乃花の持つ22回優勝の記録にあと1回となりました。北の湖(24回)や、朝青龍(25回)の記録を破るのも時間の問題でしょう。さらに、千代の富士(31回)、大鵬(32回)の記録を超える日も来るかもしれません。本当に、凄い横綱です。



おそらく、大鵬の記録を破れないケースがあるとしたら、北の湖や貴乃花のように、負傷によって休場が重なり、引退を迫られるような場合だけではないでしょうか。

ただ、現在の体調を考えるとそんなケースもあまり考えられないようにも思えます。

というのも、晩年の北の湖や貴乃花はその体重によって、動きが鈍くなったという点があったように思うのですが、現在の白鵬は理想的な体躯をキープしているからです。



今にして思えば、ちょうど貴乃花の全盛期は、曙や武蔵丸といった大型突進系の力士の全盛期と重なっており、それに対抗するため、無理に体重を増やさざるを得なかったという巡りあわせがあったように思います。それを考えると、貴乃花は、時代が悪かったのではないかと僕は思っています。



さて、白鵬ですが、その強さに関して、昨年、NHKで白鵬を科学的に分析する番組がありました。

それによると、彼の反射神経は、あのオリンピック100m走優勝者のウサイン・ボルトと遜色ないという驚異的な記録をだしていました。また、白鵬は一つ一つの動きを始める瞬間、他の力士は、反動をつけるモーションをつけないと動けないのに対して、そういったモーションをほとんどつけなくても、次の動作に入れる運動神経を持っているというような実験もなされていました。

おそらく、そのあたりが、立会いの踏み込みの良さ、巻き替えの速さといった具体的な動きとなって相撲に生きているのでしょう。

本当に、彼の天才は、ミクロの身体能力によって支えられているのです。



今日の相撲もそうでした。一時は琴欧洲が得意の右四つになったのですが、一瞬攻めあぐねている隙に、もろ差しの体勢に持ち込み、次の瞬間、頭を琴欧洲の脇の下に入れて、まるで俵返しのような下手投げで、大きな大関を転がしてしまいました。こんな芸当が出来るのも、白鵬だけではないでしょうか。



これは僕のイメージなのですが、白鵬は、相手と組んだり、突き合っている時に、相手の身体のバランスの弱点を察知し、そこを一気に攻める、そんな芸当を0コンマ何秒かで自然にやってしまっているのではないでしょうか。

例えば、七日目の豊ノ島戦だったと思うのですが、あの重心の低い豊ノ島を一発の突きで、土俵の外に出してしまいました。それは、無理矢理に力で相手を突いたというのではなく、素人の僕には、自然の摂理に従って、相手の最弱点を見切り、ソコをちょっと押したという気孔のようにも見えました。



そういえば、以前、白鵬は、アナウンサー氏の「どのような相撲をとりたいか」というインタビューに答えて、「勝たないような相撲」と答えていました。アナウンサー氏は、聞き間違えた、あるいはネイティブではない白鵬が日本語を間違えたのかと勘違いしたのか、怪訝な顔をしていましたが、まさにそれは白鵬の相撲感を正しく表現している言葉だったのだと僕は思っています。

つまり、それは無理矢理、相手をねじ伏せて勝とうとするのではなく、相手がいつの間にか負けるように持って行く相撲をとりたい、という意味だったのではなかったでしょうか。



さて、そんな白鵬ですが、今後、誰が彼に対抗するような力士になっていくのでしょうか。現時点では全くわかりません。

個人的には、白鵬とは対極の体格と力で相手をつぶすような相撲をとる把瑠都に期待をしたいのですが、どうも、いい時と悪い時の差があっていけません。

今場所も、阿覧戦、鶴竜戦で豪快な吊りや、琴奨菊戦や稀勢の里戦で力にまかせた寄りを見せた一方で、昨日の日馬富士戦では、何も出来ずに土俵を割ってしまっていました。

また、現時点で白鵬が最も苦手としている稀勢の里はどうでしょうか。

今場所は、大関捕りがかかっているためでしょうか、前半の安定した取り口が、中日の琴欧洲戦あたりからガタガタに崩れてしまいました。まだまだ精神面に課題があるのでしょうか。残念ながら、今場所は11勝しても大関は難しいかもしれません。最低10勝を残して、来場所に期待したいと思います。



さらに、数年先になるかもしれませんが、現在、平幕の栃の若や妙義龍といった新興勢力に期待するしかないのかもしれません。



まぁ勝手なことを書かせていただきました。

月並みな言い方になりますが、先ほど書いたことを繰り返させていただきます。現時点では、白鵬の最大の敵は体調ということになると思います。



ようするに、それほど凄い横綱だということですね。



最後に、白鵬の家紋についての話です。

彼は優勝パレードの時に着る紋付には必ず丸に三つ鱗の家紋(左図)をつけています。

そして、この三つ鱗紋は、鎌倉幕府執権の北条家の家紋として知られています。実際は、北条家の紋は、丸は無く、若干ひしゃげた北条鱗という紋(右図)ですが、それでも白鵬と同系統の紋であることには変りありません。

僕は以前より、白鵬がこの三つ鱗紋を付けていることに謎を見ていました。

ご存知の通り、北条家というのは、元寇を追い払った武家の紋、つまりモンゴル民族にとっては宿敵の紋だからです。

そして、一般的には、外国人力士は親方の紋を付けるのが通例のようです。例えば、把瑠都は三保ヶ関親方(元大関・増位山)の丸に違い丁子紋、日馬富士は伊勢ヶ濱親方(元横綱・旭富士)の丸に抱き茗荷紋、琴欧洲は先代・佐渡ケ獄親方の琴桜の丸に蔦紋というようにです。また、ちなみに、白鵬の親方の宮城野親方(竹葉山)、宮城野部屋創設者の吉葉山はともに、丸に三つ柏紋です。

ということは、白鵬が三つ鱗紋を付けているというのはある「意図」に基づいていると考えるべきだと思ったのです。そして、私には、その「意図」が、非常に気になったというわけです。

実は、それに関して、以前、大相撲協会に問い合わせてみたのですが、全くラチがあきませんでした。また、機会を見て確認してみたいと思います。



まさむね



2011年九州場所関連エントリー



2011.11.29:稀勢の里昇進問題、あるいは合理主義とノスタルジーの葛藤

2011.11.22:期待の大相撲・阪神四天王(豪栄道、栃の若、妙義龍、勢)

2011.11.21:大相撲で頑張る白人達の話

2011.11.20:九州場所の注目の二人・琴奨菊と稀勢の里について

2011年11月24日 (木)

徳川秀忠と、まど☆マギと、民主党と

NHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」が最終回を残すのみとなりました。



僕は、今年の大河に関しては、以下の二つしかエントリーを上げていませんでした。



「江~姫たちの戦国~」において気になる利休の台詞とNHKの価値

「江〜姫たちの戦国〜」は痛快ではあるが、受験生にはオススメできない



でも、実は、毎回観ていたんですよね。それは、単純に江役の上野樹里さん、秀忠役の向井理さん、そして初役の水川あさみさんが好きだからという理由ですけど。



さて、それはともかく、NHKの大河ドラマの場合、多くの視聴者が予備知識として既にイメージを持ってしまっている歴史的な名場面をどのように処理するのかといった、製作者側の当て方、ハズし方を楽しむというのも一つの観方ではないかと、僕は以前から思っています。



例えば、昨年、放送された「龍馬伝」では、坂本龍馬(福山雅治)が、勝海舟(武田鉄矢)と最初に会う場面を、一般的には龍馬は海舟を斬りに行ったといわれている(「氷川清話」による)ところを、海舟を斬りに行ったのは龍馬ではなく、岡田以蔵(佐藤健)ということにしていましたね。このシーンは数年前の「篤姫」では、ド・直球に描かれていたので、おそらく、"福山龍馬"のキャラを考慮して修正したんだなという想像が出来ました。



その意味で、僕にとっては、今年の「江」(特にここ数回)の話では、大阪夏の陣で、どのように淀殿と秀頼が自害の追い込まれるのかというのが一つの焦点でした。

というのも、そこまでに至る経緯で秀忠は、徳川家と豊臣家の平和共存路線を主張し、賛同する江に対しても、「私の任せて欲しい」とまで言っていたわけですから。



ただ、歴史の顛末を知ってしまっている僕らにしてみれば、大阪城の二人は自害するのはわかっているわけで、当然、視聴者としては、家康が秀忠をどのように説得するのか、あるいは、強引に事を進めるのかというのが一つの見所だったわけです。

しかし、物語は、真田幸村軍の襲撃にあった家康が命からがら難を逃れ、その直後に、全権を秀忠に移譲、そして秀忠の命令によって、大阪城には火がかけられて落城し、淀殿と秀頼は自害するという結末をむかえる展開にしていました。



おそらく、ただ歴史とドラマとの辻褄を合わせるのだとしたら、家康の命令によって、大阪城落城し淀殿と秀頼の自害するという流れが自然だったのでしょうが、敢えてこうした演出をした意図を僕は考えざるを得ませんでしたね。



それまで、このドラマにおける秀忠というのは、どちらかと言えば、どうしようもない子供であり夫でした。彼はいつも、畳の上で寝転んでダラダラしていました。そして、父・家康とは、ギクシャクした関係を続けていました。自分自身の力で何事かを成すことはなく、常に受身で、不満たらたらの存在でした。

勿論、なんとかしなければという気持ちは常にあるのですが、それは空回りして、しかも、彼は彼が持つ理想の実現に向けては、ほとんど実践も努力も出来ないキャラだったわけです。宮台真司的に言えば、「任せてブーたれる」典型的な"ダメな人間"として描かかれていました。



しかし、このドラマは、敢えて、一番大事な場面で、突然、全てが彼の決断に委ねられるような展開にしたというわけです。

そこで、彼は理想を捨てて、現実的な決断をせざるを得ない立場に立たされます。つまり、それまでの甘えた自分を卒業し、それまでの自分を否定にせざるを得ない状況に立たされるのです。そして、その決断が、戦国時代を終わせ、新しい世をむかえるという展開にしたわけですね。



そして、この展開は、この大河ドラマが2011年の空気を微妙に感じていたための演出ではないかと考えてみました。



というのも、努力も実践もせずに、ただ悩みながら、その挙句に、特権的にセカイ(日本)を救う立場に立たされる存在、という点で、「江」における秀忠は、「魔法少女まどか☆マギカ」におけるまどかと似ていたからです。



僕の旧友でゲームクリエイターのI君は、かつてはドラマやゲームの王道であった、努力や精進の積み重ねによっていつの日にか成功するといったストーリーは、徐々に支持を得られなくなっているのではないか?と言っていましたが、まさに「江」も「まどマギ」もそんな時代の流れの中にあるコンテンツなのかもしれませんね。



あるいは、それは、突然の政権交代によって、全てを決断せざるを得ない立場に立たされながらも、何も決断できない民主党に対する皮肉にもなっている...というのは考えすぎでしょうか。



まさむね



魔法少女 まどか☆マギカ 関連エントリー



2012.03.03 「魔法少女まどか☆マギカ」とジャイアント馬場と古今集と

2012.02.28 鹿目まどかの願いとは何だったのか ~中島知子と美樹さやか~

2012.02.23 「魔法少女まどか☆マギカ」を信じるファンであるならば、誰しもが「美樹さやか -恋愛成就- 御守り」こそ身につけるべきである。

2011.11.24 徳川秀忠と、まど☆マギと、民主党と

2011.06.16 蓮實的に言えば「まどか☆マギカ」は凡庸であり「フラクタル」は愚鈍かもしれない

2011.05.10 魔法少女まどかとフラクタルのフリュネと西郷隆盛と崇徳上皇

2011.05.08 「まどか☆マギカ」の素直な神と「フラクタル」のゆがんだ神の決着はそんなに簡単ではないのではないか

2011.05.05 魔女になったSAYAKAの武器はなぜ、車輪なのか

2011.05.01 「魔法少女 まどか☆マギカ」における虚しい承認欲求の果てに見た悟り

2011.04.30 「魔法少女 まどか☆マギカ」は史上最大級の災いがもたらされた現在だからこそ、残酷に心に突き刺さるのかもしれない。



この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

2011年11月23日 (水)

談志さんで思い出すこと

落語家の立川談志さんが亡くなりましたね。

75歳だそうです。



談志さんが、凄かったのは、常に現在を語り続けていたことだと思います。落語家さんはどうしても齢をとってくると「芸の道」という「あの世」に入って出てこなくなってしまいます。

勿論、談志さんだって、他の落語家さんと同様に、一方の顔で、芸の道に励んでいたのでしょうが、その一方で、常に、現世に存在し続けていました。これは、出来るようでいて、他の落語家さんにはなかなか出来ないことでしょうね。現在を語り続けるといことは、常に闘い続けるということと同義だからです。



そういえば、今からもう、20年位も前の話ですが、談志さんがあるプロレス雑誌のインタビューに答えているという記事がありました。今、思うとなんで、プロレス?って思うかもしれないですが、活気のあるジャンルというものは何でも巻き込んでしまう、そんな引力があるもので、その当時のプロレスにはそんなパワーがあったんですね。

そのインタビュー自体、結局はプロレスとは全く関係の無い話をして終わったのですが、その中で、談志さんははっきりと、「だまされちゃいけないよ。学校というものは教師のためにある、国会というものは国会議員のためにある。それを生徒や、国民のためにあると思うから話がわからなくなるんだ。」というようなことを語っていました。



2011年の現在から思うと、それは、ある意味、当たり前にも聞こえるのですが、当時は新鮮でしたね。ある時代の天才は、次の時代の常識を生み出すというのはまさに、談志さんのためにある言葉だと思いましたね。



また、談志さんは自らの言葉に説得力を持たせるために、必ずお客に対して、上のレベルで話さなければならないというようなことを語っているのも聞いたことがあります。

つまり、どんなに間違っていることを言っていたとしても、絶対に上から目線で話をすれば、他人を説得できると...

確かに、その自信に満ち溢れた話方は談志さん独特のものでした。

談志さんはテレビでこんな話をしていたことも覚えています。



ゴルフってのは身体に悪いよね!何故って、普通のスポーツは準備体操から始まって、段々本気を出して行くもんだけど、ゴルフは、最初のスィングが一番、思い切って打ち、段々、アイアンだとか、パターとかセコくなっていく。だから、絶対に身体に言い訳がない...



