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2011年12月の37件の記事

2011年12月31日 (土)

精霊の守り人 古くて新しい建国神話の必要性への示唆

三ヶ月ぶりのアニメ修行復活である。



それでは、この三ヶ月間、別に何か特別な意義深いことをしていたかというとそうでもなかった。

ただ、時間が過ぎてゆくだけだったような気もする。それを考えるに人間というものは、常に何かをしようとし続けないといけないものなのだろう。



さて、アニメ修行の話だが、僕が49作目に選んだのは『精霊の守り人』という、かつてNHKBS-2で放映されたアジアン風味のアドベンチャーファンタジー。原作は上橋菜穂子さん、監督は「攻殻機動隊 S.A.C」「東のエデン」の神山健治さんの作品である。



以下、読んでいただく方には、ネタバレどころか、このアニメを既にご覧になられた方にしか理解できないであろう事、ご了解下さい。



まずは、この物語において興味深いのは世界観である。そこは地球のようであって地球ではない、どこか別の惑星での話である。空には月が二つ出ており、地球上では見られるようで見られない動物(例:右画のナージ)が登場する。また、この世界では、人間の現世界(サグ)と、精霊が棲む幻想世界(ナユグ)が並存していて、呪術師と呼ばれる人々はその二つの世界を行き来出来るでのである。



舞台となる地域は、かつての秦や唐のような絶対王権を持つ国家(ヨゴ皇国)によって統治されている。そして、この国は、頂点である帝(みかど)の下、星読み博士と呼ばれる占星術師達が政(まつりごと)を行い、武人が周囲を固める、いうなれば宗教的軍事専制国家なのである。



一方、この皇国がこの地を統治する以前、ここには、ヤクーという別の部族が住んでいた。彼らは現在でもヨゴ皇国の周辺地域で昔ながらの生活を営んでいる。そして、ヨゴ皇国の統治は、星読み博士が行うのに対して、ヤクーには、口伝の物語、民謡、呪術が(だいぶ消滅したとはいえ)残っており、それによって宗教的伝統や人々の暮らしが守られているのだ。

この物語の面白さは、こうした世界観に、日本をメインにしたアジア各国の習俗や伝説、神話のカケラがちりばめられており、その世界をそこはかとなく豊かにしているところである。



例えば、ヨゴ国の夏至祭りで、民草(庶民)が灯す松明が、後半に登場するラルンガ=卵喰い(右画)という怪物の弱点を突くための武器の名残だったというような設定は、ちょうど、正月を直前にしてこの作品を観た僕に「門松が歳神様を家に迎え入れるための依代である」というような記憶をも甦らせたのであった。

あるいは、ヨゴ皇国とヤクーの関係は、大和民族(日本)とアイヌ民族(蝦夷)との関係をも思わたり、そのヤクーの田植え唄の中に、100年に一度だけ生まれ変わるという水の精霊(ニュンガ・ロ・イム)誕生時の真実が隠されていたりと、民俗学に少しでも興味を抱いたことのある人であれば、必ずや背筋に何かが走るような演出が、そこかしこに観られるのである。



また、このアニメには格闘技マニアにとっても垂涎シーンがあったことも記しておきたい。それは村祭りの際に行われる格闘技大会(ルチャ大会)において、ロタという遊牧民族の選手が、ボクシング+関節技のようなスタイルで攻めてくるのに対して、ヨゴの民が行う、遊びの延長のような格闘技=ルチャがまるで歯が立たなかったというところ。

しかし、そのルチャのルールが土俵から出たら負けということを活かし、さらにロタの気質の粗さを逆用して、ヨゴの皇太子のチャグムが、挑発の末に、体をかわして、相手を土俵の下に落とすくだりなど、いわゆる異種格闘技戦の醍醐味(エッセンス)を熟知した格闘技ファンの神山氏ならではの演出のように見えた。

ついでに神山氏の演出で言えば、例えば『攻殻機動隊 S.A.C』シリーズの第1話「公安9課 SECTION-9」で、暴走したサイボーグ芸者が政府要人にかけるチョークスリーパー(左画)や、『攻殻機動隊 S.A.C 2nd GIG』の第21話「敗走 EMBARRASSMENT」でクゼがバトーの足を破壊するアンクルホールド(右画)などにも、彼のプロレス、格闘技好きが垣間見られたことも、ここでついでに記しておきたい。



さて、上記のように話のディテイルについて、一つ一つ、突っついていく楽しみはそれはそれであるのだが、きりが無いので、このあたりで物語全体の構成について話を進めたいと思う。



僕は、第二皇太子(チャグム)がその体に水妖の卵(孵化すると土地に旱魃をもたらすという)を宿すという宿命を背負うことによって帝(みかど)から命を狙われて、各地を放浪するという展開の下敷きには、記紀のヤマトタケル、あるいはエディプスといった神話があるのではないかと想像した。また、そのチャグムが、この宿命を覚悟して生きるという生き方を、王宮の外における様々な体験によって獲得するという展開も、冒険小説やロールプレイングゲームの典型だと思った。

おそらく、この『精霊の守り人』の安定感はそうした典型をしぜんな形で取り込んでいるからに他ならない。



しかし、一方でそういった典型を取り込みつつ、他方では、実は、その卵は、旱魃をもたらす水妖のものではなく、水の恵みをもたらす精霊のものであったということが判明し、さらに、その事実が、建国神話では、初代皇帝(とその周囲の武人達)の建国を正統化するように捻じ曲げられていたことが暴かれる。

そして、その建国神話による事実捏造をリセットし、新帝・チャグムが水の恵みをもたらしたという新しい伝説と同時に新しく、真に正統な国を創るために、今度は、チャグムが帝になるという新たなる宿命を引き受け、ある意味で、国の礎たる「生贄」となる覚悟をするという流れは、ユニークでオリジナルな展開ではないかと感心させられた。



つまり、ヨゴ皇国の、現在に至るまでの武断的な体質は、水妖を武力によって倒したという建国神話によって正統化されていたのであるが、チャグムという正統な王位継承者が、水の精霊を宿していたという新たな正統性に基づく、武力に依存しない(平和的な)国創りが今後、行われるであろう事が予感されるようなエンディングとなっているのである。それゆえに、用心棒のバルサは、その必然としてヨゴの国を去らねばならなかったのであり、彼女は今度は己の魂を救う旅に出ざるをえなかったのだ。



思えば、一国の建国神話は、その国の民族を特徴付けるような逸話が盛り込まれているものである。例えば、記紀において、天照大神の孫のニニギノミコトは、それまで日本を支配していた大国主命と話し合うことによって「国譲り」を受ける。それがゆえに、この談合主義は、連綿と続く日本の伝統となっているのだ。



さて、建国神話とその後の国民性の関連性という文脈で、この『精霊の守り人』に対して、敢えて現代的な意義を見つけるとするならば、敗戦後に出来た戦後体制を正統化している物語(戦前は不幸であった、軍部が国民を戦争に駆り立てた、日本の植民地政策は間違っていた、戦後日本は民主主義国家として喜んで生まれ変わったなど)の欺瞞を廃して、戦後体制自体をリセットするためには、なんらかの「生贄」を踏まえた、新しい価値観を提示するような物語が必要なのではないか?ということを示唆しているところかもしれない。

また、その新しい物語のヒントは、海の外からやってくるのではなく、口伝や伝説のような、古くからその土地に根差したモノの中にこそ、見出されるべきであるということを教えてくれるところでもあると、僕は思う。



まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

2011年12月23日 (金)

文字紋 -わかりやすさ第一の優しい紋- 石田三成、志賀直哉、丹波哲郎...

家紋の中で一番わかりやすいのが文字紋である。

近頃は、ローマ字ロゴが全盛の時代だが、「丸に文字」の文字紋もまだ残っている。
それは、その意匠のデザイン性は別にして、ご年配にわかりやすいからに違いない。あるいは、長年の信頼の証という言い方も出来るかもしれない。

左画像はご存知の通り、左上=伊勢丹、右上=大丸、左下=三越、右下=高島屋の「丸に文字」ロゴである。
大衆相手の百貨店にとって、わかりやすさと信頼は大事なのだ。

文字紋は全国で26位。
長野県で12位、宮崎県で14位。
おそらく、長野県では、丸に上文字紋が多いだろうと推測できる。村上発祥の地だからである。

折敷に三の文字紋は、隅切り角に三引き、折敷に算木、折敷に角三文字などと判別しづらいバリエーションが多数あり、算木紋や引両紋、角紋に分類すべきとの説もあるが、本サイトでは、文字紋としてまとめて収録した。

また、丸に十字紋に関しては、轡紋のページをご覧下さい。

文字紋を持つ有名人は以下。



竹崎季長 。1246年 - 不詳、 武士。
肥後国竹崎郷の出身。菊池氏の一族であったが、同族内の所領争いに敗れて没落。文永の役(元寇)では、博多において箱崎の少弐景資の軍に参陣した。自身の戦いを描かせた『蒙古襲来絵詞』で知られる。家紋は三つ目に吉の字紋。


村上義清 。1501年3月29日 - 1573年2月3日、 戦国時代の武将。
上顕国の子として葛尾城に出生。村上氏は清和源氏。信濃埴科郡葛尾城主で武田晴信の侵攻を2度撃退するなどの武勇で知られ家督相続時には信濃の東部から北部を支配下に収め村上氏の最盛期に当主となる。家紋は丸に上文字。


稲葉一鉄 。1515年 - 1589年1月5日、 武将。
伊予の名族・河野氏の一族。美濃で土豪となる。土岐氏、斉藤道三から斎藤氏3代、織田信長豊臣秀吉に仕える。江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母・春日局の養祖父。家紋は隅切角に三の字。画像は正成系稲葉家宗家16代・稲葉正邦の墓所にて撮影。


来島通康 。1519年 - 1567年、 武将。
来島村上氏の第四代当主。村上水軍(来島水軍)の大将。河野家家臣としての内政、外交、軍事の各方面での中心的役割を果たす。毛利元就陶晴賢と厳島にて戦った時は毛利軍の援軍として参陣。家紋は伊予・大山祓神社の神紋、折敷に縮み三文字紋。


本多忠勝 。1548年 - 1610年12月3日、 武将・大名。
徳川本家・最古参の安祥譜代の本多氏。本多忠高の長男。本姓は藤原氏。家康の家臣として数々の武功を上げ、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。家紋は立葵(左)と丸に本の字。


津軽為信 。1550年1月18日 - 1608年1月22日、 戦国武将、大名。
弘前藩の初代藩主。大浦守信の嫡男(養子)。南部氏支族で久慈氏の出とも言われる。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、所領を安堵された。元関白・近衛前久の猶子となり本姓を藤原とした。牡丹紋の他、卍紋も使用。画像は津軽家墓所にて撮影。


仙石秀久 。1552年2月20日 - 1614年6月13日、 武将・大名。
美濃の豪族・仙石久盛の四男として美濃で生まれる。仙石氏は清和源氏である土岐氏の支流。羽柴秀吉の家臣として仕える。賤ヶ岳の戦いが終結すると、これまでの功が評価され、淡路国洲本城主5万石の大名となる。家紋は丸に無の字紋と永楽銭紋


蜂須賀家政 。1558年 - 1639年2月2日、 武将・大名。
尾張国丹羽郡宮後村出身。蜂須賀正勝の長男。父の替りに阿波の大名に任じられて徳島藩祖となる。阿波踊りは城が竣工した折、家政が城下に城の完成祝いとして「好きに踊れ」という触れを出したことが発祥と言われている。家紋は蜂須賀万字。


石田三成 。1560年 - 1600年11月6日、 武将・大名。
近江国坂田郡石田村出身。秀吉の小姓として仕える。豊臣政権の五奉行の一人。家康を排除すべく、上杉景勝直江兼続らと挙兵するが関が原の戦いで破れる。画像は関が原合戦図屏風に描かれた大一大万大吉紋。九曜紋も使用。


大野治長 。1569年 - 1615年6月4日、 武将。豊臣家の家臣。
京都出身。豊臣秀吉の馬廻衆として取り立てられた。秀吉の死後は豊臣秀頼の側近として仕えた。家康暗殺疑惑事件の首謀者としてその罪を問われ下野国に流罪される。大坂夏の陣で破れ自害。家紋は大文字。画像は大河ドラマ「江」中の治長(武田真治)。


支倉常長 。1571年 - 1622年8月7日、 武将。
羽州置賜郡長井荘立石邑に生まれる。、山口常成の子。伯父支倉時正の養子となる。伊達氏の家臣。文禄・慶長の役に従軍して朝鮮に渡海。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、ローマでは貴族に列せられた。家紋は、違い矢に右卍紋。


宇喜多秀家 。1572年 - 1655年12月17日、 武将・大名。
備前国岡山城主の宇喜多直家の次男。幼名は八郎。羽柴秀吉の遠征軍に組み込まれ秀吉による備中高松城攻めに協力。秀吉の寵愛を受けてその猶子となる。豊臣政権下の五大老の一人。関が原の戦いに敗れ配流。家紋は剣片喰(左)と児の字(右)。


春日局 。1579年 - 1643年10月26日、 家光の乳母。
実家の斎藤家は美濃国の守護代を代々務めた武家の名門。本名は斎藤福。伯父稲葉重通の養女となり、稲葉一鉄の縁者で稲葉正成の後妻となる。江戸城大奥の礎を築いた人物。墓所には葵紋と稲葉家の家紋・折敷に三の字がある。


三井高利 。1622年 - 1694年5月29日、 商人。
六角氏の旧臣・三井高安の長男・高俊が武士を捨て伊勢国松坂で質屋と造り酒屋を開業。三井家の姓は藤原。三井家の基礎を築き江戸本町に呉服店を開業。屋号を越後屋(後の三越)とし、後に両替商も開業。家紋は井桁に三の字と四つ目結紋。


高松喜六 。1600年代 - 1713年10月7日、 名主。
江戸浅草阿部川町の名主。読みは、たかまつきろく。元禄11年、あたらしい宿場開設を幕府に願いでて、内藤氏屋敷前に内藤新宿をひらき、甲州街道をとりしまる名主となった。家紋は抱き鷹の羽に変わり「高」の文字紋。画像は四谷・愛染院にて撮影。


貝原益軒 。1630年12月17日 - 1714年10月5日、 本草学者。
筑前国福岡藩士、貝原寛斎の五男。読みは、かいばらえきけん。京都留学で本草学や朱子学等を学び、木下順庵、山崎闇斎らと交友を深める。著書は六十部二百七十余巻に及ぶ。主著は『大和本草』『養生訓』『和俗童子訓』。家紋は一の字紋。


近松門左衛門 。1653年 - 1725年1月6日、 人形浄瑠璃作者。
越前藩士・杉森信義の子として生まれた。本名は杉森信盛。竹本座に属する浄瑠璃作者で、中途で歌舞伎狂言作者に転向した。100作以上の浄瑠璃を書いた。代表作は『曾根崎心中』『国性爺合戦』『心中天網島』。家紋の丸に一の字紋は広済寺にて撮影。


林子平 。1738年8月6日 - 1793年7月28日、 経世論家。
江戸出身。読みは、はやししへい。ロシアの脅威を説き、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著し、高山彦九郎蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人といわれた。家紋は折敷に三の字紋。仙台の龍雲院にある墓所の写真より判断。


鶴屋南北(4代) 。1755年 - 1829年12月22日、 歌舞伎狂言作者。
江戸日本橋出身。幼名は勝次郎、通称は源蔵。文化文政期の爛熟した町人文化を色濃く反映した作品を世に出す。単に鶴屋南北または南北というとこの四代目のこと。代表作は『東海道四谷怪談』『盟三五大切』『繪本合法衢』。家紋は丸に大の字紋。


大槻玄沢 。1757年11月9日 - 1827年4月25日、 蘭学者。
陸奥国西磐井郡中里出身。一関藩の医師で、後に藩医となった大槻玄梁の長子。読みは、おおつきげんたく。杉田玄白前野良沢の弟子。私塾・芝蘭堂を開いて多くの人材育成。蘭学の入門書『蘭学階梯』『重訂解体新書』を著した。家紋は左卍紋。


山東京伝 。1761年9月13日 - 1816年10月27日、 絵師、戯作者。
江戸・深川出身。本名は岩瀬醒。読みは、さんとうきょうでん。生家岩瀬家は木場の質屋。黄表紙や洒落本で売れっ子作家となる。代表作は『江戸生艶気樺焼』『忠臣水滸伝』『近世奇跡考』等。寛政改革で手鎖の処罰を受けた。紋は巴山人の文字紋。


平田篤胤 。1776年10月6日 - 1843年11月2日、 国学者、神道家。
秋田藩士・大和田清兵衛祚胤の四男。備中松山藩士の兵学者・平田篤穏の養子となる。本居宣長らの後を引き継ぐ形で儒教・仏教と習合した神道を批判。その思想は尊皇攘夷の支柱となる。紋付、墓所の紋は右卍だが平田神社の神紋(画像)は左卍。


安藤広重 。1797年 - 1858年10月12日、 浮世絵師。
江戸の下級武士・八代洲河岸火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子。浮世絵師としては歌川広重と名乗る。風景画を主に制作し、一立齋と号を改める。主作品は『東海道五十三次絵』『名所江戸百景』等。家紋は"ヒロ"の文字を図案化した創作紋。


山田方谷 。1805年3月21日 - 1877年6月26日、 陽明学者。
備中松山藩領西方村出身。山田家は元は清和源氏の流れを汲む武家。読みは、やまだほうこく。藩校の筆頭教授に任命された。その後、藩政にも参加、財政の建て直しに貢献し、備中聖人と称された。家紋は、丸に吉の字。墓所の写真より判明。


杉田玄瑞 。1818年9月20日 - 1889年7月19日、 蘭学者。
尾張藩出身。旧姓は吉野。杉田家の養子となり杉田玄白の義理の孫となる。読みは、すぎたげんたん。若狭小浜藩医、蕃書調所教授、外国奉行支配翻訳御用頭取を歴任。医学書のみならず『地学正宗図』を完成。家紋は田の字紋。画像は青山霊園の墓所にて。


周布政之助 。1823年5月3日 - 1864年10月26日、 長州藩士。
長門国出身。藩士・周布吉左衛門の五男。周布氏は代々長州藩毛利家に仕えた家柄。財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力。禁門の変第一次長州征伐に際して事態の収拾に奔走。家紋は亀甲に久の字紋。青山霊園の墓所にて撮影。


税所敦子 。1825年4月23日 - 1900年2月4日、 歌人。
京都生まれ。税所篤之に嫁ぐ。旧姓林。皇后の歌のお相手として宮中に出仕。権掌侍となり楓内侍を名乗った。代表歌集は『御垣の下草』。ほかに紀行文集『心つくし』がある。家紋は丸に木の字紋だが、青山霊園の墓所の木の字が横になっている。


得能良介 。1825年12月18日 - 1883年12月27日、 武士、官僚。
鹿児島城下新屋敷に出生。薩摩藩士・得能直助の長男。読みは、とくのうりょうすけ。維新後、大久保利通の推挙によって大蔵大丞兼民部大丞に任じられ、その後も司法大丞、初代大蔵技監等を歴任。家紋は丸に三つ割菊に三の字紋。画像は青山霊園にて。


井上源三郎 。1829年4月4日 - 1868年1月29日、 新選組の隊士。
武蔵国日野宿北原出身。八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の三男。土方歳三近藤勇の兄弟弟子。新選組の六番隊組長を務める。NHK大河ドラマ「新選組!」では小林隆が演じる(顔画像)。家紋は丸に井の字紋。画像は日野市の宝泉寺にて撮影。


吉田松陰 。1830年8月4日 - 1859年10月27日、 思想家、教育者。
萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。読みは、よしだしょういん。私塾松下村塾にて、木戸孝允高杉晋作を初め、久坂玄瑞伊藤博文山縣有朋吉田稔麿、前原一誠などを育てるが、安政の大獄により斬首刑に処される。


三島通庸 。1835年6月26日 - 1888年10月23日、 内務官僚。
薩摩藩士三島通純の長男。読みは、みしまみちつね。三島家は代々藩の鼓指南役。山形県・福島県・栃木県の各県令、内務省土木局長、警視総監を歴任。強引な土木工事により鬼県令と称された。家紋は折敷に三文字紋。画像は青山霊園の墓所にて。


山城屋和助 。1836年 - 1872年12月29日、 陸軍省御用商人。
周防国玖珂郡出身。医師・野村信高右の四男。本名は野村三千三。読みは、やましろやわすけ。奇兵隊に入隊し山縣有朋の部下として戊辰戦争に参戦。長州人脈を活かして兵部省御用商人となるが汚職が発覚し自殺(山城屋事件)。家紋は"の"の字菱紋。


川村純義 。1836年12月18日 - 1904年8月12日、 海軍軍人。
薩摩出身。読みは、かわむらすみよし。戊辰戦争では奮戦。維新後は明治政府の海軍整備に尽力。明治天皇からの信任が篤く、皇孫(後の昭和天皇)の養育を任じられ、死後海軍大将に昇進。家紋は四つ寄せ吉の字紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


近藤長次郎 。1838年4月1日 - 1866年2月28日、 志士。
土佐国出身。高知城下の饅頭商人の息子。後に近藤長次郎、上杉宋次郎、近藤昶次郎、梅花道人等と名乗る。坂本龍馬と共に海援隊の前身である亀山社中を設立。長州藩に小銃を売り渡している。花菱紋、五瓜に剣片喰紋、卍紋が墓所に掘られている。


森村市左衛門 。1839年12月2日 - 1919年9月11日、 実業家。
初代・市左衛門は遠江国森村出身とされる。当人は6代目。匿名組合森村組(現・森村商事)を設立。後に日本碍子、日本特殊陶業、日本陶器合名会社、東洋陶器株式会社(現・TOTO)も設立。家紋は下り藤と丸に木の字紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


船越衛 。1840年7月13日 - 1913年12月23日、 官僚。
安芸国出身。父は広島藩の財務官僚・船越昌隆。読みは、ふなこしまもる。第1次長州征伐の際に長州藩と江戸幕府の和平交渉の仲介役に立つ。維新後は兵部大丞、千葉、石川県令、貴族院勅撰議員を歴任。家紋は丸に舟の字紋。青山霊園の墓所にて撮影。


久坂玄瑞 。1840年5月 - 1864年8月20日、 武士・長州藩士。
長門国萩平安古に萩藩医・久坂良迪、富子の二男として出生。松下村塾に学び高杉晋作吉田稔麿と共に村塾の三秀といわれた。安政の大獄によって松陰が刑死した後、尊攘運動の先頭に立つ。禁門の変で負傷し、自刃する。家紋は隅立角に三の字紋。


馬越恭平 。1844年11月21日 - 1933年4月20日、 実業家。
岡山県後月郡の医家に生まれる。読みは、うまごしきょうへい。三井物産に勤務した後、大日本麦酒(日本麦酒、朝日麦酒、札幌麦酒の合併会社)社長を務め日本のビール王とよばれた。また茶人・馬越化生としても知られた。家紋は折敷に縮み三の字紋。


河野敏鎌 。1844年11月29日 - 1895年4月20日、 政治家。
土佐国出身。郷士・河野通好の長男。読みは、こうのとがま。土佐勤王党に加盟して武市瑞山坂本龍馬らと交友関係を持つ。維新後は内務大臣、司法大臣、農商務大臣、文部大臣などを歴任。家紋は揺り三の字紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


林忠崇 。1848年8月26日 - 1941年1月22日、 大名。
上総国請西藩主林忠旭の五男。読みは、はやしただたか。戊辰戦争の際、自ら脱藩して藩士70名とともに遊撃隊に参加し伊庭八郎等とともに新政府軍と交戦。維新後は一介の士族として困窮した生活を送った。家紋は丸に三つ巴に一の字紋と三階菱紋。


柴山矢八 。1850年8月20日 - 1924年1月27日、 海軍軍人。
薩摩国出身。薩摩藩士柴山良庵の三男。日露戦争後、旅順口鎮守府の初代長官に抜擢された。事務方のエキスパートとして地道な功績を積み重ね、最終階級は海軍大将になる。彫刻家・土方久功は孫。家紋は山の丸字紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


湯浅治郎 。1850年11月24日 - 1932年6月7日、 社会運動家。
上野国碓氷郡安中宿の味噌醤油醸造業者・湯浅治郎吉の長子。同郷の新島襄と親しく交わりキリスト教の洗礼を受ける。同志社や義弟・徳富蘇峰民友社を支援。同志社、日本組合基督教会の理事。家紋は丸に卍。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


神尾光臣 。1855年2月27日 - 1927年2月6日、 陸軍軍人。
信濃国出身。諏訪藩士・神尾平三郎の次男。読みは、かみおみつおみ。西南戦争、日清戦争、日露戦争に従軍。最終階級は陸軍大将。戦功により勲一等功一級男爵を賜る。家紋は抱き沢瀉に大の字紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


長岡外史 。1858年6月23日 - 1933年4月21日、 陸軍軍人。
周防国都濃郡出身。父は大庄屋・堀三右衛門。徳山藩士・長岡南陽の養子となる。陸軍少将・歩兵第9旅団長、陸軍中将、衆議院議員を歴任。司馬遼太郎の『坂の上の雲』における評価は低い。家紋は丸に一文字に剣山の字紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


八代六郎 。1860年1月25日 - 1930年6月30日、 海軍軍人。
愛知県犬山市出身。地主、松山庄七の三男。水戸藩浪士・八代逸平の養子となる。海軍大学校校長、海軍大臣などを歴任。最終階級は海軍大将。NHKドラマ『坂の上の雲』では片岡鶴太郎が演じた。家紋は折敷に三の字紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


三宅雪嶺 。1860年7月7日 - 1945年11月26日、 哲学者、評論家。
加賀国金沢出身。加賀藩家老・本多家の儒医・三宅恒の子。本名は雄二郎。読みは、みやけせつれい。国粋主義の立場を主張する為『日本人』を創刊。主著は『真善美日本人』『偽悪醜日本人』。家紋は島形に児文字。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


中村不折 。1866年8月19日 - 1943年6月6日、 洋画家、書家。
江戸・京橋生まれ。歴史画の分野で活躍。森鴎外夏目漱石等の作家とも親しく『吾輩は猫である』『若菜集』などの挿絵や題字を書いた。また、書は新宿中村屋の商品表記にも生きている。家紋は丸に原の角字紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


藤田豊八 。1869年9月15日 - 1929年7月15日、 東洋史学者。
阿波国美馬郡郡里村出身。早稲田大学や東洋大学において中国文学史を講じる。主な著書に『中等教育東洋史』『東西交渉史の研究』がある。また、中国の大学に招かれ、その教育水準の向上にも尽力。家紋は丸に一の角字紋。画像は多磨霊園にて撮影。


久留島武彦 。1874年6月19日 - 1960年6月27日、 児童文学者。
大分県玖珠郡森町出身。村上水軍の末裔である来島通総の直系の子孫。アンデルセンの復権を訴えて日本のアンデルセンと呼ばれた。また童謡『夕やけ小やけ』の作詞者としても知られる。家紋は折敷に縮み三の字紋。画像は鶴見・総持寺にて撮影。


北沢楽天 。1876年7月20日 - 1955年8月25日、 漫画家。
埼玉県足立郡大宮宿出身。北澤家は代々紀州徳川家の鷹羽本陣御鳥見役。新聞や雑誌を中心に多数の政治風刺漫画や風俗漫画を執筆。『楽天全集』は手塚治虫に影響を与えた。北沢家の家紋は丸に違い鷹羽紋であるが楽天の墓所には丸に卍紋がある。


志賀直哉 。1883年2月20日 - 1971年10月21日、 小説家。
宮城県石巻市出身。祖父・直道は旧相馬中村藩主相馬家の家令。父・直温は明治期の財界人。白樺派を代表する小説家の一人。代表作は『暗夜行路』『小僧の神様』『城の崎にて』『清兵衛と瓢箪』。家紋は丸に十文字紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


山本実彦 。1885年1月5日 - 1952年7月1日、 出版人。
鹿児島県薩摩川内市出身。読みは、やまもとさねひこ。記者を経て、東京毎日新聞社社長に就任。改造社を創業し、総合雑誌『改造』を創刊。志賀直哉の『暗夜行路』や林芙美子の『放浪記』等を掲載。家紋は山本文字紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


大貫晶川 。1887年2月23日 - 1938年11月2日、 詩人、小説家。
神奈川県橘樹郡出身。大貫寅吉の次男。本名は雪之助。読みは、おおぬきしょうせん。岡本かの子の兄。東京府立第一中学時代、谷崎潤一郎と影響しあう。新詩社に入り小説『お須磨』などを発表。第2次「新思潮」の創刊に加わる。家紋は丸に大の字紋。


安岡正篤 。1898年2月13日 - 1983年12月13日、 思想家。
大阪市出身。読みは、やすおかまさひろ。終戦の詔書の原稿を推敲したり、数々の内閣総理大臣の指南役を果たすなど、数々の伝説を残し、政界・財界・皇室までもが安岡を頼りにしていたことから昭和最大の黒幕と評される。家紋は隅入角に三つ引紋。


土方与志 。1898年4月16日 - 1959年6月4日、 演出家。
東京出身。本名は久敬。祖父・久元は土佐藩出身で維新後は宮内大臣・國學院大學学長などを務めた。築地小劇場を開設し翻訳劇を中心に新劇運動の拠点とする。終戦後は前進座や舞台芸術学院で演劇活動を再開。家紋は一の角字。染井霊園の墓所にて撮影。


田谷力三 。1899年1月13日 - 1988年3月30日、 オペラ歌手。
東京・神田出身。旗本の血を引く。読みは、たやりきぞう。正統派のテノール歌手だけでなく浅草演芸界の花形として多くのファンに愛された。紫綬褒章、勲四等旭日小綬章、日本レコード大賞特別賞を受賞。家紋は三つ巴の字丸紋。画像は池上本門寺にて。


西田税 。1901年10月3日 - 1937年8月19日、 思想家。
鳥取県米子市出身。読みは、にしだみつぎ。国家革新の志を抱き二・二六事件で国家転覆を図った首謀者の一人として逮捕され刑死した。家紋は丸に文の字。西田家の祖・太平の号である文周の「文」の字か?西田家集合写真の背景の弾幕より推測。


丸岡明 。1907年6月29日 - 1968年8月24日、 小説家。
東京市麹町に、落合直文門下の歌人・丸岡桂の長男として生まれる。『静かな影絵』『街の灯』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。能の解説、編集も多く、原民喜をモデルとした『贋きりすと』などを書いた。家紋は岡文字丸紋。青山霊園の墓所にて撮影。


藤枝静男 。1907年12月20日 - 1993年4月16日、 作家。
静岡県藤枝出身。本名は勝見次郎。『空気頭』で芸術選奨文部大臣賞、『愛国者たち』で平林たい子文学賞、『田紳有楽』で谷崎潤一郎賞、『悲しいだけ』で野間文芸賞を受賞。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に正の字紋。


内藤頼博 。1908年3月12日 - 2000年12月5日、 弁護士、教育家。
東京府豊多摩郡内藤新宿町出身。読みは、ないとうよりひろ。旧信州高遠藩主内藤子爵家の第14代当主。弁護士業の傍ら、多摩美術大学理事長、学習院院長等を歴任。家紋は丸に十字紋、下り藤紋。画像は新宿・太宗寺の内藤家墓所にて撮影。


福永武彦 。1918年3月19日 - 1979年8月13日、 小説家、詩人。
福岡県二日市町出身。加藤周一らと文学同人マチネ・ポエティクを結成。堀田善衛らとの共作『発光妖精とモスラ』は映画『モスラ』の原作となる。代表作『廃市』『風のかたみ』『草の花』。家紋は丸に福の字紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


五味康祐 。1921年12月20日 - 1980年4月1日、 小説家。
大阪府難波生まれ。剣豪を扱った歴史・時代小説を始め数々の作品を発表。麻雀小説家としても名高い。第28回芥川を受賞。代表作は『喪神』『柳生武芸帳』『五味マージャン教室』『西方の音』等。建長寺の墓地には大一大吉大万紋が彫られている。


丹波哲郎 。1922年7月17日 - 2006年9月24日、 俳優。
東京府出身。祖父・敬三は薬学者。系図を遡ると平安時代に医学書『医心方』を著した丹波康頼に辿り着く。心霊学と霊界に造詣が深い。代表出演作『二百三高地』『Gメン75』『大霊界』等。家紋は丸に木の字紋。多磨霊園の丹波家墓所にて撮影。


市川左團次(4代) 。1940年11月12日 - 、 俳優、歌舞伎役者。
東京都出身。本名は荒川欣也。長男は六代目市川男女蔵、孫は七代目市川男寅。『勧進帳』の常陸坊、『助六』の意休などが当り役。テレビでは大河ドラマ『義経』で金売り吉次役を演じる。家紋は三升に左字紋。画像は池上本門寺の三代目の墓所にて撮影。


桂文枝(6代) 。1943年7月16日 -、 落語家、司会者。
大阪府堺市出身。西川きよし笑福亭仁鶴と並ぶ吉本興業三巨頭の一人。「パンチDEデート」「新婚さんいらっしゃい!」「三枝の国盗りゲーム」など多数の番組で司会をする。2012年に桂文枝を襲名。家紋は文枝紋。桂文枝一門の定紋は結三柏紋。


林家染丸(4代) 。1949年10月10日 - 、 上方噺家。
大阪市出身。本名は木村行志。3代目染丸に入門。出囃子は『正札付』。上方落語協会理事。2012年には紫綬褒章受賞。現在は京都造形芸術大学客員教授。家紋はぬの字うさぎ紋。情報は、上方落語協会の情報誌である「んなあほな」より。


坂東三津五郎(10代) 。1956年1月23日 - 、 俳優、歌舞伎役者。
東京都中央区出身。本名は守田寿。読みは、ばんどうみつごろう。長男に二代目坂東巳之助、長女に女優の守田菜生、また従妹に女優の池上季実子がいる。出演作品は『武士の一分』『母べえ』『功名が辻』など。家紋は三ツ大。替紋は花かつみ。


桑田佳祐 。1956年2月26日 - 、 ミュージシャン。
神奈川県茅ヶ崎市出身。妻は原由子。サザンオールスターズのリード・オフ・マン。代表曲は『いとしのエリー』『真夏の果実』『TSUNAMI』など多数。ポップスの神の称号を持つ。家紋は丸に桑の字。2010年の第61回紅白歌合戦の時の紋付より。


田中好子 。1956年4月8日 - 2011年4月21日、 女優、歌手。
東京都足立区梅田出身。実家は田中屋釣具店。本名は、小達好子。アイドル歌手でキャンディーズのメンバー。主な出演映像作品は『おしん』『黒い雨』『家なき子』など多数。家紋は亀甲に小の文字紋。画像は、多磨霊園の小幡家の墓所にて撮影。


姫井由美子 。1959年2月14日 - 、 政治家。
岡山県岡山市中区出身。2006年12月に民主党候補として参議院選挙立候補。「姫の虎退治」をキャッチフレーズに自民党前職で自民党参議院幹事長の片山虎之助を破り初当選を果たす。その後、不倫スキャンダル等を起こす。家紋は丸に上の角字紋。


おちまさと 。1965年12月23日 - 、 プロデューサー。
東京都出身。本名は、越智真人。様々なジャンルにおける広範なプロデュース業を行う。自身のブログで家紋は折敷に縮み三の字紋であることを告白。家紋画像はそのブログにアップされた、自身の家紋と同じとして紹介された三島神社の神紋。


西島千博 。1971年10月21日 - 、 俳優、バレエダンサー。
宮崎県日向市生まれ。TVドラマ「池袋ウエストゲートパーク」の尾崎京一役が有名。真矢みきと結婚。画像はその婚礼時の紋付より。波多野氏の一族・岩間氏の兄弟の一人が西島姓に改姓(13世紀)した際、「岩間」の名前をこの「丸に岩の字」紋に残した。


羽田惠理香 。1973年3月7日 - 、 タレント。
東京都中野区出身。読みは、はねだえりか。CoCoのメンバーとしてデビュー。グループ解散後も、タレントとしてソロで活躍。家紋は丸に羽の字。オフィシャルブログ「Erikaちゃんぷるー」に掲載された実家・菩提寺の墓所の家紋写真より判断。


松田直樹 。1977年3月14日 - 2011年8月4日、 サッカー選手。
群馬県桐生市出身。元日本代表。 ポジションはディフェンダー。U-16日本代表に招集されて以来、各世代の日本代表に選出され、アトランタ五輪、シドニー五輪、日韓W杯などで活躍するが34歳の若さで夭折。家紋の丸に二の角字紋は葬儀写真にて確認。


朝吹真理子 。1984年12月19日 - 、 小説家。
東京都出身。デビュー作は「流跡」。「きことわ」で第144回芥川賞を受賞した。高祖父に朝吹英二、長岡外史久原房之助がいる。歌手の石井好子は大叔母。北海道岩見澤市にあった万字炭鉱は経営にあたった朝吹家の家紋の卍より取られたという。


有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)

まさむね





引両紋 -無骨な武家紋の代表- 足利尊氏、近藤勇、オノ・ヨーコ...

引両紋は、源平時代からある古い紋である。
引両の両は霊(精霊)を表し一引両は「日」を、二引両は「月」を表すという説、両は「龍」を表すという説、あるいは「結界」を表すという説などがあり、いまだに議論が続いている。

ただ、少なくとも武家の紋が元々、戦場で自分を目立たせるためにつけたのが始まりであるため、引両のような簡単に描ける紋は実用的だったのではないかと考えられている。
建武の時代、新田軍(一引両)が足利軍(二引両)を追い落とした際に投降した兵士達が自持の笠符(かさじるし)の二引の間の白いところを黒く塗りつぶし、急ごしらえで一引両に直したため、翌日、五条の辻に以下のような落書が書かれたという。(「家紋散策」による)

二筋の中の白みを塗り隠し 新田新田(ニタニタ)しげな 笠符かな


室町時代が全盛で、足利氏族の吉良、斯波、一色、山名、今川、細川、畠山等の大名がこの紋を使用した。
種類としては、線の数で、一引両、二引両、三引両がある。

シンプルで、ある意味、無骨な紋のため、鍋蓋、あるいは釜蓋などと呼ばれ、女性からは人気がなかったようである。

全国分布では18位。特に多い地域は、山梨県(11位)、東京都(12位)、岩手県、秋田県、宮城県、山形県、福島県、愛媛県などが13位、栃木県、長野県が14位、青森県、群馬県、千葉県、兵庫県、岡山県、広島県で15位といったところ。

有名人では以下の人々が使っている。元々武家紋であるため政治家が多い。



新田義貞 。1301年 - 1338年8月17日、 武将。
源義国の子・贈鎮守府将軍新田義重を祖とする上野国に土着した新田氏本宗家の8代目棟梁。読みは、にったよしさだ。足利尊氏の京都六波羅攻略に呼応して挙兵。北条方を撃破し、鎌倉幕府を滅亡させる。家紋は新田一つ引両紋(大中黒紋)。


足利尊氏 。1305年8月18日 - 1358年6月7日、 武将。
鎌倉幕府の御家人・足利貞氏の次男。読みは、あしかがたかうじ。後醍醐天皇挙兵に応じて六波羅探題を滅ぼすが建武の新政に失望し光明天皇を擁立、征夷大将軍に補任され室町幕府を開く。画像は足利市・法玄寺の北条時子墓の丸に二引両紋。


赤松満祐 。1381年 - 1441年9月25日、 守護大名。
播磨・美作・備前の守護大名・赤松義則の子。読みは、あかまつみつすけ。二度に渡って侍所頭人を務め幕府内の長老格として権勢を振るう。結城合戦の祝勝会として足利義教を自邸に招き暗殺(嘉吉の乱)するが派遣された幕府軍に敗北した。


山名宗全 。1404年7月6日 - 1473年4月15日、 守護大名。
家系は清和源氏、河内源氏の流れを汲む新田氏庶流の山名氏。読みは、やまなそうぜん。嘉吉の乱後、播磨国など8ヶ国の守護職を得て権勢を得た。大内氏や細川氏と縁戚関係を結ぶが足利義政と対立。応仁の乱では西軍を率い幕府管領の細川勝元と対抗した。


三浦義同 。1451年 - 1516年8月19日、 武将、小大名。
扇谷上杉家から、新井城(三崎城とも)主・三浦時高の養子に入る。出家後の「三浦道寸」の名で呼ばれることも多い。読みは、みうらよしあつ。北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族・相模三浦氏の事実上の最後の当主。家紋は三つ引。


今川義元 。1519年 - 1560年6月12日、 守護大名、戦国大名。
駿河今川家第9代当主。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の流れを汲む足利氏の傍流吉良氏の分家にあたる。所領も駿河・遠江・三河、尾張の一部にまで拡大したが桶狭間の戦い織田信長軍の奇襲により戦死。家紋は二引両と赤鳥(左)。


蘆名盛氏 。1521年 - 1580年7月28日、 陸奥の武将。
第15代当主・蘆名盛舜の子として生まれる。山内氏を討ち、会津から中通りにかけて勢力を拡大。一方で白河結城氏の白河義親の家督相続問題に介入したり、二階堂盛義を攻めて降伏させ二本松義国と同盟する等して軍事的・政治的に勢力を拡大した。


吉川元春 。1530年 - 1586年12月25日、 武将。
毛利元就の次男で毛利両川の一人。吉川氏は藤原南家流、安芸国を領有した鎌倉幕府御家人。毛利両川の一人として弟の小早川隆景と共に毛利家発展の基礎を築き上げた名将。生涯で76度の合戦に臨み64度の勝利を収める。家紋は丸に三つ引両。


里見義弘 。1530年 - 1578年6月25日、 戦国時代の武将。
安房の戦国大名、里見義堯の長男。里見家の本姓は源氏。家系は源義重を祖とする新田氏の庶宗家。第二次国府台合戦で北条綱成と戦うなど、後北条氏と徹底して対立。安房、上総、下総にかけて一大領国体制を築き上げ、里見氏の最盛期を築き上げる。


古田織部 。1544年 - 1615年7月6日、 戦国時代の武将。
茶人の古田重定の子として生まれる。信長秀吉の家臣だが一般的には茶人として有名。利休七哲の一人。千利休が大成させた茶道を継承しつつ、茶器製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。


成田長親 。1545年 - 1613年1月24日、 武将。
成田泰季の嫡男。読みは、なりたながちか。豊臣秀吉による小田原征伐にさいして、忍城の防衛を行ない、城を守り切った。その後は当主氏長とともに蒲生氏郷のもとに一時身を寄せた。顔画像は映画「のぼうの城」の野村萬斎。家紋は丸に三つ引両紋。


最上義光 。1546年2月1日 - 1614年2月26日、 武将・大名。
家系は清和源氏の流れを汲む足利一門・斯波氏の血筋。最上氏第11代当主。読みは、もがみよしみつ。出羽山形藩初代藩主。伊達政宗の伯父にあたる。関ヶ原合戦において東軍につき、最上家を57万石の大大名に成長させた。家紋は二引両。


細川忠興 。1563年11月28日 - 1646年1月18日、 武将、大名。
将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。丹後宮津城主、豊前小倉藩初代、熊本藩細川家初代藩主。教養人・茶人としても有名。元首相の細川護熙は末裔。家紋は二引両(左)、細川桜(中央)、九曜(右)。


伊達政宗 。1567年9月5日 - 1636年6月27日、 武将。
出羽国出身。本姓は藤原氏。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。出羽国と陸奥国の戦国大名。仙台藩の初代藩主。最も古い紋は縦三つ引両。九曜紋は細川氏から使用を許可される。仙台笹、仙台牡丹も使用。画像は谷中霊園の伊達家墓所にて。


吉良義央 。1641年10月5日 - 1703年1月31日、 高家肝煎。
江戸鍛冶橋の吉良邸にて出生。高家旗本吉良義冬と酒井忠勝の姪の嫡男。読みは、きらよしひさ。吉良上野介と呼ばれることが多い。元禄赤穂事件の一方の当事者。創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。家紋は丸に二つ引・五三桐。


間部詮房 。1666年6月18日 - 1720年8月19日、 側用人、藩主。
6代将軍徳川家宣側用人として活躍。新井白石とともに、「正徳の治」を断行。猿楽師・喜多七太夫の弟子であったが、甲府藩主・徳川綱豊の用人として用いられ出世。のちに高崎藩5万石を得た。日本の歴史上において猿楽師が大名になった例は他にない。


遠山金四郎景元 。1793年9月27日 - 1855年4月15日、 旗本。
明知遠山氏の分家六代目にあたる人物。父親は長崎奉行を勤めた遠山左衛門尉景晋。正式な名のりは遠山左衛門尉景元。江戸北町奉行。時代劇『遠山の金さん』のモデルとして知られる。家紋は丸に二引き両。丸に九字直違も使用。


佐久間象山 。1811年2月28日 - 1864年7月11日、 思想家。
信濃国埴科郡生まれ。信濃松代藩士・佐久間一学の長男。読みは、さくましょうざん。私塾・象山塾生には長岡藩士以外にも勝海舟吉田松陰坂本龍馬などが名を連ねる。動乱の京都で開国佐幕派の策士として活動したが、暗殺された。


吉田東洋 。1816年 - 1862年5月6日、 土佐藩士、政治家。
土佐国出身。父は藩馬廻役吉田光四郎正清。土佐藩主山内容堂から参政に起用され富国強兵論を主張し藩政改革を行う。また私塾では後藤象二郎岩崎弥太郎などを育てる。家紋は半二つ引両紋。画像は息子・吉田正春の墓所(谷中霊園)にて撮影。


伊達宗城 。1818年9月1日 - 1892年12月20日、 大名・政治家。
江戸生まれ。旗本・山口直勝の次男。宇和島藩主伊達宗紀の養子となる。読みは、だてむねなり。後に宇和島藩8代藩主となり賢公と称えられる。家紋は他に宇和島笹、九曜紋等。画像は小金井公園にある宇和島藩伊達家・門の丸に竪三つ引両紋。


三浦休太郎 。1829年9月15日 - 1910年12月11日、 政治家。
西条藩出身。藩士・小川武貴の長男。紀州藩に出仕。いろは丸沈没事件で紀州藩代表として交渉。龍馬暗殺を疑われ天満屋事件では海援隊士らに急襲される。新政府では元老院議官、東京府知事等を歴任。家紋は丸に出二つ引両紋。画像は妙行寺にて。


若松竹軒 。1831年 ‐ 1908年12月18日、 漢学者。
上野沼田藩士。名は節。字(あざな)は甘吉。読みは、わかまつちくけん。川崎魯斎、佐藤一斎らに学ぶ。江戸麻布に漢学の塾を開き、のちに商工学校で教える。著作に「大学句解」がある。家紋は、丸に太二引両紋。護国寺の墓所にて撮影。


神保修理 。1834年 - 1868年3月15日、 会津藩家老。
会津藩出身。神保内蔵助利孝の長子。松平容保の上洛に随行。戊辰戦争では朝敵となることを恐れ、将軍・徳川慶喜と主君・松平容保に恭順を進言。最後は容保の戦中逃亡で混乱した藩内で弁明の機会も与えられぬまま切腹を命じられた。家紋は竪二引両紋。


近藤勇 。1834年11月9日 - 1868年5月17日、 幕臣。
武蔵国多摩郡出身。農民・宮川久次郎の三男。幼名は勝五郎。新選組局長として京都警護のため奔走。池田屋襲撃、禁門の変で活躍。戊辰戦争に敗れ、斬首されて京都・三条河原に梟首された。家紋は丸の内に三つ引両。画像は三鷹市・龍源寺にて撮影。


高畠藍泉 。1838年5月12日 - 1885年11月18日、 記者。
江戸幕府御本丸奥勤のお茶坊主衆の家に生まれる。読みは、たかばたけらんせん。東京日日新聞、読売新聞等の記者を務める。小説家としては「怪化百物語」等の作品がある。三世・柳亭種彦と言われた。画像は浅草松葉町正定寺の墓所にて撮影。


宮島誠一郎 。1838年8月25日 - 1911年3月15日、 官僚・政治家。
米沢藩の中級武士・宮島吉利の子として生まれる。幕末に締結された奥羽越列藩同盟交渉時に中心的な役割を果たした。明治維新後は自由民権運動に先駆けていち早く憲法制定・議会開設の建白を行なう。家紋は丸に二引両紋。青山霊園の墓所にて撮影。


松田道之 。1839年6月22日 - 1882年7月6日、 内務官僚、政治家。
鳥取藩家老・鵜殿氏の家臣久保居明の次子として生まれ、後に松田市太夫の嗣子となる。大津県令、滋賀県令、東京府知事を歴任。琉球処分において中心的な役割を果たした。家紋は外雪輪に変り三つ引両紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


原田左之助 。1840年 - 1868年7月6日、 新選組隊士。
伊予松山藩の中間だったが出奔。槍の名手。近藤勇の江戸道場、試衛館以来の生え抜き隊士で十番組長となる。池田屋事件禁門の変油小路事件等で活躍。彰義隊に加入し上野戦争の際に負傷した。家紋は丸に一引両紋。画像は薄桜鬼の原田左之助。


松本楓湖 。1840年10月9日 - 1923年6月22日、 日本画家。
常陸国河内郡出身。読みは、まつもとふうこ。欽定教科書『幼学綱要』全7巻において61図の挿絵を描き名を轟かせた。日本美術院の創設に参加。歴史画に長じ「蒙古襲来・碧蹄館図屏風」を発表。家紋は五つ瓜に丸に二引両。画像は谷中・全生庵にて撮影。


吉田稔麿 。1841年3月16日 - 1864年7月8日、 長州藩の活動家。
萩藩松本村新道の足軽吉田清内の嫡子。読みは、よしだとしまろ。吉田松陰松下村塾に入門し兵学を究める。高杉晋作久坂玄瑞と並び松陰門下の三秀の一人と称される。高杉晋作の創設した奇兵隊に参加。池田屋事件で憤死。家紋は丸に二つ引両。


高木兼寛 。1849年10月30日 - 1920年4月13日、 医学者。
薩摩藩士として日向国諸県郡穆佐郷に出生。読みは、たかきかねひろ。戊辰戦争には薩摩藩兵の軍医として従軍。東京慈恵会医科大学を創設し脚気の撲滅に尽力しビタミンの父と呼ばれる。また海軍の食事にカレーを導入した。画像は青山霊園にて撮影。


新井有貫 。1849年12月25日 - 1909年12月1日、 海軍軍人。
江戸出身。幕臣出身。読みは、あらいありつら。日清戦争に扶桑艦長として出征し黄海海戦で功をたてる。日露戦争時には仁川で沈没したロシア軍艦ワリアークの引き上げを成功させた。最終階級は海軍中将。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


松田秀雄 。1851年 - 1906年1月23日、 政治家。
近江国出身。彦根藩士の家。神田高等女学校を創立。 東京府会議員副議長、東京府会議長代理、東京府農工銀行頭取となる。第6回衆議院議員総選挙で、東京第7区から当選し、初代東京市長となる。家紋は折敷に二引両紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


荻野吟子 。1851年4月4日 - 1913年6月23日、 医師。
武蔵国幡羅郡俵瀬村に、代々苗字帯刀を許された名主の末娘として生まれる。近代日本における最初の女性の医師となり、本所区小梅町に医院を開業する。女性運動家としても知られ、廃娼運動に取り組む。家紋は丸に二引両。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


平山藤次郎 。1851年8月 - 1910年5月11日、 海軍軍人。
徳島藩出身。西南戦争で功あり太政官より金五十円を下賜される。「天城」艦長、「葛城」艦長を経て日清戦争で「八重山」艦長などを務めるも船上の不祥事で予備役に入る。最終階級は海軍大佐。丸に二引両紋。青山霊園の墓所にて撮影。


仁尾惟茂 。1853年12月28日 - 1932年4月11日、 官僚。
土佐国出身。読みは、におこれしげ。戊辰戦争や会津戦争に従軍。維新後、大蔵省の官僚として煙草専売局長、専売局長官などを歴任。韓国政府の財政顧問も勤める。中村市の日本たばこ構内に銅像が建つ。家紋は丸に二引両紋。画像は青山霊園にて撮影。


高平小五郎 。1854年1月29日 - 1926年11月28日、 外交官。
岩手県一関市の生まれ。陸奥国一関藩の藩士・田崎三徹の三男。外交官として日露講和会議に外務大臣小村寿太郎とともに全権委員として出席。駐米大使時代には高平・ルート協定を結んだ。家紋は丸に二引両紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


有馬良橘 。1861年12月16日 - 1944年5月1日、 海軍軍人。
紀伊和歌山に紀州藩士・有馬元函の長男として出生。読みは、ありまりょうきつ。養子に海軍中将・有馬寛がいる。日露戦争・旅順港閉塞作戦の立案者。最終階級は海軍大将。晩年は明治神宮宮司を務めた。家紋は丸に二引両紋。画像は青山霊園にて撮影。


浅田栄次 。1865年5月22日 - 1914年11月10日、 英語学者。
徳山藩出身。東京帝国大学(現:東京大学)にて数学を学んだ後、渡米して神学と言語学を学ぶ。帰国後、東京外国語学校(現:東京外国語大学)などにおいて英語教育に尽力した。家紋は隅切り鉄砲角に二引両紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


福田雅太郎 。1866年7月7日 - 1932年6月1日、 陸軍軍人。
大村藩藩士・福田市兵衛の二男。読みは、ふくだまさたろう。日露戦争では秋山真之らとともに対露早期開戦を主張。関東大震災時は関東戒厳司令官。最終階級は陸軍大将。大日本相撲協会会長にも着任。家紋は丸に竪二引両紋。青山霊園の墓所にて撮影。


神保小虎 。1867年6月19日 - 1924年1月18日、 地質・鉱物学者。
江戸の生まれ。北海道、樺太あるいはウラジオストック地方などの地質調査を行い東京地質学会会長、東京地学協会会長を務める。著作には『北海道地質報文』『日本鉱物略記』などがある。家紋は丸の内に縦二引き両紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


浜口雄幸 。1870年5月1日 - 1931年8月26日、 政治家。
高知県長岡郡出身。大蔵大臣、内務大臣歴任後、第27代内閣総理大臣となる。在任中に金解禁や緊縮政策を断行し、ロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。その風貌からライオン宰相と呼ばれた。家紋は丸に上付き二つ引両紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


島崎藤村 。1872年3月25日 - 1943年8月22日、 詩人、小説家。
信州木曾の馬籠(現在の岐阜県中津川市)生れ。本名、春樹。『文學界』に参加し、浪漫派詩人として『若菜集』などを刊行。『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。家紋は丸に三引両紋。画像は馬籠宿の永昌寺の島崎家墓所より。


木暮理太郎 。1873年12月7日 - 1944年5月7日、 登山家。
群馬県生まれ。山岳展望や登山史の研究、地名の考証にも大きな熱意を示す。著書『山の憶い出』は日本の山岳書中でも内容の濃い傑作される。職業は、雑誌『ハガキ文学』や東京市の史料の編纂。家紋は丸に三つ引両紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


朝河貫一 。1873年12月20日 - 1948年8月10日、 歴史学者。
福島県二本松市出身。父は旧二本松藩士朝河正澄。『日露衝突』を著し、全米各地で日露戦争における日本の姿勢を擁護し演説をする。また、日米開戦の回避のためにルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書を送るよう、働きかけを行った。


静間知次 。1876年5月5日 - 1926年12月7日、 陸軍軍人。
山口県出身。読みは、しずまともじ。日露戦争に野戦鉄道提理部員として従軍。戦後、陸軍砲工学校教官、伊大使館付武官など勤め国際連盟空軍代表、砲工学校長となる。最終階級は陸軍中将。家紋は丸に二引両紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


西義一 。1878年1月1日 - 1941年4月15日、 陸軍軍人。
福島県出身。旧会津藩士・西忠義の長男として生れる。日露戦争では第2師団後備野砲中隊長として出征。後に、第8師団長となり満州で活動した。最終階級は陸軍大将。家紋は丸の内に二引両紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


上田良武 。1878年5月6日 - 1957年2月21日、 海軍軍人。
鹿児島県出身。読みは、うえだよしたけ。正四位勲三等功四級。1924年に海軍少将となる。最終階級は海軍中将。義勇財団海防義会の理事長となる。終戦後に第一次A級戦犯として指名を受ける。家紋は丸に一引両紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


三船久蔵 。1883年4月21日 - 1965年1月27日、 柔道家。
岩手県久慈町に生まれる。読みは、みふねきゅうぞう。身長159cm、体重55kgの小柄な体型ながら「空気投げ」などの新技をあみ出し最高位の十段を授けられ「名人」の称を受ける。「柔道の神様」とあがめられた。画像は鎌倉霊園の墓所にて撮影。


中勘助 。1885年5月22日 - 1965年5月3日、 作家・詩人。
東京神田生まれ。漱石の推薦で自伝的小説『銀の匙』を東京朝日新聞に連載。嫌味のない美しい文章は、今なお評価が高い。文壇政治から距離を置き特定の派閥にとらわれない孤高の文人だった。野上弥生子の初恋の人。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


石原莞爾 。1889年1月18日 - 1949年8月15日、 陸軍軍人。
山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、石原啓介の息子。陸軍大学校を次席で卒業。満州事変を実行。23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で満州を占領した。スローガンは「王道楽土」「五族協和」。最終階級は陸軍中将。家紋は丸に三つ引両紋。


三神吾朗 。1889年11月6日 - 1958年6月24日、 プロ野球選手。
山梨県中巨摩郡出身。甲府電灯会社の創業者・三神有長の五男。日本にまだプロ野球が無い時代にアメリカのプロ野球チーム「オール・ネイションズ」でプレーしジャップ・ミカドという日本人選手として後世に伝説を残す。青山霊園の墓所にて撮影。


甘粕正彦 。1891年1月26日 - 1945年8月20日、 陸軍軍人。
宮城県出身。甘粕事件で軍法会議で懲役10年の刑を受けたが出獄。フランスに渡った後、満州事変の陰謀に加わり黒幕となる。満州国民政部警務司長に就任するが敗戦時に新京で服毒自殺した。最終階級は陸軍大尉。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


成田きん 。1892年8月1日 - 2000年1月23日、 タレント。
愛知郡鳴海村で矢野家の長女。長寿で話題となった双子姉妹の一人。愛称はきんさん。(妹はぎんさん)。血液型O。満107歳没。100歳を過ぎても元気な姿は「理想の老後像」と言われ国民的アイドルとして慕われた。家紋は成田家の丸に二引両紋。


新田純興 。1897年1月14日 - 1984年8月1日、 サッカー指導者。
北海道出身。裁判官だった父の任地・函館にて出生。家は新田義貞の流れを組む。読みは、にったすみおき。大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)創設に尽力。後にJFA常務理事に就任。家紋は新田一つ引き紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


佐伯祐三 。1898年4月28日 - 1928年8月16日、 洋画家。
大阪市出身。藤島武二に師事し東京美術学校に学ぶ。満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し、代表作の多くはパリで描かれている。代表作は『郵便配達夫』『パリの裏街』『ガス灯と広告』など。家紋は丸の内に二引両紋。


小国英雄 。1904年7月9日 - 1996年2月5日、 脚本家。
青森県八戸市出身。読みは、おぐにひでお。黒澤作品の脚本家として活躍。代表脚本は『生きる』『天国と地獄』。映画監督としては『ロッパ歌の都へ行く』『金語楼の親爺三重奏』を残す。家紋は丸の内の三引両紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


万城目正 。1905年1月31日 - 1968年4月25日、 作曲家。
北海道十勝支庁中川郡出身。本名は萬城目侃。読みは、まんじょうめただし。美空ひばり、島倉千代子の歌を多く作曲。代表作は、「愛染夜曲」「リンゴの唄」「東京キッド」など。家紋は十曜に一引両紋。画像は、仙台市の龍雲寺の墓所。


ディック・ミネ 。1908年10月5日 - 1991年6月10日、 歌手。
徳島市出身。本名は、三根徳一。東京帝国大学卒の厳格な教育者・三根円次郎(土佐中学校・高等学校・初代校長)を父に持ち、日光東照宮の宮司の娘を母に持つ。代表曲は『波止場がらす』『二人は若い』。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


古関裕而 。1909年8月11日 - 1989年8月18日、 作曲家。
福島県福島市の呉服店「喜多三」に出生。本名は古關勇治。読みは、こせきゆうじ。早大応援歌「紺碧の空」、高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神の「六甲おろし」など多くの応援歌の作曲を手がける。家紋は丸に二引き。画像は春秋苑にて撮影。


山形勲 。1915年7月25日 - 1996年6月28日、 俳優。
英国・ロンドン生まれ。本名は塙勲。時代劇の名悪役として名高い。『水戸黄門』の柳沢吉保役ははまり役。米国アカデミー賞と世界三大映画祭(カンヌ・ベルリン・ヴェネツィア)の全てで受賞。家紋は丸に二引両紋。画像は南池袋・玄静寺の墓所。


丘灯至夫 。1917年2月8日 - 2009年11月24日、 作詞家。
福島県田村郡小野新町出身。本名・西山安吉。読みは、おかとしお。代表作は『高原列車は行く』『高校三年生』等の歌謡曲や『ハクション大魔王』『みなしごハッチ』『ガッチャマンファイター』などのアニメ主題歌。家紋は丸の内に二引両紋。


村田英雄 。1929年1月17日 - 2002年6月13日、 演歌歌手、俳優。
佐賀県東松浦郡相知町出身。出生は福岡県浮羽郡吉井町。本名は梶山勇。「王将」のミリオンヒットにより第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。「人生劇場 飛車角」「兄弟仁義」等の任侠映画に出演。家紋は丸に二引両紋。記念館のHPのアイコンもこの紋。


三橋美智也 。1930年11月10日 - 1996年1月8日、 演歌歌手。
北海道函館市近郊の上磯町出身。本名は北沢美智也。春日八郎村田英雄らとともに戦後日本を代表する流行歌手。代表曲は「古城」「哀愁列車」など多数。三橋美智也の家紋は丸に三つ引両紋だが、小平霊園の北沢美智也の墓には丸に橘紋がある。


三浦哲郎 。1931年3月16日 - 2010年8月29日、 作家。
青森県八戸市三日町の呉服屋「丸三」の三男として出生。読みは、みうらてつお。『忍ぶ川』で芥川賞を受賞。NHK朝の連続テレビ小説『繭子ひとり』の原作を書く。1984年から2003年まで芥川賞選考委員を務めた。家紋は丸に三つ引両紋。


オノ・ヨーコ 。1933年2月18日 - 、 前衛芸術家。平和運動家。
東京府出身。明治・大正期の銀行家、日本興業銀行の第4代総裁・小野英二郎の孫。ジョン=レノンと結婚。レノン死後も「愛と平和」のメッセージを世界に向けて発信し続ける。家紋は丸の内に一引両紋。画像は多磨霊園の小野家墓所にて撮影。


若尾文子 。1933年11月8日 - 、 女優。
東京市豊島区出身。本名は黒川文子。亡夫は建築家の黒川紀章。甲州財閥・若尾逸郎の一族。大映から映画界入り。代表出演作は『赤線地帯』『女は二度生れる』『新・平家物語』など。家紋は丸に三つ引両紋。画像は多磨霊園の若尾徳平の墓所にて撮影。


高橋悦史 。1935年8月2日 - 1996年5月19日、 俳優で、声優。
大阪府岸和田市に大工の息子。日活映画『私、違っているかしら』に出演し映画デビュー。岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』の青年将校役に抜擢され注目を浴びる。出演作『戦争と人間』『皇帝のいない八月』等。画像は春秋苑にて撮影。


片岡仁左衛門(15代) 。1944年3月14日 - 、 歌舞伎役者、俳優。
大阪府に生まれる。十三代目片岡仁左衛門の三男。芸術祭賞、毎日芸術賞、紫綬褒章等を受賞。テレビドラマ「太閤記」「太平記」「元禄太平記」等に出演。家紋は丸に二引両。また池上本門寺の片岡氏墓所には一つ銀杏巴の紋がある。


ピーコ 。1945年1月18日 - 、 タレント、評論家。
神奈川県横浜市保土ケ谷区出身。本名:杉浦克昭。映画評論家のおすぎは一卵性双生児の弟。古舘伊知郎のスタイリストを担当。『とくダネ!』『笑っていいとも!』のレギュラー。『笑っていいとも!』出演時に家紋は丸に三つ引であることを告白。


有元利夫 。1946年9月23日 - 1985年2月24日、 画家。
岡山県津山市(疎開先)に出生。妻は日本画家の有元容子。独自の宗教的な画風で知られる。『花降る日』で安井賞特別賞、『室内楽』で安井賞を受賞。代表作は「厳格なカノン」「望郷」「出現」等。家紋は丸に二引両紋。画像は谷中・長久院にて撮影。


大原麗子 。1946年11月13日 - 2009年8月3日、 俳優。
東京都文京区出身。実家は老舗の和菓子屋。数多くの映画、テレビドラマに出演。サントリーCMの「すこし愛して、なが~く愛して」のキャッチコピーはよく知られた。代表出演作『おはん』『春日局』等。家紋は丸に三つ引き両紋。墓は烏山の妙寿寺。


三浦友和 。1952年1月28日 - 、 俳優。
山梨県塩山市出身。本名は三浦稔。山口百恵(妻)と共演した主演映画・ドラマが次々とヒットし百恵友和コンビ=ゴールデンコンビと呼ばれた。代表出演作は『赤いシリーズ』『独眼竜政宗』等。結婚式披露宴の紋付と姓名より三つ引両と判断。


小松健一 。1953年 - 、 写真家。
岡山県出身。群馬県に育つ。新聞記者などを経てフリーカメラマンとなる。藤本四八写真文化賞、日本写真家協会賞などを受賞。社団法人日本写真家協会会員、全日本写真連盟関東本部委員、日本ネパール写真交流協会会長。家紋は丸の内に三つ引両紋。


河野太郎 。1963年1月10日 - 、 政治家。
出身地は神奈川県平塚市。父は、元衆議院議長の河野洋平。祖父は元衆議院議員河野一郎。総務大臣政務官、法務副大臣を歴任。谷垣総裁の下で幹事長代理に正式に就任。家紋は丸に三つ引両紋。画像は小田原・成願寺の河野家墓所にて撮影。


栃東大裕 。1976年11月9日 - 、 元大相撲力士。
東京都足立区出身。元関脇・栃東知頼の次男。玉ノ井部屋に所属。序の口から幕の内まで各段優勝を果たす。最高位は大関。現在は年寄・14代玉ノ井。幕内最高優勝:3回。通算成績:560勝317敗169休(75場所)。家紋は丸に三つ引両。


琴奨菊和弘 。1984年1月30日 - 、 大相撲力士。
福岡県柳川市に建設会社の三男として生まれる。本名は菊次一弘。佐渡ヶ嶽部屋所属。得意技は左四つ、がぶり寄り、突き、押し。2011月9月場所で12勝を上げ、念願の大関昇進を果たす。時津風部屋の豊ノ島とは良きライバル。家紋は丸に二つ引両。


平山周吉 。1880年頃 - 不明、 「東京物語」の登場人物。
「東京物語」は1953年に封切りされた小津安二郎監督の映画作品。国際的評価が高い。主人公の平山周吉は笠智衆が演じる。作品のテーマは家族の繋がりと、その喪失。作品中、家紋の丸に三つ引両紋が平山家の玄関に飾られている。


有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)

まさむね





竹笹紋 -天の神様にあやかろうという人々の願い- 竹中半兵衛、新島襄、谷川俊太郎...