よく考えれば、どうでもいいようなネタなのですが、それが談志さんの自信に満ちた口から出てくると、説得力を持ってしまう、当時、僕は本当に笑いました。

しかし、後日、思い出してみると、別におかしくもない。僕は、その時、逆に、これこそが、談志さんの芸の凄さなんだと思ったものですね。



よく言われる話ですが、戦後の芸能界の歴史というものは、手の届かないスーパースターから、身近なアイドルへ、芸人へという流れがありますよね。インターネットの時代で、さらにそういう芸能人と一般人との「平等化」が進む中で、談志さんは、その流れに逆らうような存在だったと思います。

でも、もしかしたら、晩年は、自分の言葉が段々、人々に伝わらなくなってきたということを肌で感じていたのかもしれません。寄席で居眠りをしていた客に怒って、高座を降りたなんていうことがありましたが、悔しかったんでしょうね。



今後、談志さんの遺伝子を受け継いだ人々、特に、最近、微妙に影が薄くなっている爆笑問題とかに、東京の芸人として頑張ってほしいと思います。



今、有名人の家紋の立川談志さんの項目に死亡年月日を入れて更新いたました。

もしよろしかったら、コチラにも寄って行ってくださいね。



まさむね

2011年11月22日 (火)

期待の大相撲・阪神四天王(豪栄道、栃の若、妙義龍、勢)

大相撲が面白いですね。

やっぱり、何事も一生懸命に見ないとその面白さはわからないとつくづく思います。



本日、十日目。ついに、全勝の大関・琴奨菊に土が付きました。相手は、一昨日、昨日と必殺の「吊り技」で相手を根こそぎ持ち上げて土俵の外に運んだバルチック・クレーンこと、怪力の把瑠都です。

この把瑠都、とにかく胸を合わせて相手の上手を引いてしまい、上からのしかかるような体勢になれば、大抵の相手はもう身動きが取れません。

今日の琴奨菊もそうでした。吊られはしなかったものの、そのまま寄り切られてしまいました。

先輩・大関の意地という言い方も出来るかもしれませんが、明らかに体格負けでしょう。仕方がありません。明日からまた頑張って欲しいですね。



さて、本日は、今場所気になった新鋭力士について語ってみたいと思います。

豊ノ島、栃煌山、隠岐の海といった幕内上位の常連の次に位置する力士達についてです。



誰もが、今最も旬な若手といえば、栃の若の名前を上げざるを得ないでしょう。7日目の日馬富士戦では、なんと初対決で白星を上げてしまいました。さらに、昨日の白鵬戦、今日の琴欧洲戦、ともに敗れはしたものの、ファンの大きなインパクトを残しました。

192cmの長身、そして懐の深さは、かつての横綱・双羽黒(北尾)を彷彿させます。顔もなんとなく似ているんですね。

これはどんなスポーツでもそうなのですが、将来、伸びる選手は、必ず若いときにキラリの光るものを見せます。

ただでは土俵を割らないという意地のようなものを感じさせます。この負けず嫌いのところが凄いいいんですね。



 「男子三日会わざれば刮目して見よ。」と言いますが、まさに来場所以降が楽しみな力士です。



次に僕が注目なのは、ていうか、誰でもが注目せざるを得ないのが、妙義龍でしょう。彼は豪栄道と高校の同級生です。一方の豪栄道は高校卒業を待たずして角界入門を果たしたのに対して、この妙義龍は大学に行ったため、ようやく幕内入りした段階ですが、その将来性はもしかしたら豪栄道よりも上かもしれません。

で、どこが良いって言えば、その体つきですね。身長は186cmとそれほど低くは無いのですが、足が短いせいか重心がとても低い。しかも肩の筋肉が発達しています。

どちらかといえば、相撲取りというよりもプロレスラーの体型に近いんですね。

あえて、言えば、90年代に全日本プロレスの常連だったダグ・ファーナスのようなたたずまいがあると僕は思っています。

そして、その体型ゆえにでしょうか、運動神経が物凄くいいのが一目でわかりますね。あんまり、力士に対して、運動神経やあるいは身体能力といった言い方はしないものですが、この妙義龍にだけは、そんなスポーツ用語を使いたくなります。

みなさんも是非注目してみてください。



そして、豪栄道の同僚という意味で、同様に僕が注目したいのが、今場所、初の十両昇進を果たした勢(いきおい)です。

彼は小学校の時、豪栄道と同じ相撲道場に通っていました。わんぱく相撲全国大会で準優勝もしたことがあったんですね。そんな彼は、中学卒業後、高校進学をせずに、3年間、フリーター生活をしていたというのですから、十分、変り種です。

今まで、中卒、高卒、大卒といった、それぞれのタイプの力士がいたのですが、フリーター力士というは、僕の記憶では初めてですね。その意味でも極めて現代的な力士といえるかもしれません。

しかも、顔がなかなかイケメンです。新十両のくせに、今場所は既に9勝をあげており(しかも唯一の負けが相手の髷に指が入ってしまっての反則負け)、もしも優勝してしまえば、入幕もすぐそこです。まさに勢いのある存在ではないでしょうか。



そして、その妙義龍、勢との幼馴染で、一歩先を言っている豪栄道も、今場所なかなか、頑張っています。勝ち星は、4勝(5敗)とそれほど伸びてはいないのですが、稀勢の里、把瑠都、日馬富士といったところを倒しています。そして、今日の隠岐の海戦も取り直し後の一番で圧倒していました。今までは、攻めの遅さが指摘されがちではありましたが、ゴツゴツとして体躯は魅力的で、朝青龍の後継者になりうる逸材だと僕は思います。



さて、今日取り上げた栃の若、妙義龍、勢、豪栄道の共通点ですが、実は三人とも大阪・兵庫といった阪神地区出身の力士なんですね。

そして、この阪神地区というのは、人口の多さに比べて、力士の出身地としてはこれまではそれほど恵まれていませんでした。もしかしたら、力士という泥臭い職業には合わない土地柄かとさえ思っていました。歴史をさかのぼれば、何人も大物はいるのかもしれないですが、僕の印象に残っている人では大関の増位山くらいでしょうか。

それよりも、北海道や青森、そして高知、九州といったところの方が、たくさんの力士を輩出していますから。



というわけで、豪栄道、栃の若、妙義龍、勢という阪神四天王(勝手に名づけさせていただきました)にはこれからも頑張って欲しいですね。



まさむね



2011年九州場所関連エントリー



2011.11.29:稀勢の里昇進問題、あるいは合理主義とノスタルジーの葛藤

2011.11.25:21回目の優勝を飾った白鵬について改めて考えてみた

2011.11.21:大相撲で頑張る白人達の話

2011.11.20:九州場所の注目の二人・琴奨菊と稀勢の里について

2011年11月21日 (月)

大相撲で頑張る白人達の話

今日も昨日に引き続き、大相撲の話題をしたいと思います。



今日のテーマは白人力士です。



現在、幕内以上の白人力士は、碧山(ブルガリア)、魁聖(ブラジル)、阿覧(ロシア)、黒海(グルジア)、臥牙丸(グルジア)、栃の心(グルジア)、琴欧洲(ブルガリア)、把瑠都(エストニア)の8名がいます。いつの間にか沢山になりましたね。

10年ほど前までは、いわゆる小錦、曙、武蔵丸といった超大型ハワイ系の力士がいて、彼らにひきづられるようにして、力士の体格がどんどん大きくなりました。ただ、一方で動きが鈍くなり、すぐに前に落ちる相撲が目立ったり、怪我が増えたというマイナス面もありました。

でも、僕は、褐色の超大型力士が好きでした。そのおおらかなたたずまいと独特の明るさがあったからです。



そんなハワイ系力士の明るさを、一番引き継いでいるのが大関・把瑠都だと僕は思います。今日の相撲も、鶴竜に中に入られ、もろ差しを許しながら、肩越しに両上手を引き、強引に吊り出してしまいました。こんなことが出来るのは、把瑠都だけです。



僕は子供の頃から、若浪や陸奥嵐といった吊り技系の力士が好きでしたね。ただ、近年、朝青龍がたまに見せるくらいで、吊りを得意とする人が減ってきて凄く残念でした。

そんな朝青龍引退後、唯一残った吊り技力士がこの把瑠都です。ただ、往年の吊り技系力士がいわゆるソップ型が多かったのに対して、把瑠都は巨漢、しかもその吊りは強引そのものです。僕は個人的にそんな把瑠都の吊りをバルチッククレーンと呼んでいます。

昨日の阿覧戦、今日の鶴竜戦と続けて彼が見せてくれた吊りは本当に豪快で、ほとんど彼の一人芸ですね。僕は勝敗論は別にして、そういった把瑠都のユニークさをもっともっと磨いて欲しいと思っています。

相撲の定石からしたら、「もっと基礎を覚えろ」的な言葉が彼には投げかけられるべきなのでしょうが、僕のような素人は、素人なりの楽しみ方をしたいと思います。



さて、把瑠都以外の白人力士についても語ってみましょう。残念なところ、今場所は、新入幕の碧山以外は星が上がっていないですね。特にグルジア三トリオと阿覧は今場所は大きく負け越してしまうでしょう。臥牙丸などは、まだまだ、いわゆる”家賃が高い"のでしょうが、阿覧と栃の心と黒海の不調は残念です。



阿覧に関して言えば、相撲をまだあんまり覚えていなかった十両の頃の阿覧は荒々しくて好きでしたね。個人的にはバチバチ系と呼んでいました。張り手とか凄かったですから。ただ、幕の内上位に定着し、相撲を覚えてくるにしたがって残念ながら個性も薄れてきてしまったように思います。負けてもいいけど、かつての荒々しさを戻してほしいような気がします。

例えば、高安とか嘉風とか、向こう気の強い力士との対戦などで、かつてのバチバチ相撲を思い出して欲しいと思ったりもします。



栃の心の魅力はその腕力の強さですね。幕内下位にいたときは、上手を引いたときのその腕力だけでどうにかなったような気がするのですが、上位になると、残念ながら通用しないのでしょうか。大物喰いが出来ないですね。横綱、大関にとっては安パイ的な存在になってしまっているように思えます。

相撲以前には、サンボと柔道をやっていたということですが、そういった格闘技経験をなんとか自分の中で、相撲技として生かすような工夫は出来ないのでしょうか。



古い話ですが、かつて栃赤城という柔道出身の力士がいました。彼は「サーカス相撲」と揶揄されながらも、決してそのスタイルを崩そうとしなかった、大関にはなれなかったのですが、柔道という格闘技のバックボーンを十分に相撲に生かしてくれた力士として、僕らの記憶に残っています。



栃の心には、そういった異種格闘技的相撲スタイルを期待したいのですが...ちょっと今からは難しいでしょうね。



また黒海は叩きや引きといった、どちらかといえばネガティブな技のプロフェッショナルとして頑張って欲しいと思いますね。勿論、頭からぶつかっていく相撲というのは見ていて楽しいのですが、黒海にはそれとは別の相撲をさらに磨いて欲しいですね。彼の手の長さという日本人には無い特徴を生かして欲しいところです。



ブルガリアの二人(琴欧洲と碧山)は、早く二人の対戦が見たいところです。確か、琴欧洲の紹介で大相撲入りした碧山ですが、琴欧洲を目標にして頑張ってきたと聞いたことがあります。そういう、因縁のある二人が、お互い辛苦を超えて対戦するという物語は、多くの人にも感動を与えると思います。

今場所の碧山を見ていると、近い将来、そういったことは実現しそうですね。



いずれにしても、モンゴル人力士もそうですが、遠く故郷を離れて頑張っている外国人力士は、日本人力士とは違って、ハングリー精神が凄いように感じます。物価水準はよく知りませんが、彼らの月給は、故国にいたとしたら決して手に出来るような金額ではないはずです。



日本という国で、夢をつかもうとして頑張る異国人の純粋さに僕は魅力を感じます。

そして、これからの大相撲は、全世界の青年に夢を与えるようなスペクタクル格闘技になって欲しいと思いますね。



まさむね



2011年九州場所関連エントリー



2011.11.29:稀勢の里昇進問題、あるいは合理主義とノスタルジーの葛藤

2011.11.25:21回目の優勝を飾った白鵬について改めて考えてみた

2011.11.22:期待の大相撲・阪神四天王(豪栄道、栃の若、妙義龍、勢)

2011.11.20:九州場所の注目の二人・琴奨菊と稀勢の里について

2011年11月20日 (日)

九州場所の注目の二人・琴奨菊と稀勢の里について

今日は久しぶりに大相撲についての話です。



今年前半のいわゆる不祥事の影響か、九州場所でのお客さんの入りは今一つのようです。

もともと、九州場所は、両国に比べると空席が目立つことが多いのですが、それでも8日目まで、まだ満員御礼が出ていないのはちょっと寂しいですね。



ただ、ここまで観てきて、やっぱり、琴奨菊と稀勢の里という注目を集める二人の活躍は素晴らしい。

今日はその二人について語ってみたいと思います。



先ほど、客入りがいまひとつという話をしましたが、それでも、今場所は福岡県柳川市出身の新大関の琴奨菊が好調なので土俵の盛り上がりは、いつも以上に感じられます。



この琴奨菊に関してですが、自分の印象だと、大関になる以前は、豪栄道、稀勢の里、鶴竜、栃煌山、豊ノ島等と比べて、それほど突出した感じはしていなかったのですが、先場所位から、急に別格的な存在になってきましたね。

琴奨菊のいいところは、土俵下で次の対戦を待つときの集中力の高め方、そして塩の撒き方、このあたりの個性的な所作は僕の好みです。



白鵬をはじめ、土俵下では、極めて無表情な力士が多い中、琴奨菊は両肘を締めて顔を覆う仕草をします。まさに、これから勝負へ向う男の緊迫感が漂っています。

また、塩の撒き方ですが、琴奨菊は、朝青龍以来の上位の左利き力士ですね。しかも、塩を撒く方向が前ではなく横。こういったちょっとした違いが僕には好ましく感じられます。

ある意味、力士が積み重ねてきた歴史がそういった一つ一つの所作として現れているのだと僕は感じます。多分、今までの勝敗の縁起の積み重ねなのでしょう。

勿論、今場所の琴奨菊の相撲内容は素晴らしい、今日の鶴竜戦など、既に二人の間に厳然と存在する「格」の違いを見せ付けてくれました。やはり、番付が力士を作るという面もあるのだということを改めて知りました。



しかし、それにしても福岡国際センターの琴奨菊コールは凄いですね。地元福岡、柳川からの応援団という話ですが、子供達が一生懸命に応援している姿というのは、全く関係のないテレビのこちら側の視聴者をも励ましてくれているようです。

僕は、柳川という街に一度、足を運んだことがあるんですが、本当に綺麗な街ですね。数学者の藤原正彦が「国家の品格」の中で、美しい風土が偉人を生むというなことを書いていましたが、確かに、柳川という街は、人口の割りには多くの有名人を輩出しています。琴奨菊を始めとして、北原白秋(詩人)、壇一雄(小説家)、廣松渉(哲学者)などの文化人や、妻夫木聡(俳優)、徳永英明(歌手)といった芸能人もそうですね。



さて、話は変りますが、今場所、大関昇進を賭けて闘う稀勢の里の闘志もいいですね。

今日の相撲は、琴欧洲の一気の出足に、危ない場面もあり、徳俵に足をかけての辛勝でしたが、それでも勝ちは勝ちです。一場所15番あるうち、こういった相撲も数番はあるもので、それをいかに乗り切るかというのが大関昇進のカギになります。その意味で今日の一勝は大きかったように思います。

稀勢の里を見ていて感じるのは、その堂々とした態度が、往年の北の湖に似ているということ。土俵下での、その表情は、悪く言えば無愛想にも受け取られがちかと思うのですが、それでも、あのマブタを激しく開閉して紅潮した顔面は、琴奨菊とは別の意味で、常に緊張感を感じさせます。



そして、稀勢の里といえば、もう一つ、付け加えなければならないのは、本場所直前に亡くなった元横綱隆の里の鳴戸親方のこと。テレビニュースでは、涙を見せながらその悲しみを語っていた稀勢の里ですが、大関昇進こそが一番の供養になるということでしょう。

鳴戸部屋の力士は、稀勢の里もそうですが、高安、十両の隆の山など、多くが茶色のマワシをつけて土俵に上がっています。勿論、これは亡き親方・隆の里のマワシの色と同じ。

先場所まではそれほど、気にしていなかったのですが、親方が亡くなった今場所は特にその色が現役時代の親方を思い出させ、往年の相撲ファンの心の奥の記憶を刺激しますね。

これも大相撲という長い歴史のある芸能スポーツだからこその、味わい方だと僕は思います。



琴奨菊と稀勢の里。今場所、残り7日ですが、優勝を目指して頑張って欲しいと思います。



まさむね



2011年九州場所関連エントリー



2011.11.29:稀勢の里昇進問題、あるいは合理主義とノスタルジーの葛藤

2011.11.25:21回目の優勝を飾った白鵬について改めて考えてみた

2011.11.22:期待の大相撲・阪神四天王(豪栄道、栃の若、妙義龍、勢)

2011.11.21:大相撲で頑張る白人達の話

2011年11月19日 (土)

「家紋歳時記」がささやきかけてくる日本文化の本質

高澤等先生が書かれた「家紋歳時記」を拝読いたしました。



この本は2009年に、一年間を通して、全国の地方紙で、先生が連載された『家紋歳時記』を改訂・加筆されたものですが、様々な家紋と絡めたかたちで、日本の四季折々の習慣・文化・風俗が綴られており、その内容は驚異の一言です。



一つ一つの家紋と、そして、その背景にある日本文化への愛情が一ページ毎に、いや、一言毎に込められた珠玉の一冊と言っても過言ではないと思います。

おそらく、その愛情は、極めて正確に、過去から現在にかけて、この国土において生活を営んできた名も無き日本人達の自然や、家族、先祖、そして輩(ともがら)への愛情の深さとリンクしているのだと思わざるを得ません。



本の「はじめに」には、次のように書かれています。

多くの災害にみまわれ、経済的な行き詰まりに自信をなくした時に、日本人自らを支えるものは知らずに身にまとっていた文化であると、誰もが気づくはずれある。


勿論、これは今年の311の大震災を踏まえた言葉です。

今回の大災害を目にして、私達、日本人は、自分達の短所を、嫌と言うほど知らされました。

しかし、その一方で、私達は、まさに「日本人自らを支えるものは知らずに身にまとっていた文化」であったということも改めて確認したのではないでしょうか。



抽象的な言い方になってしまいますが、日本人のいざという時の強さは、目に見えるような経済力や技術力もさることながら、その基層に厳然と存在した無意識の文化力であったということです。

そして、その文化力というものは、大声のシュプレヒコールや単純なイデオロギーなどでは掬いきれない、まさに、人々が育んできた、あるいは時には忘れ去ってきたようなものも含めた、多様な営みの総体だということを、この264個の歳時記は、静かに、教えてくれます。

さらには、日本文化の本質とは、愛国的言説が、勢い陥りがちな、日本文化の単一性や独自性といったものよりも、寛容さ、曖昧さ、謙虚さにあるという教えも、この本の中から、ささやくように、にじみ出てくるように思われます。



例えば、【宝船】の項では、「七福神はそれぞれ、仏教、ヒンドゥー教、道教、日本土着の神々であり、宝船という一つの船に集うように乗る姿は、多くの神を受容する日本の風土だからこそ生まれ得た平和のシンボルでもある。」と書かれています。

日本人は、この【宝船】に象徴されうるような、なにかを、今こそ、振り返ってみるべきではないでしょうか。



さらに、日本文化の素晴らしいところは、先ほど述べた多様な営みというものが、決して、バラバラに存在しているわけではなく、日本人であれば、必然的に持つある種の共感(美意識)によって、暗黙のうちに理解・共有されてきたということではないでしょうか。そして私達は、この本から、皇室から庶民まで、あらゆる階層が満遍なく所有しているこの美意識の結晶が、家紋文化というものだ、という主張を読み取ることが出来るのです。



おそらく、この本は一気に通して読むだけではなく、一年をかけて、じっくりと、その季節ごとに、一ページづつ、読むべき本に違いありません。



それゆえ、この一本気新聞においても、「家紋歳時記」の具体的な内容に関して、折々に触れて語っていきたいと思います。



まさむね

2011年11月18日 (金)

中野の寺町散策(宝仙寺と高徳寺)

昨日は、少し時間が合ったので中野の近辺の寺に行ってきました。



僕は中野区の小学校に行っていたので、子供の頃、授業で、このあたりに寺町があるという話を思い出しました。確か、明治時代の区画整理や、関東大震災後に、浅草近辺にあった寺の多くが、ここ中野や、世田谷区の烏山に越してきたということを聞いたことがあります。



ただ、その前からこの中野に存在した寺の代表格が、宝仙寺です。ここは有名人の葬儀・告別式がよく行われることでも知られており、確か、プロレスラーの三沢光晴選手や、漫画家の赤塚不二夫さんの告別式もここで執り行われました。

かの有名な武家の棟梁・八幡太郎義家(源義家)によって開かれたと伝わり、杉並区の大宮八幡宮の別当寺ということで、江戸時代には相当広い土地を領していたらしいですね。



ここに眠るのが、丸井の創業者・青井忠治氏。さすが名士だけあって、本堂近くの特別な場所に墓を構えています。

一般的に、大企業の創業家(大社長)の墓は、例えば、大日本印刷の北島家(吉祥寺)、西武の堤家(鎌倉霊園)、安田財閥の安田善次郎(護国寺)なんかもそうですが、このように墓所も大きく別格扱いされていることがありますね。今でも多くの人が参拝するからでしょう。



また、その他、ここには文化人類学者の石田英一郎の墓がありましたが、残念ながら墓には家紋はありませんでした。

さらに、結構広い墓域を周り、墓を見て回りました。当たり前の話ですが、代々、土地に根付いた家の墓は同じ名字で、沢山ありますね。ちなみに宝仙寺では、高橋とか飯塚といった名字の墓が多いようでした。



次に訪れたのが、この宝仙寺から、少し歩くのですが、上高田の高徳寺です。ここには、江戸時代の学者政治家・新井白石の墓、山野美容学院の創設者・山野愛子の墓、長門裕之・南田陽子夫妻が眠る加藤家の墓があります。

ただ、今日の目的は、もう、25年も前にNHKの朝ドラ「はね駒」のヒロイン(斉藤由貴)のモデルとなった磯村春子の墓です。文学者や女性の墓はどちらかといえば、大企業の創業者や政治家に比べると、こじんまりとした墓が多いので、探すのに苦労することがありますが、この磯村春子の墓は、新井白石の墓のすぐそばにありました。



これも不思議なのですが、先日行った総持寺の猪木家、大西瀧治郎、益田孝の墓もそうですが、有名人の墓は比較的、近接していることが多いですね。

有名なところでは、三鷹・禅林寺の太宰治の墓と森鴎外の墓、巣鴨・慈眼寺の芥川龍之介の墓と谷崎潤一郎の墓、鎌倉霊園の川端康成の墓と堀口大學の墓とかでしょうか。



時間があまりなかったので、昨日はそれくらい。ただ、ここは西武新宿線・中井駅からの歩ける場所なのでまた来ようと思いました。



また、僕は寺社を回るとそこの寺紋、神紋、そして近所の街中にある家紋も撮影し、以下に掲載しています。

よろしければ、こちらもご覧下さい。

日本家紋地図(街中の家紋)

全国寺社紋地図



まさむね



2011年11月17日 (木)

池上本門寺墓所の大物ストリートは身が引き締まる

池上本門寺は素晴らしいお寺さんです。



僕は、階段を上がった丘の上にある寺社はなんとなく信用できるんですね。麻布の元神明宮とか、品川神社とか、赤坂の日枝神社とか...



その昔、寺社の近くにあるコンピュータのデータセンターは、安心という話を聞いたことがあります。

長い歴史の中で、古人は、地盤の固いところ、地震に強いところに古社を作ったに違いないからという理由です。なんとなく納得できる話だと僕は思いました。

そして、この池上本門寺も長い階段を上がらないと境内にたどり着けません。登りきるとちょっと息が切れました。



さて、本門寺の墓所の話をしましょうか。

ここは総持寺に比べると、それほど広くはないのですが、多士済々の墓を拝むことが出来ます。



有名なところでは、幸田露伴、市川雷蔵、片岡仁左衛門(11代)、松本幸四郎(7代)、映画監督の溝口健二、そして我らがスーパースターの力道山。



ご存知の方は多いかと思いますが、池上本門寺は、力道山の生前から、日本プロレス界と深いつながりがあったらしく、山門の仁王像のモデルは若き日のアントニオ猪木だそうです。

その他にも、日本プロレスコミッショナーの大野伴睦自民党副総裁、リキエンタープライズの山本社長、東京スポーツ会長の太刀川恒夫の太刀川家の墓もここにあります。

それらの墓の中でも特に目立つのが大野伴睦先生の墓所にある虎の石像ですね。東海道新幹線に無理矢理、岐阜羽島駅を作らせたというその強引さは、この墓のデザインにも現れているようにも思います。



また、ここの墓所の、三重塔から力道山の墓へかけての道沿いには、戦後日本社会の黒幕・児玉誉士夫を始め、大言壮語な語り口から「永田ラッパ」と呼ばれた大映オーナーの永田雅一、元自民党幹事長の斎藤邦吉、東京ガスのドン・安西浩、日本赤十字社社長の花房義質、閔妃殺害事件で投獄された岡本柳之助、稲川組の石井会長や、東声会の町井会長等の墓が左右に並んでいるんですね。これだけの大物を集めるというのもある意味、日蓮上人の威徳でしょうか...



僕は、自分の頭の中で、墓参をするときに生前のその方のイメージを沸かせて参るのですが、この道は、東京の様々な墓所の中でも屈指の"大物ストリート"で、そんな大物達の間を歩いていくというのは、イメージだけの話ではありますが、ちょっとビビります!!まぁそれが墓マイラーの醍醐味でもあるんですがww。



というわけで、今日は、池上本門寺の墓所はいつ来ても、身が引き締まり、しかも、楽しいというお話でした。



まさむね

2011年11月16日 (水)

久々に行った鶴見・総持寺でアントニオ猪木の家紋を撮影!

昨日、久しぶりに鶴見の総持寺と池上の本門寺に、TBC(東京墓石クラブ)のO君と二人で行きました。

勿論、家紋を有名人の家紋を確認、撮影するためです。



今日のエントリーでは、総持寺について書いてみたいと思います。

ご存知の方も多いかと思いますが、総持寺は、曹洞宗大本山(寺紋は五七の桐紋)で大変広い敷地を持っています。それゆえ、墓地も広いですね。



今回の目的はの第一は、「特攻隊の父」といわれた大西瀧治郎の墓、その隣にあるといわれている猪木家(アントニオ猪木の)の墓です。これに関しては、こちらのブログ(愉快痛快奇奇怪怪)を参考にさせていただきました。

さらに、僕にとっては、参考書的なサイト=名簿録に載っていた情報ですが、往年の名将・水原茂さんの墓ですね。また、例えば、コチラのブログ=カームラサンの奥之院興廃記にも書かれていますが、音楽家・黛敏郎氏の墓です。



さて、総持寺の墓地ですが、入り口から見て大きく分けて、左のエリア、正面のエリア、右のエリアがあります。

左のエリアの代表墓は何と言っても石原裕次郎さんの墓でしょう。墓地にも「裕ちゃんの墓→」という案内板が出ています。さすがスーパースターですね。

裕ちゃんの墓の他、このエリアには、哲学者の岩元禎、日本画家の前田青邨、建築家の伊東忠太等の墓があります。今回は、その他に言語政策提案者の山下芳太郎さんの墓を見つけました。この方は、横書きのカタカナ普及のために尽力した方で、墓の名前まで横書きのカタカナで彫られています。ここまで徹底しているというは、ある意味、素晴らしいですね。家紋は剣片喰い紋でした。



また、正面のエリアは、以前行った時にかなり回ったので今回は後回しにする作戦を立てました。ちなみに、このエリアには堺利彦や前田山、川上貞奴、浅野セメント会長の墓などがあります。



そして、僕らは、今回のメインターゲット、右のエリアに足を運びました。うれしいことに愉快痛快奇奇怪怪には墓の写真が掲載されてありました。僕らはこのエリアで、写真に写りこんでいる墓の背景の場所を探しました。

そうしたら、ありました、ありました。写真には、大祖堂の端が写っているじゃないですか。



O君はその情報を元に早速、墓を発見。さすが、彼は広大な墓所から墓を見つける天才です。

そして、家紋をゲット!大西瀧治郎中将の家紋は鞠挟みに違い鷹の羽紋。鞠挟みの中に何か入っている有名人の家紋は、幣原外交で有名な幣原喜重郎氏の鞠挟みに梅鉢以来の出会いです。

そして、その隣は、憧れの天才レスラーアントニオ猪木の実家・猪木家の墓がありました。猪木さんは鶴見の出身、家は、相当の資産家だったようですね。

家紋は、丸に横木瓜、猪木さんのエキセントリックなたたずまいからみると、木瓜というのは意外に「普通」な感じがしました。

ちなみに、猪木さんと同じ丸に横木瓜紋の有名人は、沖田総司、樋口一葉、豊田佐吉、坂本九、森喜朗...。ご興味のある方はコチラをご覧下さい。

そして、オマケと言っては何ですが、偶然、見つかったのは、それらの墓の前にあった益田孝氏(三井物産創設者)の墓です。これはラッキー。益田家の家紋は、三つ割り菊紋でした。



さて、残るは水原茂氏と、黛敏郎氏の墓です。あとは、二人でしらみつぶして歩いて探すしかないです。



そして、今回の重点エリア(右エリア)の最も端の壁際の列に、水原茂氏の墓を発見しました。目的の墓を発見した瞬間というのは、本当に嬉しいですね。これだから、墓マイラーは辞められません。