竹は不思議な植物である。他に類似する植物が無い。

特別の場所に群生し、その姿は天に伸びる。
古来、その姿は、美しさ、高潔さ、節操を意味するものとして尊ばれたのである。
そして、天から降ってくる異界からのメッセージを受け取る「よりまし」としても認識されていた。

かぐや姫は竹の中から出てきたが、それは、ある種、天からの贈り物だったのである。
また、正月の門松も、天に延びている部分は鋭く切った竹で、そこに歳神がやってくると信じられているのだ。

竹笹紋は、そんな天からの神様にあやかろうとした人々によって採用された。
越後の上杉謙信のシンボルとしては、旗印としての「毘」が有名だが、家の紋は上杉笹と呼ばれる「笹に雀」である。
これは元々、上杉家が藤原北家の勧修寺(かしゅうじ)家の「笹に雀」紋から来ている。
そして、さらに、この紋は、微妙に変形されて伊達氏にも引き継がれていくのである。

さて、この竹笹紋であるが、全国で16位。
群馬県での6位が突出している。
これはおそらく、高橋姓の広がりが、群馬県が一番という事が関係しているのではないだろうか。
竹笹紋は高橋姓の一つの代表紋だからだ。

竹笹紋使用の有名人は以下。



鳥居元忠 。1539年 - 1600年9月8日、 徳川家家臣。
三河国出身。父の忠吉は松平氏以来の老臣。家康今川氏の人質だった頃からの側近の一人で家康の三河統一後も、旗本部隊の将として戦う。その忠節は三河武士の鑑と称された。家紋は鳥居笹。画像は庶流から出た鳥居耀蔵の墓所(吉祥寺)にて。


竹中半兵衛 。1544年9月27日 - 1579年7月6日、 武将。
美濃国大野郡出身。斎藤氏の家臣で不破郡岩手城主・竹中重元の子。後に、羽柴秀吉豊臣秀吉)の軍師として活躍し、同時代の黒田孝高黒田官兵衛)と並んで天才軍師と称され、「今楠木」と称された。家紋は丸に九枚笹。


可児吉長 。1554年 - 1613年8月10日、 武将。
美濃国可児郡出身。宝蔵院流槍術の開祖。斎藤龍興柴田勝家明智光秀前田利家織田信孝らに仕える。関ヶ原の戦いでは福島正則の先鋒隊長として参加し、敵兵の首を17も取り家康からも大いに賞賛された。家紋は丸に違い笹紋。


伊達政宗 。1567年9月5日 - 1636年6月27日、 戦国時代の武将。
出羽国出身。奥州の戦国大名。本姓は藤原氏で伊達朝宗を祖とする。陸奥仙台藩の初代藩主。仙台笹といわれる笹に雀紋は、上杉氏から賜る。最も古い紋は縦三つ引き両。九曜紋は細川氏から使用許可される。画像は政宗の墓所・瑞鳳殿の仙台笹紋。


玉川庄右衛門 。1622年 - 1695年7月16日、 玉川上水開削者。
多摩川沿い地域出身。農家。弟、清右衛門とともに、玉川上水開削の指揮をとる。上水工事は2度失敗したが最後は私財を投入して成功する。これにより兄弟は「玉川」の姓を名乗る事が許されたという。家紋は丸に根笹。画像は浅草・聖徳寺にて撮影。


竹本義太夫 。1651年 - 1714年10月18日、 浄瑠璃太夫。
摂津国(大坂)出身。家は農家。大坂道頓堀に竹本座を開設し、近松門左衛門・作の『世継曽我』を上演。近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を手掛けた。浄瑠璃の義太夫節の創始者である。家紋は竹亀甲に九枚笹。画像は回向院にて撮影。


上杉鷹山 。1751年9月9日 - 1822年4月2日、 大名。
江戸出身。父は日向高鍋藩主・秋月種美。10歳で出羽国米沢藩の第8代藩主・重定の養子となる。領地返上寸前だった藩の再生を成し、江戸時代屈指の名君として知られている。画像の上杉笹は米沢藩江戸藩邸跡の史跡レリーフ。


伊達宗城 。1818年9月1日 - 1892年12月20日、 大名・政治家。
江戸出身。宇和島藩主伊達宗紀の仮養子となる。宇和島藩8代藩主となり軍制の近代化、殖産興業を行い「幕末の四賢侯」と称された。定紋は仙台笹の変形の宇和島笹。他に丸に竪三つ引両、九曜紋等も使用。画像は本妙寺の久世広運奥方の宇和島笹紋。


佐野常民 。1823年2月8日 - 1902年12月7日、 元老院議員。
肥前国出身。佐賀藩士・下村三郎左衛門の五男。大坂の緒方洪庵の適塾で学ぶ。日本赤十字社の創始者。佐賀の七賢人に挙げられている。第1次松方正義内閣で農商務大臣に就任する。家紋は九枚笹の丸紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


月岡芳年 。1839年4月30日 - 1892年6月9日、 浮世絵師。
武蔵国豊島郡新橋南大阪町出身。姓は吉岡、後に月岡。歴史絵、美人画、役者絵、風俗画、古典画、合戦絵など多種多様な浮世絵を手がける。また衝撃的な無惨絵の描き手としても知られる。家紋は丸に桔梗紋と丸に竹笹紋。画像は新宿・専福寺にて撮影。


万里小路博房 。1824年7月21日 - 1884年2月22日、 公卿。
京都出身。父は万里小路正房、母は藤波寛忠の娘。三条実美と親しく尊王攘夷派とみられ、八月十八日政変では一時免官されて蟄居。維新後は京都裁判所総督、宮内大輔、皇太后宮大夫を歴任。家紋は丸に勧修寺笹紋。青山霊園の万里小路家の墓所にて。


丸山作楽 。1840年10月27日 - 1899年8月18日、 外交官・政治家。
江戸・芝三田出身。島原藩士・丸山正直の長男。外務大丞の時に対露交渉にあたった。東京日日新聞の福地源一郎とともに立憲帝政党を結成し保守的政治家として活動した。家紋は竹輪笹に向い雀紋。画像は青山霊園の墓所にて。


新島襄 。1843年2月12日 - 1890年1月23日、 布教家、教育家。
江戸出身。父は安中藩藩士。本名は七五三太。妻は山本八重。アメリカに密航し洗礼を受ける。訪米中の岩倉使節団と会い木戸孝允の通訳として同行。欧米各国の教育制度を調査。同志社英学校を開校。家紋は丸に根笹。画像は新島襄記念館の丸に根笹紋。


高橋新吉 。1843年2月26日 - 1918年11月30日、 文学者、実業家。
薩摩国出身。藩士高橋七郎の次男。「英和対訳袖珍辞書」を底本として辞書『和訳英辞林』(「薩摩辞書」)を編纂。九州鉄道初代社長、南満州鉄道や韓国銀行の設立委員などを歴任。家紋は十五枚笹竹の丸紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


湯地定基 。1843年9月4日 - 1928年2月10日、 官僚。
薩摩国出身。読みは、ゆちさだもと。湯地定監、乃木静子の兄。藩命をうけアメリカで農学を学ぶ。帰国後、開拓使に勤務、後に根室県令、北海道庁理事官などを務める。北海道の洋式農業の発展に尽くした。家紋は湯地竹笹紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


斎藤一 。1844年2月18日 - 1915年9月28日、 新選組隊士。
江戸出身。旗本・鈴木家の家臣となった山口祐助の次男。新選組の前身である壬生浪士組に入隊。三番組組長となり池田屋事件などで活躍。維新後は警察官となり、新政府軍として西南戦争にも従軍し戦功を上げる。家紋は丸に九枚笹紋。


三浦梧楼 。1847年1月1日 - 1926年1月28日、 政治家。
長門国出身。萩藩士の陪臣の子。奇兵隊に入隊して第二次長州征伐や戊辰戦争に従軍。閔妃暗殺を指揮したとされ(乙未事変)投獄された。大正期には藩閥打倒を唱え政界の黒幕としても活動。家紋は変り篠笹紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


岡本柳之助 。1852年9月27日 - 1912年5月14日、 国家主義者。
江戸出身。旧姓は諏訪。岡本家の養子となる。西南戦争では参謀として活躍し、戦後少佐となるが、1878年(明治11年)の竹橋事件に連坐し、官職を剥奪された。三浦梧楼らと閔妃殺害事件をおこし、投獄された。画像は池上本門寺にて撮影。


藤波言忠 。1853年10月14日 - 1926年5月24日、 華族、政治家。
京都出身。広橋胤保の次男。明治天皇の侍従、宮内省主馬頭になる。ウィーンに留学後に、33回の進講をする。明治天皇・昭憲皇太后両方の崩御の時にどちらとも大喪使事務官を務めた。家紋は中陰雪持ち笹紋。青山霊園の墓所にて撮影。


高橋健三 。1855年9月 - 1898年7月22日、 ジャーナリスト。
江戸出身。元尾張藩士の高橋大蔵の子。大阪朝日新聞に入り国家主義の観点から執筆を積極的に行う。第2次松方内閣が発足すると、陸羯南の推挙によって内閣書記官長に任じられるが、新聞紙条例の改正を巡る騒動で辞職。家紋は丸に九枚笹紋。


根津嘉一郎(初代) 。1860年8月1日 - 1940年1月4日、 実業家。
甲斐国山梨郡正徳寺村(山梨県山梨市)出身。根津家は雑穀商や質屋業も営む豪商。東武鉄道南海電気鉄道など日本国内の多くの鉄道敷設や再建事業に関わり「鉄道王」と呼ばれた。若尾逸平雨宮敬次郎等と甲州財閥を形成。画像は多磨霊園。


立川勇次郎 。1862年2月20日 - 1925年12月14日、 実業家。
美濃国出身。大垣藩藩士の次男。大師電気鉄道(現京浜急行電鉄)の代表に就任。1912年(大正元年)、大垣を中心とした西濃地区の電力供給を目的として、揖斐川電力(現イビデン)設立。初代社長となる。画像は青山・長谷寺にて撮影。


嵯峨の屋おむろ 。1863年1月12日 - 1947年10月26日、 小説家。
江戸出身。本名:矢崎鎮四郎。坪内逍遥の門下。嵯峨の屋お室、矢崎嵯峨の舎(屋)、北ぼう散子名義なども使用した。代表作は『ひとよぎり』『無味気』『両面苦楽の鏡』など。家紋は丸に九枚笹紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


川上音二郎 。1864年2月8日 - 1911年11月11日、 俳優・芸人。
筑前国博多中対馬小路町出身。世情を風刺した『オッペケペー節』で一世を風靡。この『オッペケペー節』を日本人で初めて録音、レコード化する。NHKの大河ドラマで妻の川上貞奴を描いた『春の波濤』が放送された。画像は総持寺にて撮影。


井上準之助 。1869年5月6日 - 1932年2月9日、 政治家、財政家。
大分県日田市出身。造り酒屋を営む家に出生。第9、11代日本銀行総裁。第二次山本浜口、第二次若槻内閣の蔵相。浜口内閣で行った金輸出解禁や緊縮財政は世界恐慌のため深刻な不況を招き血盟団事件で暗殺される。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


島村抱月 。1871年2月28日- 1918年11月5日、 演出家、劇作家。
島根県小国村出身。佐々山一平の長男。浜田町裁判所検事・島村文耕の養子となる。坪内逍遥とともに文芸協会を設立。その後、松井須磨子等と芸術座を結成し、新劇運動の先駆けとなる。家紋は残された肖像写真より、丸に根笹紋の類似紋と判断。


菱刈隆 。1871年12月27日 - 1952年7月31日、 陸軍軍人。
薩摩国出身。藩士、菱刈八郎太の三男。陸軍省軍務局課員、陸軍歩兵学校教官、歩兵第4連隊長、第2師団参謀長、陸軍中将、陸軍大将、大日本忠霊顕彰会会長、大日本剣道会会長などを歴任。家紋は竹笹輪に七枚笹紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


畑英太郎 。1872年8月28日 - 1930年5月31日、 陸軍軍人。
福島県出身。会津藩士・警察官、畑能賢の長男。陸軍大臣陸軍大将・畑俊六は弟。軍事課長、航空局次長、軍務局長、陸軍次官、兼軍事調査委員長、第1師団長を歴任。最終階級は陸軍大将。家紋は亀甲に根笹紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


金谷範三 。1873年4月24日 - 1933年6月6日、 陸軍軍人。
大分県国東郡高田町出身。日清戦争では歩兵第3連隊付として、日露戦争では第2軍参謀として出征。参謀総長当時、真崎甚三郎を毛嫌いしていたという。最終階級は陸軍大将。家紋は雪持ち笹紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


有島武郎 。1878年3月4日 - 1923年6月9日、 作家。
東京市小石川出身。旧薩摩藩士で大蔵官僚の有島武の長男。作家の里見とんは弟。長男は俳優の森雅之志賀直哉武者小路実篤らと共に同人「白樺」に参加。代表作は『カインの末裔』『迷路』。家紋は丸に雪持ち笹。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


松井石根 。1878年7月27日 - 1948年12月23日、 陸軍軍人。
愛知県出身。旧尾張藩士松井武国、ひさの六男。読みは、まついいわね。日中戦争では首都・南京を占領した。東京裁判では南京事件の責により死刑の判決を受ける。最終階級は陸軍大将。松井家は遠江松井家の子孫と伝わる。家紋は岩に根笹紋。


甘露寺受長 。1880年10月5日 - 1977年6月20日、 華族(伯爵)。
読みは、かんろじおさなが。甘露寺家は藤原北家の支流・勧修寺流の流れを汲む公家で、明治維新以降は伯爵に列せられた。宮内省御用掛、掌典長に就任。退任後、明治神宮宮司をつとめた。家紋は竹に雀紋。多磨霊園の甘露寺家墓所で撮影。


苫米地義三 。1880年12月25日 - 1959年6月29日、 政治家。
青森県上北郡藤坂村出身。上杉謙信の末裔を称した。日本進歩党、民主党、国民民主党(党首)、改進党、日本民主党、自由民主党に所属。骨相学・考星学・霊気療法等の研究を趣味としたという。家紋は丸に九枚笹紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


久保田九品太 。1881年 - 1926年1月8日、 教育学者。
静岡県小笠郡中村出身。本名久保田次郎吉。初号は桂川。正岡子規に師事し、のち高浜虚子に入門。「ホトトギス」「春夏秋冬」「枯野」同人として活躍。句集には『水仙の芽』がある。この略歴では、歴史が眠る多磨霊園kotobank.jpを参照いたしました。


小泉親彦 。1884年9月9日 - 1945年9月13日、 政治家、陸軍軍医。
福井県出身。近衛師団軍医部長に就任。大日本帝国陸軍で初めてBCG接種を実施し、結核予防に効果を挙げる。第3次近衛文麿内閣で厚生大臣に就任、次の東條英機内閣でも留任。連合軍の取り調べを拒否し、割腹自殺を遂げた。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


田中啓爾 。1885年12月8日 - 1975年1月5日、 地理学者。
東京府牛込区出身。主な専門は地誌学を中心とした人文地理学。地理教育論にも多大な功績があり、近代期の日本の地理学において非常に重要な人物である。代表著作は「我等の国土」。家紋は丸に九枚笹紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


嶋中雄作 。1887年2月2日 - 1949年1月17日、 編集者。
奈良県出身。『婦人公論』を創刊し編集長となり、後に中央公論社社長となる。『西部戦線異状なし』レマルク著、『源氏物語谷崎潤一郎訳等をベストセラーにする。家紋は隅切り角に九枚笹。画像は、本願寺和田堀廟所にて。


高橋亀吉 。1891年1月27日 - 1977年2月10日、 経済研究者。
山口県徳山村出身。石橋湛山が主幹を務めていた東洋経済新報社に入社。高橋経済研究所を創立すると『高橋財界月報』を刊行。主著『日本資本主義発達史』『日本近代経済形成史』等。家紋は九枚笹紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


福田平八郎 。1892年2月28日 - 1974年3月22日、 日本画家。
大分県出身。家は文具店。第三回帝展に出品した「鯉」が特選となり、宮内省(現・宮内庁)が買い上げる。毎日美術賞、 文化勲章受賞。文化功労者。主な作品は「雨」「筍(たけのこ)」「花の習作」など。家紋は丸に九枚笹紋。墓所写真にて確認。


南部修太郎 。1892年10月12日 - 1936年6月22日、 小説家。
宮城県仙台市出身。読みは、なんぶしゅうたろう。『三田文学』編集主任をつとめ、文筆生活に入る。芥川龍之介を師と仰ぎ、川端康成と文通していた。代表作は『修道院の秋』『湖水の上』など。家紋は九枚篠笹紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


下総皖一 。1898年3月31日 - 1962年7月8日、 作曲家・教育者。
埼玉県北埼玉郡原道村出身。本名は下總覺三。東京藝術大学音楽学部長。門下は團伊玖磨芥川也寸志等。代表作は「花火」「ほたる」「兎のダンス」「ゆうやけこやけ」等。また京都大学学歌他、多くの校歌を作曲。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


宮本百合子 。1899年2月13日 - 1951年1月21日、 小説家。
東京市出身。旧姓中條。本名ユリ。17歳の時に『貧しき人々の群』で文壇に登場。天才少女として注目を集めその後もプロレタリア文学者として活躍。元夫の宮本顕治と共に投獄、執筆禁止などを繰り返しながら活動。画像は青山霊園の中條家の墓所にて。


勅使河原蒼風 。1900年12月17日 - 1979年9月5日、 華道家。
東京府出身。草月流の創始者。草月流三代目家元、映画監督である勅使河原宏の父。華道において斬新な手法を多く提供し「花のピカソ」と呼ばれた。日本のいけばなを世界に発信した。家紋は三日月に根笹紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


横溝正史 。1902年5月24日 - 1981年12月28日、 推理作家。
兵庫県神戸市東川崎出身。父の郷里は岡山。金田一耕助を探偵役とする一連の探偵小説で有名。代表作は、『八つ墓村』『犬神家の一族』『悪魔の手毬唄』『悪霊島』『悪魔が来りて笛を吹く 』など。画像は春秋苑にて撮影。


竹山道雄 。1903年7月17日 - 1984年6月15日、 小説家。
大阪府出身。岡田家に生れ祖母の家・竹山家に養子に入る。小説『ビルマの竪琴』は一世を風靡。訳書に『ツァラトゥストラ』『アルプスの少女ハイジ』がある。一高教諭、東大教養学部教授等を歴任。家紋は丸に根笹。画像は鎌倉霊園の墓所にて撮影。


豊田四郎 。1906年1月3日 - 1977年11月13日、 映画監督。
京都府京都市出身。松竹蒲田撮影所に入り島津保次郎に師事。後に東宝に移って文芸映画を多く監督し、高い評価を得た。代表作は『駅前旅館』『夫婦善哉』『小島の春』『恍惚の人』等。家紋は九枚笹紋。青山霊園の墓所にて撮影。


杉村春子 。1906年1月6日 - 1997年4月4日、 女優。
広島県広島市出身。本名は石山春子。旧姓は中野。演劇史に大きな足跡を残した日本を代表するカリスマ女優。代表出演映画は『晩春』『秋刀魚の味』等。舞台『女の一生』の布引けいは当たり役で上演は900回を超えた。画像は冨士霊園の墓所にて撮影。


水原茂 。1909年1月19日 - 1982年3月26日、 野球選手、監督。
香川県高松市出身。高校野球、大学野球で活躍後、読売巨人軍に入団。引退後は、巨人、東映、中日で監督を務めた。巨人監督時代は在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝く。家紋は丸に右荒枝付き三階松に株竹紋。画像は総持寺にて。


淀川長治 。1909年4月10日 - 1998年11月11日、 映画評論家。
兵庫県神戸市出身。芸者置屋の跡取り息子。東宝映画の宣伝部に勤務。チャーリー・チャップリンとの会談もしている。「それでは次週をご期待ください。さよなら、さよなら、さよなら...」等の名セリフを残している。家紋は丸に九枚笹紋。


高橋竹山 。1910年6月18日 - 1998年2月5日、 三味線名人。
青森県東津軽郡中平内村小湊出身。本名は高橋定蔵。一地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者。演歌歌手北島三郎が歌った『風雪ながれ旅』のモデル。高橋家の家紋は丸に橘紋。ただし、自身のマークとして竹輪に根笹紋を使用。


竹内好 。1910年10月2日 - 1977年3月3日、 中国文学者、評論家。
長野県南佐久郡臼田町出身。魯迅の研究・翻訳や日本文化研究を行う。大アジア主義の視点から日本軍の対アジア侵略戦争を劇しく糾弾。主著は『魯迅』『中国の近代と日本の近代』『近代の超克』。家紋は竹笹に向い雀紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


徳大寺伸 。1911年10月5日 - 1995年7月19日、 俳優。
東京都芝区田村町出身。本名は寺田静夫。時代劇を中心に名わき役として活躍する。代表出演作は『日本女侠伝 真赤な度胸花』『柳生武芸帳』『雪之丞変化』『東京新選組』など。家紋は丸に根笹紋。画像は池上本門寺の墓所にて撮影。


戸板康二 。1915年12月14日 - 1993年1月23日、 小説家、随筆家。
東京都港区出身。旧姓山口。戸板学園創立者・戸板関子の養子。歌舞伎評論の『歌舞伎への招待』はロングセラー。『車引殺人事件』で推理作家としてデビュー。『団十郎切腹事件』で直木賞受賞。家紋は丸に頭合わせ九枚笹。画像は総持寺にて撮影。


三遊亭圓右(3代) 。1923年12月8日 - 2006年3月22日、 落語家。
東京都杉並区出身。本名は粕谷泰三。浪曲師の父で木村重丸、常磐津の師匠の母の常磐津文字綱の下で育つ。ライオンの「エメロン石鹸」やP&Gの成人向け紙おむつ「アテント」のテレビCMに長期間出演。「おばあさん落語」を得意とした。


津村謙 。1923年12月12日 - 1961年11月28日、 歌手。
富山県下新川郡入善町出身。本名:松原正。「上海帰りのリル」が大ヒット。その他、「リルを探してくれないか」「紅椿の歌」「待ちましょう」「あなたと共に」等のヒット曲がある。家紋は九枚笹紋。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


茨木のり子 。1926年6月12日 - 2006年2月17日、 詩人。
大阪府出身。愛知県西尾市育ち。本名は三浦のり子。戦後詩を牽引した日本を代表する女性詩人にして童話作家、エッセイスト、脚本家。主詩集『鎮魂歌』『自分の感受性くらい』。『わたしが一番きれいだったとき』は有名。家紋は丸に九枚笹紋。


平田昭彦 。1927年12月16日 - 1984年7月25日、 俳優。
日本統治時代の朝鮮の京城(現ソウル)出身。本名は小野田昭彦。東宝映画、テレビドラマで活躍。特撮分野の名優としても知られている。代表出演作は『ゴジラ』『キングコング対ゴジラ』『ウルトラマン』『レインボーマン』等。家紋は丸に九枚笹紋。


藤沢周平 。1927年12月26日 - 1997年1月26日、 時代小説作家。
山形県東田川郡黄金村出身。本名は小菅留治。小菅繁蔵の第三子。実家は農家。庄内藩をモチーフにしたと言われる架空の藩「海坂藩」を舞台にした作品は有名。代表作は『暗殺の年輪』『市塵』『たそがれ清兵衛』『蝉しぐれ』等。


黛敏郎 。1929年2月20日 - 1997年4月10日、 作曲家。
神奈川県横浜市出身。團伊玖磨芥川也寸志と共に「3人の会」結成。現代音楽界を代表する音楽家の一人。代表曲は『涅槃交響曲』、オペラ『金閣寺』、映画音楽『東京オリンピック』等多数。家紋は丸に九枚笹紋。画像は総持寺にて撮影。


梶山季之 。1930年1月2日 - 1975年5月11日、 小説家。
朝鮮京城出身。週刊誌創刊ブーム期にトップ屋として活躍、その後『黒の試走車』『赤いダイヤ』などの産業スパイ小説、経済小説でベストセラー作家となり、推理小説、風俗小説などを量産する。家紋は丸に九枚笹紋。墓の写真画像にて確認。


竹中労 。1930年5月30日 - 1991年5月19日、 ルポライター。
東京都出身。本名は竹中労。父は画家の竹中栄太郎。『女性自身』で芸能担当ライターをはじめ様々な問題作を世に出す。晩年は「イカ天」の審査員もつとめ「たま」を絶賛した。墓碑銘には「せめて自らにだけは恥なく眠りたい」と刻まれている。


唐沢俊二郎 。1930年6月24日 - 、 政治家。
東京霞が関出身。父は唐沢俊樹(内務官僚、和歌山県知事、衆議院議員、法務大臣を歴任)。第3次中曽根内閣の郵政大臣、第1次海部内閣で自民党総務会長を歴任した。家紋は丸に二本切り竹に笹紋。画像は九品仏浄真寺にて撮影。


谷川俊太郎 。1931年12月15日 - 、 詩人。
東京市出身。父は哲学者で法政大学学長の谷川徹三。石原慎太郎寺山修司浅利慶太ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し60年安保に反対。代表作は『ことばあそびうた』『二十億光年の孤独』。画像は鎌倉・東慶寺の谷川徹三の墓所にて撮影。


大藪春彦 。1935年2月22日 - 1996年2月26日、 小説家。
京城出身。父は教師である。激しいアクション、暴力を描く通俗的な作品が多く、「暴力賛美の小説」と批判されることもある。代表作は、『本陣殺人事件』『蘇える金狼』『汚れた英雄』 。家紋は丸に三枚笹。画像は本願寺和田堀廟所で撮影。


尾藤公 。1942年10月23日 - 2011年3月6日、 高校野球指導者。
和歌山県有田市出身。読みは、びとうただし。箕島高校監督に就任し1970年、第42回センバツ大会では、島本講平投手を擁して甲子園大会で初優勝。1979年には、甲子園大会で当時史上3校目の春夏連覇を達成した。家紋は丸に九枚笹紋。


谷垣禎一 。1945年3月7日 - 、 弁護士、政治家。
京都府福知山市出身。父は、文部大臣を務めた谷垣専一。産業再生機構担当大臣、食品安全担当大臣、財務大臣(第4・5・6・7・8代)、自由民主党政務調査会長、国土交通大臣(第9代)、自民党総裁を歴任。宏池会(谷垣派)会長を務めた。家紋は九枚笹。


明石家さんま 。1955年7月1日 - 、 お笑いタレント、俳優。
奈良県出身。本名は杉本高文。笑福亭松之助に弟子入り。当初の芸名は「笑福亭さんま」。タモリビートたけしとの3人で日本のお笑い芸人BIG3と称される。「男女7人夏物語」などテレビドラマにも多数出演。五枚笹は笑福亭一門の定紋。


桂三木助(4代) 。1957年3月29日 - 2001年1月3日、 落語家。
東京都田端出身。父・3代目桂三木助の晩年に出生。本名は小林盛夫。人間国宝5代目柳家小さんに入門。芸術祭演芸部門優秀賞受賞。俳優やテレビレポーターとしても活躍。十八番ネタは「死ぬなら今」。画像は谷中・観音寺の墓所にて撮影。


平田オリザ 。1962年11月8日 - 、 劇作家、演出家。
東京都出身。父はシナリオライターの平田穂生。現代口語演劇理論を提唱。 青年団主宰、こまばアゴラ劇場支配人、内閣官房参与、首都大学東京客員教授、日本劇作家協会理事等をつとめる。家紋は、岩村笹。平田穂生の墓所にて撮影。


岡田有希子 。1967年8月22日 - 1986年4月8日、 アイドル歌手。
愛知県名古屋市熱田区出身(出生は同県一宮市)。本名は佐藤佳代。『スター誕生!』のチャンピオンとなり、芸能界入り。翌年、日本歌謡大賞及びレコード大賞最優秀新人賞を受賞。『くちびるNetwork』がオリコン一位となる。家紋は、丸に根笹。


井上和香 。1980年5月13日 - 、 女優、タレント。
東京都出身。本名非公開。読みは、いのうえわか。グラビアアイドルとして「第41回 ゴールデン・アロー賞 グラフ賞」を受賞をきっかけにして女優、タレントとして活躍。家紋は実家(?)の割烹「笹よし」の細輪に十五枚笹紋(画像)と判断。


渡辺明 。1984年4月23日 - 、 将棋棋士。
東京都葛飾区出身、所司和晴門下。史上4人目の「中学生棋士」となる。初代永世竜王資格者。最年少九段(21歳7か月) 最速九段昇段(5年7ヶ月) 等の記録を持つ。また、羽生善治に対して、20局以上対局して勝ち越している唯一の棋士。家紋は九枚笹。


有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)

まさむね





月星紋 -狩猟、漁労、海上の民の痕跡紋- 新渡戸稲造、中原中也、橋本龍太郎..

江戸時代、ほとんどの日本人は農民であった。

おそらく、農民にとって星という存在はそれほど重要なものではない。
星が重要性を持つのは、山野を飛び回る狩猟の民、あるいは漁労の民、海上の民にとってであろう。

おそらく、月、星をシンボルにした人々はそんな狩猟・漁労民の流れを汲んでいたのではないだろうか。
例えば、平安時代、摂津の国に海に生きる人々がいた。
彼らは海上交通を請け負う、「渡り部」として名を馳せた。その渡り部から渡辺という姓が生れた。
そして渡辺家の代表家紋が、渡辺星である。
墓地等に行くと分かるが、いろんな渡辺氏(渡部氏などを含む)の墓の8~9割に、この渡辺星紋が付いている。
名字と家紋との結び付きがこれほどはっきりしている例を他には知らない。

さて、月星紋だが、東日本に多い。
全国では15位だが、宮城県で8位、新潟県で9位、岩手県、福島県、千葉県では10位となっている。
逆に少ないところでは、富山県で26位。和歌山県で22位、大阪府で20位。
月星紋を持つ有名人は以下。



毛利元就 。1497年4月16日 - 1571年7月6日、 戦国大名。
本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする。安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人として評される。毛利家は大名として幕末まで続く。家紋は毛利沢潟と一文字三星紋。


保科正俊 。1509年 - 1593年、 戦国時代の武将。
父は保科正則で、信濃国高遠城を領していた国人であった。武田氏の信濃先方衆の一人として活躍し、特に優れた槍の使い手であったため、戦国の三弾正に数えられ、槍弾正と称された。家紋は平方九星。画像は保科家墓所にて撮影。


高坂昌信 。1527年 - 1578年6月12日、 武田氏の家臣。
甲斐八代郡石和の豪農・春日大隅の子として生まれる。武田信玄武田勝頼の2代に仕え、武田四名臣の一人として数えられる。信玄の衆道の相手も務めた。画像は大河ドラマ「天地人」での高坂昌信(大出俊演)。総合格闘家の高阪剛は子孫。


千葉胤頼 。1532年 - 1559年2月18日、 武将、九州千葉氏当主。
少弐資元の次男。千葉喜胤(祇園千葉氏)の婿養子。千葉胤誠の父。実兄・少弐冬尚が重臣龍造寺隆信と対立するようになるとこれを支援したが後に龍造寺隆信・千葉胤連に攻められ、肥前国勢福寺城で少弐冬尚とともに自害。家紋は八曜に三日月。


渡辺守綱 。1542年 - 1620年5月11日、 武将。
三河国額田郡浦部村出身。渡辺氏は松平氏の譜代家臣。槍が得手で「槍半蔵」と称された。三方ヶ原の戦い長篠の戦い小牧・長久手の戦いでは先鋒を務めた。その功績から家康配下の徳川十六神将の一人として顕彰された。


九鬼嘉隆 。1542年 - 1600年11月17日、 武将・大名。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長豊臣秀吉のお抱え水軍(九鬼水軍)の水軍武将として活躍し、3万5000石の禄を得た。九鬼氏の第8代当主である。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。家紋は左三巴紋と七曜紋。


高山右近 。1552年 - 1615年2月4日、 武将。
高山氏は摂津国三島郡高山庄出身の国人領主である。信長秀吉の家臣として活躍。山崎の戦い、四国攻め等に参戦。代表的なキリシタン大名として知られる。伴天連追放令の後、ルソンへ追放され、マニラで病没。家紋は七つ星。


佐久間盛政 。1554年 - 1583年7月1日、 戦国武将。
尾張国御器所に生まれた。織田氏の家臣。御器所西城主。佐久間氏の一族。勇猛さから鬼玄蕃と称された。本能寺の変による織田信長の没後は柴田勝家に従ったが、賤ヶ岳の戦いで敗れる。子孫は現在まで大分市で続いている。家紋は九曜。


片倉景綱 。1557年 - 1615年12月4日、 伊達氏家臣。
米沢の成島八幡神社の神職・片倉景長の次男。伊達政宗の軍師役を長年務めた。仙台藩片倉氏の初代。小田原参陣、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなど政宗の主要戦に参戦。白石城一万三千石の城主となり以後、片倉家は明治まで11代に亘って白石の地を治める。


石田三成 。1560年 - 1600年11月6日、 武将・大名。
石田正継の次男として近江国坂田郡石田村で生まれる。秀吉の小姓として仕える。秀吉政権の五奉行の一人。家康を排除すべく、上杉景勝直江兼続らと密かに挙兵の計画を図るが関が原の戦いで破れる。家紋は九曜紋と大一大万大吉紋


細川忠興 。1563年11月28日 - 1646年1月18日、 武将、大名。
室町幕府・幕臣・細川藤孝の長男として京都で出生。丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で利休七哲の一人に数えられる。熊本藩細川家初代。元首相・細川護熙は末裔。家紋の細川九曜は星が離れているのが特徴。


伊達政宗 。1567年9月5日 - 1636年6月27日、 戦国武将。
出羽国出身。家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。本姓は藤原氏。出羽国と陸奥国の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。九曜紋は細川氏から使用許可される。他に仙台笹、仙台牡丹、竪三つ引両紋等の家紋も使用。


小幡景憲 。1572年 - 1663年4月3日、 兵学者。
父は甲斐国の戦国大名である武田氏家臣の小幡昌盛。武田滅亡後は、他の武田遺臣とともに武田遺領を確保した徳川氏に仕える。関ヶ原の戦いでは井伊直政に属して戦功を挙げ、大坂の陣では豊臣方に与するが徳川氏に内通していた。墓所は池袋の法明寺。


松倉重政 。1574年 - 1630年12月19日、 大名。
松倉家はもともとは大和の筒井家の家臣。豊臣家の配下となるが、秀吉死後、東軍につき、関ヶ原の戦い、大坂夏の陣で功を立て、肥前日野江4万3千石を与えられて入封。苛政と搾取を行い、島原の乱の主因を作った。家紋は九曜。


豊島信満 。1579年 - 1628年9月7日、 旗本。
豊島氏は平姓秩父氏の一族で武蔵国の名族。室町時代に太田道灌に敗れて没落。江戸城での初の刃傷事件を起こすが、一族の連座はまぬがれ、後に遺児は紀州藩に仕え徳川吉宗が将軍になった際に御家人になっている。画像は墓所のある法明寺本堂。


木村貞行 。1658年 - 1703年3月20日、 赤穂浪士47士の1人。
赤穂浅野家家臣木村惣兵衛の子として赤穂に出生。赤穂藩では馬廻り役・絵図奉行150石。通称は岡右衛門。はじめ大石良雄に神文血判書は提出せず、盟約には加わらなかった。家紋は三つ盛九曜紋。画像は高輪・泉岳寺の墓所にて撮影。


田沼意次 。1719年9月11日 - 1788年7月27日、 武士・大名。
田沼意行(徳川吉宗に登用された旗本)の長男として江戸の田安屋敷で出生。家治の治世、側用人として権力を掌握。株仲間の結成、印旛沼開拓等の幕政改革を行う。父の代に七面大明神に帰依し家紋を七曜紋とする。画像は巣鴨の勝林寺の墓所にて撮影。


千葉周作 。1793年 - 1856年1月17日、 武士。
出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山の二説。江戸時代の剣術の流派北辰一刀流の創始者で千葉道場・総師範。門下には浪士組幹部の山岡鉄舟、新選組幹部の山南敬助他、弟・定吉の弟子には坂本龍馬がいた。画像は本妙寺の墓所にて撮影。


川路聖謨 。1801年6月6日 - 1868年4月7日、 旗本、勘定奉行。
豊後国日田出身。内藤吉兵衛歳由の長男として生まれ12歳で小普請組の川路家の養子となる。公海岸防禦御用掛に任じられ、ロシア使節プチャーチンと交渉。日露和親条約に調印。家紋は亀甲に渡辺星紋。画像は池之端・大正寺の墓所にて撮影。


浅田宗伯 。1815年6月29日 - 1894年3月16日、 漢方医、儒学者。
信濃国筑摩郡栗林村(現在の長野県松本市島立)出身。代々医業と手習師匠を業とする家に生まれる。徳川将軍家の典医、宮内省侍医を拝命。 浅田飴(ノド飴、医薬品。)のルーツとなる処方を考案した。家紋は七曜星紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


長井雅楽 。1819年6月22日 - 1863年3月24日、 長州藩士。
萩藩出身。藩士大組士中老 長井次郎右衛門泰憲の長男。雅楽は通称で、諱は時庸。読みは、ながいうた。高杉晋作久坂玄瑞らの尊皇攘夷派と対立。坂下門外の変以降、排斥運動が激しくなり、自害した。家紋は二文字に三つ星紋。


谷口藍田 。1822年8月15日 - 1902年11月14日、 儒者。
肥前有田出身。名は中秋。読みは、たにぐちらんでん。豊後の広瀬淡窓、江戸の羽倉簡堂らに学ぶ。肥前鹿島藩の藩校弘文館の教授、権大参事を務める。晩年は東京に私塾藍田書院を開いた。家紋は丸に三つ星紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


秋月悌次郎 。1824年7月27日 - 1900年1月5日、 会津藩藩士。
会津若松城下に生まれる。丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ悌次郎は別家として秋月姓を称する。会津と薩摩藩が結託した宮中クーデターである八月十八日の政変では藩兵を率い実質的指導者として活躍した。家紋は九曜。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


ジョン万次郎 。1827年1月27日 - 1898年11月12日、 通訳・教師。
土佐国中浜村の貧しい漁師の次男に生まれた。漁に出て遭難、漂着して、アメリカの捕鯨船に救助され、先方で英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学ぶ。帰国後、薩摩藩、幕府などで通訳として活躍。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


飯田武郷 。1828年1月22日 - 1900年8月26日、 国学者。
高島藩出身。読みは、いいだたけさと。脱藩して上京し尊王攘夷運動に参加。48年かけて執筆した『日本書紀』の注釈書「日本書紀通釈」70巻を完成させた。東京大学、慶應義塾、國學院などで古典を教えた。家紋は七曜紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


西周 。1829年3月7日 - 1897年1月31日、 啓蒙家、教育者。
石見国出身。津和野藩の御典医の家柄。森有礼福沢諭吉加藤弘之中村正直らと共に明六社を結成。「哲学」「芸術」「理性」「科学」「技術」など多くの哲学・科学関係の日本語を考案した。家紋は、変わり連子に月。画像は青山霊園の墓所にて。