そして、家紋の撮影ですが、その前に、お墓に彫られている茂氏の名前と死亡年月日を読み、ご本人と確認、これは必須の手順です。

驚いたのは、その家紋が丸に右荒枝付き三階松に株竹紋だったことです。この家紋は、森本景一氏の「家紋を探る」でも、幻の家紋と評されていた家紋です。僕にとっても、初めて出会った家紋でした。

ちなみに、右寄り三階松というくくりで言えば、映画監督・木下惠介やミュージシャンの細野晴臣、X-APANのhideの家紋でもあります。ご興味のある方は、コチラをご覧下さい。



それから二人別々に、墓所を歩き回ったのですが、結局、黛敏郎の墓は見つけることは出来ませんでした。



まぁ、またいつか来ればいいや、墓探しは深追いは禁物です。心の中で両手を合わせ、頭を下げて、総持寺を去りました。

次の池上本門寺が待っていますからね。



まさむね



※本門寺探訪に関しては明日のエントリーで書こうと思います。

2011年11月15日 (火)

結局、政治家は国民の欲望を反映する、国民の鏡ですね

日本における選挙の勝敗に最も影響があるのは何でしょうか。



少なくとも90年以降の日本政府の政策の大きな流れを見ていると、それは有権者の目先の繁栄を継続させること、(あるいは昨日と同じような明日をむかえるようにすること)、そして、スキャンダルが無いようにするすること、この2点だったのだと思います。



大局から見て日本の国益とは何かといえば、人によって意見は異なることでしょうが、僕は日本の真の意味での独立だと思っています。これには、憲法改正や、自主防衛(=米軍撤退)なのですが、これには大変、時間がかかるので、どうしてもズルズル先延ばしになってしまいます。しかも、これらの政策を選挙公約として前面に出しても、あまり盛り上がるとは思えないですね。



一方で、日本のデフレは信じられないくらい継続していますが、政府や日銀は、そこから脱却する有効な対策を打とうとしているように見えません。しかし、有権者として力のある層(地方の高齢者層)にとってはデフレというのは、いい政策なのかもしれないですね。物価が下っていくのですから。

また、傾向としての円高が続いていますが、経団連の所属する多くの企業にとっては、生産拠点を海外に移せるという意味では、円高というは、良策でしょうね。



また、クリーンな政治は、勿論、悪いことではないのですが、それが国民の生活や、国益にとって、いいことなのかどうかというのは、よくわかりません。

マスコミによって、選挙の焦点がそこに集中すると、政治家がどんどん、クリーンだけど、実力の無いタイプ、いわゆる小粒になっていくというようなひとを言う人もいます。



勿論、何が正しい判断なのかというは難しいのですが、有権者の判断というのは、決して、国益に沿ってはいないように思います。

今回のTPPに対する有権者の判断も、いろんな世論調査を見ると、4割以上が支持で、反対あるいは慎重派を超えていますが、政府の説明が十分かどうかという問いに対しては、8割以上が不十分という答えをしています。

つまり、国民の声は「よくわからないけど、いいんじゃない」程度の認識なのだと思います。

もしこれが、具体的に自分が経営している会社の判断を迫られる場面だとしたら、当然、慎重になるような場面だと思うのですが、大抵の人にとっては、政治とは他人事ということですね。



というような偉そうなことを書いてしまいましたが、かくいう僕も、その時の空気に完全に流されて、郵政選挙の時は、自民党に投票したし、民主党政権奪取の時には民主党に投票してしまったということを正直に告白しておきます。



そう考えると、現在の選挙制度自体が、根本的に問題なのかもしれないと思います。ヨーロッパの地方政党だったと思いますが、全ての政策に対して、支持者からの事前アンケートで、政治家が投票を決めるという政党があるというのを聞いたことがあります。政治家は、政治家としてのポリシーを持つのではなく、ただ、それぞれのアンケート結果をもとに、議会の時に投票するという政党です。

まぁ、そんなことを実験的にでもやってみれば、国民は一つ一つの政策に関して、もう少し自分のことのように考えるようになるかもしれないと思ったりします。



まさむね

2011年11月14日 (月)

日本の政治家は何故、アメリカを気遣わざるをえないのか自分なりに考えてみました

昨日アップした「日本人的無意識の行動の困った点と美徳」というエントリーに対して高澤先生よりいただいたコメントが提起される問題ついて、改めてエントリーを立ち上げて考えてみたいと思います。僕自身、普段、それほど真面目に考えているテーマではないので、勘違いや思い込み等あるかもしれないことご了承下さい。



まず、以下の点に関してです。



アメリカの機嫌を取ることが政治家として、また政党として保身になるのかということが具体的に全く語られないのがとても気持ちが悪いですね。




仰る通りに、誠にもって気持ちの悪い現象ですよね。僕もそう思います。

これに関して、僕が理解している範囲で自分なりに書いてみたいと思います。いわゆる巷で言われている話ですが、一応、自分の中の整理のつもりで書かせていただきます。



自分の印象では、アメリカに機嫌を取る必要があるような政治家というのは、かなり実力者だと思われます。首相か、次期首相候補、それくらいのベテランですね。

彼らは、勿論、地元で当選回数を重ねてきており、それなりの実績を積んでいます。そして、官界、政界、財界にそれなりのコネクションを持ち、影響力を行使出来るようになった政治家です。

おそらく、そういった人が最も恐れるのは、スキャンダルでしょう。明らかな収賄や不正な献金に加え、時には親からのお小遣いや漢字の読み間違いなど、そのレベルは様々ですが、マスコミからなんらかの「叩かれる」材料を極力避けようとします。当たり前の話ですね。



しかし、本人の自覚や行動をはるかに超えて、そういったスキャンダルが降りかかってくるということも今まで何度もあったように思います。

それらは、あとから考えると、不条理であり、言いがかりであったというような事件が少なくありません。戦後政治史において、この手のもので最大の事件はロッキード事件でしょう。

この事件は、70年代の半ば頃に起きた事件で、アメリカのロッキード社が、全日空の旅客機に自社製品を買わせる為に、代理人の児玉誉士夫を通して、当時の首相・田中角栄に5億円を渡したという収賄事件ですね。

ちょうど、僕が高校1年生位の時で、国会の証人喚問に呼ばれたの小佐野賢治の「記憶にありません」という台詞が流行したのを覚えています。



そして、ここからは、誰もが一度は耳にしたことのあるような推測なのですが、この事件は、当時、日中国交正常化で、アメリカから距離を置こうとした田中首相に対して、ピンポイントで、CIAが仕掛けた罠というわけです。



本来だったら、児玉誉士夫が受け取った30億円のうち、田中角栄が受け取ったとされる5億円以外の25億円の行方についても捜査するのが公平なはずなのですが、検察はそういった捜査をうやむやにして、結果として、大物政治家としては田中角栄だけが逮捕されるという結末となります。

そして、いわゆる親米派と言われていた中曽根康弘や、岸信介、福田赳夫のラインは、怪しいといわれながらも、難を逃れた恰好になりました。

これを機に、アメリカCIA=検察 VS 親中=田中派との戦いがあるという話が、なんとなくイメージされたのですね。



繰り返しますが、勿論、僕は真相をつかんでいるというわけではありません。これはあくまでも一般的に語られていることで、インターネット上で例えば、「ロッキード事件」でググれば、一ページ目に出てくるような噂話にすぎません。



そして、その後、先ほど名前を出した中曽根氏や、福田氏の直系の小泉氏がアメリカと良好な関係を保ち(逆に言えば、アメリカの言いなりになって)、長期政権を築く一方で、田中派直系の小沢一郎氏は、90年代~ゼロ年代にかけて、常に政界の中心にいながらも、政治資金規正法違反という微罪で3人の秘書が逮捕され、自身も強制起訴されてしまいました。これに関しても、小沢氏が中国と接近し、アメリカと距離を置いたことが原因という話があります。



詳しくは書きませんが、僕自身は、この小沢氏の件は、検察と、それに加担したマスコミの横暴だと思っています。ただ、現在でも、世論調査では、8割以上の人が小沢氏に対して、いまだ批判的なのを見ると、検察やマスコミの目的は達成された感はあります。そして、彼の政治生命は風前の灯で、もはや復活の目は無いように見えます。

ちなみに、検察という組織も戦後、GHQによって作られたものであり、マスコミもGHQの検閲下から、戦後、新しく生まれ変わっています。



少し長くなってしまいましたが、ようするに、こういった戦後、アメリカから見て、御しがたいと思われた政界の実力者達の失墜劇を見るにつけ、いつの間にか、親米でないと長期政権を維持できないというどこまで本当かわからないけど、なんとなくリアリティがあるような、いわゆる「神話」が出来上ったのでしょうね。

考えてみれば、こうした「神話」は、民主党政権になって、自民党政権以上に語られるようになりました。普天間問題で失敗した鳩山氏は、アメリカに嫌われ、その後の菅氏は、とにかく親米=政権維持を貫いてそこそこ延命し、そして野田氏や次を狙う前原氏も親米と言われています。確かに、TPPに対しても、鳩山氏は反対、菅、野田、前原各氏は賛成でしたね。



さて、TPPに関してですが、今年2月の一般教書演説でオバマ大統領は、とにかく国内の雇用改善を第一課題とすると宣言しました。

そこから考えると、アメリカが今回の日本のTPP参加で期待するのは、モノの輸出を促進するというよりも、日本の高い各種規制を撤廃(緩和)させることによって活性化され得るサービス分野における、輸出市場を確保することによって雇用を改善させる道筋をつけることだというのは明らかなように思います。



現在、日米間ではコメ以外の関税障壁はそれほど無いと言われています。工業製品の多くは既に、現地生産が進み、それ以外の品目でも為替操作(対日ドル安誘導)によって、関税面での障壁はそれほど問題ではなくなっているようです。それゆえに、アメリカは、モノを日本に輸出するというより、保険や金融といったサービスを直接・投資することを考えている、それゆえに、それらの国のシステムをアメリカ化したいのだといわれています。

勿論、アメリカは、それらを日本の国力を衰退させるためにするわけではないでしょう。しかし、実質的な失業率が10%を超え、主要国の中で最大の格差社会になってしまったアメリカ(特にオバマ政権)にとっては、アジア市場拡大(TPP推進)は、その実質的な成果はともかく、来年の大統領選挙再選のための大きなPR材料にしたいのだと思います。



また、アメリカも日本と同様に高齢化が進んでいます。そして、60歳以上の高齢者はアメリカ経済の足を引っ張ります。米軍の沖縄からグアムの移転という話も、別に沖縄の負担軽減のためにするのではなく、その余裕がなくなってきたと見るべきだと思います。



さらに、アメリカが、日本を始めとして環太平洋地域のルールをアメリカ化した後に、狙うのは当然、巨大な中国市場でしょう。もう少し長いスパンで見れば、アメリカにとっての攻めるべき本丸は、日本ではなく、規模感の違う中国ということですね。



もっとも、上記の展望はあくまでも物語に過ぎません。ただ、現時点では、物語でいいのだと思います。オバマ政権にとっては、国内向けに、雇用改善のための展望を示すということが、直近、大事なのであり、野田さんはその脇役としてハワイのAPECで(とりあえず)参加表明をすることが必要だったのでしょう。



そして、このあたりの話はさらに、想像となってしまうのですが、その背景には、日本はアメリカ軍(の核)によって守られているという動かしがたい現実があるのだと思います。



続きは明日以降、書こうと思います。



まさむね

2011年11月13日 (日)

日本人的無意識の行動の困った点と美徳

青山繁晴の地獄の果てまで生ニコニコ」というニコニコ動画の番組を観ました。



ご存知の方も多いかと思いますが、青山氏は、元々は共同通信の記者だったのですが、退社後に、御自身のシンクタンク「独立総合研究所」を設立され、エネルギー政策などに独自の視点から提言を続けておられる方です。

僕は、『青山繁晴が答えて、答えて、答える!』というチャンネル桜の番組は、YOUTUBEなどで、よく拝見しているのですが、上記の番組はそれを拡大し、テンションを上げ、若干、若者向けのノリにしたようなエキサイティングな番組になっておりました。



さて、その番組の中で、視聴者からのこんな質問が紹介されました。



TPPはデメリットの方が大きいように感じるけれども、それでもなお、政府を始め、根強く推進派の政治家が多く存在します。それは、やはりアメリカの政治的圧力というものがあるのでしょうか。



それに対して、青山氏は以下のように答えていました。



アメリカの政治的圧力があるというならまだいいんです。そうじゃなくて、野田総理を始めとする保身に走った政治家が、勝手にアメリカを気にして、アメリカの言う事を聞かないと自分の将来がなくなると思い込んでいるから、それが圧力になっているだけであって、僕の知る限り、アメリカが直接圧力をかけてきた気配はほとんどないんですね。

(中略)

言われる前から、「はい、私はちゃんと、アメリカ様の気持ちをわかっていますよ」ということでやろうとしているのが日本の政治の実態だと思っています。



つまり、ここでは日本の政治家や官僚が、ある種の空気に従って行動することによって、自ら進んで、その主権を放棄しようとしているということですね。ついで言えば、彼らは、無意識的に、何を守ろうとしているのかと言えば、おそらく、戦後日本の体制であり、目の前の経済的繁栄という(敢て言えば)幻想になるのだろうと思います。



こういった無意識の空気に突き動かされるという日本人の気質は、長い間、閉鎖された島国で生きてきた僕らの習性なのでしょうか。

勿論、上記の例は、かなり情けない話なのですが、こういった習性は、「目的が明確である場合は、特に誰から指示されたわけでもないが、それぞれが適切な行動を取る」というようにポジティブに発揮されることもあり、実は、それほど悪い面だけではないということもあります。



このところ、連日引用している『忘れられた日本人』のなかにも、そういった行動を取る日本人達のことが出てきます。



それは、昭和の30年代の始め頃の、周防大島の農村での話です。



一年生くらいの男の子が、突然、居なくなってしまったのです。心配した家の人は、警防団の人に出てもらって、家の近所のお宮の森へ何十人もが探しに出ました。結局は子供は、家の戸袋の隅からひょっこりと出てきて事なきを得たということなのですが、著者(宮本常一氏)は、その時のことを驚きをもって以下のように書いています。



子供がいたとわかると、さがしにいってくれた人々がもどってきて喜びの挨拶をしていく。その人たちの言葉をきいておどろいたのである。Aは山畑の小屋へ、Bは池や川のほとりを、Cは子供の友達の家を、Dは隣部落へという風に、子供の行きはしないかと思われるところへ、それぞれさがしにいってくれている。これは指揮者があって、手分けしてそうしてもらったのでもなければ、申し合わせてそうなったのでもない。それぞれ放送をきいて、勝手に探しにいってくれたのである。警防団員以外の人々はそれぞれその心当たりをさがしてくれたのであるが、あとで気がついてみると実に計画的に捜査がなされている。

(中略)