前島密 。1835年2月4日 - 1919年4月27日、 官僚、政治家。
越後国頸城郡津有村出身。豪農、上野助右衛門の二男。江戸遷都を建白した。日本の近代郵便制度の創設者。1円切手の肖像になる。「郵便」「切手」「葉書」という名称を定め、郵便制度の父と呼ばれる。家紋は九曜紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


永山武四郎 。1837年5月28日 - 1904年5月27日、 陸軍軍人。
鹿児島藩士・永山盛広の四男として出生。北海道庁長官となり、北海道の開拓と防衛に情熱を傾け、「屯田兵の父」と呼ばれた。軍人としての最終階級は陸軍中将。家紋は丸に抱き菊の葉に剣四つ星紋。画像は青山霊園の弟・永山盛輝の墓所にて撮影。


渡邊昇 。1838年5月1日 - 1913年11月7日、 剣術家・政治家。
肥前国大村藩士・渡辺巖の二男として生まれた。坂本龍馬の依頼により薩長同盟締結実現のため、長州藩と薩摩藩の橋渡しをする。武術振興団体・大日本武徳会を結成。近代剣道の確立に尽力。家紋は三つ星に一つ引紋。青山霊園の墓所にて撮影。


司馬凌海 。1840年1月2日 - 1879年3月11日、 医学者・語学者。
佐渡島真野町新町生まれ。独語学者の司馬亨太郎は長男。独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じ、医学用語の日本語訳(蛋白質(Eiweiss)、窒素(Stickstoff)、十二指腸(Zwolffingerdarm)など)を多く作っている。家紋は十三曜紋。画像は青山霊園にて撮影。


松尾臣善 。1843年3月6日 - 1916年4月7日、 官僚。
播磨国姫路の郷士の子として出生。読みは、まつおしげよし。次女の乕は北里柴三郎の妻。大蔵省出納局長、主計局長、理財局長などを務めた後、第6代日本銀行総裁を務めた。家紋は丸に三つ星紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


渡辺篤 。1844年2月6日 - 1915年1月6日、 剣客。
京都出身。渡辺時之進の長男。読みは、わたなべあつし。京都見廻組・肝煎として佐々木只三郎今井信郎らと共に坂本龍馬中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)に加担したとされる。維新後は奈良県警の監察官を勤めた。家紋は渡辺星紋。


黒木為楨 。1844年5月3日 - 1923年2月3日、 陸軍軍人。
薩摩国鹿児島城下加治屋町出身。藩士・帖佐為右衛門の三男として生まれ、黒木家の養子となる。読みは、くろきためもと。妻は、黒田清隆の養女。最終階級は陸軍大将。日露戦争では、第1軍司令官として活躍した。画像は青山霊園の夫人の墓所の銀星紋。


岡沢精 。1844年8月20日 - 1908年12月12日、 陸軍軍人。
江戸長州藩邸に生まれる。読みは、おかざわくわし。尊皇攘夷運動に携わり戊辰戦争に従軍。維新後は陸軍に進み、監軍部参謀長、大本営軍事内局長兼侍従武官などを歴任。陸軍大将となる。家紋は折敷に三つ星紋。画像は青山霊園の墓所にて。


渡辺国武 。1846年3月29日 - 1919年5月11日、 官僚、政治家。
信濃国諏訪郡出身。諏訪高島藩士の家に生まれる。読みは、わたなべくにたけ。生涯、独身であった。兄は伯爵・渡辺千秋。第2次伊藤内閣の大蔵大臣、逓信大臣、第4次伊藤内閣の大蔵大臣を歴任した。家紋は渡辺星紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


阪井重季 。1847年1月10日 - 1922年3月1日、 陸軍軍人。
土佐藩馬廻役・二川周五郎の長男。後に阪井に改姓。読みは、さかいしげすえ。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争に従軍。日露戦争では後備第1師団長として奉天会戦を指揮。最終階級は陸軍中将。後に富士生命社長となる。家紋は四つ星紋。青山霊園にて撮影。


阿部泰蔵 。1849年5月19日 - 1924年10月22日、 実業家。
三河国吉田出身。旧姓は豊田。豊田家は藩の医家。小説家・水上滝太郎は四男。慶応義塾に学び、卒業後同校教授、次いで塾頭となる。後に明治生命保険会社、明治火災保険会社を設立し社長となる。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


星亨 。1850年5月19日 - 1901年6月21日、 政治家。
江戸出身。家は左官屋。母の星姓を名乗る。1892年に衆議院議員当選、同議長に就任。伊藤博文と結んで立憲政友会に勢力を張る。第4次伊藤内閣の逓相に就任。東京市会汚職事件により辞任。東京市会議長在職中に暗殺される。画像は池上本門寺にて。


戸田欽堂 。1850年8月26日 - 1890年8月10日、 実業家、活動家。
大垣藩出身。藩主戸田氏正の四男。読みは、とだきんどう。渡米し洗礼を受ける。キリスト教書店「十字屋」を設立。その後、日本独立長老教会を設立し自由民権運動の拠点になった。家紋は九曜紋。画像は本駒込・蓮光寺の墓所にて撮影。


相馬永胤 。1850年12月25日 - 1924年1月26日、 教育者、実業家。
彦根藩出身。読みは、そうまながたね。田尻稲次郎目賀田種太郎駒井重格と共に専修学校(後の専修大学)を創立。初代校長、初代学長を勤めた。横浜正金銀行(後の三菱東京UFJ銀行)取締役、頭取を歴任。家紋は九曜紋。青山霊園の墓所にて撮影。


渡辺廉吉 。1854年1月8日 - 1925年2月14日、 法学者。
越後出身。オーストリアにわたり、シュタインに公法、行政学をまなび、憲法調査のため渡欧した伊藤博文を助けた。帰国後、憲法、民事訴訟法の制定に参画。行政裁判所評定官、貴族院議員。家紋は丸に渡辺星紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


田村怡与造 。1854年11月30日 - 1903年10月1日、 陸軍軍人。
甲斐国東山梨郡出身。祖は武蔵七党の西党という。読みは、たむらいよぞう。長岡外史浅田信興が結成した「月曜会」に参加。日清戦争では、大本営兵站総監部参謀となるが、山縣有朋と意見が対立し帰国する。家紋は九曜紋。画像は青山霊園。


国分青崖 。1857年5月27日 - 1944年3月5日、 漢詩人。
仙台出身。父・盛久は仙台藩士。本名は、国分高胤。読みは、こくぶせいがい。司法省法学校時代に、原敬陸羯南福本日南等と交わる。朝野新聞の記者を勤めて後、日本新聞に参加した。家紋の九曜に真向き三日月紋は多磨霊園の墓所にて撮影。


中島鋭治 。1859年1月15日 - 1925年2月16日、 土木工学者。
宮城県出身。東京帝国大学教授、東京市技師長を兼任。衛生工学を研究し、東京、仙台、名古屋、高崎、鹿児島、漢口(中国)、釜山(朝鮮)などの水道敷設を指導。著作に「英和工学辞典」(共著)。家紋は九曜紋。画像は護国寺共葬墓地にて撮影。


岡野知十 。1860年3月11日 - 1932年8月13日、 俳人。
北海道日高様似に生まれる。本名は岡野敬胤。『半面』を創刊し新々派俳風を鼓吹した。俳書の収集に努め、集めた俳書は東京帝国大学の図書館に寄贈され「知十文庫」として収められた。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


新渡戸稲造 。1862年9月1日 - 1933年10月15日、 教育者。
岩手県盛岡市出身。盛岡藩士 新渡戸十次郎の三男。拓大学監、東京女子大学学長、 国際連盟事務次長、貴族院議員を歴任。著書『武士道』は日本紹介の書として広く海外で読まれた。旧五千円札の肖像となる。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


臼井甕男 。1865年8月15日 - 1926年3月9日、 レイキ創始者。
岐阜県山県郡出身。読みは、うすいみかお。公務員、実業家、新聞記者など様々な職業を経験した後、現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種・臼井霊気療法を創始する。家紋は月星紋。画像は杉並・西方寺にて撮影。


西郷四郎 。1866年3月20日 - 1922年12月22日、 柔道家。
会津藩士・志田貞二郎の三男として若松に生まれ、16歳で会津藩家老・西郷頼母の養子となる。講道館柔道の達人で講道館四天王の一人。得意技は「山嵐」。富田常雄の小説『姿三四郎』のモデル。家紋は角九曜紋。画像は長崎の大光寺の墓所。


若槻礼次郎 。1866年3月21日 - 1949年11月20日、 政治家。
松江藩の足軽奥村仙三郎の次男。東京帝大仏法科を首席で卒業。その成績は東大始まって以来、最高という。第28代内閣総理大臣任期中に昭和金融恐慌、満州事変の発端となった柳条湖事件が起きている。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


菊池慎之助 。1866年3月31日 - 1927年8月22日、 陸軍軍人。
水戸藩士・戸田道守の子として生れ菊池敬之進の養子となる。日露戦争では第4軍副官として出征し同軍参謀となった。軍事参議官、東京警備司令官を経て教育総監在職中に死去。最終階級は陸軍大将。家紋は九曜紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


宮武外骨 。1867年2月22日 - 1955年7月28日、 ジャーナリスト。
讃岐国出身。庄屋宮武家の四男。読みは、みやたけがいこつ。反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行い、たびたび発禁、差し止め処分を受けた。『滑稽新聞』が特に有名。家紋は亀甲に七曜紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


山本悌二郎 。1870年2月10日 - 1937年12月14日、 政治家。
新潟県佐渡郡真野町出身。漢方医・山本桂の二男。有田八郎の兄。立憲政友会から旧新潟1区にて立候補し当選。田中義一内閣、犬養毅内閣にてそれぞれ農林大臣として入閣。国粋主義的な政治思想の持ち主。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


出口王仁三郎 。1871年8月27日 - 1948年1月19日、 宗教家。
京都府亀岡市出身。読みは、でぐちおにさぶろう。大本教の教祖の一人。生家は農家の上田家。出口家の入り婿となり名前を出口王仁三郎とする。出口家の家紋は抱き茗荷。上田家の家紋は丸に十字。大本教の神紋は十曜紋。


高浜虚子 。1874年2月22日 - 1959年4月8日、 俳人、小説家。
愛媛県松山市長町新町に旧松山藩士・池内政忠の4男として生まれた。9歳の時に祖母の実家、高濱家を継ぐ。本名・高濱清。俳誌『ほとゝぎす』に参加。俳壇に君臨する。家紋は九曜紋。画像は鎌倉・寿福寺の墓所にて撮影した水桶。九曜が微妙にわかる。


渡辺錠太郎 。1874年4月16日 - 1936年2月26日、 陸軍軍人。
愛知県出身。煙草店主・和田武右衛門の長男。後に農家・渡辺庄兵衛の養子となる。天皇機関説を擁護するなど、その自由主義的な意見は青年将校の憎悪を生む。二・二六事件の犠牲者。最終階級は陸軍大将。家紋は渡辺星。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


左近司政三 。1879年6月27日 - 1969年8月30日、 海軍軍人。
米沢市出身。父は米沢藩士。読みはさこんじせいぞう。近衛文麿内閣で商工大臣、鈴木内閣で国務大臣を務めた。第二次世界大戦末期、昭和天皇の聖断を仰ぐよう鈴木首相や米内海相に進言。最終階級は海軍中将。画像は九品仏浄真寺にて。


永井荷風 。1879年12月3日 - 1959年4月30日、 小説家。
愛知県士族で内務省衛生局事務取扱の永井久一郎・つね夫妻の長男として生れる。永井家の氏は、大名・毛利家と同じ大江氏。また、三島由紀夫とは遠い親戚に当たる。代表作は、『ふらんす物語』『ぼく東綺譚』など。家紋画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


千葉亀雄 。1878年9月24日 - 1935年10月4日、 ジャーナリスト。
山形県出身。「読売新聞」「時事新報」「東京日日新聞」など新聞の社会部長、学芸部長を務める。「新感覚派」の命名者として知られる。宮城県遠田郡美里町の近代文学館に千葉亀雄記念文学室がある。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園墓所にて撮影。


末次信正 。1880年6月30日 - 1944年12月29日、 海軍軍人。
山口県出身。旧徳山藩士・末次操九郎の次男。日露戦争に出征後、海軍最高学府である海軍大学校甲種学生(7期)を首席で卒業した。最終階級は海軍大将。第1次近衛文麿内閣の内務大臣。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


有田八郎 。1884年9月21日 - 1965年3月4日、 外交官、政治家。
新潟県佐渡郡真野町出身。山本家に生まれ有田家の養子となった。山本悌二郎の実弟。戦前は欧米協調派に対するアジア派の外交官として知られ日独伊三国同盟には最後まで反対したが戦後は公職追放された。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


下村湖人 。1884年10月3日 - 1955年4月20日、 小説家。
佐賀県神埼郡千歳村大字崎村出身。本名、虎六郎。東京帝国大学卒業後に母校佐賀中学校教師や鹿島中学校校長等を歴任。講演や文筆活動で社会教育に尽力。青少年に影響を与えた『次郎物語』の執筆で知られる。家紋は九曜紋。画像は松月院にて撮影。


宮地直一 。1886年1月24日 - 1949年5月16日、 神道学者。
高知県出身。読みは、みやじなおかず。内務省神社局考証課長、東京帝大講師(国史)、東京帝大教授(神道講座)等を歴任。戦後はGHQと折衝し神社存続に尽力した。代表著作は「神祇史」。家紋は丸に剣三つ星紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


松井須磨子 。1886年3月8日 - 1919年1月5日、 新劇女優。
長野県埴科郡の士族・小林藤太の五女。本名は小林正子。坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第1期生。島村抱月と芸術座を旗揚げし『復活』のカチューシャ役で人気女優となる。『今度生まれたら』は日本における発禁レコード第1号。画像は多聞院にて撮影。


萩原朔太郎 。1886年11月1日 - 1942年5月11日、 俳詩人、作家。
群馬県東群馬郡出身。開業医の長子。高村光太郎と共に口語自由詩を確立した。近代詩の頂点に立つ詩人として日本近代詩の父と称される。代表作は『月に吠える』『青猫』など。演出家の萩原朔美は孫。家紋は九曜紋。画像は政淳寺にて撮影。


星野直樹 。1892年4月10日 - 1978年1月26日、 政治家、実業家。
神奈川県横浜市出身。東條内閣時は内閣書記官長に起用され東條英機の側近として活躍。戦後、東京裁判で終身刑を宣告されたが、釈放後は東京ヒルトンホテル副社長、東急電鉄取締役等、実業家として活躍。家紋は丸に七曜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


野田高梧 。1893年11月19日 - 1968年9月23日、 脚本家。
北海道函館市に出生。父は函館税関長。小津安二郎とは公私ともに良きパートナー。共作という形で『晩春』から『秋刀魚の味』までの全作品を手がける。日本脚本家協会・初代会長を務めた。家紋は八曜に蔦紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


米川文子 。1894年6月15日 - 1995年5月31日、 地歌・箏曲家。
岡山県生まれ。ロシア文学者・米川正夫の妹。幼い頃から箏を姉の暉寿(てるじゅ)に学ぶ。第一回地歌舞研究会を開催、関西の芸である地歌を東京に広めた。1966年、人間国宝、1981年、文化功労者。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


北村寿夫 。1895年1月8日 - 1982年1月3日、 児童文学作家。
東京出身。本名は寿雄。小山内薫に師事する。「劇と評論」の同人。昭和11年NHK文芸部主事。放送劇「新諸国物語」シリーズは人気を博す。代表作「笛吹童子」「白鳥の騎士」「紅孔雀」。家紋は丸に三つ星。画像は雑司が谷墓地にて撮影。


北川冬彦 。1900年6月3日 - 1990年4月12日、 詩人、評論家。
滋賀県に生まれながら、父親の仕事関係で満州で育った。本名は田畔忠彦。雑誌「詩と詩論」創刊に参加し、詩集「戦争」で脚光を浴びる。戦後、詩、映画ともに対してネオリアリズムを標榜し、第2次「時間」を主宰。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園にて。


小林英夫 。1903年1月5日 - 1978年10月5日、 言語学者。
東京府出身。読みはこばやしひでお。ソシュールの『一般言語学講義』を『言語学原論』として世界にさきがけて翻訳する。東京工業大学教授、名古屋大学教授、早稲田大学教授を歴任。家紋は丸に三つ星紋。画像は九品仏浄真寺にて撮影。


万城目正 。1905年1月31日 - 1968年4月25日、 作曲家。
北海道十勝支庁中川郡出身。本名は萬城目侃。読みは、まんじょうめただし。美空ひばり、島倉千代子の歌を多く作曲。代表作は、「愛染夜曲」「リンゴの唄」「東京キッド」など。家紋は十曜に一引両紋。画像は、仙台市の龍雲寺の墓所。


中原中也 。1907年4月29日 - 1937年10月22日、 詩人。
山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村に生まれる。中原家は代々吉敷毛利家の家臣だったという。旧姓は柏村。父・謙助は医師だった。夭折したが350篇以上もの詩を残す。代表作は『山羊の歌』『在りし日の歌』。家紋は九曜紋。中原中也記念館にて確認。


伴淳三郎 。1908年1月10日 - 1981年10月26日、 芸人、俳優。
山形県米沢市出身。南画家の息子。本名は、鈴木寛定。息子はスタイリストの山本康一郎。「アジャパー」を大流行させる。代表出演作『てなもんや三度笠』『アジャパー天国』『駅前シリーズ』。紫綬褒章受章。家紋の丸に三つ星は墓所の写真より判断。


東山魁夷 。1908年7月8日 - 1999年5月6日、 日本画家。
神奈川県横浜市出身。父は船具商。本名は東山新吉。昭和を代表する日本画家の一人。川端康成とも親交が深かったという。代表作品は『残照』『白馬の森』『黄山暁雲』など。家紋は丸に三ツ星紋。祖父の東山新吉の肖像写真より推測。


鹿内信隆 。1911年11月17日 - 1990年10月28日、 実業家。
北海道夕張郡由仁町出身。実家は写真館。1957年文化放送にいた水野成夫と協力してフジテレビジョンを開局させた。産業経済新聞社社長・フジテレビ会長に就任し、フジサンケイグループ内で絶大な権力を持った。家紋は九曜紋。画像は小平霊園墓所。


新美南吉 。1913年7月30日 - 1943年3月22日、 児童文学作家。
愛知県半田市出身。本名は新美正八(旧姓:渡辺)。雑誌『赤い鳥』出身の作家の一人。童話の他に童謡、詩、短歌、俳句や戯曲も残した。代表作は『ごん狐』『デンデンムシノカナシミ』『手袋を買いに』等。家紋の丸に渡辺星は生家の渡辺家の家紋。


鶴田安雄 。1914年1月22日 - 1975年8月11日、 テニス選手。
佐賀県出身。昭和6年兄登と組んで全国中等学校庭球大会ダブルスに優勝。戦前、戦後にかけて全日本ダブルス優勝3回、全日本学生ダブルス優勝4回。32年以来3回、デビス-カップ監督となる。家紋は丸に三つ星に一つ引紋。画像は上川霊園の墓所にて撮影。


金丸信 。1914年9月17日 - 1996年3月28日、 政治家。
山梨県中巨摩郡今諏訪村に生まれる。金丸家は、金丸氏は武田氏の庶流。酒造業を営む裕福な家柄。衆議院議員(12期)、国務大臣・副総理、防衛庁長官(第35代)、国土庁長官(第3代)、建設大臣(第34代)を歴任。家紋は九曜紋。


結城信一 。1916年3月6日 - 1984年10月26日、 作家。
東京出身。早稲田大学英文科卒。デビュー作は「秋祭」。老人と少女の交流を描いた「空の細道」で日本文学大賞受賞。代表作は「夜明けのランプ」「不吉な港」等。没後、全3巻の全集が刊行された。家紋は九曜紋。画像は本行寺にて撮影。


照国萬藏 。1919年1月10日 - 1977年3月20日、 大相撲力士。
秋田県雄勝郡秋ノ宮村出身。本名は大野萬藏。幕内戦歴:271勝91敗74休。幕内優勝2回。第38代横綱。横綱時代は休場ばかりだった武藏山を除けばただ1人双葉山に勝ち越した力士。家紋は丸に五つ星紋。画像は本願寺和田堀廟所にて撮影。


徳間康快 。1921年10月25日 - 2000年9月20日、 実業家。
神奈川県横須賀市出身。読みは、とくまやすよし。ワンマンで豪快な手腕で徳間書店、大映、スタジオジブリの社長を務める。代表総指揮作は『敦煌』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』。家紋は丸に三つ星に二引き。画像は青山・長谷寺にて撮影。


千葉信男 。1923年12月10日 - 、 俳優、司会者。
東京府豊多摩郡出身。NHK放送劇団、マイクフロントを経て 三木鶏郎グループに参加。ダイビングクイズの初代司会者。元祖デブキャラ。代表出演作「赤ひげ」「幕末残酷物語」「森繁の新婚旅行」等。家紋は丸に八曜に月紋。画像は小平霊園の墓所にて。


春日八郎 。1924年10月9日 - 1991年10月22日、 歌手。
福島県河沼郡会津坂下町塔寺出身。本名は渡部実。流行歌とは質の異なる望郷歌謡をヒットさせ、「演歌」という新天地を築いた戦後日本を代表する歌手の一人。代表曲は『赤いランプの終列車』『お富さん』『別れの一本杉』等。家紋は丸に渡辺星。


巌本真理 。1926年1月19日 - 1979年5月11日、 バイオリニスト。
東京都西巣鴨に出生。教育者巌本善治の長男である巌本荘民と、米国人マーグリトの間の長女。日本初の室内楽定期演奏会94回の偉業を達成。芸術選奨文部大臣賞、芸術祭奨励賞、毎日芸術賞などを受賞。家紋は九曜紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


星新一 。1926年9月6日 - 1997年12月30日、 SF作家。
東京府東京市本郷区曙町に生まれ育つ。ショートショートの神様と呼ばれ、生涯で1001編以上の作品を残す。小松左京筒井康隆と並んで「SF御三家」と称される。星姓にはこの九曜紋が多い。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


渡辺晋 。1927年3月2日 - 1987年1月31日、 実業家・プロモータ。
東京都出身。渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)の創業者。『渡辺晋とシックス・ジョーズ』を結成。レコード会社の専属抱えだった歌手・作詞家・作曲家を渡辺プロの傘下に集結させ、巨大なナベプロ帝国を築く。家紋は丸に三つ星紋。


ロイ・ジェームス 。1929年3月9日 - 1982年12月29日、 タレント。
東京市下谷区出身。出生名はハンナン・サファ。日本名は六条祐道、結婚し湯浅姓となる。父親は、亡命カザン・タタール人。映画俳優や放送タレントとして活躍。多磨霊園の墓所にあるイスラムの象徴「三日月と星」を月星紋として拡大解釈した。


渡辺文雄 。1929年10月31日 - 2004年8月4日、 俳優。
東京市神田区東松下町出身。映画『泉』で役者デビュー。1960年代後半から1970年代前半にかけての東映ヤクザ映画にて名悪役として出演。「連想ゲーム」「遠くへ行きたい」「くいしん坊!万才」等のバラエティ番組にも多数出演。家紋は渡辺星。


渡辺淳一 。1933年10月24日 - 、 作家。
北海道上砂川町出身。医学博士。『光と影』で第63回直木賞を受賞。医療関連および中年男女の性愛を大胆に描いた作品が特徴。代表作は『光と影』『遠き落日』『失楽園』『鈍感力』など。家紋は丸に渡辺星。渡辺淳一記念館にて情報提供頂きました。


正田美智子 。1934年10月20日 - 、 明仁(今上天皇)の皇后。
東京府出身。日清製粉勤務の正田英三郎・冨美夫妻の長女。浩宮徳仁親王、礼宮文仁親王、紀宮清子内親王の母親。日本赤十字社名誉総裁、国際児童図書評議会名誉総裁を務める。家紋は九曜紋。本家筋の正田記念館にある提灯より判断。


江利チエミ 。1937年1月11日 - 1982年2月13日、 歌手・女優。
東京市下谷区出身。本名は久保智恵美。進駐軍のアイドルから、「テネシーワルツ」でデビューを果たす。女優としても『サザエさん』『唄祭りロマンス道中』等で活躍。私生活では高倉健と結婚、すぐに離婚。家紋は丸に剣三つ星紋。


橋本龍太郎 。1937年7月29日 - 2006年7月1日、 政治家。
東京市渋谷区出身。大蔵官僚・橋本龍伍の長男。祖父は岡山県吉備郡秦村出身。厚生大臣、運輸大臣、大蔵大臣を歴任後、第82内閣総理大臣に就任。行政改革、消費増税、普天間基地移転同意等に取り組む。家紋は七曜紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


月亭可朝 。19383月10日 -、 落語家、漫談家。。
神奈川県横浜市出身。本名は鈴木傑。ギターを使った漫談で売り出し、「ボインやでぇ」のフレーズは有名。弟子に月亭八方など、孫弟子に八光などをもつ。桂米朝一門の定紋は結三柏であるが、月亭一門は変え紋として月紋を併用している。


柏戸剛 。1938年11月29日 - 1996年12月8日、 大相撲力士。
山形県東田川郡山添村に果樹園などを営む豪農の家に生まれる。本名は富樫剛。第47代横綱大鵬と共に柏鵬時代を築く。幕内在位:66場所。幕内最高優勝:5回。幕内成績:599勝240敗140休 勝率.714。家紋は九曜紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


千葉敦子 。1940年11月6日 - 1987年7月9日、 ジャーナリスト。
中国上海出身。東京新聞退社後、フリーランスジャーナリストとして活動。「フォーブス」「フォーチュン」などに寄稿。遺言によりニューヨークに財団法人「千葉敦子基金」が設立された。家紋は九曜紋。画像は谷中霊園寛永寺墓地にて撮影。


安西水丸 。1942年7月22日 - 、 イラストレーター。
東京都葛飾区出身。幼少期を千葉県千倉町で暮らす。本名は渡辺昇。電通退社後フリーとなる。ガロ等で多数の漫画も発表。村上春樹との共著に「村上朝日堂」「ランゲルハンス島の午後」等がある。家紋は渡辺星であることを自身のブログにて告白。


三木たかし 。1945年1月12日 - 2009年5月11日、 作曲家。
東京都出身。本名は渡邊匡。歌手・女優の黛ジュン (本名: 渡邊順子) は実妹。「恋はハートで」 で作曲家デビュー。代表作は『禁じられた恋』『津軽海峡・冬景色』『時の流れに身をまかせ』『夜桜お七』など多数。家紋は丸に三つ星紋。


西村幸祐 。1952年 - 、 作家、評論家。
東京都出身。祖父は歴史学者の西村眞次。スポーツ、サブカル、政治、マスコミ論等の評論を行う。代表作は 『反日マスコミの真実2009』等。雑誌「ジャパニズム」の責任編集者。家紋は石持ち地抜き三日月に星紋。画像は多磨霊園の西村家の墓所にて撮影。


渡辺善美 。1952年3月17日 - 、 政治家。
栃木県那須郡出身。父は外務大臣、大蔵大臣等を歴任した渡辺美智雄安倍晋三改造内閣・福田康夫内閣で内閣府特命担当大臣(金融)を歴任。その後、みんなの党を立ち上げる。家紋の丸に渡辺星は議員会館の花瓶(画像)より判断。


水戸泉眞幸 。1962年9月2日 - 、 元大相撲力士。
茨城県水戸市出身。本名は小泉政人。現役時代は高砂部屋所属。現在は年寄・錦戸。パワフルな吊り気味の寄りを得意とし走る起重機の異名をとった。また大量の塩を撒くことも有名。幕内戦歴は530勝556敗99休。幕内最高優勝1回。家紋は九曜紋。


渡辺鐘 。1969年8月27日 - 、 お笑いタレント、放送作家。
滋賀県高島郡安曇川町出身。読みは、わたなべあつむ。吉本興業所属。愛称はナベアツ。世界のナベアツと呼ばれ「3の倍数と3が付く数字のときだけアホになります」というギャグで一世を風靡。家紋は丸に渡辺星紋。画像は自身のブログから転載。


東貴博 。1969年12月31日 - 、 お笑いタレント。
東京都台東区浅草出身。コメディアンの東八郎の次男。本名は飛田貴博。萩本欽一の勧めで欽塾へ弟子入り。深沢邦之とtake2を結成。テレビタレントとして幅広く活躍。2012年5月に安めぐみと結婚。家紋は九曜紋。画像は父親・東八郎の墓所にて撮影。


高阪剛 。1970年3月6日 -、 格闘家。
滋賀県草津市出身。読みは、こうさかつよし。元スーパーヘビー級キング・オブ・パンクラシスト。ALLIANCE-SQUARE主宰。Mポジションからの脱出技、TKシザースの開発者としても知られる。先祖は戦国武将の高坂昌信ということから家紋は九曜紋と判断。


月形半平太 。江戸時代、 侍。
行友李風作の戯曲、及びそれを原作にした映画・テレビドラマの主人公。『国定忠治』とならび新国劇を代表する作品として知られる。雛菊「月様、雨が…」月形「春雨じゃ、濡れてまいろう」 という台詞が有名。家紋は名前から取られたと思われる月星紋。


西周の紋に関しては、「家紋の真実」を主宰されている日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。


有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)

まさむね





桔梗紋 -反骨と悲劇の紋- 明智光秀、坂本龍馬、柳田国男...

桔梗紋は反骨と悲劇の紋である。
元々は、清和源氏流土岐氏の使用紋であった。
一族の明智光秀は、主君の織田信長を襲撃した本能寺の変の後、羽柴秀吉との山崎の合戦に破れ、最期は土民の竹槍にさされて死んだ。
水色の桔梗紋は、明智の印として、栄光の目印から一気に、反逆の、そして悲劇のイメージを帯びるようになった。
時が経ち、その水色の桔梗紋をシンボルマークとして、急成長するも、最終的に倒産してしまった会社が現れる。
英会話のNOVAである。
NOVAは英会話産業というニッチな市場を、「駅前留学」というコンセプトで開拓。時代の寵児ともてはやされた。
しかし、その急成長の影で会員との間で様々なトラブルが発生していたのだ。
それが元で悪評判が広まり、一方で社内の不正も発覚。急速に収益が悪化、一気に倒産してしまった。
その後、名古屋市の学習塾経営会社、ジー・コミュニケーションが事業引継を行うのだが、NOVAから桔梗のマークは消えた。
桔梗紋の全国分布では、鹿児島が3位、和歌山が6位、本家の岐阜では7位である。
桔梗紋の有名人は以下。



土岐光衡 。1159年 - 1206年5月4日、 武将。
美濃源氏嫡流。実質的な土岐氏の祖。治承・寿永の乱で討死した源光長の子であるが、伯父光基の養子となり土岐氏の嫡惣を継承した。平家滅亡後は鎌倉幕府の御家人となった。水色桔梗紋はこの光衡の代から使用しはじめたと言われている。


太田道灌 。1432年 - 1486年8月25日、 武将。武蔵国守護代。
家系は清和源氏の一家系である摂津源氏の流れを汲み、源頼政の末子で鎌倉幕府門葉となった源広綱の子孫にあたる太田氏。扇谷上杉家家宰として活躍。江戸城を築城。最期は暗殺死。家紋は丸に細桔梗。画像は、道灌ゆかりの谷中・本行寺の賽銭箱。


明智光秀 。1528年 - 1582年7月2日、 武将。
明智氏の本姓は源氏。美濃源氏の流れを汲む土岐氏の支流。家系は清和源氏の一家系で摂津源氏の傍流。織田信長の家臣として功を重ね、織田大名の総合指揮権を与えられた。本能寺の変信長を倒すが山崎の合戦で秀吉に破れる。


山県昌景 。1529年 - 1575年6月29日、 武将。
飯富虎昌の弟。旧名は飯富源四郎。武田信玄の近習として仕える。三方ヶ原の戦いにおいて徳川家康本陣に突進し武田軍の背後を狙ったはずの家康軍を返り討ちにした。長篠の戦いでは撤退を進言したが容れられず体中に銃弾を浴びて戦死。


加藤清正 。1562年 - 1611年、 武将・大名。
尾張国愛知郡中村に鍛冶屋の子として出生。豊臣秀吉に仕え各地を転戦し、秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くした。関が原戦いでは東軍につき活躍。戦後、肥後一国を与えられた。家紋は桔梗と蛇の目を使用。写真は池上本門寺の供養塔で撮影。


山県大弐 。1725年 - 1767年9月14日、 儒学者、思想家。
甲斐国篠原村に生まれる。野沢氏の出自。名は昌貞。字は子恒。甲斐国山梨郡下河辺山王神社の宮司となり、尊皇攘夷の思想を説く。明和事件で処刑された。主著は『柳子新論』。家紋は桔梗紋であるが新宿・全勝寺の墓所には奥方斎藤家の撫子紋がある。


調所広郷 。1776年3月24日 - 1849年1月13日、 薩摩藩の家老。
薩摩国出身。城下士・川崎兼高の息子として生まれ調所清悦の養子となる。本姓は藤原氏を。薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を強引な行政改革、農政改革、財政改革等で乗り切る。家紋は丸に桔梗紋。青山霊園の調所家の墓所にて撮影。


斎藤弥九郎 。1798年2月28日 - 1871年11月14日、 剣術家。
越中国射水郡仏生寺村の生まれ。斎藤家は加賀国守護冨樫氏の末裔と伝えられる。幕末江戸三大道場の一つ神道無念流の「練兵館」創立者。門下生には桂小五郎高杉晋作品川弥二郎井上馨伊藤博文らがいる。家紋は隅立て菱角に細桔梗紋。


大村益次郎 。1824年5月30日 - 1869年12月7日、 医師、兵学者。
周防国吉敷郡鋳銭司村字大村に村医の村田孝益の息子として生れる。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となる。事実上の日本陸軍の創始者。靖国神社の境内に銅像が建つ。NHK大河ドラマ「花神」(原作:司馬遼太郎)の主人公。


川上冬崖 。1828年7月22日 - 1881年5月3日、 洋画家。
信濃国水内郡出身。山岸家の末子。幕府御家人株を購入、川上家の養子となり、以後川上姓を名乗る。読みはかわかみとうがい。『西画指南』『写景法範』を刊行。日本最初の洋画塾聴香読画館を開く。家紋は丸に桔梗紋。画像は谷中霊園にて撮影。


田辺太一 。1831年10月21日 - 1915年9月16日、 幕臣・外交官。
儒学者で幕臣の田辺誨輔(石庵)の次男として生まれる。幕臣時代はパリ万国博覧会に出展した幕府の派遣使節、維新後は、岩倉遣欧使節に一等書記官として随行。外務官僚ととして活躍。家紋は丸に桔梗紋。青山霊園の墓所にて撮影。


坂本龍馬 。1836年1月3日 - 1867年12月10日、 政治家・実業家。
清和源氏の一支族美濃源氏土岐氏の庶家、明智左馬助秀満の末裔を称する。土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力する。龍馬の桔梗紋は、「組合角に桔梗紋」。


山岡鉄舟 。1836年7月23日 - 1888年7月19日、 武士・幕臣。
江戸本所に御蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として出生。江戸無血開城を決した勝海舟西郷隆盛の会談に先立ち西郷と会談。その行動力は西郷をして賞賛させた。維新後は明治天皇の教育係も務める。家紋は丸に桔梗紋。画像は谷中・全生庵にて撮影。


上野彦馬 。1838年10月15日 - 1904年5月22日、 写真家。
長崎の蘭学者・上野俊之丞の次男。読みは、うえのひこま。我が国における最初期の写真家で、坂本龍馬の肖像を撮影したことで有名。日本最初の戦場カメラマン。『龍馬伝』 ではテリー伊藤が演じた。家紋は桔梗の二引。画像は長崎の上野家墓地。


桐野利秋 。1838年12月 - 1877年9月24日、 薩摩藩士。
鹿児島郡吉野村字実方で城下士の中村与右衛門の第三子として出生。小松帯刀ら藩の重臣から重用され薩長両藩親和のために奔走。明治六年の政変で西郷隆盛が下野するや辞表を提出し西南戦争に参戦、戦死。家紋は抱き茗荷に桔梗。


月岡芳年 。1839年4月30日 - 1892年6月9日、 浮世絵師。
武蔵国豊島郡新橋南大阪町出身。姓は吉岡、後に月岡。歴史絵、美人画、役者絵、風俗画、古典画、合戦絵など多種多様な浮世絵を手がける。また衝撃的な無惨絵の描き手としても知られる。家紋は丸に桔梗紋と丸に竹笹紋。画像は新宿・専福寺にて撮影。


楢崎龍 。1841年7月23日 - 1906年1月15日、 龍馬の妻。
京都出身。医師の楢崎将作と貞の長女。読みは、ならさきりょう。坂本龍馬と出会い妻となる。薩長同盟成立直後の寺田屋遭難では彼女の機転により龍馬は危機を脱した。日本初の新婚旅行をしたとされる。家紋の丸に桔梗紋は、墓所の写真にて確認。


長岡安平 。1842年 - 1925年12月、 造園家、作庭家。
肥前大村出身。読みは、ながおかやすへい。郷土の先輩・楠本正隆に従って上京。楠本が東京府知事に就任後、東京府立公園や街路並木の改良新設を行い「飛鳥山公園」「向島百花園」の改修に関わる。家紋は清明桔梗紋。青山霊園にて撮影。


瓜生寅 。1842年1月15日 - 1913年2月23日、 官僚、実業家。
福井出身。父は藩士。遠祖の瓜生姓を名乗る。幕府の英語学校教授となり兵庫日本米穀輸出会社顧問を経て、外国船積立業瓜生商会を設立。著作は、貨幣、地質学、測量、地理、家政学など多方面にわたる。 家紋は桔梗紋。画像は青山霊園にて撮影。


矢野二郎 。1845年1月15日 - 1906年6月17日、 武士、教育者。
江戸出身。本姓は富永。外国方訳官となる。維新後、外務省にはいり駐米代理公使となる。のち森有礼創設の商法講習所所長、改称後の高等商業(現一橋大)の校長をつとめ、商業教育の基礎をきずいた。家紋は丸に細桔梗紋。画像は青山霊園にて撮影。


川上操六 。1848年12月6日 - 1899年5月11日、 陸軍軍人、華族。
薩摩国出身。藩士・川上伝左衛門親徳の三男。陸軍の重鎮として軍の近代化を推し進める。桂太郎児玉源太郎とともに明治陸軍の三羽烏と賞された。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に桔梗紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


長谷川好道 。1850年10月1日 - 1924年1月27日、 陸軍軍人。
長州藩支藩岩国藩士・長谷川藤次郎の子として生まれる。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争に従軍し武功を上げる。朝鮮総督時代には三・一独立運動を弾圧し3年で斎藤実に交替する。最終階級は陸軍大将。家紋は桔梗紋。青山霊園の墓所にて撮影。


松室致 。1852年1月22日 - 1931年2月16日、 政治家、教育者。
小倉藩藩士の長男。読みは、まつむろいたす。桂太郎内閣で司法大臣となり司法界の粛清を行う。後に貴族院議員、枢密顧問官を歴任。治安維持法への死刑・無期懲役追加に反対した。法政大学の学長を務めた。家紋は丸に桔梗紋。画像は青山霊園にて。


元田肇 。1858年2月28日 - 1938年10月1日、 政治家。
豊後国国東郡来浦に医師・猪俣栄造の子として出生。杵築藩の藩儒・元田直の養子となる。第25代衆議院議長、逓信大臣、鉄道大臣を歴任。74歳にして政党出身者ではじめて枢密顧問官に親任される。家紋は丸に桔梗紋。画像は青山霊園にて撮影。


坂本嘉治馬 。1866年4月25日 - 1938年8月23日、 実業家。
土佐国宿毛村出身。明治、大正期を代表する出版社、冨山房を神田神保町に設立した。吉田東伍の「大日本地名辞書」、上田萬年、松井簡治「大日本国語辞典」、大槻文彦「大言海」を刊行。家紋は丸に桔梗紋。画像は文京区吉祥寺の墓所にて撮影。


頼母木桂吉 。1867年11月5日- 1940年2月29日、 政治家・実業家。
安芸国出身。読みは、たのもぎけいきち。頼母木家の養子となる。憲政会・立憲民政党に所属し、同党総務や幹事長などを歴任。廣田挙国一致内閣で逓信大臣、後に東京市長となるが在任10か月で病死。家紋は丸に剣桔梗紋。画像は谷中霊園にて撮影。


川上眉山 。1869年4月16日 - 1908年6月15日、 小説家。
大阪出身。本名・亮。別号、煙波山人。帝国大学文科大学在学中から創作をし、「墨染桜」で注目される。「書記官」、随筆「ふところ日記」などが代表作。39歳という若さで自殺。家紋は丸に桔梗。画像は文京区吉祥寺の墓所にて撮影。


東儀鉄笛 。1869年7月24日 - 1925年2月14日、 雅楽家・作曲家。
京都府出身。1300年続く雅楽の家柄に生まれ宮内庁雅楽寮に勤める。同じ姓でも、江戸幕府に仕えた楽師の末裔・雅楽演奏家・東儀秀樹とは別家系。早稲田大学校歌「都の西北」を作曲。家紋は丸に剣桔梗紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


柳田國男 。1875年7月31日 - 1962年8月8日、 民俗学者。
兵庫県神東郡出身。儒者・松岡操の六男。柳田家の養嗣子となる。養父・直平は大審院判事。農商務省のエリート官僚という立場で日本民俗学を確立。代表作は『遠野物語』『山の人生』等。家紋は大の字桔梗。画像は春秋苑にて撮影。


金光庸夫 。1877年3月13日 - 1955年3月5日、 実業家、政治家。
大分県出身。大正生命保険(現・大和生命保険)創設。阿部内閣で拓務大臣として初入閣。第2次近衛文麿内閣で厚生大臣となる。大政翼賛会顧問、翼賛政治会政務調査会長、大日本政治会総務会長などを歴任。家紋は丸に桔梗紋。画像は多磨霊園にて撮影。


上田貞次郎 。1879年5月12日 - 1940年5月8日、 経済学者。
東京都麻布出身。読みは、うえだていじろう。祖父の代まで町人であったが父の代から士族となる。東京商科大学(現一橋大学)学長。東亜経済研究所(現・一橋大学経済研究所)を設立し初代所長に就任。家紋は桔梗紋。画像は多磨霊園にて。


正宗白鳥 。1879年3月3日 - 1962年10月28日、 劇作家、小説家。
岡山県和気郡出身。正宗家は代々網元や材木商も営んだ財産家であった。本名は正宗忠夫。内村鑑三の影響を受けキリスト教の洗礼を受け、自然主義文学に新分野を開き注目された。代表作は『何処へ』『人間嫌ひ』『銀座風景』等。家紋は桔梗紋。


嶋田繁太郎 。1883年9月24日 - 1976年6月7日、 海軍軍人。
東京府出身。旧幕臣・神官、嶋田命周の長男。1915年海軍大学校13期卒。東條内閣にて海軍大臣となり、対米開戦を容認した。最終階級は海軍大将。終戦後にA級戦犯に指名されるが仮釈放後赦免される。画像は、巣鴨・盛雲寺にて撮影。


砂田重政 。1884年9月15日 - 1957年12月27日、 政治家。
愛媛県出身。1920年に立憲国民党から衆議院議員に初当選。第2次鳩山内閣にて防衛庁長官として入閣。保守合同後は自由民主党で総務会長を務める。千鳥ケ淵戦没者墓苑の建設に熱心に取り組む。家紋は桔梗紋と蛇の目紋。画像は小平霊園にて撮影。


飛田穂洲 。1886年12月1日 - 1965年1月26日、 学生野球指導者。
茨城県東茨城郡大場村出身。本名は飛田忠順。日本の学生野球の発展に多大な貢献をし、学生野球の父と呼ばれる。報知新聞の記者を経て、東京六大学野球連盟理事・公式記録員、早稲田大学野球部顧問として学生野球の普及・発展に尽力した。


花村四郎 。1891年8月30日 - 1963年7月1日、 政治家。
長野県東筑摩郡川手村出身。弁護士。「万朝報」主筆をつとめた後、政治家に転身。鳩山派に属し、日本自由党の結成に参加。衆議院法務委員長、法務大臣(第1・第2次鳩山内閣)を歴任。家紋は井桁に桔梗紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


子母澤寛 。1892年2月1日 - 1968年7月19日、 小説家。
北海道厚田郡出身。本名は梅谷松太郎。読みは、しもざわかん。祖父・十次郎は幕府の御家人で箱館戦争に敗れてそのまま北海道に定住。代表作は『勝海舟』(大河ドラマ『勝海舟』原作)『ふところ手帖』(『座頭市』原作)等。画像は春秋苑にて。


桂文楽(8代) 。1892年11月3日 - 1971年12月12日、 落語家。
青森県五所川原町出身。本名は並河益義。並河家は常陸宍戸藩主松平家の家来筋。戦後最高の落語名人の一人。自宅があった場所の町名から黒門町と呼ばれた。得意ネタは「穴どろ 」「心眼 」「酢豆腐 」等。家紋は三ツ割桔梗紋。


植村甲牛郎 。1894年3月12日 - 1978年8月1日、 財界人。
東京府出身。祖父厚十郎は旧幕臣で甲府勤番士として甲府へ赴任していた。読みは、うえむらこうごろう。日本航空会長、フジテレビの代表取締役会長、株式会社ニッポン放送の社長や会長、第3代経済団体連合会(経団連)会長を務める。家紋は植村桔梗紋。


野呂栄太郎 。1900年4月30日 - 1934年2月19日、 経済学者。
北海道長沼町出身。戦前の日本共産党の理論的指導者であると共に党幹部として実践活動にも関わった。スパイの手引きで検挙され、品川警察署での拷問により病状が悪化し、絶命。主著は『日本資本主義発達史』。画像は青山・長谷寺にて撮影。


音丸 。1906年12月8日 - 1976年1月18日、 歌手。
東京市麻布箪笥町出身。本名は永井満津子。前座を勤めていた美空ひばりがバス事故にあった際の座長も務めていた。民謡調の曲を得意とし、代表作は「船頭可愛や」「下田夜曲」「博多夜船」等。家紋は丸に桔梗紋。墓は東京都品川区にある天妙国寺。


田中澄江 。1908年4月11日 - 2000年3月1日、 脚本家、作家。
東京府北豊島郡出身。読みは、たなかすみえ。夫は劇作家の田中千禾夫。ブルーリボン賞脚本賞を受賞。東京都名誉都民。代表脚本作は『我が家は樂し』『少年期』『めし』。山を愛し「花の百名山」を選ぶ。家紋は丸に桔梗紋。


森繁久弥 。1913年5月4日 - 2009年11月10日、 俳優。
大阪府枚方市出身。父は実業家の菅沼達吉。菅沼家は江戸時代には江戸の大目付の家系。7歳の時に母方の祖父の姓を継いで森繁姓となる。代表出演作はミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」、映画「夫婦善哉」等。桔梗紋は菅沼家の家紋。


横井庄一 。1915年3月31日 - 1997年9月22日、 元日本兵。
愛知県海部郡富田村出身。大東亜戦争のため再召集され、満州を経て、グアム島の歩兵第38連隊に伍長として配属。太平洋戦争終結から28年目、グアム島で地元の猟師に発見された。墓所には丸に立ち沢瀉紋と共に五芒星(清明桔梗紋)あり。


加藤治子 。1922年11月24日 - 、 女優。
東京都赤坂区出身。呉服問屋の娘。本名は滝浪治子。新演劇研究会に入団。後に高橋昌也、岸田今日子らと劇団雲の創立に参加。代表出演作『花つみ日記』『恭々しき娼婦』『阿修羅のごとく』等。画像の桔梗紋は元夫の加藤道夫(死別)の墓所にて撮影。


岡村昭彦 。1929年1月1日 - 1985年3月24日、 ジャーナリスト。
東京府出身。大日本帝国海軍参謀の岡村於菟彦の長男。三池闘争、部落解放同盟に参加しオルグ活動を行う。ジャーナリストとしてはベトナム戦争の報道写真、ビアフラ内戦の取材などで知られる。家紋は丸に桔梗紋。画像は文京区吉祥寺にて撮影。


山川方夫 。1930年2月25日 - 1965年2月20日、 作家。
東京市下谷区上野桜木町に、日本画家・山川秀峰の長男として出生。本名は山川嘉巳。第3次『三田文学』を創刊。新人発掘に力を注ぎ曾野綾子、江藤淳を発掘。代表作は『演技の果て』『海の告発』。突然の交通事故で死亡。家紋は蛇の目に桔梗紋。


熊井啓 。1930年6月1日 - 2007年5月23日、 映画監督。
長野県南安曇郡出身。父は地主、母は元教師。読みは、くまいけい。『帝銀事件 死刑囚』で監督デビュー。『忍ぶ川』でキネマ旬報ベストワン及び監督賞、芸術選奨などを受賞。代表作『黒部の太陽』『サンダカン八番娼館 望郷』等。家紋は丸に桔梗紋。


小池朝雄 。1931年3月18日 - 1985年3月23日、 俳優、声優。
東京都出身。オーバーアクションの怪優として映画、テレビに脇役として数多く出演。東映ヤクザ映画で印象を残す。『刑事コロンボ』の吹き替え、『あしたのジョー』のエンディング・テーマ『ジョーの子守唄』での歌手として知られている。


谷啓 。1932年2月22日 - 2010年9月11日、 俳優、コメディアン。
東京府荏原郡出身。本名は、渡部泰雄。クレージーキャッツのトロンボーン担当。渡辺プロダクション所属。コメディアンとしても「ガチョン」などのギャグで人気を博した。家紋は五瓜に桔梗紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


露の五郎(2代) 。1932年3月5日 - 2009年3月30日、 上方噺家。
祖父母は京都市下賀茂の映画撮影所の裏で芝居や舞踊の稽古場を営んでいた。本名は、明田川一郎。2代目桂小春団治を襲名。上方落語協会会長も務める。双子の娘がおり、姉は女優の綾川文代で自身も「露のききょう」を名乗る。家紋は中陰桔梗紋。


山田康雄 。1932年9月10日 - 1995年3月19日、 声優、司会者。
東京府出身。代々役人の家系で父は日本銀行員。劇団民藝、テアトルエコーなどの劇団を渡り歩くが海外テレビドラマ『ローハイド』の吹き替えでロディ役に抜擢される。一般には「ルパン三世」の吹替え役として著名。画像は多磨霊園にて撮影。


三遊亭円楽(5代) 。1932年12月29日 - 2009年10月29日、 落語家。
東京府東京市浅草区出身。本名は吉河寛海。若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれ、立川談志(7代)古今亭志ん朝、橘家圓蔵と並んで四天王と呼ばれた。また、長年、『笑点』(日本テレビ)の大喜利メンバー・司会者を務めていたことでも知られる。


大辻伺郎 。1935年4月3日 - 1973年5月21日、 俳優。
東京都出身。本名は大辻寿雄。父は弁士で漫談家の大辻司郎。様々な役柄を演じ分け怪優と呼ばれた。代表出演作『ハレンチ学園』『時間ですよ』等。第1回ベストドレッサー賞(芸能部門)を受賞した翌年、首吊り自殺。画像は多磨霊園にて撮影。


村松友視 。1940年4月10日 - 、 作家、エッセイスト。
東京都出身。静岡県清水市で育つ。中央公論社の編集者として武田泰淳色川武大野坂昭如等を担当。『私、プロレスの味方です』がベストセラーとなる。『時代屋の女房』で直木賞を受賞。画像は鎌倉・覚園寺、祖父・村松梢風の墓所にて撮影。


山本小鉄 。1941年10月30日 - 2010年8月28日、 プロレスラー。
神奈川県横浜市南区出身。本名は山本勝。新日本プロレス所属。現役時代は星野勘太郎と「ヤマハ・ブラザーズ」のタッグチームを組み名を上げた。引退後は、解説者・レフェリー、マッチメーカーとして活躍。家紋は丸に桔梗紋。葬儀時の写真より判断。


神田正輝 。1950年12月21日 - 、 俳優。
東京都港区出身。旧姓は杉。女優・旭輝子の長男。松田聖子との間に神田沙也加がいる。石原プロモーションに所属し、舘ひろしと共に同社取締役であった。主な出演作は『太陽にほえろ!』。家紋は桔梗紋。結婚式の紋付より判断。


萬田久子 。1958年4月13日 - 、 女優。
大阪府出身。ミス・ユニバース日本代表から女優に転身。デビュー作は『なっちゃんの写真館』。代表出演作は『遠山の金さん』『女帝 薫子』など。『笑っていいとも!』のレギュラーもつとめていた。家紋は桔梗紋。内縁夫の葬儀の際の喪服にて確認。


嘉門達夫 。1959年3月25日 - 、 シンガーソングライター。
大阪府茨木市出身。本名は、鳥飼達夫。読みは、かもんたつお。桑田佳祐から“嘉門雄三”の苗字を譲り受け、以降、"嘉門達夫"と名乗るようになる。「替え唄メドレー」が82万枚のセールスを記録。家紋の三ツ割桔梗紋は自身のブログにて確認。


逆鉾伸重 。1961年6月18日 - 、 元大相撲力士、親方。
鹿児島県姶良郡加治木町出身。鶴ヶ嶺の次男。本名は、福薗好昭。最高位は関脇。「相撲巧者」と言われ技能賞の常連となる。井筒3兄弟は、長兄が鶴嶺山、次男が逆鉾、三男が寺尾。現在は年寄・井筒を襲名し井筒部屋で後進の指導に当たる。


高田万由子 。1971年1月5日 - 、 女優・タレント。
東京都出身。夫は音楽家の葉加瀬太郎。フジテレビ系番組「たけし逸見の平成教育委員会」に出演。高田家は明治時代に武器・機械商として財を成し「明治三大貿易商之一」とまでいわれた。画像は谷中霊園の高田慎蔵の墓所にて撮影。


SHOCK EYE 。1976年12月14日 - 、 レゲエミュージシャン。
神奈川県鎌倉市出身。血液型A型。本名は、植村家浩。初代高取藩の藩主・植村氏の末裔。人気レゲエグループ「湘南乃風」のファッションリーダー。代表作品は『カラス』『純恋歌』『黄金魂』等。植村家の家紋は丸に竜剣に一文字、別名・植村桔梗。


氷川きよし 。1977年9月6日 - 、 演歌歌手。
福岡県福岡市南区出身。本名は、山田清志。『箱根八里の半次郎』でデビュー。2008年の紅白歌合戦ではトリを務めた。『大井追っかけ音次郎』『きよしのズンドコ節』等のヒット曲がある。家紋は桔梗紋。ハートフォード生命保険のポスター他より判断。


鶴竜力三郎 。1985年8月10日 - 、 大相撲力士。
モンゴル国ウランバートル市出身。大学教授一家の裕福な家庭に生まれる。井筒部屋所属。得意手は右四つ、下手投げ。2012年春場所で13勝2敗の好成績を上げ、直前3場所合計が33勝に達し大関に昇進。殊勲賞2回、技能賞7回。最高位は大関。


早乙女主水之介 。元禄時代、 旗本。
佐々木味津三原作の時代小説「旗本退屈男」の主人公。徳川将軍家の直参旗本で無役ながら1200石の大身。太平の元禄の世にあっては腕を振るう機会に恵まれず「退屈で仕方ない」が口癖。「天下御免の向う傷、パッ!」は名台詞。家紋は桔梗紋。


有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)

まさむね





巴紋 -水が渦巻いている姿を表現- 山本勘助、土方歳三、松田聖子...

巴というのは水が渦巻いている姿を文様にしたものである。
古来、人間にとって最も重要な物質が水である。
ある時は、水不足にならないように、ある時は、火除けのために、人々はこの巴紋に願いを込めたのである。
また、この文様は武士の弓手の装着する鞆(トモ)から来たとも、人の魂を形象化したものとも、勾玉から来たとも言われている。
おそらく、巴紋の形の普遍性は、それらの様々な由来を全部汲み取っているのであろう。
全国では、13位。
特に多い地域は無いが、栃木県、鳥取県、愛媛県、高知県、大分県での6位が最高。
続いて、島根県で7位、愛知県、岐阜県、和歌山県、広島県、福岡県で8位に入っている。
少ないところでは滋賀県、京都府が19位、長野県が22位。
巴紋を持つ有名人は以下。



赤松満祐 。1381年 - 1441年9月25日、 守護大名。
播磨・美作・備前の守護大名・赤松義則の子。二度に渡って侍所頭人を務め、幕府内の長老格として権勢を振るう。1441年に結城合戦の祝勝会として足利義教を自邸に招き暗殺、いわゆる嘉吉の乱を起こすが、幕府方が派遣した細川氏、山名氏などに敗北。


山本勘助 。1501年 - 1561年9月10日、 戦国武将。
三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)出身。武田家家臣。二十四将の一人で、武田の五名臣の一人でもある。2007年NHK大河ドラマ「風林火山」の主役となった(内野聖陽が演じる)。写真は勘助がしていたといわれる巴紋付きの眼帯。


氏家卜全 。1512年 - 1571年6月4日、 戦国時代の武将。
美濃守護の土岐頼芸の家臣として仕えたが、斉藤道三によって頼芸が追放されると、道三の家臣として仕えた。美濃三人衆の中では最大の勢力を有していた。伊勢国長島攻めで柴田勝家に従軍し戦死。家紋は左三巴紋。顔画像はゲーム、戦国IXAより。


小早川隆景 。1533年 - 1597年7月26日、 武将・大名。
毛利元就と妙玖夫人の三男として生まれる。幼名徳寿丸。毛利両川の1人として元春と共に毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では秀吉の信任を受け、文禄年間に五大老の一人に任じられた。家紋は左三巴。


九鬼嘉隆 。1542年 - 1600年11月17日、 武将・大名。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長豊臣秀吉のお抱え水軍(九鬼水軍)の水軍武将として活躍し、3万5000石の禄を得た。九鬼氏の第8代当主である。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。家紋は左三巴紋と七曜紋。


板倉勝重 。1545年 - 1624年6月14日、 大名、京都所司代。
三河国額田郡小美村に生まれる。父の家督を継いで徳川家康に従う。関ヶ原の戦い後の三河国3郡に6,600石を与えられるとともに京都所司代に任命され京都の治安維持を担当。禁中並公家諸法度に基づいて朝廷の指導と監視に当たった。家紋は九曜巴。


宇都宮広綱 。1545年 - 1576年8月30日、 戦国大名。
上野の守護大名、宇都宮氏二十一代当主、宇都宮尚綱の子。父が敗死した時、宇都宮城に落ち延びる。上杉謙信と同盟を結んで関東制覇を目指す後北条氏と対立したが独立を保持。家紋は右三巴紋。顔画像は「戦国BASARA」より。


田中吉政 。1548年 - 1609年3月23日、 武将、大名。
近江国・高島郡田中村の出身。先祖は近江源氏高島氏の一族田中氏で田中城の城主。転封の過程で居城とした近江国・八幡、三河国・岡崎、筑後国・柳河などに現代でも高く評価できる都市設計を行った。家紋は左三巴紋と釘抜紋。


蒲生氏郷 。1556年 - 1595年3月17日、 武将。
蒲生氏は奥州藤原氏・藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門。織田氏家臣から、豊臣家(羽柴家)家臣となる。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。またキリシタン大名で洗礼名はレオン。家紋は蒲生対い鶴と左三巴。


別所長治 。1558年 - 1580年2月2日、 大名。
別所氏は早くから織田信長に従う。中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じ、丹波の波多野秀治と呼応して信長に反逆した。三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせるが「三木の干し殺し」戦法で自害。家紋は左三巴。


不破光治 。生年不詳 - 1580年12月14日、 武将。
藤原直家の後裔とする説や源為義の後裔とする説がある。稲葉一鉄安藤守就氏家卜全の3人と共に西美濃四人衆と言われる。越前一向一揆を平定後は、佐々成政前田利家と共に府中三人衆と呼ばれた。顔画像はゲーム「織田信長伝」より。


糟屋武則 。1562年 - 1607年、 大名。
糟屋氏は播磨加古川城を拠点に鎌倉時代から続く武家。賤ヶ岳の戦いで賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられ、その戦功により播磨国に二千石、河内国に一千石など合わせて三千石余を拝領する。関ヶ原の戦いに西軍として参戦した。家紋は三つ盛三巴。


有馬晴信 。1567年 - 1612年6月5日、 大名。
肥前・有馬氏当主。有馬義貞の次男。キリシタン大名として知られ大友宗麟大村純忠とともに天正遣欧使節を派遣。関ヶ原の合戦では東軍に寝返り小西行長の居城であった宇土城を攻撃。その功績により旧領を安堵された。家紋は左三巴と五瓜に唐花。


結城秀康 。1574年3月1日 - 1607年6月2日、 武将、大名。
遠州国浜松に家康の次男として生まれた。下総国結城の大名・結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督と結城領10万1千石を継ぎ、「結城秀康」と名乗る。関ヶ原の後、徳川家康より下総結城藩から越前北庄67万石に加増移封される。家紋は右三つ巴。


宮本武蔵 。1584年 - 1645年6月13日、 剣豪。
播磨国出身。二刀で有名な二天一流兵法の祖。家系に関しては諸説ある。人生において60余回の勝負を行い全てに勝利したという。佐々木小次郎との巌流島の決闘は有名。『五輪の書』を著す。また、水墨画家としても有名。家紋は九曜巴紋。


安松金右衛門 。1611年 - 1686年10月24日、 藩士、郡代。
播磨国出身。本国は河内国、安松九左衛門の子。旧姓を神吉(かんき)と称し、名は吉美(よしざね)、金右衛門は通称。玉川上水・野火止用水の開削を行う。「算術の達人」と称された。家紋は一重亀甲に左三つ巴紋。平林寺の墓所にて撮影。


大石内蔵助 。1659年 - 1703年2月4日、 家老。
播磨国出身。大石家は藤原秀郷の末裔小山氏の一族。代々近江国守護佐々木氏のもとで栗太郡大石庄の下司職をつとめていた。元禄赤穂事件で名を上げ、これを題材とした忠臣蔵で有名になった。家紋は右二つ巴紋。画像は泉岳寺の墓所にて撮影。


石田梅岩 。1685年10月12日 - 1744年10月29日、 思想家。
丹波国桑田郡東懸村の百姓の次男。読みは、いしだばいがん。45歳の時に無料講座を開き、石門心学と呼ばれる思想を説いた。思想の根底にあるのは宋学の流れを汲む天命論。主な著書に『都鄙問答』『倹約斉家論』がある。家紋は左三つ巴紋。


葛城彦一 。1818年11月5日 - 1880年1月23日、 武士。
大隅国出身。加治木の郷士。島津家の家督相続の内紛では斉彬を推して久光に対抗したが,脱藩して筑前にのがれた。加治木島津家から近衛家に嫁した貞姫の付け人として近衛家につかえた。家紋は右三つ巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


大木喬任 。1832年4月23日 - 1899年6月26日、 政治家。
肥前国佐賀藩士・大木知喬の長男。読みは、おおきたかとう。大木氏は筑後国の蒲池氏の一族。副島種臣江藤新平大隈重信らと共に義祭同盟に参加。東京奠都に尽力。東京府知事、民部大輔などを務めた。家紋は左三つ巴。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


橋本実梁 。1834年5月13日 - 1885年9月16日、 公家。
京都出身。橋本実麗の子。読みは、 はしもとさねやな。条約勅許に反対する有志堂上88名の列参に参加。八月十八日の政変後は差控に処せられたが王政復古によって参与となり戊辰戦争に従軍。左画像は麻路さき。家紋は右尾長巴紋。青山霊園にて撮影。


土方歳三 。1835年5月31日 - 1869年6月20日、 幕臣。
武蔵国多摩郡石田村出身。読みは、ひじかたとしぞう。新選組鬼の副長と恐れられた。戊辰戦争では榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。蝦夷共和国においては陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取に就任。函館戦争中に銃弾を受けて戦死。家紋は左三つ巴。


谷干城 。1837年3月18日 - 1911年5月13日、 陸軍軍人、政治家。
土佐国出身。藩上士・谷万七の第4子。読みは、たにたてき。幕末時代は、攘夷から倒幕派へ。西南戦争の際には西郷軍の攻撃から熊本城を死守した。最終階級は陸軍中将。その後、学習院院長や農商務大臣も務めた。家紋は左三つ巴紋。


野村靖 。1842年9月10日 - 1909年1月24日、 志士、政治家。
長門国出身。下級武士・入江嘉伝次の二男。野村氏を継承。入江九一は兄。読みはのむらやすし。松下村塾に入門して尊皇攘夷に傾倒。第二次長州征伐でも活躍。維新後、駅逓総監、逓信次官などを歴任。家紋は菱に左三つ巴紋。画像は松陰神社にて撮影。


林忠崇 。1848年8月26日 - 1941年1月22日、 大名。
上総国請西藩主林忠旭の五男。読みは、はやしただたか。戊辰戦争の際、自ら脱藩して藩士70名とともに遊撃隊に参加し伊庭八郎等とともに新政府軍と交戦。維新後は一介の士族として困窮した生活を送った。家紋は丸に三つ巴に一の字紋と三階菱紋。


西園寺公望 。1849年12月7日 - 1940年11月24日、 政治家。
京都出身。清華家の一つ徳大寺家の次男。西園寺家へ養子に入り家督を相続。読みは、さいおんじきんもち。第12・14代内閣総理大臣。衆議院での多数派政党が内閣を組織する憲政の常道を慣例にした。家紋は右三つ巴。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


角田秀松 。1850年3月25日 - 1905年12月13日、 海軍軍人。
会津藩出身。藩医、角田良智の二男。戊辰戦争で朝敵とされた会津藩出身者として初めて海軍将官となった。日露戦争時には竹敷要港部司令官を務めた。最終階級は海軍中将。家紋は五瓜に右三つ巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


浅田信興 。1851年11月5日 - 1927年4月27日、 陸軍軍人。
武蔵国出身。川越藩士・坂口朗忠の三男として生まれ、同藩士・浅田順信の養子となる。歩兵第2連隊長、屯田兵参謀長、陸軍大佐、近衛師団長、教育総監、陸軍大将、軍事参議官兼東京衛戍総督を歴任。家紋は結び三つ巴紋。画像は青山霊園にて撮影。


中村雄次郎 。1852年3月18日 - 1928年10月10日、 陸軍軍人。
伊勢国一志郡波瀬村出身。大庄屋・中村一貫の二男。陸軍省軍務局砲兵事務官長、陸軍士官学校校長、陸軍次官兼軍務局長等を歴任。日清、日露戦争の功により男爵を受勲。最終階級は陸軍中将。家紋は右金輪巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


北里柴三郎 。1853年1月29日 - 1931年6月13日、 細菌学者。
熊本県阿蘇郡小国町に生まれる。破傷風菌純粋培養法に成功、血清療法の開発、ペスト菌の発見などの偉業がある。「日本の細菌学の父」として知られる。北里研究所、慶應義塾大学医学部を創設する。家紋は檜扇に巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


江木千之 。1853年5月21日 - 1932年8月23日、 官僚、政治家。
周防国岩国藩出身。読みは、えぎかずゆき。内務省で大臣秘書官、県治局長、愛知・広島などの県知事に続き、清浦奎吾内閣の文部大臣、晩年には文政審議会副総裁、皇典講究所所長などを務めた。家紋は左三つ巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


片山東熊 。1854年1月18日 - 1917年10月24日、 建築家。
長門国萩出身。工部大学校では辰野金吾曽禰達蔵らと同期。宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わったほか公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行った。ジョサイア・コンドルの最初の弟子。家紋は左三つ巴紋。画像は青山霊園にて撮影。


高嶺秀夫 。1854年10月5日 - 1910年2月22日、 教育学者。
陸奥国若松城下出身。会津藩主松平容保の小姓。会津戦争では籠城の末、降伏。米留学帰国後、東京高等師範学校長、東京女子高等師範学校長、東京美術学校長、東京音楽学校長を歴任。家紋は左三つ巴紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


岡部長職 。1855年1月3日 - 1925年12月27日、 政治家・外交官。
江戸出身。和泉岸和田藩の最後の藩主。版籍奉還により知藩事となる。外務次官時に青木周蔵外相の下、条約改正に尽力。晩年は大正天皇の側近となる。長男は加藤高明の長女の夫。三男は村山龍平の婿養子。家紋は左三つ巴紋。画像は青山霊園にて撮影。


大岡育造 。1856年7月4日 - 1928年1月27日、 政治家。
長門国豊浦郡出身。医師・大岡尚斎の長男。板垣退助らの自由党に入党。立憲政友会の設立に関わる。大正政変時には桂太郎首相に退陣を勧告した。第1次山本内閣には文部大臣として入閣。家紋は右金輪巴紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


藤岡市助 。1857年4月8日 - 1918年3月5日、 実業家。
周防国岩国出身。父は、岩国藩士・藤岡喜介。日本に電気、電球灯の普及させたところに功績が大きく、日本のエジソン電力の父と評される。東京電気株式会社(後の東芝)創業者。家紋は左三つ巴紋。画像は谷中霊園寛永寺墓地にて撮影。


亀井英三郎 。1864年4月29日 - 1913年2月26日、 内務官僚。
肥後国出身。熊本藩士・亀井忠左衛門の三男。、徳島県知事、静岡県知事、宮城県知事を歴任。第2次桂内閣の際に警視総監に就任。貴族院勅選議員に任じられ、死去するまで在任した。家紋は左三つ巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


土肥慶蔵 。1866年7月20日 - 1931年11月6日、 医学者。
越前武生領の医者、五世・石渡宗伯の次男として越前府中松原に出生。読みは、どひけいぞう。実質的に西洋医学に入る皮膚科を日本に導入し日本皮膚科学会を発足させた。主著は『世界黴毒史』。家紋は丸に左三つ巴紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


服部宇之吉 。1867年6月2日 - 1939年7月11日、 中国哲学者。
福島県出身。二本松藩士・服部藤八郎の三男。濱尾新の推薦で文部省入り。西洋哲学や中国哲学を講じた。東京帝国大学教授、ハーバード大学教授、東方文化学院院長を歴任。代表著作『孔子教大義』『孔子及孔子教』等。画像は護国寺にて撮影。


狩野君山 。1868年2月11日 - 1947年12月13日、 中国学者。
肥後国出身。本名は、狩野直喜。読みは、かのうくんざん。内藤湖南と並ぶ京都支那学の創始者の一人。日中共同の東方文化事業に関与し、東方文化学院京都研究所(現・人文科学研究所)初代所長に就任。家紋は右二つ巴紋。墓所の写真にて確認。


梶田半古 。1870年7月23日 - 1917年4月23日、 日本画家。
東京下谷御徒町出身。彫金家・梶田政晴の長男。日本画の革新を目指す日本青年絵画協会の結成に参画。前田青邨らを育てる。新な写実表現を用い『春宵怨』『豊年』などを発表する。家紋は尾長右三つ巴紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