そういうところにも目に見えぬ村の意志のようなものが動いていて、だれに命令せられると言うことでなしに、ひとりひとりの行動におのずから統一ができているようである。



おそらく、日本人の連帯というのはこういった、目的が明確な時に最強に発揮されるのだろうと僕は思います。冒頭に紹介した同調圧力に弱いという日本人の欠点も、こうした場面では十分、美徳、あるいは力になり得るということですね。そして、311の震災の時の東北の被災された方々の行動にもこういった暗黙の行動規律があったようにも思いますね。



関係ないですが、この場面を読んで、僕は宮崎駿の「となりのトトロ」で、行方不明になったメイを村人が総出で探すシーンを思い出してしまいました。そして、もしかしたら、『忘れられた日本人』は、宮崎駿さんのネタ元だったのかもしれないと思いました。



話を戻します。

しかし、この日本人の特徴は、段々薄れてくるのではないかということも、実は、この『忘れられた日本人』には示唆されています。

一方で村人が真剣に探し回っている最中に、捜査に参加しようとせず、まったく他人事で、噂話だけをしている人々もいたということなのです。

そして、そういった人々は、新しく村人になったような人々で、普段は、旧住民と普通に交際しているのですが、いざというときには役に立たないのだと、宮本氏は述べているのです。

以前、僕は、「現代における「絆」とは? ~天皇陛下のご感想と飯島愛の死~」というエントリーを書きました。

そこで、危機的な状況の時に大事な「絆」は、お互いがお互いを縛るという性質のものであり、維持していくにはそれなりの「強制」がないといけないのではないか、というようなことを述べてました。



そして、この気持ちは、311以降、さらに強くなっています。抗しがたい歴史の流れの中で、人々がどのように「絆」を維持し、あるいは再生できるのかというのは、現代の日本人とって一番大事なことだと、今でも思っています。



そして、付け加えるならば、そうした絆がポジティブに発揮できるような、共通の目的を持たせること、それが政治家の大事な仕事だと僕は思います。



まさむね



※ここのところ、数回、引用してきた『忘れられた日本人』については、とりあえず、今日のエントリーで一旦離れようと思います。

明日からまた別のことについて書いてみようかな。

2011年11月12日 (土)

「新・週刊フジテレビ批評」~”ネトウヨ”心理とテレビの関係~ を見て

本日(11/12)、フジテレビの「新・週刊フジテレビ批評」という番組で、「”ネトウヨ”心理とテレビの関係…排外的な動きが今なぜ起こるのか」という特集番組は放送されました。

僕は、生では見られなかったのですが、すぐにYOUTUBEで見ました。









これは、夏場あたりから、ネット上で盛り上がり、実際のデモにまで発展した「フジテレビ批判」を、具体的にフジテレビ側が取り上げた最初の機会なのではないかと思います。

勿論、今まで数千人規模のデモ等に対しても、フジテレビや他のマスメディアがほとんど無視してきたことは、大いに疑問(+不満)のあるところですが、とりあえず、恐る恐るでも、取り上げたという意味では、この番組は、評価出来ることだと僕は思いました。



さて、この番組の内容は、濱野智史さんと津田大介さんが、「ネトウヨ」や今回のフジテレビデモの背景を解説し、フジテレビ側の二人のアナウンサーは特に意見を言うでもなく、神妙に聞き入るというスタイルで行われました。さすが、お二人は鋭い、大筋のところ、その分析は正しかったのではないでしょうか。



まず、ネトウヨに関してですが、濱野さんより以下のようなサマリーがなされていました。



ネトウヨと言っても、従来の街宣右翼とは違うということ、ネット(2CH)をやる人が全て、ネトウヨではないということ、そして、その起源は、90年代終わりに漫画家の小林よしのりさんが書いた「戦争論」や、歴史教科書批判であり、その動きは、2003年日韓共催ワールドカップで広まり、その後の「嫌韓流」(山野車輪)などによって理論づけられたということです。

そして、それらのネットの動きは、それまで情報を独占してきた左翼的マスメディアに対する批判と一体になったということですね。

海外との比較で言えば、アメリカのデモがウォール街の投資家に向き、中東のデモが独裁者に向いたのとパラレルに、日本ではそれがフジテレビに向いたというわけです。



勿論、日本の場合、そういったマスメディアに対して声を上げる人々の中は、様々な意見があります。

そのあたりは津田さんがフォローされていましたが、彼らの中には、従来の右翼運動家の延長で行っている人から、中国や韓国の日本に対する態度への反発を持つ人、メディアが嫌いな人、左翼的なエリート主義に対して反発する人...などがいるという話です。



そして、それらの人々が、尖閣事件から、311の大震災や原発事故を経て、益々、マスメディアに対して不信感を抱くようになり、それまではネットだけで連帯していのが、実社会でも具体的な行動を起こすようになってきたということですね。

さらに、津田さんは、昨今のTPPに対する偏向報道も、テレビ不審に至る流れに入れていました。



僕も、実際に311震災以降、僕ら日本人の意識は大きく変ったとのではないかと思っています。

それは、濱野さんや津田さんが言われているようなメディアに対する不信感の増大ということも、勿論なのですが、僕は、それ以上に、メディアで宣伝された商品を素直に受け入れ、消費することが幸せだという、そういった物欲資本主義的価値観が変わりつつあるのではないかと思います。



そして、一連の批判やデモは、フジテレビが象徴していた従来の価値観に、日本国民の多くは今まで騙され続けてきたという意識が、怨嗟感情として爆発したのではないかと思うわけですね。

一方で、被災者達が家族や住む場所を失って悲惨な暮らしを余儀なくされている、不況によって多くの人が職を失ない格差が広がっている、その反面で、今まで通りの揺らがない価値観に基づいて、特権的な場所から、大騒ぎのバラエティ番組を流し続けているテレビを、日本国民として、誰が、「自分達の気分や声を代弁してくれている」と思えるでしょうか。



番組の最後に、現状を踏まえてテレビ製作者側はどうすればいいのかというアナウンサーからの問いに対して、濱野さんは、「テレビとネットが意思疎通出来るような場を設けることが大事だ」というようなことを述べていました。



昨日のエントリーにも通じるのですが、日本人はとりあえず、「話合い」ということを解決の場所に持ってくることによって、なにか安心するようなことがありますが、もしもやるのであれば、プライムタイムにネットを代表する人々とテレビを代表する人々が何日にも渡って徹底的に討論するようなシリーズが必要かもしれません。中途半端な対応は一番良くないと思いますね。



そして、フジテレビには、土曜日の朝5:00の番組で、アリバイ的に取り扱って、それで終わりということが無いことを、とりあえず、願いたいと思います。



まさむね

2011年11月11日 (金)

NHKの9時ニュースで野田首相の記者会見を見て

本日、20:00、野田佳彦首相は、TPP・参加のための協議に入ることを発表しました。



実は、今日の夕方(16:00頃)、僕は、「坂の上の雲」を見ようとテレビの前に座っていたのですが、ドラマは一向に始まらず、国会中継が放送されていました。とりあえず、チャンネルはそのままに見ていたのですが、野田首相は、社民党の福島さん達の質問に、ただじっと耐えているという感じでしたね。

「おそらく、これがこの首相の作戦なのでしょう。」僕はすぐにそう思いました。

「相手に言いたいことを言わせて、自分は、完全に感情を抑えて下手に出る、そして時間が来るのを待つ」

まぁ、国会答弁に期待するほうが間違っているのかもしれませんが、それはあまりにも普通の、いつもの光景でしたね。



そして、20:00からの記者会見、僕と妻はNHKの9時のニュースで見ました。

内容に関しては、これもまた、見事に予定調和的でした。また、記者からの質問も、凡庸で取るに足りないものでした。

ただ、内容には、あまり関係ないことなのですが一つだけ気になったのは、他の記者は社名と名前を名乗るシーンは放送されたのですが、自由報道協会の岩上さんが質問をしたときだけ、質問内容は報道されたのに、名乗りのシーンの映像はカットされていたということです。

もしかしたら、いつものことかもしれないのですが、テレビのニュースを見る習慣のない僕や妻にとっては、ちょっと奇異に感じました。あくまでも、記者クラブメディアは、フリーランスの存在を知られたくないということなのでしょうね。



また、その後の政界の動きですが、野田首相が、「参加」を明言したのではなく、あくまでも「参加協議」に入るということを言っただけだったということで、慎重派議員たち(原口さんや山田さん)は、一様に満足げな表情で会見に応じていました。

彼らの態度は、それまでの反対態度に比べると、生ぬるい感じは否めなかったのですが、まぁ、それが日本の伝統的な話合いの後の風景ということなのでしょう。



そんなことを今日は書いてみたいと思います。



実は、僕が先日から繰り返し引用している『忘れられた日本人』という本の中にも、村の集会の様子が記述されているところがあるんですね。

日本(特に西日本)における村の寄り合いでの話合いに関してです。村で何か問題が起きると、村人達は、納得がいくまで話し合ったということです。宮本氏は、その様子を以下のように記しています。

話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。


こうして話をしていると、大抵の問題も三日で話がついたということなのです。

また、別の箇所には、こうも記されています。

話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんなが考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである。




なるほど、今回の野田首相の会見の一日延ばしというのは、極めて伝統的な日本的な作法だったという事なのですね。



つまり、日本の伝統では、とにかく話合いをしていれば、おのずと結論が出てくるとということなのでしょう。

これは、いわゆる話合い至上主義ということです。僕はそれは、民主主義とはどこか違うような気がします。民主主義であれば、議論が出尽くせば、結論は多数決で決められるのが本筋なのですが、話合い至上主義は、長時間話し合っていれば、おのずと結論が出てくるはず、といったある意味、信仰に近い観念があるように思うからです。



ようするに、野田首相としては、「皆さんのお気持ちは十分わかりました。後は、私に任せてください、悪いようにはいたしません」ということで了解をとったのでしょうね。極めて日本的な決着手法ではないですか。



しかし、これから交渉しなければならない相手は、日本の流儀が通じない外人です。

大丈夫かなぁと思いつつ、とりあえず、多くの反対派は、見守ることしか出来ないでしょう。

「決まったことには従う」、それもまた、日本の流儀ですからね。



まさむね

2011年11月10日 (木)

日本人とは何かを考えるとき、たまに思い出したい「忘れられた日本人」

昨日、一昨日と映画「悪人」について熱く語ってしまいましたが、今日はまた『忘れられた日本人』についてお話を戻したいと思います。



この作品は本当に、話が具体的で面白いですね。一方で柳田國男は文献から、真実を読み取る天才ならば、この宮本常一は、フィールドワークの天才かもしれません。話の引き出し方が本当に巧みです。

ただ、この宮本さんは、柳田さんからは疎んじられたという話が伝わってきます。これは想像ですが、どこか、柳田さんは宮本さんのフットワークの軽さに嫉妬していたかもしれません。

また、「性」に対する臆面の無いスタンスが柳田さんから嫌悪されたという話も聞きます。確かに、民俗学で「性」を扱えるかどうかって、本当に、「肌(学風)」に依存するところが大きいのかもしれません。「性風俗」は一方でエリート官僚だった柳田さんの肌にはやっぱり合わないような気もします。



さて、『忘れられた日本人』の中にも、そんな「性」を扱った箇所がところどころに出てきます。

特に、農村の女性達が、田植えなどの農作業をするときに、エロ話ばかりをしていたという話は面白い。

例えば、ある、年増の女性二人がこんな話をします。



「この頃は田の神様も面白うなかろうのう」

「なしてや・・・」

「みんなモンペをはいて田植するようになったで」

「へえ?」

「田植ちうもんはシンキなもんで、なかなかハカが行きはせんので、田の神様を喜ばして、田植えを手伝うてもろうたもんじゃちうに」

「そうじゃろうか?」

「そうというの、モンペをはかずにへこ(腰巻)だけじゃと下から丸見えじゃろうが田の神さまがニンマリニンマリして・・・」

「手がつくまいにのう(仕事にならないだろう)」



僕には、一般的な知識として、日本には、冬は山にいた「山の神」が春になると里へ降りてきて、「田の神」となり、稲作を手伝ってくれるという信仰がある、という程度のことは知っていたのですが、具体的に、田植えをしていた女性達が「田の神」に対してどのように接していたのかは想像の外でした。

でも、こんな話を読むと、かなり具体的に、イメージ出来たような気がします。

昔の人々達は、本当に親しみを込めて神様と接していたということなんでしょう。

それは神様というよりは、本当に普通のアンちゃんを相手にしているような、肩の力を抜いた接し方ですからね。



さて、この本には、そんな女性達も嫁に行く前には、世間のことを知らないといけないということで、数人で旅に出たという話も出てきます。

「はぁ、昔にゃ世間をしらん娘は嫁にもらいてがのうての、あれは竈の前行儀しか知らんちうて、世間をしておらんとどうしても考えが狭まうなりますけのう、わしゃ十九の年に四国をまわったことがありました...」



というわけです。今でも大学卒業時などに、卒業旅行と称して、女性達がグループで旅行することは普通ですが、もしかしたら、そのルーツはこんな時代にもあったのかもしれません。

当然、昭和初期以前ですから、彼女達は歩いて旅行をして、いろんな土地を見て回るのですが、特に四国地方では、お遍路さん饗応の伝統があるので、そんな女性たちにも、道々の人々は食べ物や宿を提供したみたいですね。

本当に、昔の日本人達は、貰うほうも、あげる方もおおらかだったのでしょう。

そして、若い女性たちは、そんな見知らぬ人とのやりとり(交渉)の中で、世間を知っていったということなのではないでしょうかね。



最後に、もう一つ、面白い話。

実は、彼女達が旅をしていると、人々からもらったものは食べ物だけではなかったという話が出てきます。



「食うものばかりではなかったんですのう。」

「はあい、いろんなものをくれました。伊予の山の中では娘をもろうてくれんかと言われて・・・何をさせて使うてくれてもかまわん。

食わして大きうしてくれさえしたらええと言うておりました。よっぽど暮らしに困っておりましっしゃろう。

遍路の中にも子供の手をひいてあるいているのがたくさんおりました。たいがいはもらい子じゃったようであります。

(中略)

中には買うて来た子もいたが、たいがいは親がよう育てんからもろうてくれといわれてもらうて来たものであります。」



これはある角度から見ると、残酷物語ですが、別角度から見ると、人々のおおらかさのある側面を表したものといえるかもしれません。



日本人は、ほんの二~三世代前には、こんな風にして生きていたんだなぁと、しみじみ思います。



政治家などが、よく、日本人らしさとは何か、とか、日本人とは本来こうこうあるべきだ、みたいな話をよくしますが、そんな時、ちょっと『忘れられた日本人』を思い出しながら聞いてみるのもいいかと思いました。



まさむね

2011年11月 9日 (水)