吉岡彌生 。1871年4月29日 - 1959年5月22日、 教育者、医師。
遠江国城東郡土方村に漢方医・鷲山養斎の娘として出生。東京女医学校、東京女子医科大学創立者。日本女医会会長、日本医師会参与を歴任。画像は東京女子医大隣の月桂寺東京女子医大の水桶の校紋。ただし本人の墓所の巴は三つ左巴。


広田弘毅 。1878年2月14日 - 1948年12月23日、 政治家。
福岡県那珂郡鍛冶町の石材店の息子。旧名は丈太郎。外交官を経て二・二六事件で倒れた岡田内閣の後を受け第32代内閣総理大臣となり日独防共協定を締結。戦後、A級戦争犯罪人として死刑となる。家紋は右二つ巴紋。墓所は福岡市の聖福寺にて撮影。


鮎川義介 。1880年11月6日 - 1967年2月13日、 実業家、政治家。
山口県氷川郡出身。読みは、あいかわよしすけ。父は旧長州藩士・鮎川弥八。母は井上馨の実姉の長女。日産コンツェルン (日産自動車、日立製作所、日産火災等)の創始者。杉田かおるとの結婚で話題になった鮎川純太の祖父。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


朝比奈泰彦 。1881年4月16日 - 1975年6月30日、 薬学者。
東京本所出身。読みは、あさひなやすひこ。東京帝国大学教授。「漢薬成分の化学的研究」で帝国学士院恩賜賞、文化勲章受章、文化功労者を受賞。著書は「日本隠花植物図鑑」「私乃たどった道」「正倉院薬物」。家紋は尾長巴紋。青山霊園にて撮影。


小山内薫 。1881年7月26日 - 1928年12月25日、 劇作家。
広島県出身。父は陸軍軍医・小山内建で、母は旗本・小栗家の出。二代目左團次と自由劇場を開始。築地小劇場土方与志浅利鶴雄らと起こすなど新劇運動の中心的存在となり新劇の父と呼ばれた。家紋は左三つ巴紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


小川未明 。1882年4月7日 - 1961年5月11日、 児童作家。
新潟県高田出身。父親の澄晴は修験者。児童文学者として「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれる。代表作は『赤い蝋燭と人魚』『月夜と眼鏡』等。家紋は右三つ巴紋。新潟県・春日山神社境内の小川家奥津城の写真にて確認。


金田一京助 。1882年5月5日 - 1971年11月14日、 言語学者。
岩手県盛岡市四ツ家町出身。読みは、きんだいちきょうすけ。アイヌ語の研究で有名。長男の春彦も言語学者。歌人・石川啄木の親友。家紋は右二つ巴紋。「現代日本文学アルバム・石川啄木」(学研)に掲載された東大卒業時の京助の紋付にて確認。


山本五十六 。1884年4月4日 - 1943年4月18日、 海軍軍人。
新潟県長岡市出身。旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男。旧長岡藩家老の家柄・山本家を相続し山本五十六を名乗る。日米開戦には反対していた。最終階級は海軍大将(戦没後に元帥海軍大将を追贈)。家紋は左三つ巴紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


荻原井泉水 。1884年6月16日 - 1976年5月20日、 俳人。
東京芝区神明町出身。本名は、荻原幾太郎。読みは、おぎわらせいせんすい。新傾向俳句機関誌「層雲」を主宰し河東碧梧桐尾崎放哉種田山頭火などを育てる。代表作は『流転しつつ』『無所在』『奥の細道ノート』等。画像は六本木・妙像寺にて撮影。


吉井勇 。1886年10月8日 - 1960年11月19日、 歌人、脚本家。
東京芝区出身。祖父は旧薩摩藩士の吉井友実、父は海軍軍人吉井幸蔵。『明星』に歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目される。歌集『祇園歌集』を発表。後に里見とん、田中純、久米正雄らと『人間』を創刊。家紋は左巴紋。青山霊園にて撮影。


折口信夫 。1887年2月11日 - 1953年9月3日、 民俗学者。
大阪府西成郡出身。読みは、おりぐちしのぶ。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築き、その研究は折口学と総称されている。釈迢空と号した詩人・歌人でもあった。家紋の右三つ巴紋は、曾祖父・彦七を描いた画の紋付より判断。


阿南惟幾 。1887年2月21日 - 1945年8月15日、 陸軍軍人。
大分県竹田市出身。読みは、あなみこれちか。平均的な軍務官僚で陸軍大臣就任以前は目立ったエピソードも少ない。誠実な人柄で人望が厚く今日でも人気の高い。ポツダム宣言の受諾返電の直前に自刃。最終階級は陸軍大将。画像は多磨霊園にて撮影。


九鬼周造 。1888年2月15日 - 1941年5月6日、 哲学者。
東京都出身。読みは、きくしゅうぞう。父は明治を代表する文部官僚の九鬼隆一。祖先は戦国武将の九鬼嘉隆。京都帝国大学文学部哲学科教授として仏哲学の教鞭をとる。代表作は『「いき」の構造』。家紋は左巴紋。画像は京都・法然院の墓所にて撮影。


高畠華宵 。1888年4月6日 - 1966年7月31日、 画家。
愛媛県宇和島市裡町出身。本名は、高畠幸吉。読みは、たかはたけかしょう。『少女画報』『少女倶楽部』『婦人世界』などの挿絵画は一世を風靡し、竹久夢二らと並ぶスター画家となる。家紋は丸に右一つ巴紋。画像は鎌倉霊園の墓所にて撮影。


和辻哲郎 。1889年3月1日 - 1960年12月26日、 倫理学者。
兵庫県神崎郡砥堀村出身。日本的な思想と西洋哲学の融合、あるいは止揚とでもいうべき境地を目指した稀有な哲学者と評価される。その倫理学は和辻倫理学と呼ばれる。代表作は『風土 人間学的考察』『倫理学』『古寺巡礼』。家紋は左一つ巴。


白鳥省吾 。1890年2月27日 - 1973年8月27日、 詩人・文人。
宮城県北部栗原郡築館町出身。ヒット曲『星影のワルツ』で知られる作詞家の白鳥園枝は二女。民衆の内面を描き、"民衆派詩人"と称されている。代表作は『耕地を失う日』『殺戮の殿堂』。家紋は右三つ巴紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


尾形藤吉 。1892年3月2日 - 1981年9月27日、 調教師、騎手。
北海道有珠郡伊達町出身。近代日本競馬における調教師の草分け的存在。調教師成績通算1670勝、JRA重賞189勝はJRA発足以後の最多勝利数。調教師顕彰者としてJRA殿堂入り。騎手としても帝室御賞典に13回優勝するなど活躍。画像は多磨霊園にて撮影。


大塚博紀 。1892年6月1日 - 1982年1月29日、 空手家。
茨城県下館市出身。読みは、おおつかひろのり。昭和期を代表する空手家の一人であり近代空手の基礎を築いた。和道流空手道の開祖。自身が修行した柔術に空手を加味して和道流柔術拳法も開いた。家紋は五瓜に左三つ巴紋。画像は多磨霊園にて撮影。


桂文治(9代) 。1892年9月7日 - 1978年3月8日、 落語家。
東京日本橋小伝馬町に生まれ実家は魚屋。本名は高安留吉。通称「留さん文治」。4代目橘家圓蔵に入門。落語協会顧問就任。語界屈指の吝嗇家であり「ケチの文治」として有名だった。家紋は尾長巴紋。また、桂文治一門の定紋は結三つ柏紋。


若杉鳥子 。1892年12月25日 - 1937年12月18日、 小説家。
東京出身。旧姓、田上とり。茨城県古河の芸者置屋の養女となるが上京し新聞記者になる。「文芸戦線」に発表した「烈日」が認められ、女性プロレタリア作家の草分けとなった。家紋画像は文学者掃苔録図書館より。家紋は九曜巴紋(夫・板倉勝忠の紋)。


細谷省吾 。1894年10月22日 - 1957年4月16日、 細菌学者。
東京出身。旧姓は中村。読みは、ほそやせいご。東京帝大医学部教授、台北帝大教授。抗生物質の研究、ペニシリンの開発、トリコマイシンを発見。著作は「化膿性疾患の細菌叢と免疫療法」など。家紋は丸に左太巴紋。画像は文京区吉祥寺にて撮影。


市川忍 。1897年1月9日 - 1973年11月2日、 実業家。
茨城県出身。読みは、いちかわしのぶ。伊藤忠商事に入社後、大同貿易を経て丸紅商店に移る。丸紅の初代社長に就任。「正・新・和」の精神で丸紅発展の基礎を築く。大阪商工会議所会頭となる。家紋は五つ瓜に右巴紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


丸山薫 。1899年6月8日 - 1974年10月21日、 詩人。
大分県大分市出身。読みは、まるやまかおる。12歳で母方の祖父の地であった愛知県豊橋市に移る。代表作は詩集『帆・ランプ・鴎』。豊橋市は彼の業績を記念して、丸山薫賞を設けている。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に左二つ巴。


河上徹太郎 。1902年1月8日 - 1980年9月22日、 文芸評論家。
長崎出身。本籍は山口県岩国市。先祖は岩国藩士。経済学者の河上肇は親類。戦中はシンポジウム近代の超克のまとめ役となり、戦後に批判を受ける。代表作は『私の詩と真実』『日本のアウトサイダー』。家紋の情報は、文学者掃苔録図書館より。


曽祢益 。1903年12月5日 - 1980年4月25日、 官僚・政治家。
東京都出身。建築家・曽禰達蔵の三男。読みは、そねえき。妻は五島慶太の長女。片山内閣の内閣官房次長。日本社会党に入党し初当選後、民主社会党の結党に参加し初代書記長に就任。家紋は左三つ巴紋。画像は九品仏浄真寺の墓所にて撮影。


古賀忠雄 。1903年12月6日 - 1979年6月10日、 美術家。
佐賀市に生まれる。彫刻を中心に陶器・絵画など様々な分野の作品を発表。佐賀城公園に「古賀忠雄 彫刻の森」として常設展示されている。代表作は「岬の男」「現代を見つめる西郷隆盛」「起つ大東亜」。家紋は左三つ巴紋。画像は染井霊園にて撮影。


尚道子 。1920年2月9日 - 2002年2月15日、 料理研究家。
琉球王国第二尚氏3代尚真王の長男・尚維衡の後裔。読みは、しょうみちこ。夫は琉球王国最後の国王・尚泰の孫の尚明。NHKの長寿番組『きょうの料理』の講師。子供向け弁当の定番アイテムたこさんウィンナーを考案。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


塚本邦雄 。1920年8月7日 - 2005年6月9日、 歌人、小説家。
滋賀県神崎郡出身。第一歌集『水葬物語』でデビューし、三島由紀夫に絶賛される。歌集の他にも多くの文芸作品を発表。短歌は、昭和30年代以降の前衛短歌運動に決定的な影響を与えた。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。隅切り角に左三つ巴紋。


江戸屋猫八 。1921年10月1日 - 2001年12月10日、 物真似師。
栃木県出身。本名は岡田六郎。古川緑波一座に入団し、俳優となる。三遊亭金馬・一龍斎貞鳳とNHK「お笑い三人組」に出演。その物真似は、昭和名人芸として今でも称えられている。家紋は左三つ尾長巴。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


粕谷茂 。1926年2月14日 - 2011年10月21日、 政治家。
東京都出身。読みは、かすやしげる。旧東京4区から出馬し初当選。自民党東京都連会長在任中の東京都知事選挙で、現職の鈴木俊一を自民党東京都連として、支持し当選させた。北海道開発庁長官兼沖縄開発庁長官。家紋は左三つ巴紋。


平岩弓枝 。1932年3月15日 - 、 脚本家、小説家。
東京・代々木にある代々木八幡宮の一人娘として生まれた。『鏨師』が第41回直木賞を受賞。代表作は『御宿かわせみ』シリーズ、『はやぶさ新八御用帳』シリーズ、テレビドラマ『ありがとう』等。家紋は生家の代々木八幡宮の左三つ巴紋とした。


レオナルド熊 。1935年6月27日 - 1994年12月11日、 芸人。
北海道樺戸郡新十津川町出身。高校を中退し上京。『ラッキー・パンチ』(後にコント・レオナルド)で一世を風靡。サントリービール「生樽」のテレビCMの「いかにも一般大衆が喜びそうな」は流行語となる。画像は本願寺・和田堀廟所にて撮影。


松本零士 。1938年1月25日 - 、 漫画家。
福岡県久留米市出身。本名は、松本晟。読みは、まつもとれいじ。代表作は『男おいどん』『銀河鉄道999』『宇宙戦艦ヤマト』など多数。家紋の隅切り角に左三つ巴は自身が企画した玩具「アクリルの棺 疾風 Roll-out 松本家家紋」の尾翼に付いている。


栗本薫 。1953年2月13日 - 2009年5月26日、 作家、評論家。
東京都葛飾区出身。本名は今岡純代。読みは、くりもとかおる。代表作は『グイン・サーガ』『魔界水滸伝』『伊集院大介』。また、中島梓名義で評論活動も手がけた。家紋は右二つ巴紋。紋付姿の写真にて確認。但し、実家の紋か婚家の紋かは不明。


米沢嘉博 。1953年3月21日 - 2006年10月1日、 漫画評論家。
熊本県熊本市出身。読みは、よねざわよしひろ。中学時代に同人活動を始め、1980年から2006年までコミケ準備会代表を務める。『劇画アリス』『マンガ奇想天外』等の編集に携わる。死後、明治大學で米沢嘉博記念図書館が開館。家紋は左三つ巴紋。


渕正信 。1954年1月14日 - 、 プロレスラー。
福岡県北九州市出身。全日本プロレス所属レスラー。カール・ゴッチ直伝の拷問技に定評がある。世界ジュニアヘビー級王座を五度獲得。団体生え抜きとして全日本プロレスの看板を守り通す重鎮。墓マイラーとしての一面も持つ。家紋は左三つ巴紋。


東儀秀樹 。1959年10月12日 - 、 雅楽演奏家。
東京都出身。奈良時代から続く楽家の家系に生まれる。アルバム『東儀秀樹』でデビュー。雅楽器と現代楽器とのコラボで話題となる。NHK大河ドラマ『篤姫』では孝明天皇役で出演。家紋は右二つ巴紋。画像は家紋をあしらった自身デザインのスカーフ。


松田聖子 。1962年3月10日 - 、 アイドル歌手。
福岡県出身。本名は蒲池法子。生家は九州柳川城の城主だった蒲池氏第十六代目蒲池鑑盛の子孫に当たり江戸時代は柳川藩家老格だった。80年代を代表するアイドル歌手。代表曲は「青い珊瑚礁」「白いパラソル」等。蒲池宗家の定紋は巴紋。


舞の海秀平 。1968年2月17日 - 、 元大相撲力士。
青森県西津軽郡鰺ヶ沢町舞戸町出身。本名は長尾秀平。最高位は小結。技能賞を5回受賞。関取時代は、「平成の牛若丸」「技のデパート」と称された。現在はスポーツキャスター、タレント、NHK大相撲解説者として活躍。家紋は左三つ巴紋。


お岩 。江戸時代、 元塩冶藩士・四谷左門の娘。
元禄時代の侍・田宮伊右衛門の妻。夫・伊右衛門は、高家仕官のため婿入りを画策。邪魔になったお岩を離縁しようとする。岩は自害。このお岩を主人公とした怪談が四谷怪談。家紋は、陰陽勾玉巴紋。画像は巣鴨の妙行寺の田宮家墓所にて撮影。


有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)

まさむね





茗荷紋 -謎の神・摩多羅神のシンボル- 三島由紀夫、水木しげる、北野武...

茗荷は摩多羅神という神のシンボルである。

それでは、この摩多羅神とはどういった神なのか?
最澄が唐から帰って来た時に、勝手に守護神としてついてきた神と言われている。憤怒の神、性の神、食人の神などといろいろな説があるが、実はよくわかっていない。
ただ、不道徳と混沌の匂いがする事は確かだ。
それなのに、出雲大社、比叡山・延暦寺、日光東照宮など、名立たる日本の寺社で祭られている。

まったく不思議な存在である。
茗荷を食べると物忘れが激しくなるというが、日本人全部が、この茗荷のシンボル・摩多羅神のことを忘れてしまったということなのか。

茗荷を家紋にしている人々は心のどこかに忘れてしまった神、摩多羅神を宿しているのかもしれない。

全国では12位。岡山県と鹿児島県では5位、富山県、兵庫県では6位。一番少ない山梨県、山形県でも17位。

茗荷紋の有名人は以下。



堀尾吉晴 。1544年 - 1611年7月26日、 武将・大名。
尾張国上四郡の守護代・織田信安に仕えた堀尾泰晴の嫡男。豊臣政権三中老の一人。関ヶ原の戦いでは東軍に与し出雲富田24万石に加増移封された。出雲松江藩の初代藩主。松江城を建造した。家紋は抱き茗荷。墓には六つ目結紋、分銅紋がある。


山本常朝 。1659年7月30日 - 1719年11月21日、 佐賀藩士。
佐賀藩士・山本神右衛門重澄の次男として生まれる。通称・神右衛門。江戸時代の武士、『葉隠』の口述者として知られる。墓所は佐賀市の八戸龍雲寺。常朝近くの山本家の家紋が抱き茗荷紋だったため、暫定的に山本家の家紋も茗荷紋と判断。


桐野利秋 。1838年12月 - 1877年9月24日、 薩摩藩士。
鹿児島郡吉野村字実方で城下士の中村与右衛門の第三子として出生。小松帯刀ら藩の重臣から重用され、薩長両藩の親和のために奔走。明治六年の政変で西郷隆盛が下野するや辞表を提出して帰郷。西南戦争にて戦死。家紋は抱き茗荷に桔梗。


稲垣千頴 。1845年 - 1913年2月9日、 作詞家。
武蔵国の士族の家に出生。読みは、いながきちかい。東京師範学校教員の傍ら、手がけた訳詞・作詞には「ちょうちょ(2番)」「君が代(2番)」「蛍の光」「美しき」「見わたせば」等がある。家紋は大割り抱き茗荷紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


大浦兼武 。1850年6月15日 - 1918年9月30日、 武士、政治家。
薩摩藩主島津家の分家・宮之城島津家の家臣の家柄。読みは、おおうらかねたけ。戊辰戦争では薩摩軍に所属し奥羽方面に出征。内閣の農商務大臣・内務大臣、大隈内閣の農商務大臣・内務大臣を歴任。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は青山霊園にて。


石本新六 。1854年2月17日 - 1912年4月2日、 陸軍軍人。
姫路藩士・石本勝左衛門為延の六男。読みは、いしもとしんろく。日露戦争時には陸軍次官として寺内正毅陸相を支えた。薩長閥以外で初めての陸軍大臣に就任(第2次西園寺公望内閣)。最終階級は陸軍中将。家紋は抱き茗荷紋。画像は天王寺墓地にて。


三須宗太郎 。1855年9月16日 - 1921年12月24日、 海軍軍人。
彦根藩士・三須熊次郎の長男。読みは、みすさんたろう。日露戦争時は東郷平八郎率いる連合艦隊の一員として対馬沖にロシアのバルチック艦隊を迎え撃ちT字戦法を敢行。軍令部次長。舞鶴鎮守府長官を経て海軍大将となる。画像は青山霊園にて撮影。


牧野富太郎 。1862年5月22日 - 1957年1月18日、 植物学者。
土佐国佐川村の裕福な商家に出生。命名した植物は2500種以上、自らの新種発見も600種余りとされる。25歳で、津村順天堂の協力を得て『植物研究雑誌』を創刊。誕生日は「植物学の日」に制定された。家紋は抱き茗荷紋。画像は天王寺墓地にて撮影。


伊藤左千夫 。1864年9月18日 - 1913年7月30日、 歌人、小説家。
上総国武射郡殿台村の農家出身。本名は幸次郎。正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『アララギ』の中心となって斉藤茂吉平福百穂等を育成。代表作は『野菊の墓』『隣の嫁』等。画像は亀戸・普門院の墓所にて撮影。


河合操 。1864年10月26日 - 1941年10月11日、 陸軍軍人。
豊後国出身。杵築藩士の二男。台湾総督府参謀、陸大教官、ドイツ駐在、大本営参謀を歴任した後、日露戦争では、満州軍参謀として出征した。最終階級は陸軍大将。除隊後、枢密顧問官を務めた。家紋は抱き茗荷紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


横川省三 。1865年4月28日 - 1904年4月21日、 新聞記者。
南部盛岡藩の出身。若い頃は自由民権運動に携わり、加波山事件では投獄される。朝日新聞記者として千島列島探検隊の特派員となったり、日清戦争の従軍記者として取材、報道を行う。家紋は抱き茗荷紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


町田経宇 。1865年10月22日 - 1939年1月10日、 陸軍軍人。
薩摩国日置郡出身。井尻家に生まれ領事・町田実一の養嗣子となる。読みは、まちだけいう。日露戦争時は第4軍参謀。その後、歩兵旅団長、支那公使館付武官、参謀本部部長を歴任。最終階級は陸軍大将。家紋は抱き茗荷紋。画像は青山霊園にて撮影。


岡田啓介 。1868年2月13日 - 1952年10月17日、 海軍軍人。
福井藩士・岡田喜藤太の長男。読みは、おかだけいすけ。第31代内閣総理大臣時に二・二六事件で襲撃を受けるが女中部屋の押入に隠れ難を免れるも、直後、内閣を総辞職。最終階級は海軍大将。家紋は大割り抱き茗荷。多磨霊園にて撮影。


秋山真之 。1868年4月12日 - 1918年2月4日、 海軍軍人。
松山城下出身。父は旧松山藩下級武士の秋山久敬。日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦参謀として日本海海戦の勝利に貢献。最終階級は海軍中将。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公としても有名。家紋は抱き茗荷紋。


志賀潔 。1871年2月7日 - 1957年1月25日、 医学者・細菌学者。
仙台藩・陸前国宮城郡仙台に、仙台藩士の子として出生。姓は佐藤。母親の実家・志賀家の養子となり、名も潔と改めた。志賀家は、仙台藩の藩医の家柄。北里柴三郎に師事し赤痢菌を発見。家紋は環に花茗荷紋。画像は仙台輪王寺にて撮影。


出口王仁三郎 。1871年8月27日 - 1948年1月19日、 宗教家。
京都府亀岡市出身。読みは、でぐちおにさぶろう。大本教の教祖の一人。尊称は「聖師」。生家は農家の上田家。出口家の入り婿となり名前を出口王仁三郎とする。出口家の家紋は抱き茗荷。上田家の家紋は丸に十字。大本教の神紋は十曜紋。


森田草平 。1881年3月19日 - 1949年12月14日、 作家・翻訳家。
岐阜県方県郡鷺山村出身。本名森田米松。夏目漱石の門下生であったが私生活での不祥事が多かったという。代表作は『吉良家の人々』『細川ガラシヤ夫人』。翻訳は『カラマゾフ兄弟』『アンナ・カレニナ』等。家紋は抱き茗荷。画像は多磨霊園にて。


倉橋惣三 。1882年12月28日 - 1955年4月21日、 児童心理学者。
静岡県鷹匠町出身。小学校以降は東京で育つ。形式化した明治以来のフレーベル主義を改革、幼児教育の発展に尽くした。戦後、教育刷新委員会委員を経て、保育学会を創設した。家紋は丸に三つ並び茗荷紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


松村謙三 。1883年1月24日 - 1971年8月21日、 政治家。
富山県福光町出身。読みは、まつむらけんぞう。幣原内閣の農相として農地改革を提案推進したが、この時、松村自身の土地も没収されている。環日本海における産業発展の観点から日中友好、日中国交回復に尽力した。画像は護国寺の墓所にて撮影。


中里介山 。1885年4月4日 - 1944年4月28日、 小説家。
神奈川県西多摩郡羽村出身。実家は精米業者。本名は中里弥之助。幸徳秋水内村鑑三らと親交を結ぶ。代表作『大菩薩峠』は『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』『讀賣新聞』などに連載された。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は羽村市禅林寺にて撮影。


本間雅晴 。1887年11月27日 - 1946年4月3日、 陸軍軍人。
新潟県佐渡島出身。太平洋戦争においてフィリピン攻略時、司令官として第14軍を指揮した。バターンでは米比軍の頑強な攻撃を受け多数の死者を出し作戦に失敗する。最終階級は陸軍中将。マニラ軍事裁判において法務死。画像は春秋苑にて撮影。


村山槐多 。1896年9月15日 - 1919年2月20日、 洋画家。
横浜市出身。小学校教師村山谷助の長男。デカダン的な生活により22歳の若さで夭折。代表作は「乞食と女」(絵画)、「槐多の歌へる」(詩集)等。絵画は『開運!なんでも鑑定団』で3,000万円の評価額が付けられた。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


小栗虫太郎 。1901年3月14日 - 1946年2月10日、 推理作家。
東京都千代田区外神田出身。本名は小栗栄次郎。衒学趣味的作風で有名。代表作『黒死館殺人事件』は『ドグラマグラ』(夢野久作)『虚無への供物』(中井英夫)とともに推理小説三大奇書の一つ。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は源覚寺にて撮影。


保利茂 。1901年12月20日 - 1979年3月4日、 政治家。
生家は佐賀県東松浦郡鬼塚村の零細農家。佐藤栄作政権において田中角栄福田赳夫と並ぶ三本柱として内閣官房長官、自民党幹事長を務めた。三木武夫内閣当時三木おろしを画策。現自民党衆議院議員の保利耕輔は息子。画像は春秋苑にて撮影。


中田俊一 。1902年 - 1968年10月9日、 実業家。
島根県鹿足郡出身。 中屋万年筆を岡山で創業。その後、東京上野に拠点を移しプラチナ万年筆に改名。カタログを使った通信販売で成功を収めた。プラチナをペン先に用いた万年筆は人気商品。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は寛永寺第一霊園にて撮影。


水谷八重子(初代) 。1905年8月1日 - 1979年10月1日、 女優。
東京牛込区神楽坂の時計店の娘。本名は松野八重子。読みは、みずたにやえこ。新派劇と新劇の融合を目指した演劇の上演で注目された。日本芸術院賞、紫綬褒章、文化功労者などを受賞。家紋は一つ茗荷巴。画像は本願寺和田堀廟所にて撮影。


原民喜 。1905年11月15日 - 1951年3月13日、 小説家、詩人。
広島県広島市幟町出身。父は陸海軍・官庁用達の縫製業を営む。『夏の花』が、第一回水上滝太郎賞を受賞。徹底して人間の苦しみに連帯し、死者の嘆きに貫かれて祈り描いた『鎮魂歌』など一連の作品を残す。画像は、文学者掃苔録図書館より。


稲垣浩 。1905年12月30日 - 1980年5月21日、 映画監督。
東京本郷区出身。芝居小屋の俳優の息子。山中貞雄らとシナリオ執筆集団「鳴滝組」を結成。三船敏郎主演の『無法松の一生』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。代表作は『宮本武蔵』『風林火山』『日本誕生』。画像は谷中霊園にて撮影。


人生幸朗 。1907年11月2日 - 1982年3月4日、 漫才師。
大阪府東大阪市出身。本名は、比田孝三郎。読みは、じんせいこうろ。生恵幸子とコンビを組みボケを担当。ボヤキ漫才で一世を風靡した。歌詞・世相などにイチャモンを付け、「責任者出てこい」を決めゼリフとする芸風は有名。家紋は丸に抱き茗荷紋。


今井堅 。1908年10月17日 - 1997年12月3日、 実業家。
東京都出身。「明々社」を創業。後に少年画報社と改名。黄金バット(加太こうじ)をヒットさせる。後に『週刊少年キング』を創刊し『サイボーグ009』(石ノ森章太郎)『銀河鉄道999』(松本零士)等を連載。画像は谷中・了ごん寺墓地にて撮影。


原ひさ子 。1909年8月6日 - 2005年12月4日、 俳優。
静岡県静岡市葵区出身。本名は石島久。名脇役として長年活躍し芸団協芸能功労者賞を受賞。芸歴は70年以上といわれる。代表出演作は「人情紙風船」「わが青春に悔なし」「黒い雨」等。家紋は抱き茗荷紋。画像は谷中・金嶺寺の墓所にて撮影。


小沢不二夫 。1912年6月13日 - 1966年5月15日、 作詞家。
東京都出身。本名は小澤不二雄。読みは、おざわふじお。戦前は大都映画でチャンバラ映画の脚本を量産。日本演劇協会設立に参加。同協会の理事となる。美空ひばりの大ヒット曲『リンゴ追分』の作詞者として知られる。画像は池袋・祥雲寺にて撮影。


石田波郷 。1913年3月18日 - 1969年11月21日、 俳人。
愛媛県温泉郡垣生村出身。本名は石田哲大。読みは、いしだはきょう。久保田万太郎を慕って句作に専念する。代表句集『鶴の眼』『酒中花』。人間諷詠の道を辿り中村草田男、加藤楸邨とともに人間探求派と呼ばれた。家紋は五瓜に抱き茗荷紋。


升田幸三 。1918年3月21日 - 1991年4月5日、 将棋棋士。
広島県双三郡出身。実力制第4代名人。三冠独占などの戦績、独創的な指し手、キャラクター、数々の逸話は将棋界の歴史を語る上で欠かすことができない。終生のライバルは大山康晴。「将棋は創作だ」等の名言がある。画像は烏山・常栄寺にて撮影。


水木しげる 。1922年3月8日 - 、 漫画家。
鳥取県境港市出身。本名は武良茂。世界妖怪協会会長。妖怪漫画の第一人者として活躍。代表作は『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』『のんのんばあとオレ』等。家紋は隅立角に抱き茗荷紋。画像は調布市の覚證寺の生前墓にて撮影。


田中六助 。1923年1月23日 - 1985年1月31日、 政治家。
福岡県田川郡上野村に布団屋の三男。侠客めいた気性で知られる典型的な"川筋者"として育ったという。鈴木内閣成立の裏の立役者。自民党政務調査会長、通商産業大臣、自民党幹事長を歴任。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は春秋苑にて撮影。


鏡里喜代治 。1923年4月30日 - 2004年2月29日、 大相撲力士。
青森県三戸郡斗川村出身。本名は奥山喜世治。時津風部屋所属。第42代横綱。幕内成績:360勝163敗28休 勝率.688。幕内最高優勝は4回。引退後は立田川部屋を興し独立した。家紋は丸に抱き茗荷紋。墓所は青葉園霊園の墓所にて撮影。


鶴田浩二 。1924年12月6日 - 1987年6月16日、 俳優、歌手。
静岡県浜松市出身。本名は小野榮一。昭和を代表する映画スターとして数多くの映画やドラマに主演。代表出演作『人生劇場 飛車角』『人生劇場シリーズ』『博徒シリーズ』等。代表ヒット曲『傷だらけの人生』『同期の桜』。画像は鎌倉霊園にて撮影。


三島由紀夫 。1925年1月14日 - 1970年11月25日、 小説家。
東京市四谷区出身。本名は平岡公威。代表作は、『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『豊饒の海』など。楯の会会長として自衛隊にクーデターを促すが、失敗し、割腹自殺(三島事件)。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


奥野健男 。1926年7月25日 - 1997年11月26日、 文芸評論家。
東京に生まれる。読みは、おくのたけお。父は最高裁判事の奥野健一。次女の奥野美果は工芸作家。代表作は『“間”の構造』『坂口安吾』『文学における原風景』『三島由紀夫伝説』など。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


向田邦子 。1929年11月28日 - 1981年8月22日、 脚本家。
東京府荏原郡世田ヶ谷町若林生まれ。父親が転勤族であるため日本各地で育つ。代表作は、ドラマ脚本では『時間ですよ』『阿修羅のごとく』、小説では『あ・うん』『だいこんの花』等。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


實吉達郎 。1929年11月29日 - 、 動物学者・作家。
広島県呉市出身。読みは、さねよしたつお。祖父は、子爵の實吉安純。数多くのテレビ番組に出演。未確認動物UMAの命名者として知られる。シャーロック・ホームズの研究家でもある。家紋は抱き茗荷紋。青山霊園の祖父の實吉安純の墓所にて撮影。


三宅久之 。1930年1月10日 - 2012年11月15日、 政治評論家。
東京府豊多摩郡杉並町出身。毎日新聞社で記者を経て、フリーランスの政治評論家となる。「ビートたけしのTVタックル」「たかじんのそこまで言って委員会」などに出演。家紋は丸に抱き茗荷紋と丸に五三桐紋。画像は三宅久之の小言辛兵衛より。


海老一染太郎 。1932年2月1日 - 2002年2月2日、 曲芸師。
東京都新宿区出身。本名は村井正秀。落語家の三遊亭圓駒を父に持つ。和傘の上で毬を回す芸が有名。実の弟・染之助とコンビを組み、正月のテレビ番組には欠かせない存在となっていた。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は、新宿区の常敬寺の墓所にて撮影。


太刀川恒夫 。1937年2月12日 -、 実業家、フィクサー。
戦後日本の黒幕・児玉誉士夫の元秘書。ロッキード事件の際に、殖産住宅の東郷民安会長を辞任に追い込んだ疑いで逮捕されている。現在は東京スポーツ新聞社会長となっている。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は池上本門寺の太刀川家墓所にて撮影。


平尾昌晃 。1937年12月24日 - 、 作曲家、歌手。
東京都牛込生まれ。「ロカビリー三人男」として大人気を博す。代表曲は「ミヨちゃん」「カナダからの手紙」など。また「うそ」「瀬戸の花嫁」などを作曲。家紋は三つ追い蔓茗荷紋。画像は谷中霊園の曽祖父・平尾賛平の墓所にて撮影。


角川春樹 。1942年1月8日 - 、 実業家、プロデューサー。
富山県中新川郡水橋町出身。角川家は富裕な米穀問屋。父は角川書店創業者の角川源義。角川映画で一世を風靡。メディアミックスによるエンターテイメント中心の文庫戦略は業界に変革をもたらした。画像は小平霊園にある父・源義の墓所にて撮影。


山口二矢 。1943年2月22日 - 1960年11月2日、 右翼活動家。
東京都生まれ。東北帝国大学出身で陸上自衛官の厳格な父を持つ。16歳で赤尾敏率いる大日本愛国党に入党し玉川学園高等部を退学。日本社会党委員長・浅沼稲次郎を刺殺し、少年鑑別所で自殺。家紋は丸に抱き茗荷紋。梅窓院の墓所にて撮影。


うつみ宮土理 。1943年10月1日 -、 タレント、女優。
東京都世田谷区出身、本名:内海三重子。愛称は「ケロンパ」。代表出演ドラマ「おくさまは18歳」「なんたって18歳!」。夫は、「キンキン」こと愛川欽也。出演バラエティ「ロンパールーム」「さんまのSUPERからくりTV」「情報ライブ ミヤネ屋」等。


玉の海正洋 。1944年2月5日 - 1971年10月11日、 大相撲力士。
愛知県宝飯郡蒲郡町出身。本名は、谷口正夫。第51代横綱。幕内優勝6回、幕内戦歴 469勝221敗。ライバルは北の富士。全勝優勝を飾った場所前後に虫垂炎に罹患し急性肝不全で死亡した。家紋は丸に抱き茗荷紋。墓所は蒲郡市の天桂院


大杉勝男 。1945年3月5日 - 1992年4月30日、 プロ野球選手。
岡山県勝田郡奈義町出身。東映の入団テストに失格するが藤村富美男に見出され、水原茂の英断によって入団。2年連続本塁打王、2度の打点王。前人未踏の両リーグ1000本安打を達成。1997年に野球殿堂入りした。画像は鎌倉霊園にて撮影。


北野武 。1947年1月18日 - 、 お笑いタレント、映画監督。
東京都足立区島根町にてペンキ職人の四男として出生。「ツービート」でブレイク。「平成教育委員会」「TVタックル」等主演番組多数。映画監督としては『HANA-BI』でベネチア国際映画祭金獅子賞受賞。画像は北野家の菩提寺・蓮昌寺にて撮影。


西郷輝彦 。1947年2月5日 - 、 歌謡歌手、俳優。
鹿児島県鹿児島郡谷山町出身。橋幸夫・舟木一夫と共に、「御三家」と呼ばれた。代表ヒット曲は『星のフラメンコ』等多数。代表出演ドラマ『どてらい男』等。家紋は抱き茗荷紋。木宮神社境内茶屋の結婚式の紋付姿の写真より抱き茗荷紋と判断。


旭富士正也 。1960年7月6日 - 、 大相撲力士。
青森県西津軽郡木造町出身で大島部屋所属。本名は杉野森正也。近畿大学中退後、大島部屋に入門。第63代横綱。通算成績:575勝324敗35休 勝率.640、幕内最高優勝:4回。現在は、年寄・9代伊勢ヶ浜親方。日馬富士、安美錦、照ノ国などを育てる。


佐々木健介 。1966年8月4日 - 、 プロレスラー。
福岡県福岡市南区出身。妻は北斗晶。ジャパンプロレスに入門し、新日本に移籍。IWGPタッグ王座、IWGPヘビー級王座を奪取。その後、健介オフィスを立上げ、全日本、NOAHなどの団体に登場。家紋の丸に抱き茗荷紋は佐々木健介ブログにて確認。


的場浩司 。1969年3月28日 - 、 俳優。
埼玉県上尾市出身。代表出演作『稲村ジェーン』『ADブギ』『予備校ブギ』等。スイーツマニアとしても知られている。家紋は抱き茗荷紋。2012年8月31日放映の『やりすぎコージー都市伝説特集』(テレビ東京)にて自身の家紋について語る。


美元 。1979年6月29日 - 、 モデル、女優。
東京都出身。本名は芦澤裕子。読みは、みをん。ミスユニバースジャパン大会で「準ミスユニバースジャパン」に選出され、モデルとして活躍。高嶋政伸との離婚騒動が世間を騒がせる。自身のブログに掲載した写真により家紋は丸に抱き茗荷紋と判断。


日馬富士公平 。1984年4月14日 - 、 大相撲力士。
モンゴル・ウランバートル出身。伊勢ヶ浜部屋所属。本名は、ダワーニャム・ビャンバドルジ。2012年9月場所で二場所連続全勝優勝し、第70代横綱となる。幕内最軽量(2012年11月時点)。尊敬する力士は初代貴ノ花。家紋は親方と同じ丸に茗荷紋。


有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)

まさむね





菱紋 -武家の正統としてのプライドと信玄の威光- 武田信玄、高杉晋作、浅利慶太...


菱紋と言えば、武田家の紋としてあまりにも有名である。
左の画像は南部家で使用された鶴菱。
武田家は、清和源氏義光流の正統的な武家であるが、家伝には、家祖・新羅三郎義光より伝わる家宝「楯無」の金具に描かれた花菱にちなんで割り菱を家紋にしたとある。

菱紋には割菱系と花菱系があるが、かの武田信玄は両方とも使用したという。
武田家の分家は、奥州の南部家、小笠原家、松前家など、全国に発展して行ったが、それらはみな菱紋系の紋を使用している。
菱紋には、武家の正統としてのプライドと武田信玄の威光が今でも輝いているのである。

全国では11位。やはり、信玄のお膝元の山梨県では1位。他では福岡県で5位、山口県で6位が目立つくらいだ。

このページでは菱紋の中でも菱紋(割り菱、三階菱、松皮菱等)のみを掲載。花菱紋、大内菱紋、三条花角紋などの有名人にご興味のある方はコチラをご覧下さい。



北畠親房 。1293年3月8日 - 1354年6月1日、 公家。
村上源氏庶流の北畠師重の子。『神皇正統記』の作者。後醍醐の皇子世良親王の養育をする。吉田定房万里小路宣房と共に「後の三房」と呼ばれ、後醍醐の信任厚かった。後に、京都を逃れた後醍醐が吉野で開いた南朝に従う。家紋は割菱と笹竜胆。


武野紹鴎 。1502年 - 1555年12月12日、 茶人。
武田一族(武田信孝の孫)で、父は信久。武田新四郎の名を持つ武士であったが、武野に改姓。堺の豪商(武具商あるいは皮革商)として財を成す一方で茶人として活躍。今井宗久、千利休、津田宗及、細川藤孝などは紹鴎の弟子。家紋は丸に割菱。


武田信玄 。1521年12月1日 - 1573年5月13日、 甲斐の戦国大名。
甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の長男。越後の上杉謙信と5次にわたると言われる川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定。晩年には上洛の途上、三河で病を発し信濃で病没した。画像は菩提寺の本墓の割菱紋。


三好長慶 。1522年3月10日 - 1564年8月10日、 武将。
管領細川晴元の家臣で、後の山城国五郡の守護代、三好元長の嫡男として生まれる。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の傍系・甲斐源氏・小笠原氏の庶流である三好氏。織田信長出現以前に畿内を平定。幕府の相判衆となり実権を握る。家紋は三階菱。


安国寺恵瓊 。1539年 - 1600年11月6日、 禅僧・大名。
安芸国沼田郡出身。安芸武田氏の一族である武田信重の子。毛利氏の外交僧。大友氏との和睦、秀吉へ臣従する際の交渉に活躍。関ケ原の戦いでは毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功するも敗れて、斬首された。家紋は武田菱。


南部利直 。1576年4月13日 - 1632年10月1日、 南部氏当主。
第26代当主・南部信直の長男として三戸の田子城にて出生。南部家は清和源氏の河内源氏の流れをくむ。関ヶ原の戦いでは帰国して一揆を鎮圧。このため、家康から所領を安堵され、盛岡藩の藩祖となった。家紋は割り菱、南部鶴、鶴菱を使用。


溝口宣勝 。1582年 - 1628年11月24日、 武将。
若狭国高浜出身。父・溝口秀勝と共に豊臣秀吉に仕える。関ヶ原の戦いに際しては上杉景勝に扇動された越後一揆を征圧。父の死により後を継いで新発田藩第2代藩主となり積極的な新田開発を行なう。家紋は溝口菱紋。画像は文京区吉祥寺の墓所にて撮影。


河合曾良 。1649年 - 1710年6月18日、 俳諧師。
信濃国下桑原村出身。蕉門十哲の一人として松尾芭蕉の『奥の細道』における奥州・北陸の旅に同行し「曾良旅日記」を残した。晩年は、幕府の巡見使随員となり九州を廻るが、その途中に壱岐にて病没。家紋は丸に組み合い菱紋。壱岐の墓所にて確認。


田中久重 。1799年10月16日 - 1881年1月11日、 発明家。
筑後国久留米の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男。国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型、アームストロング砲を完成。また、万年自鳴鐘(重要文化財)も完成。東芝の基礎となる田中製造所を設立。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


稲妻雷五郎 。1802年 - 1877年3月29日、 大相撲力士。
常陸国河内郡阿波崎村出身。本名は根本才助。第7代横綱。松江藩お抱えの江戸時代に活躍した。幕内通算25場所130勝13敗14分3預1無勝負73休、勝率9割9厘、優勝相当成績12回。タレントの山咲トオルは稲妻雷五郎の子孫といわれる。家紋は三階菱紋。


雲龍久吉 。1822年 - 1890年6月15日、 大相撲力士。
本名は、塩塚久吉→佐藤喜太郎。筑後国山門郡大和村出身。柳川藩のお抱え力士。第10代横綱。2つの横綱土俵入りのうち、不知火型の考案者といわれている。幕内通算成績は26場所127勝32敗15分5預55休、勝率.799。優勝相当成績7回。家紋は三階菱紋。


小笠原長行 。1822年6月29日 - 1891年1月25日、 幕府老中。
肥前国唐津藩主・小笠原長昌の長男として出生。老中職の中に生麦事件で幕府に無断で賠償金を英国に支払い老中職を罷免される。復職するが第2次長州征討では連敗を重ね、二度目の老中罷免。戊辰戦争では函館まで戦う。画像は烏山・幸龍寺にて撮影。


松前崇広 。1829年12月10日 - 1866年6月9日、 松前藩藩主。
蝦夷松前藩出身。9代藩主・松前章広の六男。第二次長州征伐に徳川家茂の供をし陸軍兼海軍総裁となる。老中の阿部正外とともに独断で兵庫開港を決定、官位剥奪、謹慎を命ぜられる。家紋は割り菱紋。画像は文京区吉祥寺の松前家の墓所にて撮影。


萱野権兵衛 。1830年 - 1869年6月27日、 会津藩家老。
会津藩出身。萱野家は侍大将を務める名家。読みは、かやのごんのひょうえ。松平容保の側近としてその補佐役を務めた。会津戦争では、会津城外にあって若松城の完全孤立を避ける任務に当たったが落城。戦後、東京において自刃。家紋は括り菱紋。


木村芥舟 。1830年2月27日 - 1901年12月9日、 幕臣。
父は浜御殿奉行の木村喜彦。家紋は丸に松笠菱紋。老中阿部正弘によって目付に登用される。軍艦奉行咸臨丸の司令官を務めた。帰国後の木村は軍艦奉行の職務に復帰。幕府海軍の創設を目指して様々な活動を行っている。画像は青山霊園にて撮影。


岩崎弥太郎 。1835年1月9日 - 1885年2月7日、 実業家。
土佐国の地下浪人の子として生れる。海援隊の経理を担当。明治の動乱期に政商として巨利を得て、三菱財閥を創業。娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出。家紋は三階菱紋。画像は染井霊園・岩崎家の墓所にて撮影。


西村勝三 。1837年1月15日 - 1907年1月30日、 実業家。
下総国佐野藩の藩邸で付家老平右衛門と楽子の3男として生まれる。幼名三平。兄は貴族院議員西村茂樹。桜組製靴の創業者。築地に伊勢勝造靴場を設立し、日本で最初に靴の製造を行う。家紋は五つ松皮菱紋。画像は品川・東海寺の墓所にて撮影。


大倉喜八郎 。1837年10月23日 - 1928年4月22日、 実業家。
越後国新発田出身。鉄砲商から政商となり大倉財閥を設立。鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。大倉商業学校(現東京経済大学)の創設者。ホテルオークラは長男の大倉喜七郎によって設立された。家紋は溝口菱紋。画像は護国寺にて撮影。


永倉新八 。1839年5月23日 - 1915年1月5日、 新選組二番隊組長。
松前藩士・長倉勘次の次男として江戸屋敷で生まれる。本姓は長倉。読みは、ながくらしんぱち。池田屋事件で活躍。戊辰戦争では甲陽鎮撫隊に属して戦うが敗走する。家紋は石持地抜き松皮菱。画像は北区竜野川の寿徳寺墓所の中陰松皮菱紋。


高杉晋作 。1839年9月27日 - 1867年5月17日、 長州藩士。
長門国萩城下菊屋横丁出身。長州藩士・高杉小忠太(家禄200石)の長男。吉田松陰の松下村塾などで学び、攘夷論を信奉した。下関戦争、長州征伐などで奇兵隊など、諸隊を率いて大活躍し、長州藩を倒幕に方向付けた。家紋は丸に割菱。


岡内重俊 。1842年5月11日 - 1915年9月20日、 司法官。
土佐国土佐郡出身。藩士岡内清胤の長男。読みは、おかうちしげとし。海援隊に入り秘書役として活躍。維新後、岩倉具視伊藤博文らと共に征韓論に抗して高知の征韓論者説得に努めた。家紋は丸に亀甲に武田菱紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


野村靖 。1842年9月10日 - 1909年1月24日、 志士、政治家。
長州藩出身。下級武士・入江嘉伝次の二男。野村氏を継承。入江九一は兄。読みはのむらやすし。松下村塾に入門して尊皇攘夷に傾倒。第二次長州征伐でも活躍。維新後、駅逓総監、逓信次官などを歴任。家紋は菱に左三つ巴紋。画像は松陰神社にて。


雨宮敬次郎 。1846年10月24日 - 1911年1月20日、 実業家。
甲斐国山梨郡牛奥村に生まれる。投機界の魔王と呼ばれた。結束して商売にあたった甲州商人、いわゆる甲州財閥若尾逸平根津嘉一郎など)と呼ばれる集団の一人。泰靖社(日本製粉株式会社の前身)を起業。家紋は丸に割り菱。


林忠崇 。1848年8月26日 - 1941年1月22日、 大名。
上総国請西藩主林忠旭の五男。読みは、はやしただたか。戊辰戦争の際、自ら脱藩して藩士70名とともに遊撃隊に参加し伊庭八郎等とともに新政府軍と交戦。維新後は一介の士族として困窮した生活を送った。家紋は丸に三つ巴に一の字紋と三階菱紋。


三遊亭円遊(初代) 。1850年7月7日 - 1907年11月26日、 落語家。
江戸小石川小日向出身。本名は竹内金太郎。大きい鼻で知られており「鼻の圓遊」と呼ばれていた。寄席において落語の後の余興として奇妙な踊りを披露して大人気を博した。明治時代の落語界・中心人物。家紋は武田菱紋。画像は天王寺墓地にて撮影。


岸本辰雄 。1851年11月13日 - 1912年4月5日、 法学者、教育者。
現在の鳥取市に鳥取藩士岸本平次郎の三男として生まれる。宮城浩蔵矢代操らとともに明治大学の前身である明治法律学校を創設、初代校長となる。法制局参事官、司法省参事官、大審院判事を歴任。家紋は丸に鉄砲松皮菱紋。画像は谷中霊園にて撮影。


武田仰天子 。1854年8月19日 - 1926年4月10日、 作家。
大阪府堂島に生まれる。本名は頴(えい)。東京朝日新聞に入社。小説欄を担当し、長編時代小説を30編ほど執筆した。代表作は『二代忠孝』『武蔵坊弁慶』『鎮西八郎為朝』『長屋喜兵次』等。家紋は陰割菱紋。画像は谷中・臨江寺の墓所にて撮影。


中上川彦次郎 。1854年10月4日 - 1901年10月7日、 実業家。
豊前国中津藩出身。藩士・中上川才蔵の長男。福沢諭吉の甥。三女はタレント・参議院議員の藤原あき。三井財閥の工業化と不良債権処理を推進し三井中興の祖として高く評価されている。家紋は割り菱に鐶木瓜紋。青山霊園の墓所にて撮影。


大石正巳 。1855年5月26日 - 1935年7月12日、 政治家。
土佐国(高知県)出身。立志社に参加し、自由民権運動に従事。進歩党結成に参加。第1次大隈重信内閣で農商務大臣として入閣。桂太郎総裁の下で後藤新平加藤高明等と総務5人の一人となる。家紋は割り菱紋。青山霊園の墓所にて撮影。


末岡精一 。1855年6月20日 - 1894年1月22日、 法学者。
山口県熊毛郡田布施町宿井出身。庄屋・末岡太兵衛景徳の次子。日本法律学校(現日本大学)の創立に参画する。行政学担当。著作に『行政裁判法講義』『行政法汎論講義』『比較国法学』がある。家紋は丸に三つ菱紋。青山霊園の墓所にて撮影。


三好学 。1862年1月4日 - 1939年5月11日、 植物学者、理学博士。
美濃国岩村藩出身。生まれは岩村藩江戸藩邸。桜、菖蒲の研究、及び天然記念物保存事業に力を注いだ。日本に「記念物(デンクマール、denkmal )の概念を広めた。「景観」という言葉を生み出した。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


石原健三 。1864年2月20日 - 1936年9月4日、 官僚、政治家。
岡山県出身。農業・石原庫平の三男として生まれる。山梨県知事をはじめ、千葉県、高知県、静岡県、愛知県、神奈川県の各知事、北海道庁長官を歴任した。その後、宮内次官に就任した。家紋は丸に重ね菱紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


松林桂月 。1876年8月18日 - 1963年5月22日、 日本画家。
山口県萩市出身。元の姓は伊藤、本名は篤。南画の表現に新たな世界を開拓し南画界の重鎮と言われる。近代の写生画の流行を十分に取り込みながら、漢籍・漢詩の素養に裏付けされた品格の高い作風が特色。家紋は丸に松皮菱紋。青山霊園の墓所にて撮影。


小林躋造 。1877年10月1日 - 1962年7月4日、 海軍軍人。
広島市台屋町出身。旧安芸広島藩浅野家家臣・早川亀太郎の3男。読みは、こばやしせいぞう。最終階級は海軍大将。予備役編入後、台湾総督、貴族院勅選議員、国務大臣などを歴任。家紋は丸に割り菱紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


宇野円空 。1885年11月27日 - 1949年1月1日、 宗教民族学者。
京都出身。姉崎正治に学び、宗教民族学の分野を開拓。母校東京帝大の助教授、東洋文化研究所教授となる。学位論文「マライシアに於ける稲米儀礼」で恩賜賞を受賞。主著「宗教学」「宗教民族学」家紋は武田菱紋。本願寺和田堀廟所の墓所にて撮影。


尾崎放哉 。1885年1月20日 - 1926年4月7日、 俳人。
鳥取県邑美郡出身。士族で鳥取地方裁判所の書記官・尾崎信三の次男。季語を含めない自由律俳句の代表的俳人として種田山頭火と並び称される。代表作は「咳をしても一人」「墓の裏に廻る」「足のうら洗えば白くなる」など。家紋は五つ松皮菱紋。


小笠原三九郎 。1885年4月5日 - 1967年12月13日、 政治家。
愛知県幡豆郡室場村(西尾市)花蔵寺町の農家に生まれる。読みは、おがさわらさんくろう。実業家としては極洋捕鯨社長、日本貿易振興会会長等を務める。商工大臣・農林大臣・通商産業大臣・大蔵大臣を歴任。家紋は丸に三階菱。画像は護国寺にて撮影。


大野伴睦 。1890年9月20日 - 1964年5月29日、 政治家。
岐阜県山県郡美山町出身。読みは、おおのばんぼく。衆議院議長、自民党副総裁。地元岐阜県に東海道新幹線岐阜羽島駅を誘致。力道山を可愛がり日本プロレスのコミッショナーを務める。家紋は丸に三階菱紋。画像は池上本門寺の墓所にて撮影。


福留繁 。1891年2月1日 - 1971年2月6日、 海軍軍人。
鳥取県西伯郡所子村の農家に生まれた。読みは、ふくとめしげる。太平洋戦争中に軍令部第一部長、連合艦隊参謀長などの要職を務め、太平洋戦争中に、日本海軍の作戦の中枢にあった。最終階級は海軍中将。家紋は菱に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


内田栄一 。1901年3月25日 - 1985年7月27日、 歌手。
京都府出身。読みは、うちだえいいち。レーヴエに師事。大正のはじめヴォーカルフォア合唱団を主宰。「トスカ」のアンジェロッティ以来、藤原歌劇団で活躍。戦中は、「月月火水木金金」が大ヒットした。家紋は割り菱紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


江戸英雄 。1903年7月17日 - 1997年11月13日、 実業家。
茨城県筑波郡作岡村(現つくば市)に出生。長女の江戸京子は小澤征爾の元妻。三井不動産の復興に尽力し、社長、会長職を務め、東京ディズニーランド、筑波研究学園都市の建設にも力を注いだ。家紋は丸に三階菱紋。青山霊園の墓所にて撮影。


堀辰雄 。1904年12月28日 - 1953年5月28日、 作家。
東京麹町区平河町出身。実父・堀浜之助は、広島藩の士族。『聖家族』で文壇デビュー。欧米の先端的な文学の影響を受ける。代表作は『風立ちぬ』『かげろふの日記』など。堀家家紋は不明だが養父・上條松吉と母の墓所(向島・円通寺)の家紋は割菱。


川田晴久 。1907年3月15日 - 1957年6月21日、 歌手。
東京都本郷根津出身。本名、岡村郁二郎。益田喜頓達と「あきれたぼういず」を結成。多くの弟子を育てた。また、美空ひばりの師匠格としても知られる。代表曲は「浪曲ダイナ」「バナナ物語」等。家紋は丸に松皮菱。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


湯川秀樹 。1907年1月23日 - 1981年9月8日、 理論物理学者。
東京府東京市麻布区出身。地質学者・小川琢治の三男。1949年に日本人として初めてのノーベル物理学賞を受賞する。また、核兵器廃絶を訴える平和運動にも積極的に携わった。家紋は横木瓜に割菱。画像は京都・知恩院の墓所にて撮影。


児玉誉士夫 。1911年2月18日 - 1984年1月17日、 右翼運動家。
福島県安達郡本宮町出身。ロッキード事件の際に代理人としてその名が広く知れ渡る。スカルノ大統領の夜の相手としてホステス根元七保子(デヴィ夫人)を送り込む。政財界の黒幕と呼ばれた。家紋は丸に松皮菱紋。画像は池上本門寺にて撮影。


武田泰淳 。1912年2月12日 - 1976年10月5日、 小説家。
東京市本郷区にある浄土宗の寺に大島泰信の三男として生まれる。出生名は覚。父の師にあたる武田氏に養子に入り武田泰淳と名乗る。代表作は『司馬遷』『ひかりごけ』『富士』等。家紋は武田菱。画像は中目黒の長泉院の墓所にて撮影。


大江宏 。1913年2月20日 - 1989年3月3日、 建築家。
秋田県秋田市出身。読みは、おおえひろし。父の大江新太郎は明治神宮造営技師を務めた。代表作は『法政大学55・58年館』『伊勢神宮内宮神楽殿』『国立能楽堂』など。日本建築学会賞大賞を受賞。家紋は剣菱紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


笠置シヅ子 。1914年8月25日 - 1985年3月30日、 歌手、俳優。
香川県大川郡相生村出身。本名は亀井静子。戦後、「ブギの女王」として一世を風靡。黒澤明監督の映画『醉いどれ天使』ではキャバレーの歌手を演じる。代表作は『東京ブギウギ』『買物ブギー』。家紋は武田菱。画像は本願寺・和田堀廟所にて撮影。


向坊隆 。1917年3月24日 - 2002年7月4日、 応用化学者。
大日本帝国関東州大連出身。専門は電気化学で金属の腐蝕、原子炉材料を研究。東京大学総長を務める。文化功労者。主著『エネルギー問題についての基礎知識』『学長の平日と休日』等。家紋は丸に陰陽重ね菱。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


大内淳義 。1919年10月10日 - 1996年4月20日、 実業家。
東京府出身。読みは、おおうちあつよし。日本電気入社し、日本電気が半導体や集積回路生産を開始した時からこれに携わる。集積回路事業本部長、取締役、副社長、副会長、会長を歴任した。家紋は丸に松皮菱紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


大内山平吉 。1926年6月19日 - 1985年11月1日、 大相撲の力士。
茨城県那珂郡平磯町に漁師の長男として生まれる。本名:大内平吉。身長203cm、体重153kgの巨漢力士で最高位は大関。幕内通算成績:304勝256敗53休 勝率.543。優勝1回。引退後は年寄錣山を襲名。家紋は丸に松皮紋。画像は八柱霊園の墓所にて撮影。


浅利慶太 。1933年3月16日 - 、 演出家、実業家。
東京都出身。大叔父は二代目市川左團次。劇団四季創設者の一人で芸術総監督。『キャッツ』初演において日本で初めて無期限ロングラン公演を成功させる。長野五輪開会式の総合演出も担当。家紋は三階菱紋。画像は谷中霊園の浅利家墓所より。


内海好江 。1936年2月23日 - 1997年10月6日、 漫才師。
東京市浅草区出身。本名は奥田好江。両親は夫婦漫才師の荒川小芳、林家染寿。女剣劇や父娘漫才を経て内海桂子とコンビを結成して活躍。ウッチャンナンチャンの師匠としても知られる。家紋は、丸に出鉄砲松皮菱。画像は幸龍寺の墓所で撮影。


小沢一郎 。1942年5月24日 - 、 政治家。
東京市出身。本籍地は奥州市。自治大臣、国家公安委員長、自民党幹事長、新生党代表幹事、新進党党首、自由党党首、民主党代表、国民の生活が第一代表、生活の党代表を歴任。家紋は丸に三階松紋。画像は水沢市・伯済寺小沢家墓所にて撮影。


武田鉄矢 。1949年4月11日 -、 俳優、歌手。
福岡県福岡市博多区出身。両親は熊本県小国町の出身。海援隊でデビュー。代表曲は「母に捧げるバラード」、「贈る言葉」、「思えば遠くへ来たもんだ」。俳優としては『3年B組金八先生』の金八先生役があまりにも有名。家紋は丸に割菱紋


勝野洋 。1949年7月27日 -、 俳優。
熊本県阿蘇郡小国町出身。妻はキャシー中島。テレビドラマ『太陽にほえろ!』において”テキサス刑事”役に抜擢され一躍人気者となる。代表出演作は『俺たちの朝』『姿三四郎』。家紋は五瓜に三階菱紋。林泉寺の勝野家の墓所にて撮影。


深沢エリサ 。1972年 - 2004年1月27日、 モデル。
東京出身。本名は深澤絵里砂アン。祖父は施設家具「コトブキ」(寿商店)創業者の深澤幸也。雑誌「CREA」「anan「spring」「HF」などの誌面などを飾り、カリスマモデルとして注目された。家紋の割り菱は多磨霊園の墓所にて撮影。


有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)

まさむね





目結紋 -人と人との団結の強さの象徴- 京極高次、宮沢賢治、貴乃花光司...

もともと、目結紋は、"コウケツ染め"(目結染)という布の染めかたから来ている。

一般的に目結紋は、宇多源氏=近江源氏・佐々木一族の代表紋として知られているが、それは同時に一族の結束の強さをも表現しようとしていたのである。
絆への願望というのは現代の一つのテーマである。
それは、現実に生きる人々の希望であると同時に崩れつつあるものへのノスタルジーではないか。

そのノスタルジーは、この紋が持っている無骨な安定感へのそこはかとない親しみに通じているようにも思える。

この紋は、全国で10位。特に青森県、岩手県で2位、宮城県で3位、北海道で4位。
これらの地域は、佐々木一族が移り住んだ地である。
逆に少ないところは、山梨県、愛媛県で19位。長野県で18位、兵庫県、岡山県で17位。

有名人では以下。




竹崎季長 。1246年 - 不詳、 武士。
肥後国竹崎郷の出身。菊池氏の一族であったが、同族内の所領争いに敗れて没落。文永の役(元寇)では、博多において箱崎の少弐景資の軍に参陣した。自身の戦いを描かせた『蒙古襲来絵詞』で知られる。家紋は三つ目に吉の字紋。


佐々木道誉 。1296年 - 1373年9月12日、 武将。
近江国の地頭である佐々木京極氏に生まれる。読みは、ささきどうよ。外祖父である佐々木宗綱の後を継いで家督を継承する。南北朝時代の社会的風潮であるばさらを好んだとされる。『太平記』(NHK大河ドラマ)では、陣内孝則が演じた。


尼子経久 。1458年12月25日 - 1541年11月30日、 武将・大名。
出雲国出身。尼子清定の嫡男。幼名は又四郎。本姓は源氏。室町幕府の四職で出雲守護でもある京極政経の寺社領を横領、勢力を広げる。一代で尼子氏を中国地方11ヶ国の太守にのしあげた。中国の三大謀将の一人とと称される。家紋は平四つ目。


佐々成政 。1536年2月6日 - 1588年7月7日、 武将。
尾張国春日井郡出身。宇多源氏佐々木氏の一族。織田信長に仕え頭角を表す。豊臣秀吉から肥後国を与えられたが統治に失敗し改易される。直系子孫に佐々宗淳(「水戸黄門」の助さんのモデル)、評論家・佐々淳行がいる。家紋は隅立て四つ目、棕櫚。


京極高次 。1563年 - 1609年6月4日、 武将、大名。
名門京極氏に出生。妻は豊臣秀吉の側室・淀殿(茶々)の妹で徳川秀忠の妻・崇源院(江)の姉である常高院()。関ヶ原の戦いで功を上げ若狭国小浜藩初代藩主となる。家紋は平四つ目結。画像は谷中霊園の京極高国(高次の弟・高知の直系子孫)の墓所にて撮影。


木村重成 。1593年 - 1615年6月2日、 武将。
木村重茲の子。母、宮内卿局は豊臣秀頼の乳母となり重成自身も幼少から秀頼の小姓として育ち秀頼にとってはほとんど唯一の幼馴染であった。大坂冬の陣では今福砦攻防戦を展開。大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として出陣。家紋は四つ目菱。


佐々木小次郎 。生年不詳 - 1612年5月13日、 剣客。
豊前国田川郡副田庄に生まれ、副田庄の有力豪族佐々木氏の一族とされる。「秘剣燕返し」は福井市にある一乗谷で身につけ、中条流富田勢源、或いは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎の弟子とされている。宮本武蔵巌流島で決闘し、敗死したとされる。


丸橋忠弥 。生年不詳 - 1651年9月24日、 武士。
長宗我部盛親の側室の子として生まれ、母の姓である丸橋を名乗ったとも言われる。由井正雪の片腕として幕府転覆計画に加担(慶安の変)。家紋は三つ目結と丸に片喰紋。顔画像は歌舞伎「花菖蒲慶安実記」の丸橋忠弥。家紋画像は慈眼寺・金乗院にて撮影。


桂昌院 。1627年 - 1705年8月11日、 3代将軍・徳川家光の側室。
京都の大徳寺付近で産まれる。大根売りの娘説もある。兄の北小路道芳は後に本庄姓を賜る。御小姓として家光の側室のお万の方に仕え、春日局の部屋子として家光に見初められ、綱吉を産んだ。女性最高位の従一位の官位を賜る。家紋は繋ぎ九つ目。


堀部安兵衛 。1670年 - 1703年3月20日、 武士。
越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門の長男。赤穂浪士四十七士の一人。堀部氏は滋賀県に栄えた近江源氏。四十七士の中では一番の剣客。江戸急進派勢力のリーダー格。家紋は家紋は捻り四つ目二ツ。画像は泉岳寺の墓所にて撮影。


鳥山石燕 。1712年 - 1788年9月22日、 画家、浮世絵師。
本名は佐野豊房。狩野派門人。『画図百鬼夜行』により妖怪絵師としての地位を確かなものとする。続けて『今昔画図続百鬼』を刊行。弟子も多く喜多川歌麿恋川春町などを育てた。顔画像は石燕が描いたぬらりひょん。家紋は丸に隅合せ三つ目結紋。


間宮林蔵 。1780年 - 1844年4月13日、 探検家。
常陸国筑波郡上平柳村の農民の子に生まれる。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。間宮海峡を発見。水戸藩へも出入りし川路聖謨らと交友し徳川斉昭藤田東湖にも献策した。画像は浄心寺安立院管理の墓所にて撮影。


高島秋帆 。1798年9月24日 - 1866年2月28日、 砲術家。
長崎町年寄の高島茂起の三男。読みは、たかしましゅうはん。先祖は近江国高島郡出身、近江源氏佐々木氏の末裔。日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なう。高島流砲術の創始者。家紋は丸に重ね四つ目結紋。画像はWikipediaより。


天野宗歩 。1816年 - 1859年6月13日、 将棋指し。
武蔵国の生まれ。読みは、あまのそうほ。「実力十三段」と言われ、後に棋聖と呼ばれる。現在のタイトルのひとつである棋聖戦は彼に由来する。家紋は丸に隅立て四つ目結紋。画像はテレビ時代劇「銭形平次」で棋士・真部一男が演じた天野宗歩。


武田斐三郎 。1827年11月4日 - 1880年1月28日、 科学者。
伊予大洲藩出身。甲斐武田の末裔という。読みは、たけだあやさぶろう。緒方洪庵佐久間象山のもとで洋学を学び、日本初の洋式城郭五稜郭を立案・設計。日本初のストーブを考案した。維新後は、日本軍の近代に尽力し、陸軍士官学校を開校させた。


山本覚馬 。1828年2月25日 - 1892年12月28日、 砲術家。
会津藩出身。藩士で砲術指南役の山本権八の長男。妹の八重は、2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公。維新後、京都府政に関わり同志社英学校(現同志社大学)の創立者新島襄の協力者として同志社の発展に尽力。家紋は丸に隅立て四つ目結紋。


小林虎三郎 。1828年9月26日 - 1877年8月24日、 武士。
長岡藩出身。藩士小林又兵衛の三男。佐久間象山の門下。長岡藩大参事となる。戊辰戦争の戦災によって壊滅的な打撃を受けた長岡で寺の本堂を借り仮校舎として学校を開校させた。米百俵の逸話で知られる。家紋の隅立て四つ目結紋は墓所写真にて確認。


津田真道 。1829年7月25日 - 1903年9月3日、 官僚、啓蒙学者。
美作国津山藩林田の生まれ。読みは、つだまみち。幕府の目付役になり大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想。福沢諭吉森有礼西周中村正直加藤弘之明六社を結成。後に勅選貴族院議員となる。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


佐々木高行 。1830年11月26日 - 1910年3月2日、 武士、官僚。
土佐国吾川郡瀬戸村出身。藩主山内豊信の側近として藩政をリードし大政奉還の建白を協議。岩倉使節団の一員として欧米各国に渡り、後に宮中や元老院を舞台に天皇親政運動を主導。家紋は七つ割り隅立て四つ目結紋。画像は青山霊園にて撮影。


佐川官兵衛 。1831年10月10日 - 1877年3月18日、 会津藩家老。
会津藩出身。父は藩士・佐川直道。読みは、さがわかんべえ。藩主松平容保に従って上洛。武勇に秀で、薩長から「鬼の官兵衛」、「鬼佐川」と恐れられた。鳥羽・伏見の戦い後は会津に戻って越後戦線へ出陣するが敗れる。家紋は三つ目結紋。


佐々木只三郎 。1833年 - 1868年2月5日、 旗本。
陸奥国出身。会津藩士・佐々木源八の三男。京都見廻組を率い、新選組と共に尊攘派志士から恐れられる。京都近江屋で土佐藩の坂本龍馬中岡慎太郎を暗殺したとの説もある。画像は霊山歴史館に所蔵されている鎖帷子に描かれた隅立て四つ目結紋。


加藤弘之 。1836年8月5日 - 1916年2月9日、 政治学者。
但馬国出身。出石藩士加藤正照の長男。福沢諭吉森有礼西周らと、明六社を結成。はじめは啓蒙思想の傾向が強かったが後に社会進化論の立場をとる。哲学館(現東洋大学)創立時の顧問。孫に古川緑波がいる。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


高松凌雲 。1837年1月31日 - 1916年10月12日、 医師。
筑後国の庄屋に出生。読みは、たかまつりょううん。適塾緒方洪庵の指導を受ける。箱館戦争では榎本武揚に合流し医師として参加。その後、民間救護団体の前身・同愛社を創設し日本における赤十字運動の先駆者となる。家紋は隅立て四つ目結紋。


成島柳北 。1837年3月22日 - 1884年11月30日、 記者。
武蔵国出身。成島稼堂の養子となる。読みは、なるしまりゅうほく。『朝野新聞』を創刊する。自由民権運動の最中、社論は大隈重信の改進党に近く早稲田大学の初代の議員にも就任。姪孫に俳優の森繁久彌がいる。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