「悪人」論2 房枝を主人公として観た「悪人」とは

昨日に引き続き、本日も映画「悪人」について書きかせていただきます。



昨日は主に、若い世代の登場人物について書いたのですが、今日は逆に、主人公・祐一(妻夫木聡)の祖母の房枝(樹木希林)について書いてみたいと思います。



彼女は、本当に日本中何処にでもいるような普通の「おばあちゃん」です。母親に捨てられた孫の祐一を育て上げ、体が動かなくなった寝たきりの夫・勝治(井川比佐志)の世話を見ながら、パートで近所の魚市場で働いています。そして、そのささやかな収入を、いつか、可愛い孫のためにと、爪に火を灯すように貯金をしています。



しかし、そんな彼女にも「落し穴」が待っていました。お年寄りを集めて、面白おかしく巧みな講習で気を惹き、最終的には法外な健康食品を売りつけるという悪徳商法の販売員・堤下(松尾スズキ)の罠にひっかかってしまうのです。

房枝は、自らの足で、堤下の怪しげな事務所に足を運んでしまいました。

それは、おそらく、彼女の単調な日々の生活に紛れ込んだ一瞬の罠だったのかもしれません。悲しいことに、あまりに悲しいことに、事務所の中の堤下は、講習会で、房枝を「美人秘書」ともちあげたあの優しい顔をしていなかったのです。



それにしても、こういう役をさせた時の松尾スズキは、憎い程、上手ですね。「大人計画」の役者独特の、素の邪悪さに満ち満ちています。

そういえば、この映画、この松尾スズキ以外でも、主演の妻夫木聡とその叔父役の光石研、ヒロインの深津絵里とその妹役の山田キヌヲ、被害者の満島ひかり、その母親役の宮崎美子、と、見事に九州出身の役者さんを揃えていますね。しかも、今日のエントリーのテーマである房枝役の樹木希林も、そのルーツは九州にあるといいます。このあたりもこの映画のリアリティを支えているのだなぁと僕は思いました。



房枝に話を戻しましょう。

堤下の甘言にひっかかってしまった彼女も、残酷なようですが、実は、昨日のエントリーでも書いた「今、ここではないどこか」に幻想を抱いてしまった普通の人、ということが言えるかもしれません。邪悪な推測をするならば、房枝が堤下の事務所へ行ったのは、実は、体がポカポカになるお茶が欲しかったのではなく、心をポカポカにして欲しかったからではないでしょうか。



しかも、そんな房枝に対して、追い討ちをかけるように、孫・祐一が引き起こしてしまった大事件、それを目当てにやってきたハゲタカのようなマスコミ取材陣、そして、さらに、房枝の心を傷つけたのは、祐一を捨てたはずの母親・依子(余貴美子)が突然やってきて、房枝に投げかけた、その言葉でした。

母親のあたしまで白か眼で見られるとよ



祐一は、祐一はあたしが育てた、あたしの子やけん



私だって、祐一には悪かことしたと思うとるけん

だけん、今でも会うたびに涙流して 謝っとるよ



あんた祐一に会いよったと?



会いよるさ。

会うたびに涙流して謝るあたしから、あん子、お金せびるとよ

千円でも二千円でも。ギリギリで生活しよるあたしから

ったく、よか、人間に育ててくれたとよ。


房枝は、事件によって、それまで彼女が知らなかった祐一の陰の部分を見せられてしまうのです。

房枝にとっては、祖母・孝行のいい孫だった彼は、それまでずっと、陰で、出会い系サイトでオンナを買い、母親に金を無心するような"悪人"の顔を持っていたというわけですね。

しかも、この映画が残酷なのは、それだけではない。最初から最後まで、祐一から、房枝に対するリアルタイムの愛情の発露が描かれていないことなのです。彼は、殺人を犯し、光代と出会うことよって、一瞬の救いを得るわけですが、彼は母親との事は切実に思い出すけれども、もう、房枝のことは意識に上らない、距離を置いた存在になってしまっているのです。

いや、逆に言えば、祐一にとって房枝とは、それまで、無言のうちに自分を抑圧し続けてきた諸現実の象徴として見えていたのかもしれません。



面白いことに、祐一は、まさに彼の母親が祖母の家に怒鳴り込んだその夜に、光代と一緒に暮らす家の夢を見ます。そして、その家の絵を描くのですが、それは、距離を置いた平屋の二世帯同一敷地内別建て住宅となっています。この二つの家の間の曲がりくねった道が、そのまま、祐一の心の中の房枝との距離を表しているのでないでしょうか。



そして次の日、房枝は思い切った行動に出ます。それが、房枝を主人公として観た「悪人」のクライマックスとも言えるシーンです。

彼女は祐一が、初めて仕事をした得た給料で、彼女にプレゼントしたというスカーフを着けて、堤下の事務所へ乗り込み、取られた金を返してもらおうと戦いに行くのです。その前に、夫の介護のため、病院へ行く際には、そのスカーフをしていなかったのですが、イザ、"決戦"という前にそれを身に纏います。これは明らかに、祐一との"共闘"、あるいは、"応援"を意味する仕草だと思います。そして、それと同時にこれは、房枝の祐一からの独立闘争という意味も担っています。つまり、これからは、自分の力で生きていかなければならないという自分自身に対する決意表明でもあるのです。



ただの、優しい、孝行孫だった祐一が、自分の知らないところで持っていた別の姿、そんな祐一が、今まさに闘っている

それは確かに、「悪いこと」かもしれない、

しかし、ばあちゃんだけはお前の味方だという、そんな声にならない沈黙の声と同時に、これがばあちゃんの闘いだ、よく見ておけという声を、僕らは聞きます。



たった一人で勝ち目の無い戦(いくさ)に挑戦していく房枝の姿は、同時に、人生で始めて「生きている」という実感を得た祐一が、これまた、敗戦必死で立ち向かう「灯台闘争」=独立闘争のシーンとシンクロするのです。



最後で、佳乃(満島ひかり)が、殺された現場で、父・佳男(柄本明)が静かに手を合わせるシーンが出てきますが、そこのガードレールには、あのスカーフが巻かれています。

これにはいろんな解釈が考えられると思いますが、例えば、被害者の佳乃に対して、

「あなたを殺した、祐一は私の孫だけど、本当を悪い奴じゃないんだよ、このスカーフはその祐一が私にくれたんだから...だから許しておくれ。」

という声を聞く人もいるかもしれません。

しかし、一方で、全く逆に、スカーフを巻くという行為が、祐一をこの現場に置いてくる、という、残酷なる"追放"を意味しているという解釈も出来るのではないでしょうか。それは房枝から祐一への「私に出来るのは、ここまでだ、お前は、一人で、この娘さんを弔い続けなさい」というメッセージとして。



つまり、あの祖母から孫への最後の贈り物(戦闘という応援)は、孫の独り立ちへの餞別だったという解釈です。

そして、祐一は、人生で二度目の"残酷なおきざり"にあったという解釈です。

それでは、それは何のために?

それは、房枝の胸の中のある暗い部分だけが知っていることではないでしょうか。



まさむね



※佳男(柄本明)もこのドラマではかなりインパクトのある役を演じているのですが、今回のエントリーでは触れることが出来ませんでした。もし、それを期待されていた方がいたとしたら、申し訳ありません。



関連エントリー:映画「悪人」における本当の悪人は土地の呪縛ではないでしょうか

2011年11月 8日 (火)

映画「悪人」における本当の悪人は土地の呪縛ではないでしょうか

今週の日曜日の日曜洋画劇場で「悪人」が放送されました。

この映画は、2010年の日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞、最優秀主演女優賞、最優秀助演男優賞、最優秀助演女優賞などを受賞し、加えて、権威のあるキネ旬の日本映画ベスト・ワンにも輝いた作品です。

僕は、そのタイミングで観ようとも思ったのですが、時間が拘束されるのが嫌だったので、なんとなく見逃してしまいました。



しかし、後で、その映画を観た妻から、そのストーリーや俳優の演技の素晴らしさを聞くにつれ、後悔の念が沸き起こり、結局、次の日に、観ることにしたのでした。



映画の舞台は北九州(福岡、佐賀、長崎)、一言で言うと、この映画は、その土地に暮らす普通の人々が巻き込まれていく、どん詰まりの悲劇を描いた作品ということになるのでしょう。

僕は映画のストーリーや役者さんの演技もさることながら、登場人物達の暮らしぶり、意識、あるいは、その人間関係、家族関係など、つまり、この映画の背景となるものに対して、興味を抱きました。



彼らは一人一人、精一杯生きています。しかし、彼らは決して満たされてはいません。

例えば、主人公の清水祐一(妻夫木聡)は、長崎県のうらぶれた海の見える村の平屋に住んでいます。

僕はここで、まさにこの「悪人」の舞台となった長崎県諫早生まれの天才詩人・伊藤静雄の「帰郷者」という詩の冒頭を思い出さざるを得ませんでした。

自然は限りなく美しく 永久に住民は貧窮してゐた...


さて、祐一には友人も彼女もいません。叔父の会社で、肉体労働をしながら、時々、出会い系サイトを利用して、女性と関係を持つ、そんな毎日を過ごしています。彼には人間関係というものが全く無かったのです。

彼にとっての祖父母、そして叔父は、彼の意識の中では、無味乾燥な存在のようにも思えます。(それは、祖母の彼への想いとは、対照的です。)

そんな彼の唯一の趣味は車でした。

そのことは彼の部屋に張ってある車のポスターや模型でわかります。また、彼は自分の車に愛着を持っていることは、彼が愛車に、こだわりのナンバープレートをつけていることで表現されています。

話はちょっとズレますが、この映画では、シーンシーンに登場するオブジェが、本当によく練られています。意味を持たせています。スクリーンには極力、無駄なものが写っていない、優れた映画なのです。

例えば、祐一と対照的な存在として描かれている裕福な老舗旅館の息子で大学生の増尾圭吾(岡田将生)は、アウディを乗り回し、I-phoneを使いこなしています。それに対して、祐一のほうは、国産車(日産GT-R)に乗り、携帯も数世代前のガラバゴス携帯を操作していのです。つまり、そんなところにも二人が所属する社会階層や情報感度がほのめかされているわけですね。





また、その祐一と出会い系サイトでメールをやりとりすることをきかっけにして、彼とのっぴきならない関係になっていく、ヒロイン・馬込光代(深津絵里)は、紳士服の量販店の売り子をしているのですが、典型的に、「土地に縛られている」女性として描かれています。

二人は、最初に寝たホテルのベットの上でこんな会話をします。



ここに来る途中、安売りの靴屋があったやろう

あそこを右に曲がって、真っ直ぐ田んぼの中を進んだところが、

あたしの高校やったとよ

そのちょっと手前に小学校と中学校

今の職場もあの国道沿い

なんか、考えてみたら、あたしって、あの国道から全然、離れんやったとよね

あの国道を行ったり、来たりしよっただけで...



俺も似たようなもん



でも、海ん近くに住んどっとやろ。海ん近くっとか、うらやましか



目の前に海があったらもう、その先、どこにも行かれんような気になるよ



先ほど、僕が光代について「土地に縛られている」と言ったのは、彼女は、無意識的に土地から出られないと思い込みながら(思い込まされながら)、一方で、いつも現状に不満を抱いているからです。彼女には同居する妹がいますが、二人の気持ちは決して通じ合っているわけではないのです。



そして、そういった意識は、強弱こそあれ、この映画に登場する多くの人々が共通して持つ、いや、もしかしたら、現代に生きる日本人の多くが持つ、呪縛と幻覚なのかもしれません。

彼らは(そして、僕らも)、その呪縛と幻覚ゆえに、いつの間にか、「今、ここではないどこか」を求めて生きざるを得ない存在から抜け出ることが出来ないのです。



この「悪人」という映画は、この「今、ここではないどこか」というどこにも無い幻想を求めた者達の悲劇を描いた映画ということすら言えるのではないかと僕は思うのです。

その最初の悲劇の犠牲者が、石橋佳乃(満島ひかり)でした。彼女は、高校を卒業して保険の外交員をしています。親は久留米で理容師をしているのですが、彼女は、博多の寮で一人暮らしをしています。また、同僚とは表面的には仲がいいのですが、お互い本音の付き合いは出来ていません。そして、一方的に、大学生の増尾に幻想を抱いています。

しかし、現実は残酷です。彼女は、偶然に通りかかった増尾の車に乗せてもらうのですが、機嫌の悪かった彼に疎んじられ、なじられ、挙句の果てには、誰もいない峠で、車から蹴り出されてしまうのです。

そして、身も心もボロボロになった最悪の佳乃は、その車を尾行していた祐一に声をかけられるのですが、逆上して彼を罵倒してしまいます。

彼女の精一杯のプライドが、祐一を傷つけるのです。



警察に言ってやる。

絶対に言ってやる。

レイプされたって、拉致られたって言ってやる。



勿論、彼は彼女に対して、そんなことをしたわけではありません。いや、むしろ、彼女を助けようとしていたのです。しかし、逆上した彼女の言葉は残酷でした。

祐一にとって、最も、言われたくない言葉を言ってしまうのです。



誰があんたのことなんか信じると?

誰も信じんよ!



実は、祐一は子供の頃に、母親に捨てられていたのです。

そして、子供の彼は、母親が戻ってくるということを必死に主張しました。しかし、誰にも相手にされなかった...

彼は、後のシーンで、光代に、こう、述懐します。

かぁちゃんは戻ってくる!

かぁちゃんは...

誰も信じやんかった。

俺の言うことなんか。

誰も信じやんかった。



そして、それ以来、祐一は、自分が、存在する意味がわからないまま、ただ孝行な孫を演じるようになっていたのです。

そして彼の心は、爆発します。



俺だって今まで生きとるかも、死んどるかも、ようわからんやった。

(光代に対して)俺にさわるな!

なんでこんな人間なんやろ、俺...



僕は、祐一の自動車への愛着は、彼の「今、ここ」からの脱出願望の表現だというように感じます。彼は、車でどこかへ行こうとするときだけ、自分を感じることができたのかもしれません。

しかし、彼も、先ほど述べたような意味で、呪縛された男です。結局、祐一は、母親が彼を見捨てた「灯台」へまでしか行けないのです。

言うまでも無く、「灯台」は、自由に海を行き来する船を見つめるだけの存在、自分自身では何処へも行けない存在、つまり、祐一自身なのです。

そして、祐一は、佳乃の首を絞めてしまいます。こうして、祐一は殺人者となってしまうのです。



その後、祐一は、光代という、初めて自分を分かってくれる存在に出会います。

しかし、時は既に遅かった...祐一は既に殺人者から、逃亡者となってしまっていたからです。

そして、光代は祐一に一緒に逃げようと言ってしまうのです。

ついに、二人は、彼らを抑圧してくる現実よりも、「一瞬の幻想」への道をつき進んでしまうのです。

日本の西のどん詰まりの「灯台」、そこでわずかな間、祐一と光代との二人だけの生活が始まるのです。

しかし、現実の残酷さによって、二人の逃避行はカタストロフ(破局)を迎えてしまいます。残念ながら、当然の結果とも言えるでしょう。

同様の境遇に陥った二人という意味で類似している「火垂の墓」における兄妹は、衰弱死という結末を迎えますが、「悪人」においては、祐一は逮捕され、光代は、元の生活に戻るのでした。



光代は、以前と同じように例の国道を自転車で通勤し、以前と同じように、お客に愛想を言いながら紳士服の売り子に戻ります。



僕の妻は、この最後のシーンを見て、「あれだけ大騒ぎを起こしたら、同じ職場で働き続けるというのは有り得ないんじゃない?」と言っていました。



しかし、僕は、逆に、それほど、彼女を抑圧する土地の呪縛は強い、ということを表現しているんじゃないかと思いました。

もしかしたら、彼女には、他の土地に出て、新しい人生を送るという選択肢すら、見えていなかったのかもしれません。僕には、人間関係を寸断され、「今、ここではないどこか」への幻想を持たされながらも、土地に縛られて生きざるを得ないその社会からの呪縛こそが、この映画のテーマである本当の悪人のように思えたのでした。



まさむね



※本当は祐一の祖母・房枝(樹木希林)や、佳乃の父・佳男(柄本明)についても語らなければいけないところなのですが、それはまたの機会とさせていただきます。

関連エントリー:「悪人」論2 房枝を主人公として観た「悪人」とは

2011年11月 7日 (月)

「私のホストちゃん~しちにんのホスト~」という試み

今日は、最近ちょっと面白いと思ったテレビドラマ「私のホストちゃん~しちにんのホスト~」(テレビ朝日)について書いてみたいと思います。



このドラマは、元々、人気の携帯ゲームをドラマ化したということですが、その経緯もさることながら、作り手と劇中の世界と観る側との三者のスタンスの取り方が、今までのテレビドラマ、あるいはドキュメンタリー番組とは違う、そこが大変、面白いんですね。



簡単に言ってしまえば、今までのテレビドラマというのは、フィクションだということを断って、フィクションを行います。勿論、これは、極めて普通のことです。別に、テレビじゃなくても、映画やビデオ作品でも同じことですよね。



しかし、最近、どうもテレビドラマの人気(視聴率)が落ちています。それは、他にも多くの要因があるのでしょうが、多くの人にとって、ドラマの中の世界と現実の世界とがズレてきたというのも、その一因のように思うわけです。

別の言い方をすれば、そこに描かれている人々や物語にリアリティが見出せなくなってきている、ということなのかもしれません。



また、一方で、ドキュメンタリーや報道というのは、"本当の話"という前提で、本当のことを見せる、そして視聴者も、そう思ってみる、ということですね。

いや、"そうだった"わけですと言った方がいいかもしれません。

インターネットの普及によって、あらゆる情報が多くの人々の耳目に入ってくるに従って、「アレッ、これって確かに素材は本当なんだけど、作り手がフィクション化しているんじゃないの?」という疑問は、普通のこととして、視聴者が抱くようになってしまいました。

そんな現象を結果として後押ししたのが、いわゆる311以降の報道やドキュメンタリー番組の体たらくですよね。その結果、そこで流されている「現実」は誰も信用できなくなってしまいました。ちょっと極論かもしれませんが、僕らは、今、マスメディアに対しては本当に不審感で一杯です。



そんなメディア不審(テレビはつまらないという気分)が極限に達しているときに、その危機感に対する一つの答えとして、テレビ側が出してきたのが、今回の「私のホストちゃん~しちにんのホスト~」のドラマじゃないのか、と僕は思ってしまったわけです。ご存知の方も多いと思いますが、演出は森三中の大島さんの旦那さんでもある鈴木おさむ氏です。



まず、このドラマが他のドラマとは違うのは、始まる前に画面一杯に、「この番組はフィクションです。画面の加工・効果はすべて演出です。」と表示されるところです。普通だったら、番組の最後に申し訳なさげに表示されるあのテロップが、むしろ、その事実を誇示するかのごとく表示されるのです。



そして、それに続いて流されるのは、あたかも、"本当の"ドキュメンタリーであるかのようなナレーションとカット割り。つまり、最初のテロップが無いと、おそらく最初は、ほとんどの人は"本物"だと思ってしまうでしょう。そんな演出になっているんですね。



ただ、観ていくに従って、この世界が嘘であるということが、メタメッセージとして伝わるようになっています。つまり、「こんなのありえねぇよ」とツッコミを入れたくなるようなシーンがところどころに入ってくるのです。さらに、劇的なシーン(喧嘩や、高級酒が注文される場面)が、何度も何度も、しつこく"偶然に"カメラに収められるからです。



おそらく、今までのテレビ番組であれば、そういったツッコミはテレビの中でコメンテイターとか芸人さんが行って、視聴者は「あっここで笑うんだ」ということをご親切に教えてもらうという構造になっていたのですが、このドラマでは完全に、ツッコミを視聴者の側に委ねているという感じ、そこが非常に面白いんですね。

例えば、話の中に、シャンペンコールを考えるプロという人が出てくるんですが、その人は店特注でシャンペンコールを専門につくり、月収500万円で年収6000万円というような話が、スッと入ってくるんですね。これには誰だって、「嘘でしょ」というツッコミを入れたくなります。しかし、画面の向こうではクソ真面目にドキュメンタリーが進行しているのです。そして、たまに、歌舞伎町伝説のホストとして現実として知られているる夕聖さんなんかが出てきてインタビューに応じていたりもするわけです。



つまり、このドラマは、フィクションという前提で、本当のことと嘘とを混在してみせているわけですね。

そういえば、リアリティのある嘘というのは、嘘と本当を混在させることって、どこかで聞いたことがあります。



さらに面白いのが、このドラマが映し出してるホストクラブという存在自体が、元々、虚実の境がよくわからない夢のような現実のような曖昧な世界であるということです。ここに対象(ホストクラブ)と手法(嘘のドキュメンタリ)とが奇妙にシンクロする、この感覚がなんともスリリングだと僕は思いました。



実は、偶然でしょうが、昨日(11月6日)、昼間にフジテレビで「浪花の人情ホスト」というホストのドキュメンタリー番組が、古い手法のまま放送されていて、僕は思わず、両者を比較して観てしまいましたね。



残念ながら、「浪花の人情ホスト」の方は、「ホストという仕事をしているどうしようも無い若者も、実は人情味溢れるいい奴」という凡庸な物語が、ドキュメンタリでありながら透けて見えてしまっていました。

勿論、男二人が服を着たまま、川の中で相撲を取り、友情を深めるというシーンなど、フィクションとしては泣かせる場面もあるのですが、所詮、ホストクラブの「宣伝(パブリシティ)」なんでしょ、という意識を僕は、意地悪にも持たざるを得なかったのです。

しかも、彼らを撮影しているスタッフは、一切姿を現さないという、これはこれで、当然の手法なのですが、そこが、「私のホストちゃん~しちにんのホスト~」を観た直後だと、どうにも偽善的に見えてしまう、これはある種の残酷な現象だなぁと僕は思うわけです。



まぁ、言葉では本当にわかりにくいと思いますので、興味のある方は是非、コチラからご覧下さい。



言い忘れましたが、このドラマのもう一つの大きな特徴は、テレビ局自身がYOUTUBEでオンデマンド配信しているということですからね。この勇気と、実験精神にはとりあえず、拍手を送りたいと思います。



まさむね

2011年11月 6日 (日)

教養のある人とは

かなり以前、友人と話をしているときに、「一体、教養とは何だ?」という話になったことがありました。もう、30年も前の話です。



確かに、「あの人は教養がある」というような言い方をするとき、その定義は曖昧ですね。

物知りというのは、教養というのに近い気がしますが、最近は、スマフォを携帯している人が多くて、知識の多さや、正確さは、ネットにはかないません。

なので、知識を頭の中に持つということの価値が以前に比べて、落ちてきているようにも思えます。



そこで、Wikipediaの「教養」の項を見てみることにしました。すると、このように書かれてあります。

一般に、独立した人間が持っているべきと考えられる一定レベルの様々な分野にわたる知識や常識と、古典文学や芸術など質の高い文化に対する幅広い造詣が、品位や人格および、物事に対する理解力や創造力に結びついている状態を指す。


なるほど、知識に加えて、人間力が必要ということでしょうか。これはなかなかハードルが高そうです。



また、日本における教養の箇所を見ると以下のように書かれてありました。

古代中国の影響を強く受ける形で、日本でも四書五経や漢詩は伝統的に重要視されてきている。やがて、日本独特の諸文芸や和歌がこれらと並ぶようになった。文人画などの絵画を自ら描く事も教養の一部を担っている。


それにしても、、現在の日本人に漢詩や和歌や文人画などを理解している人はどれだけいるのでしょうか。



でも、いつになるのかわかりませんが、出来れば、死ぬ間際に和歌(いわゆる辞世の歌)を残すというようなことぐらいはしてみたいものです。



夏の夜の 路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす 柴田勝家

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた 豊臣秀吉

嬉しやと 再びさめて ひとねむり 浮き世のは あかつきの空 徳川家康




これらは、現在放送されている大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の主人公・江の義父達がそれぞれ残した辞世の歌ですが、どの歌にもという言葉が入っているのが目に付きます。

あんなに激しい人生を生きた人々が最期に行き着く場所に、「この世は夢だった」という観念があるというのが極めて日本的ではないですか。



その和歌に関してなのですが、以前、どこかで渡部昇一先生が「日本には和歌の元の平等がある」というようなことを書かれていました。つまり、万葉の昔から、日本人は、歌を詠む歌人としては、庶民も天皇も平等だという意味でしょうか。これも日本文化のある側面を言い当てた言葉だと思いますね。



さて、最後に僕が数日前から話題にしている『忘れられた日本人』からの話です。

この本には、幕末から明治にかけての、何人かの庶民(特に放浪民)のインタビューで成り立っているのですが、そこに世間師という人々が登場します。



世間師というのは、旅から旅へと、様々なところに移動しながら情報や新しい知識を得たり、村々に伝えていった人々のことで、宮本先生も本の中で「こうした人々の存在によって村が遅ればせながらもようやく世の動きに着いていけたとも言える。そういうことからすれば過去の村々におけるこうした世間師の姿はもうすこし掘り起こされたによいように思える。」と述べておられます。

おそらく、彼らはその知識と人格によって、人々の役に立っていたのでしょう。その意味で、世間師と呼ばれた名も無き人々は、十分に教養人だったといえるのかもしれません。



そんな世間師からのインタビューには、以下のような気になるような箇所があったので記しておきます。

京都あたりにはおっとりとして風流のわかる女がたくさんいた。あるとき宿屋で気品のある女中がきたので、歌を書いてお膳の上にのせておいた。するとお膳をひきにきたとき、それをちょっと見て帯の間へはさんで出ていった。何も言わなんだが、夜ねていると、そっとやってきた。気品のある女には恋歌を書いてわたすと大抵は言うことをきいてくれたものである。


まるで、「源氏物語」のような男と女の関係が、昭和の時代にまで残っていたということでしょうか、なんとなく羨ましい限りです。



「いざというときに、さっと和歌が書けるような人が教養のある人である」



とりとめのない話で恐縮でしたが、とりあえず、今日の結論はこのくらいにしておきたいと思います。



まさむね

2011年11月 5日 (土)

もうすぐ紅白歌合戦の出演者が発表されますね。

いつの間にか、今年も11月になりました。

そろそろ、紅白歌合戦の出演歌手が発表される時期です。

昨年までは、着うた関連の仕事をしていたので、音楽業界の情報にはそれなりにアクセスしていたのですが、今年は離れてしまい、興味も薄れてしまいました。



そういえば、今年のヒット曲って何でしたっけ?

あくまでも個人的な話ですが、具体的には、「マル・マル・モリ・モリ!」位しか、口ずさめる曲が無いのにちょっと唖然とします。



参考までに、日本レコード協会(有料音楽配信チャート)によって発表される週毎の「着うたフル」の一位曲を以下並べてみます。





















































































期間楽曲名アーティスト名
01/05 - 01/11トイレの神様植村花菜
01/12 - 01/18トイレの神様植村花菜
01/19 - 01/25Dear J板野友美
01/26 - 02/01 Why? (Keep Your Head Down)東方神起
02/02 - 02/08Distance西野カナ
02/09 - 02/15Distance西野カナ
02/16 - 02/22今のキミを忘れないナオト・インティライミ
02/23 - 03/01ずっと。青山テルマ
03/02 - 03/08何かひとつ feat. JAY'ED & 若旦那JAMOSA
03/09 - 03/22何かひとつ feat. JAY'ED & 若旦那JAMOSA
03/23 - 03/29ジェットコースターラブKARA
03/30 - 04/05かぞえうたMr.Children
04/06 - 04/12かぞえうたMr.Children
04/13 - 04/19ラブレター。~いつだって逢いたくて~ソナーポケット
04/20 - 04/26Let's try againチーム・アミューズ!!
04/27 - 05/10not alone~幸せになろうよ~SMAP
05/11 - 05/17Esperanza西野カナ
05/18 - 05/24マル・マル・モリ・モリ!薫と友樹、たまにムック。
05/25 - 05/31Everyday、カチューシャAKB48
06/01 - 06/07また明日…JUJU
06/08 - 06/14マル・マル・モリ・モリ!薫と友樹、たまにムック。
06/15 - 06/21マル・マル・モリ・モリ!薫と友樹、たまにムック。
06/22 - 06/28GO GO サマー!KARA
06/29 - 07/05GO GO サマー!KARA
07/06 - 07/12GO GO サマー!KARA
07/13 - 07/19Fight Together安室奈美恵
07/20 - 07/26ゴメンね・・・。~お前との約束~ソナーポケット
07/27 - 08/02Golden Smile feat. EXILE ATSUSHI久保田利伸
08/03 - 08/16雄叫び遊助
08/17 - 08/23フライングゲットAKB48
08/24 - 08/30フライングゲットAKB48
08/31 - 09/06フライングゲットAKB48
09/07 - 09/13いつかきっと・・・EXILE ATSUSHI
09/14 - 09/20愛を止めないで倖田來未
09/21 - 09/27愛を止めないで倖田來未
09/28 - 10/04Rising SunEXILE
10/05 - 10/11365日のラブストーリー。ソナーポケット
10/12 - 10/18X X XL'Arc~en~Ciel
10/19 - 10/25風は吹いているAKB48
10/26 - 11/01風は吹いているAKB48


これはあくまでも着うたフルのダウンロード数の合計なので、ジャニーズのように戦略的に着うたを配信したりしなかったりする事務所のダウンロード数があまり反映されていないとか、AKB48のようなCD購入特典のあるようなグループの楽曲のダウンロード数も思ったより目立ってはおらず、世間で言われている程、一人勝ち状態には見えないというのはありますが、それでも、ある程度は参考にはなる統計でしょう。

さすがと言おうか、意外と言おうか、SMAPとか、安室奈美恵さんとか、久保田利伸さんとか90年代から活躍しているアーティストが顔を出しているんですね。また、韓流アーティストでも東方神起やKARAが一位を獲得していますね。



さて、紅白歌合戦の話でした。

昨日のエントリーでも触れた宮本常一さんの『忘れられた日本人』に、この歌合戦の起源とでも言えるような風俗が日本にあったという箇所があり、僕はちょっと気になっていたのです。



それによると、かつて対馬には六つの観音様があり、その観音様を巡る女性の巡拝者集団は、行く先々の村の若者と歌のかけあいをするというのです。

歌の上手さで勝敗を競うのですが、最後には、いろいろなものを賭けて争いました。そうすると、男は女のからだをかけて勝負を挑むこともあったそうです。だから、歌の上手い男性は、相当いい思いをしたのではないでしょうか。

こういった風習(いわゆる歌垣)は、明治時代の終わりまで残っていたらしく、巡拝者が泊まる家の前の庭には、女達と男達が夜が更けるのを忘れて歌いあい、踊りあったということですね。



これは、あくまでも対馬という地域に残された話なわけですが、もしかしたら、かつては日本全国に、これと似たような風習があったかもしれません。



一年に一度だけ、子供達にも許された大晦日という日に、日本を代表する男と女の歌い手が夜遅くまで歌を競って、勝った負けたと大騒ぎをする紅白歌合戦。さすがに、からだを賭けているようなことはないと思いますが、僕には、どこか日本古俗の尾てい骨のようなものをどこかに持っているように思われるのです。



まさむね

2011年11月 4日 (金)

「忘れられた日本人」は必読書ですね

先月、読んだ本の中で一番面白かったのが『忘れられた日本人』という文庫でした。



この本は宮本常一という民俗学者が書いた本で、主に西日本を中心とした庶民へのインタビューをまとめたものです。

僕は多分、学生時代に一度、読んだ記憶があるんですが、今回読み直してみて、その内容の素晴らしさに驚嘆してしまいました。

もしかしたら、それは僕自身が成長して、いろんな人生経験を積んだからこそ味わえたのではないかとも思いましたが、是非、若い人にも読んで欲しい一冊です。



さて、この本が面白いのは、ここでインタビューされている人々が、いわゆる定住の農民だけではなく、漂白民、海や山の民も含まれていることですね。

この本には、そういった人々が幕末から明治、昭和初期にかけてどのような人生を歩んできたのかが活写されています。



例えば、対馬つつ村の浅藻という集落の梶田富五郎という80歳過ぎの爺さんの話。

彼は生まれは山口県の周防大島の久賀という場所なんですが、子供の頃に両親を亡くし、魚船に乗せてもらうメシモライになったといういうんですね。

久賀の大釣にはメシモライというて-まぁ五つ六つ位のみなし子を船ののせるなわしがあって、わしもそのメシモライになって大釣へのせられたのじゃ


このメシモライというのは、多分、ある種の人身御供でしょうね。

その昔、海がシケてきたら、こういう子供達を海に投げ込んで、神様へ捧げ、怒りを鎮めてもらうとしたのかもしれません。そういった民俗学的な悲しい歴史の痕跡なんじゃないかと僕は思います。

どこか、中世ヨーロッパのサバトとかで赤ん坊を悪魔に捧げる儀式とか、アステカの稚児の生贄を思い出させたりもしますね。



そういえば、先日、港区三田の元神明宮という神社に行ったのですが、ここの相殿には水天宮がありました。そして、この水天宮に祀られている神様についてちょっと考えさせられましたね。

実は、そこの祭神には、あの壇ノ浦における源平最終合戦時に、海に身投げて亡くなったという安徳天皇(当時4歳)も祀られていたんですね。僕は知りませんでした。

おそらく、その痛ましさの記憶が、安徳天皇をして、後世に海運、漁業の神様にしたのだろうな、ということが想像できます。また、こんなところにも、一般庶民の宗教観念と皇室との間にある微妙で連綿とした繋がりが垣間見られます。



さて、話を戻します。

この梶田富五郎さんは、その後、漁師さんたちと一緒に、周防大島から、この対馬に移り住むようになるのですが、その時の話がまた面白い。

漁師たちは、周防から、対馬まで船でやってくるのは結構大変だということで、どこか対馬に住まわせてくれないかという話になるのです。

「それじゃあ、浅藻の裏へ住むことをゆるしてもらえまいか」

と頼うでみました。

「たいがいのことはきてあげらるが、あそこはシゲ地じゃからたたりがあるといけん」

というから、

「たたりがあってもええ、それに生き神さまの天子様が日本をおさめる時代になったんじゃから、天道法師もわしらにわるさはすまい」

ということになって、浅藻へ納屋をたてることをゆるしてもろうて久賀へ戻ってきやした。


つまり、明治維新になって天皇中心の国家となったという事実が、日本の最果ての対馬では、こういう風に影響していたということですね。



日本列島に様々な形態で暮らしを営んできた日本人達、彼らの日常生活は時代時代の流れの中で、あるときは、翻弄されながらも、ある時はちゃっかり活用しながら、しぶとく続いてきたんだなぁということを感じます。



明日から、しばらくこの『忘れられた日本人』の中のネタをアップしていきたいとおもいます。



まさむね

2011年11月 3日 (木)

「まなざしの地獄」を読んで考えたこと

僕は昨日のエントリーで、幕末の開国以来、日本の歴史は共同体の解体の歴史であるというようなことを書きました。



その過程は、おそらく一つづつ「日本人らしさ」あるいは古来からの「日本人の幸せ」が剥奪される歴史であったことを僕は今、改めて思います。

繰り返しますが、それは、一方では「自由」や「便利」という新しい幸せの獲得であったという側面があることも付け加えないと不公平になりますが。



僕は先月一ヶ月の間に何冊かの本を読みました。その中に、Twitter上で、僕にいつも様々なアドバイスをくれるすがりさんが勧めてくれた「まなざしの地獄」(見田宗介著)がありました。

この本は、1968年から1969年にかけて連続ピストル射殺事件を起こした永山則夫という男の行動を社会学的に解釈した本です。

数年前にあの加藤智大による秋葉原通り魔事件が起きた時に、この加藤と永山との類似性が、一部で指摘され、それを機会に再編集・発売された本ですね。



ちなみに、僕自身も当時、「寺山と永山と加藤智大」というメモのようなエントリーを書いていました。



で、見田さんは、この永山則夫についてこんなことを書いています。(41ページ)

そしてN.Nが、たえずみずからを超出してゆく自由な主体性として、<尽きなく存在し>ようとするかぎり、この他者たちのまなざしこそ地獄であった


また、別のところ(19ページ)でこんな風にも書いています。

都市が要求し、歓迎するのは、ほんとうは青少年ではなく、「新鮮な労働力」にすぎない。しかして「尽きなく存在し」ようとする自由な人間たちではない。


ようするに、当時、集団就職などで大量に都市に流入してきた若者達、彼らは「自由」を求め、「夢」を抱いて都市にやってくるのですが、一方で都市の方は、彼らはそういった存在としてみ見たいわけではなく、たんなる労働力として使いたいだけだったということです。

そして、その二つの視線の齟齬が究極にずれたときに発生したのが、あの射殺事件だったのではないかというのが見田さんの見立てなわけですね。



これは、この事件の背景に経済格差とか、地域格差といった問題があるけど、本質的には、それは意識の問題だという話だと僕は解釈しました。



おそらく、近代以前の村社会では、人々は他者がから見られる自分像と、自分が自分自身を見る自分像とのズレってそれほど大きくは無かったんだと思うんですよね。

いい悪いは別にして、大抵の場合は、武士の子は武士になるんだし、庄屋の子は庄屋になるんだし、小作人の子は小作人になります。

だから、無駄に「自由」や「夢」といった観念を抱き、そこからくる挫折を味わわなくてもすむような社会だったんですね。



勿論、最上徳内のような例外的な人もいて、彼は山形の貧農の家で生まれるんだけど、学力でのし上がり、最終的には武士になり、しかも蝦夷探検で歴史にまで名前を残します。

ちなみに、僕の先祖は、この最上徳内が子供の頃に通っていた寺子屋で、彼の隣の席にいた平凡な百姓だったんですww。



さて、話がズレましたが、ようするに、僕らが明治維新以降に得たのは、一面で「自由」や「夢」なんだけど、その反面で得たのが「挫折」であり、失ったのが「故郷」だったというお話がしたかったんですね。



そして、問題なのは、永山や加藤が競争に負けて失敗してしまったという結果じゃなくて、負けた時に帰っていく場所(故郷)がもう無なかったという現実だと僕は思います。

その意味で、1968年に永山事件によって顔をだした問題は、今尚、連綿と解決できないまま残っているということですよ、いや、逆に言えばさらに進化しているのかもしれないですね。



じゃあ、ここでいう「故郷」というものは、例えば、政治の力とかで復活できるのでしょうか。う~ん。

あるいは、それは具体的な地域や人々じゃなくて「日本」という観念で代用できるものなのでしょうか。それもどうかな?

さらに言えば、例えば、ネットにおける人と人とのランダムな結びつきは、少なくとも僕らにとって癒しになることは出来るのでしょうか。まさかね!



最近、そんなことも少し考えています。



まさむね

2011年11月 2日 (水)

昨日に続いて、今日もTPPについて

昨日に続いて、今日もTPPについて書きたいと思います。



TPPにおける問題点は、実はその問題点自体が明らかになっていないというところにあると思います。

交渉に前向きと言われている人々の意見をうかがっても、とにかく参加しないとわからないという一点張りです。



ただ、アメリカの意図は様々な状況を考えると明白です。オバマ大統領の現在の最大の課題は、国内格差の問題と失業問題です。

そのため日本を輸出のターゲットにしたいのは明白ではないですか。

さらに、問題は、アメリカの農作物が大量に日本に入ってくるということ以上に、アメリカの仕組み(保険、司法やサービス)も入ってくるということです。

幕末の開国以来の日本の歴史は、独自の共同体の解体の歴史でした。先の戦争に負け、東西冷戦構造が崩れ、金融ビックバンがあって、ゼロ年代になって小泉政権となり、その流れは加速しました。

勿論、それによって多くの国民は「自由」や「便利」を手にしました。それはそれで素晴らしいことですが、一方で、帰るべき心のよりどころ(故郷)を失くした人々を大量に生み出したのも事実です。そして、僕ら日本人はそういった心のよりどころを消費によって補ってきたのです。



さらに、TPPに参加するということはそういった、消費依存体質をこれからも続けましょうという宣言であり、それは比ゆ的な言い方ですが、「日本人」ではなく、「経済人」として生きていきましょうということに他ならないと僕は思います。

本当にそれで、僕らは子孫に対して幸せを約束することが出来るのでしょうか。現在がまさにその曲がり角に来ているのです。



TPPに賛成されている方の話を聞いたのですが、農業が崩壊されるという意見に対しては、「農業問題とTPPは別、農業改革はそれはそれでしなければならない」(福山哲郎元官房副長官)と言っています。また、デフレの時にTPPをするのはデフレを加速することに他ならないという意見に対しては、「デフレ対策とTPPは別、デフレ対策はそれでそれでしなければならない」(竹中平蔵元総務大臣)と言っていました。



だったら、なんで今までそういった対策が出来なかったの?だったら、早くやってよ!というのが素朴な感想です。

やるべきことがわかっていながら、今まで、それすらまともに出来なかった人たちに、関税自由化やサービスの平準化という激流の中で、そういった対策が出来るとは全く思いません。

だってTPPで一旦、様々な条件を受け入れたら、それを撤回することはさらに難しいことは間違いないからです。



そう考えるとTPPに僕らが反対する大きな要因の一つには政府に対する不審感があるということがわかります。



やっぱり、国民と政府の関係そのものから考え直して、作り変えなくてはならないのでしょうか。

例えば、社会学者の宮台真司先生が、ずっと言われているように、「任せてブーたれる政治から、引き受ける政治」にしないといけないのでしょうね。



確か、民主党の公約もそうだったはずですが、そのポリシーはどこへ行ってしまったのでしょうか。

おそらく、それは、他に問題が多すぎて、そう言っていたことすら忘れてしまっていた僕らの問題でもあるのでしょうね。



まさむね

2011年11月 1日 (火)

TPPは絶対に反対、あるいは、一本気新聞復帰しました。

10月はほとんど、丸々一ヶ月間、ブログもアニメ鑑賞もお休みしてしまいました。



何をしていたのかというと、何度か霊園や墓地に行って家紋を収集する他、「有名人の家紋のページ」を拡充、マイナー変更したりしていました。



有名人の家紋 2000人



日本の文学者の家紋一覧

日本の闘う人(軍人、格闘家)の家紋一覧

日本の政治家の家紋一覧

日本の学者、思想家、記者の家紋一覧

日本の俳優の家紋一覧

日本の芸術家の家紋一覧

日本の実業家の家紋一覧

日本のエンターテイナー(歌手、芸人)の家紋の一覧



それにしても、家にいてPCに向っていると時間が経つのが早いですね。アッという間です。



でも、そんなことをしているうちに、どんどん日本がやばいことになっているというのが気になっていました。



昨日、お会いした野口淳さんが言われていました。

「今年は震災、原発事故、そしてTPP交渉参加と、日本の未来にとって禍根を残すような大事故が起きた年として記憶されるでしょう。」と...



そうなのです。おそらく、僕達・日本人は現在、本当に大きな歴史的な転換点に来ているのです。

そして、直近の問題として、僕達は、なんとしてもTPP交渉参加に対して「NO」と言わなければならない。

これだけは、黙ってみているわけにはいかないですね。



例えば、下記のような動画を観ていただければと思います。僕が特に付け加えることはありません。







この京大の中野剛志先生の画像は他にもたくさんありますので興味のある方はYOUTUBEで検索されてご覧になられることをオススメします。



で、一応、念のため上記の「とくだね!」が放送された翌日、今度はTPP推進派の先生がこんな発言をされていました。







どちらの先生に説得力があるか明らかでしょう。

推進派の先生が言っています。「交渉をすればいい」と。

それにしても、僕らはそれほど、日本の外務官僚(あるいは経産官僚)を信頼できるのでしょうか。彼らは、今まで、日本のためにどんな有利な交渉が出来てきたというのでしょうか。竹島の一つも取り返してきてから言ってほしいものです。



さて、それはともかく...

この日本という国を守るか、日本という国を滅ぼすか、僕ら日本人にとっては、まさに今しか声を上げるタイミングがないのです。

今更言うまでもないのですが、日本という国は現在、生きている我々だけの国ではありません。遠い先祖から、はるかなる子孫まで、連綿とこの国土に生きてきた、そしてこれから生きていく人々のものなのです。



それを、たかだか、わずかここ数十年の経済優先主義という価値観でこの国を売っていいのでしょうか...という話だと僕は思っています。



およそ、一ヶ月ぶりに復活した「一本気新聞」ですが、文体も変えて、しばらくはこんなようなことを考えるブログにしていきたいと思います。



まさむね

« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »

2021年8月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

最近のトラックバック