大山巌 。1842年11月12日 - 1916年12月10日、 政治家、陸軍人。
薩摩国鹿児島城下加治屋町に出生。読みは、おおやまいわお。妻は会津藩・山川健次郎妹の捨松。陸軍大臣、参謀総長、内務大臣などを歴任。陸軍では山縣有朋と並ぶ実力者となる。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は丸に隅立四目結紋。墓所写真にて確認。


箕作麟祥 。1846年9月19日 - 1897年11月29日、 法学者。
江戸津山藩邸に生まれる。蘭学者・箕作省吾の長男。読みは、みつくりりんしょう。『仏蘭西法律書』を著し、日本の法律の元祖と評された。長女は石川千代松に、三女は長岡半太郎に、異父妹は坪井正五郎にそれぞれ嫁いだ。画像は多磨霊園にて撮影。


松田正久 。1847年5月25日 - 1914年3月4日、 政治家。
肥前国小城郡出身。小城藩士横尾只七の次男。陸軍省に入省。欧州留学後に佐賀にて自由民権運動に参加し自由党に入党。西園寺公望とともに『東洋自由新聞』を創刊。大蔵大臣、文部大臣、法務大臣などを歴任。家紋は三つ目紋。画像は青山霊園にて撮影。


乃木希典 。1849年12月25日 - 1912年9月13日、 陸軍軍人。
江戸出身。長府藩の藩士、乃木希次の長男として上屋敷に出生。東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ聖将と呼ばれた。最終階級は陸軍大将。明治天皇の後を追って殉死。家紋は四つ持ち合い井桁、五瓜、市松四つ目結。画像は青山霊園にて撮影。


上原勇作 。1856年12月6日 - 1933年11月8日、 陸軍軍人。
日向国出身。都城島津家家臣・龍岡資弦の次男。上原家の養子。妻は野津道貫の娘。工兵近代化に尽力し日本工兵の父と称される。陸軍大臣、教育総監、参謀総長を歴任。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は丸に隅立て四つ目結紋。画像は青山霊園にて撮影。


植木枝盛 。1857年2月14日 - 1892年1月23日、 啓蒙思想家。
土佐国土佐郡井口村出身。土佐藩士・植木直枝の子。私擬憲法の中では最も民主的、急進的な内容とされる『東洋大日本国国憲按』を起草。著作に『民権自由論』『言論自由論』などがある。家紋は、丸に剣三つ目紋。画像は青山霊園にて撮影。


有松英義 。1863年7月25日 - 1927年10月24日、 官僚。
備前国御野郡出身。家は岡山藩士。読みは、ありまつひでよし。内務省書記官兼法制局参事官として治安警察法・行政執行法等の起草に関わる。枢密院書記官長、枢密顧問官を歴任。家紋は石持ち地抜き隅立て四つ目結紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


金杉英五郎 。1865年8月23日 - 1942年1月26日、 医学者。
千葉県出身。読みは、かなすぎえいごろう。東京病院で勤務する傍らで東京慈恵医院医学校にて、講義を行い東京慈恵会医科大学の初代学長となる。耳鼻咽喉科という専門科を創設し日本耳鼻咽喉科学会の創設者となる。画像は青山霊園にて撮影。


丘浅次郎 。1868年12月31日 - 1944年5月2日、 動物学者。
遠江国掛塚出身。読みは、おかあさじろう。進化論の啓蒙活動に貢献し旧制中学の生物学教科書を多く執筆。代表作の『進化論講話』はベストセラー。日本人初のエスペランティストとしても知られる。家紋は隅立て四つ目結紋。画像は谷中霊園にて撮影。


政尾藤吉 。1871年12月8日 - 1921年8月11日、 外交官、政治家。
愛媛県大洲出身。藩の御用商人の長男。読みは、まさおとうきち。外務省からシャムに派遣され、のちに同国の法律顧問として刑法・民法・商法を起草する。タイ国王より信頼を受け白象第三勲章、王冠大綬章を受ける。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


佐佐木信綱 。1872年7月8日 - 1963年12月2日、 歌人、国文学者。
三重県鈴鹿郡石薬師村出身。読みは、ささきのぶつな。歌人佐々木弘綱の長男。孫の佐佐木幸綱は俵万智の師匠。与謝野鉄幹らと新詩会を興し、新体詩集『この花』を刊行。『新訓・万葉集』『新古今和歌集』などを編集。画像は谷中霊園にて撮影。


吉丸一昌 。1873年9月15日 - 1916年3月7日、 作詞家。
大分県出身。下級武士・吉丸角内家の長男。読みは、よしまるかずまさ。作詞の他、、随筆や長編童話なども執筆した。代表作は『早春賦』『桃太郎』『日の丸』『池の鯉』『かたつむり』。家紋は平四つ目結紋。文京区・龍光寺墓所写真にて確認。


平福百穂 。1877年12月28日 - 1933年10月30日、 日本画家。
秋田県角館出身。本名は貞蔵。読みは、ひらふくひゃくすい。自然主義的写生画を目指し自然主義と古典が融合した作品を生み出す。また、伊藤左千夫と親しく歌人としても活動した。家紋は陰亀甲に隅立て陰四つ目結紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


西尾寿造 。1881年10月31日 - 1960年10月26日、 海軍軍人。
鳥取県出身。鳥取県士族・西尾重威の四男。読みは、にしおとしぞう。教育総監、支那派遣軍総司令官。戦後、A級戦犯容疑者として逮捕され、1948年12月まで拘留された。最終階級は陸軍大将。家紋は五瓜に四つ目結紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


田部重治 。1884年8月4日 - 1972年9月22日、 英文学者・登山家。
富山県富山市出身。旧姓は南日。読みは、たなべじゅうじ。19世紀の英文学を研究。登山家として日本アルプス、秩父山地を歩き、『日本アルプスと秩父巡礼』を刊行。後に『山と渓谷』として出版される。隅立て四つ目結紋。画像は多磨霊園にて撮影。


佐々紅華 。1886年7月15日 - 1961年1月18日、 作曲家。
東京都台東区生まれ。本名は佐々一郎。読みは、さっさ こうか。妻は元・浅草オペラの歌手・高井ルビー。浅草オペラの草分的存在で脚本も担当。代表作は『君恋し』『神田小唄』など。家紋は七宝に隅立て四つ目結紋。画像は谷中・妙雲寺の墓所にて撮影。


佐々木喜善 。1886年10月5日 - 1933年9月29日、 伝承研究家。
岩手県土淵村出身。家は裕福な農家。読みは、ささききぜん。彼が語った遠野の伝承を基に柳田國男が著した『遠野物語』は有名。代表作は『奥州のザシキワラシの話』『オシラ神に就いての小報告』。家紋の丸に隅立て四つ目結紋は墓所写真にて確認。


東龍太郎 。1893年1月16日 - 1983年5月26日、 官僚、都知事。
大阪府出身。読みは、あずまりょうたろう。結核予防会理事、厚生省医務局長、東京都知事などを歴任。またIOC委員を務め、国際スポーツ界に通じ東京オリンピックの誘致に深く関わる。家紋は丸に隅立て四つ目結紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


獅子文六 。1893年7月1日 - 1969年12月13日、 小説家、演出家。
横浜弁天通の岩田商会に出生。読みは、ししぶんろく。本名は岩田豊雄。岸田國士、久保田万太郎と共に劇団文学座を創立。日本芸術院賞、文化勲章を受章。代表作は『てんやわんや』『自由学校』『ちんちん電車』。画像は谷中霊園にて撮影。


片岡鉄兵 。1894年2月2日 - 1944年12月25日、 小説家。
岡山県苫田郡出身。読みは、かたおかてっぺい。川端康成らと共に新感覚派の一員として文学活動に入るが後に左傾化し、プロレタリア作家として活動。代表作は『左傾について』『朱と緑』など。家紋は重ね四つ目車。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


佐々木味津三 。1896年3月18日 - 1934年2月6日、 小説家。
愛知県北設楽郡下津具村出身。本名・光三。読みは、ささきみつぞう。『馬を殴り殺した少年』で菊池寛に見出される。代表作は『右門捕物帖』『旗本退屈男』など。『旗本退屈男』は映画やテレビドラマ化され高い人気を得た。画像は小平霊園にて撮影。


宮沢賢治 。1896年8月27日 - 1933年9月21日、 詩人・童話作家。
岩手県稗貫郡里川口村に質・古着商の長男として出生。独特の魅力にあふれた作品群によって没後世評が急速に高まり国民的作家となる。代表作は『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『雨ニモマケズ』等。家紋の隅立て四つ目結紋は記念館にて確認。


斎藤達雄 。1902年6月10日 - 1968年3月2日、 俳優。
東京市深川区佐賀町に米の仲買人の息子として出生。小津安二郎監督の2作目『若人の夢』の主役に抜擢されて以来、小津映画に次々と主演。代表出演作は『そよかぜ』『獄門島』等。家紋は丸に隅立て四つ目結紋。画像は谷中・長運寺にて撮影。


上廣哲彦 。1906年3月2日 - 1972年10月6日、 宗教家。
広島県山県郡豊平町出身。読みは、うえひろてつひこ。丸山敏雄の「倫理研究所」から独立し「生活倫理実践会」を発足させ、のち「実践倫理宏正会」に改組し初代会長に就任。現在、会長職は長男の上廣榮治が世襲している。家紋は丸に隅立て四つ目結紋。


櫻内義雄 。1912年5月8日 - 2003年7月5日、 政治家。
島根県能義郡出身。読みは、さくらうちよしお。櫻内家は江戸時代、代々広瀬藩士として松平家に仕えた。外務大臣、農林大臣、建設大臣、衆議院議長等を歴任。姪・貴代子は元首相・福田康夫の妻。家紋は平四つ目結紋。画像は池上本門寺の墓所にて撮影。


荒正人 。1913年1月1日 - 1979年6月9日、 文芸評論家。
福島県出身。読みは、あらまさひと。戦前は学生運動に熱中。戦後、埴谷雄高・平野謙らと『近代文学』を創刊。夏目漱石の生涯を詳細に調べた『漱石研究年表』で毎日芸術賞を受賞。江戸川乱歩賞の選考委員を務めた。画像は小平霊園にて撮影。


名寄岩静男 。1914年9月27日 - 1971年1月26日、 大相撲力士。
北海道名寄市出身。本名、岩壁静雄。読みは、なよろいわしずお。最高位は大関。立浪部屋に所属。双葉山羽黒山とともに立浪三羽烏と称された。大関から二度の陥落を経験したが40歳になるまで土俵に上がり続けた。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


岡晴夫 。1916年1月12日 - 1970年5月19日、 流行歌手。
千葉県木更津市出身。読みは、おかはるお。本名は佐々木辰夫。『国境の春』でデビュー。『上海の花売娘』『港シャンソン』のヒットを飛ばす。代表曲は『東京の花売娘』『啼くな小鳩よ』『憧れのハワイ航路』。画像は深川・本立院墓所にて撮影。


横山新次郎 。昭和期、 五代目山崎家一家・総長。
稲川会総裁(初代会長)稲川聖城の兄貴分。横綱の大鵬力道山を招いて素人相撲大会を開催したという。松方弘樹主演『修羅の群れ』(東映1984年)では鶴田浩二が演じている。家紋は丸に隅立て四つ目結紋。画像は鎌倉霊園の墓所にて撮影。


千秋実 。1917年4月28日 - 1999年11月1日、 俳優。
北海道中川郡恩根内村出身。本名は佐々木勝治。黒澤明監督から映画出演を勧められ『野良犬』でデビュー。代表出演映画は『七人の侍』『隠し砦の三悪人』等。『花いちもんめ。』で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。画像は冨士霊園にて撮影。


柏戸秀剛 。1918年5月3日 - 1982年12月11日、 力士、親方。
岩手県九戸郡種市町出身。春日山部屋所属。本名佐々木秀剛。現役時代は前頭止まりだったが、年寄(10代目伊勢ノ海)として日本相撲協会の発展に尽力。幾多の海外興行を実現し角界のキッシンジャーと呼ばれた。家紋は丸に隅立て四つ目結紋。


福井謙一 。1918年10月4日 - 1998年1月9日、 化学者。
奈良県奈良市出身。大阪市西成区育ち。京都大学名誉教授。日本学士院会員。フロンティア軌道理論でノーベル化学賞を受賞。生涯、基礎学問重視、独創的研究の必要性、科学と人間の平和的共存を訴えた。家紋の丸に隅立て四つ目結紋は墓所写真にて確認。


淡島千景 。1924年2月24日 - 2012年2月16日、 女優。
東京府出身。本名は、中川慶子。読みは、あわしまちかげ。宝塚歌劇団から映画界に転身。デビュー作品は『てんやわんや』。『夫婦善哉』でブルーリボン賞主演女優賞受賞。代表出演作は『麦秋』『鰯雲』等。家紋画像は護国寺の墓所にて撮影。


日沼倫太郎 。1925年7月3日 - 1968年7月14日、 文芸評論家。
栃木県出身。本名は生沼正三。独自の生活実感にもとづく批評を展開。著作に『自殺者の系譜』『文学の転換』『病める時代』がある。「理解は誤解だ」という有名な言葉を残している。家紋は丸に平四つ目結紋。画像は八柱霊園の墓所にて撮影。


若乃花幹士(初代) 。1928年3月16日 - 2010年9月1日、 力士。
青森県弘前市青女子出身。土俵の鬼と呼ばれた。第45代横綱となり栃錦とともに栃若時代を築く。引退後、双子山部屋を創設し弟である大関・初代貴ノ花、横綱・2代若乃花、横綱・隆の里俊英(現:鳴戸)等を育て日本相撲協会の理事長も務めた。


竹腰美代子 。1930年10月5日 - 2001年3月1日、 美容研究家。
神奈川県逗子市出身。夫はクレイジーキャッツの安田伸。日本のテレビ体操の草分け。1954年から日本放送協会の「美容体操」の専属講師に就任。1958年から香淳皇后に美容体操を教えた。著書「いつもお陽さま家族」。家紋は平七つ割四目結紋。


栃光正之 。1933年8月29日 - 1977年3月28日、 力士。
熊本県牛深市出身。本名は中村有雄。春日野部屋所属で最高位は大関。立派な土俵態度のために名大関と呼ばれた。また、親方時代に大鵬が戸田に連勝を45で止められた「正規の大誤審」の時に土俵下から物言いをつけた。家紋は丸に平四目結紋。


瑳川哲朗 。1937年1月22日 - 、 俳優、声優。
千葉県館山市出身。本名は、勝野忠孝(かつのただたか、旧姓・田辺)。時代劇ドラマ『大江戸捜査網』に井坂十蔵役、『ウルトラマンA』の竜五郎隊長役が有名。声優としては、クリントイーストウッドの声を担当。画像は青山・長谷寺にて撮影。


大鵬幸喜 。1940年5月29日 - 2013年1月19日、 大相撲力士。
樺太出身。父親はウクライナ人のマルキャン・ボリシコ、母親は日本人の納谷キヨ。納谷は母の姓。第48代横綱。優勝32回(史上最高)、6連覇2回などを記録。納谷家の先祖の墓には丸に三つ柏紋があるが、通夜の幕には丸に平四つ目結紋が確認された。


さだまさし 。1952年4月10日 - 、 ミュージシャン、タレント。
長崎県長崎市出身。本名は佐田雅志。佐田家は元々島根県浜田市の大地主の家系。「グレープ」でデビュー。「精霊流し」がヒット。ソロとなっても、「雨やどり」「関白宣言」「親父の一番長い日」など数々のヒット曲・有名曲を生み出す。


奥克彦 。1958年1月3日 - 2003年11月29日 、 外交官。
兵庫県宝塚市出身。読みは、おくかつひこ。大学卒業後に外務省に入省。イラク日本人外交官射殺事件で銃撃を受け殉職する。死後、参事官から大使に2階級特進した。位階勲章は従四位旭日中綬章。家紋は墓画像より、丸に隅立て四つ目結紋。


原辰徳 。1958年7月22日 - 、 プロ野球選手、監督。
神奈川県相模原市出身。東海大相模高校、東海大学で活躍した後、ドラフト一位で読売巨人軍に入団。新人王、MVP、打点王、最多勝利打点などのタイトルを獲得する。監督としてはリーグ優勝4回、日本一2回。家紋は五瓜に隅立て四つ目結紋。


沼澤尚 。1960年4月19日 - 、 ドラマー。
東京都新宿区出身。父は元プロ野球選手の沼澤康一郎。様々なアーティストのレコーディング、ライブサポートを行う傍ら自身のバンドでも精力的に活動し日本で一番忙しいドラマーと称される。画像は多磨霊園の康一郎の墓所にて撮影。


亀井亜紀子 。1965年5月14日 - 、 政治家。
東京都出身。政治家・亀井久興の長女。本籍地は島根県鹿足郡津和野町。旧津和野藩藩主亀井家の子孫にあたる。亀井静香は遠縁。2007年7月の第21回参議院議員通常選挙で前職・景山俊太郎を破り初当選を果たした。家紋は隅立て四つ目結。


貴ノ浪貞博 。1971年10月27日 - 、 元大相撲力士。
青森県三沢市出身。本名は浪岡貞博。二子山部屋所属。1994年(平成6年)1月場所は大関となる。大関時代には部屋では「浪大関」と呼ばれていた。幕内戦歴 647勝473敗8休。幕内最高優勝2回。現在は年寄・音羽山。家紋は丸に隅立て四目結。


貴乃花光司 。1972年8月12日 - 、 大相撲力士。
東京都杉並区出身。父は元大関の貴ノ花利彰、母は女優の藤田憲子。本名は花田光司。第65代横綱。優勝22回は歴代6位で、平成の大横綱と称される。引退後は貴乃花部屋師匠、日本相撲協会の役員。画像は杉並の天桂寺・花田家墓所にて撮影。


和泉元彌 。1974年6月4日 - 、 能楽師狂言方。
東京都板橋区出身。和泉流19世宗家・和泉元秀の長男。本名は山脇元彌。和泉流宗家宗家会在籍。妻はタレントの羽野晶紀。大河ドラマ「北条時宗」で主役を務める。和泉家の門には雪輪に平四つ目結の家紋が見られる。画像は和田堀廟所の元秀の墓にて。


有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)

まさむね





橘紋 -桜とは好対象、生命力と長寿の象徴- 井伊直弼、小和田雅子、北島康介...

かつて、平安京の内裏にある紫宸殿正面の階段から見て右には橘の樹、左には桜の樹があった。
この二本の木は、一般に、右近の橘、左近の桜と対比されたという。

桜はどこか死の匂いがする樹木であるが、一方の橘は、その葉が寒暖の別なく常に生い茂っていることから生命力や長寿の象徴とされた。
戦前、昭和天皇が、「桜が花も葉も散ることから潔く散る武人の象徴となってきたのに対し、常緑樹の橘はいつ見ても変わらないことから永遠を表すのものであり、永遠であるべき文化の勲章としては橘の方が望ましいのではないか」、という趣旨の意見を出し文化勲章のデザインが桜から橘に代わったという逸話がある。

橘紋の分布は全国では9位。桜紋よりも圧倒的に浸透している。
元々、橘という植物は柑橘類で、紀伊半島、四国、九州の海岸に近い山地に自生しているが、橘紋も和歌山県、高知県で3位、奈良県、広島県、宮崎県で4位とやはり橘が自生している地域に広く分布している。
特に、黒岩涙香、幸徳秋水、弘田龍太郎、朝潮など、高知県人の多さが目立つ。

また、歴史上で、橘紋と言えば有名なのは、日蓮である。

彼は、1222年の安房国長狭郡東条郷片海の小湊で誕生。
比叡山で学び、後に「南無妙法蓮華経」の題目を唱え始め立宗宣言し、日蓮宗の開祖となった。
そのため、日蓮宗関係の寺院では、この橘紋を使用するとところが多い。
写真は、芥川龍之介谷崎潤一郎が眠る慈眼寺の寺門の井桁に橘紋を撮影したもの。ちなみに、日蓮宗系の立正佼成会の関連施設である佼成学園の記章にも橘紋が使用されている。

また、奈良飛鳥地方に、聖徳太子生誕の地・橘寺があるが、そこの寺紋も橘紋だ。
そもそも、日本書紀によると、この橘とは、田道間守(たじまもり)という人物が垂仁天皇の勅命を受けて不老長寿の薬を求めて持ち帰った種をまいて芽が出てきた植物であった。
そして、その種をまいた地を橘と呼ぶようになっとのこと。
その橘寺には、聖徳太子が乗ったという黒駒像があり、胴に橘紋がついている。

日蓮、山中鹿之助、井伊直弼、黒岩涙香、荒木貞夫、勝新太郎、花形敬、石井紘基、江川卓、橋下徹、北島康介、中川翔子...なんとなく、元気で意志の強い系譜を感じさせる。

さて、橘紋を持つ有名人は以下。




小寺政職 。1517年 - 1582年、 武将。
播磨御着城主・小寺則職の子として誕生。読みは、こでらまさもと。黒田孝高の進言を受け織田信長に従ったが、後に毛利家に呼応して織田家に反旗を翻す。家紋は藤橘巴紋。顔画像はNHK大河ドラマ「黒田勘兵衛」で小寺政職を演じた片岡鶴太郎。


前田玄以 。1539年 - 1602年7月9日、 僧侶・武将・大名。
美濃国出身。前田基光の子。読みは、まえだげんい。比叡山延暦寺に入ったが織田信長に招聘されてその家臣となる。後陽成天皇の聚楽第行幸時は担当奉行として活躍。豊臣政権における五奉行の1人であり、丹波亀山藩の初代藩主。


山中鹿之介 。1545年9月20日 - 1578年8月20日、 武将。
出雲国能義郡に生まれる。尼子氏の家臣。 本姓は源氏。家系は宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門である。尼子氏が衰亡していく中、御家再興のため、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという。


山鹿素行 。1622年9月21日 - 1685年10月23日、 儒学者・兵学者。
陸奥国会津出身。読みは、やまがそこう。朱子学を批判し播磨国赤穂藩へ流罪となるが、そこで赤穂藩士の教育を行う。赤穂藩国家老大石内蔵助も門弟の一人となる。主著は『中朝事実』『武家事紀』。その軍学は、後に吉田松陰らに多大な影響を与えた。


銭屋五兵衛 。1774年1月7日 - 1852年12月31日、 海運業者。
加賀国出身。朝倉氏の末裔を称する。両替商のほか醤油醸造・古着商などを手広く営む家系。蝦夷地や択捉島ではロシアと通商するなど密貿易を行い巨万の富を得る。河北潟の干拓・開発工事を請け負うが失敗。結局は獄死し、財産没収・家名断絶された。


井伊直弼 。1815年11月29日 - 1860年3月24日、 大老。
近江国犬上郡出身。第13代彦根藩主・井伊直中の十四男として彦根城で出生。安政の大獄により多数の志士や公卿らを粛清。尊攘派の怨嗟をうけ水戸、薩摩藩浪士により江戸城桜田門付近で暗殺された(桜田門外の変)。画像は菩提寺・豪徳寺にて撮影。


小中村清矩 。1822年1月22日- 1895年10月11日、 日本史学者。
江戸麹町出身。原田家に出生したが、小中村家の養子となる。読みは、こなかむら きよのり。小中村家の出自は石清水八幡宮の神職。明治維新後に、東京大学の講師となり『古事類苑』編纂に従事。家紋は丸に橘紋。画像は、谷中天王寺墓地にて撮影。


福岡孝悌 。1835年3月3日 - 1919年3月7日、 家老、政治家。
土佐国出身。藩士の子弟。読みは、ふくおかたかちか。吉田東洋の影響下、藩政改革、土佐勤王党弾圧を行う。また薩摩藩との間に薩土盟約を締結。五箇条の御誓文の草案作成に関与。家紋は丸に九枚橘の葉(九枚茶の葉)紋。画像は染井霊園の墓所にて。


沖牙太郎 。1848年5月10日 - 1906年5月29日、 技術者・実業家。
安芸国沼田郡新庄村出身。読みは、おききばたろう。実家の農業を嫌い27歳で銀細工師の腕を資本に上京、工部省で電信技術に携わる。我が国で初めて電気通信機器の製造・販売事業を興した。明工舎(沖電気の前身)創業者。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


黒岩涙香 。1862年11月20日 - 1920年10月6日、 作家、報道記者。
土佐国安芸郡川北村出身。読みは、くろいわるいこう(黒い悪い子)。『萬朝報』を創刊。紙名には「よろず重宝」の意味がかけられていた。幸徳秋水内村鑑三高浜虚子らが参画し、一時は最大発行部数は30万部を誇る。画像は総持寺の墓所にて撮影。


宮崎湖処子 。1864年10月20日 - 1922年8月9日、 詩人、小説家。
筑前国下座郡三奈木出身。本名は宮崎八百吉。読みは、みやざきこしょし。徳富蘇峰に認められ民友社に入社。小説『帰省』を刊行。国木田独歩らと詞華集『抒情詩』を編集。代表作は『まぼろし』。家紋は藤輪に菊座橘紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


末永純一郎 。1867年4月6日 - 1913年12月31日、 報道記者。
筑前国出身。父親は旧福岡藩士で、住吉神社神官、国学者、歌人の末永茂世。読みは、すえながじゅんいちろう。陸羯南三宅雪嶺福本日南らが創刊した『日本』新聞の記者となる。また、孫文らの活動を支援。家紋は丸に三つ盛菊座橘紋。


幸徳秋水 。1871年11月5日 - 1911年1月24日、 思想家。
高知県幡多郡中村町に生まれる。本名は幸徳傳次郎。中江兆民の門弟となり黒岩涙香の創刊した『萬朝報』記者となる。後に無政府主義に傾き大逆事件(幸徳事件)」において逮捕され翌年に死刑判決を受ける。家紋は紋付姿写真より丸に橘紋と判断。


荒木十畝 。1872年10月5日 - 1944年9月11日、 日本画家。
長崎県大村出身。読みは、あらき じっぽ。本名・朝長悌二郎。象徴主義的作風から、やがて精神性を強く打ち出した優美な絵画世界を構築した。代表作は「秋江水禽図」「せいけん」「黄昏」など。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


小林一三 。1873年1月3日 - 1957年1月25日、 実業家。
山梨県巨摩郡出身。読みは、こばやしいちぞう。阪急電鉄や宝塚歌劇団をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。政治家としても活躍し、商工大臣、国務大臣、戦災復興院総裁を歴任。家紋は丸に橘紋。


本因坊秀哉 。1874年6月24日 - 1940年1月18日、 囲碁の棋士。
東京府出身。本名は田村保寿。読みは、ほんいんぼうしゅうさい。家元本因坊家の21世で終身名人制の最後の名人。法名は日温。引退後に本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し選手権制の本因坊戦創設に導く。家紋は三つ葉橘。画像は巣鴨・本妙寺にて撮影。


市村羽左衛門(15代) 。1874年11月5日 - 1945年5月6日、 役者。
東京府出身。本名は市村録太郎。屋号は橘屋。旧福井藩主で幕末には幕府政事総裁職を務めた池田絲とフランス系アメリカ人との混血。当時を代表する美男子でその美貌から花の橘屋と呼ばれた。家紋は根上り橘。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


荒木貞夫 。1877年5月26日 - 1966年11月2日、 陸軍軍人。
東京府多摩郡出身。旧一橋家家臣・荒木貞之助の長男。読みは、あらきさだお。皇道派の重鎮であり昭和初期の青年将校のカリスマ的存在。犬養内閣・斎藤内閣では陸軍大臣を務める。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


武林無想庵 。1880年2月23日 - 1962年3月27日、 小説家。
北海道札幌市出身。本名は磐雄、後に盛一。読みは、たけばやしむそうあん。妻・文子が交際のあった男に発砲される事件で世間の話題となる。代表作は「ピルロニストのやうに」「第十一指の方向へ」。家紋は丸に抱き橘紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


中野正剛 。1886年2月12日 - 1943年10月27日、 政治家。
福岡県出身。父は旧福岡藩士中野泰次郎。読みは、なかのせいごう。東京日日新聞、朝日新聞で政治評論を行う。政治家になってからは東條首相の独裁に反対。倒閣工作を謀った容疑で憲兵に拘束され自殺。家紋は丸に中陰地紙に橘紋。画像は多磨霊園。


柳家小さん(4代) 。1888年4月18日 - 1947年9月30日、 落語家。
東京府出身。本名、大野菊松(後に平山に改姓)。得意ネタは『二十四孝』『ろくろ首』『三軒長屋』。新作落語の創作にも力を入れ、『創作力のない者は、噺家ではない』という言葉を残している。家紋は丸に彦根橘紋。画像は谷中・本寿寺にて撮影。


木村兵太郎 。1888年9月28日 - 1948年12月23日、 陸軍軍人。
東京府出身。終戦直前には軍司令官としてビルマに駐在していたが英軍の進攻を聞くと唐突にラングーン放棄し方面軍の指揮命令系統を大混乱に陥し入れた。最終階級は陸軍大将。終戦後A級戦犯として絞首刑に処された。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


弘田龍太郎 。1892年6月30日 - 1952年11月17日、 作曲家。
高知県安芸市出身。児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると「赤い鳥運動」に参加。北原白秋等と組み多くの童謡を作曲した。代表作は『鯉のぼり』『浜千鳥』『春よこい』『叱られて』など。家紋は丸に橘。画像は谷中・全生庵にて撮影。


井伏鱒二 。1898年2月15日 - 1993年7月10日、 小説家。
広島県福山市加茂町出身。本名は井伏満壽二。読みは、いぶせますじ。『ジョン萬次郎漂流記』で直木賞、『本日休診』で第1回読売文学賞小説賞を受章。主な作品は「山椒魚」「駅前旅館」「黒い雨」。画像は青山・持法寺にて撮影。


永澤邦男 。1899年11月21日 - 1972年4月9日、 法学者、教育家。
宮城県出身。フランス、ベルギーに犯罪学および刑事政策の研究者。慶応義塾塾長を務め、日本私立大学連盟の創立に参画し副会長となる。また、私立学校振興会理事となり、私学振興のため尽力。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


三遊亭圓生(6代) 。1900年9月3日 - 1979年9月3日、 落語家。
大阪市西区出身。本名は山崎松尾。演目数は落語史上最も多かったという。特異演目は『死神』『鰍沢』『らくだ』『淀五郎』等。NHK連続ドラマ『おはなはん』に出演。バカウマという言葉を流行語にする。画像は烏山・永隆寺にて撮影。


高橋掬太郎 。1901年4月25日 - 1970年4月9日、 作詞家。
北海道根室市出身。北海道の国後島で漁師の息子。「酒は涙か溜息か」で作詞家デビュー。その後も、昭和の名曲を数多く手がけた。代表曲は『船頭可愛や』『ここに幸あり』『古城』『足摺岬』等。家紋は丸に橘紋。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


嵐寛寿郎 。1902年12月8日 - 1980年10月21日、 俳優。
京都府京都市木屋町出身。本名は、高橋照一。祖母の経営する料理旅館「葉村屋」に預けられた。戦前映画界の大衆のヒーロー。代表出演作は『鞍馬天狗』『明治天皇と日露大戦争』等。家紋は丸に蟹橘(蝶橘)紋。京都の聖光寺にて撮影。


火野葦平 。1907年1月25日 - 1960年1月24日、 小説家。
福岡県遠賀郡若松町で沖仲仕「玉井組」を営んだ玉井金五郎の長男。本名は玉井勝則。『糞尿譚』で芥川賞を受賞。『麦と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』の「兵隊3部作」はベストセラーとなった。家紋画像は文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に橘紋。


高橋竹山 。1910年6月18日 - 1998年2月5日、 三味線名人。
青森県東津軽郡中平内村小湊生まれ。本名は高橋定蔵。一地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者。演歌歌手北島三郎が歌った『風雪ながれ旅』のモデル。高橋家の家紋は丸に橘紋。ただし、自身のマークとして竹輪に根笹紋を使用。


宇治達郎 。1919年11月25日 - 1980年11月27日、 医師。
埼玉県出身。読みは、うじたつお。東大病院の副手の時、オリンパス光学工業技師の杉浦睦夫、深海正治とともに、胃カメラを世界ではじめて完成させた。吉川英治文化賞を受賞した。家紋は丸に橘紋。画像は、さいたま市普門院の墓所にて撮影。


貝谷八百子 。1921年3月15日 - 1991年3月5日、 バレエダンサー。
福岡県大牟田市出身。読みは、かいたにやおこ。東京バレエ団を結成し『白鳥の湖』全幕を日本初演、主役を務めた。日本バレエ協会副会長や、全日本舞踊連合の理事などの要職も務めた。紫綬褒章受賞。家紋は上がり藤に橘紋。画像は多磨霊園にて撮影。


神風正一 。1921年10月19日 - 1990年5月15日、 大相撲解説者。
香川県大川郡三本松町出身。本名は、赤沢正一。読みは、かみかぜしょういち。二所ノ関部屋所属の元大相撲力士。最高位は関脇。引退後、NHKの大相撲中継の解説者となる。文芸評論家・小林秀雄も神風解説のファンだったという。家紋は丸に橘紋。


入野義朗 。1921年11月13日 - 1980年6月23日、 作曲家。
ウラジオストク生まれ。海外の現代音楽を日本の音楽界に紹介することに尽力。代表著作は「シェーンベルクの作曲技法」「十二音音楽とは何か」。死後、入野賞、入野義朗記念賞が設けられた。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


ジョージ川口 。1927年6月15日 - 2003年11月1日、 ドラム奏者。
京都市出身。本名は川口譲二。終戦直後、松本英彦中村八大、小野満と共にバンドビッグ4を結成して活躍。大衆的人気を誇った。越路吹雪のバンドロイヤルポップスオーケストラのドラムとしても活躍。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


花形敬 。1930年 - 1963年9月27日、 ヤクザ、安藤組大幹部。
中学校を自主退学。国士舘中学校では、後の住吉会住吉一家石井会会長・石井福造と番長争いを演じた。安藤組組長・安藤昇に最も可愛がられた。前科7犯、22回の逮捕歴がある。素手喧嘩(ステゴロ)と呼ばれ喧嘩に武器は一切持たない主義であったという。


三橋美智也 。1930年11月10日 - 1996年1月8日、 演歌歌手。
北海道函館市近郊の上磯町出身。本名は北沢美智也。春日八郎村田英雄らとともに戦後日本を代表する流行歌手。代表曲は「古城」「哀愁列車」など多数。三橋美智也の家紋は丸に三つ引両紋だが、小平霊園の北沢美智也の墓には丸に橘紋がある。


勝新太郎 。1931年11月29日 - 1997年6月21日、 俳優。
東京府出身。長唄三味線の杵屋勝東治の次男。本名は、奥村利夫。妻は二代目中村鴈治郎の長女で同じ大映の女優・中村玉緒。兄は若山富三郎。代表作は『兵隊やくざ』『座頭市』『悪名』等。家紋は菊座橘。画像は蓮乗寺にて撮影。


池坊専永 。1933年7月21日 - 、 華道家。
京都出身。華道家元四十四世池坊専威の長男。妻は衆議院議員の池坊保子。元々池坊の坊名は聖徳太子が水浴したという池にちなむという。国際科学技術博覧会で「いけばなと着物の交響詩」で舞台用の超大作を制作。画像は鎌倉・東慶寺にて撮影。


江副浩正 。1936年6月12日 - 2013年2月8日、 実業家。
大阪府大阪市出身。読みは、えぞえひろまさ。日本の実業家。特例財団法人江副育英会理事長。株式会社リクルートの創業者。「リクルート事件」の贈賄側人物として知られ、執行猶予付き有罪判決を受けた。家紋は、割り橘紋。


マシオ駒 。1940年5月18日 - 1976年3月10日、 プロレスラー。
東京市世田谷区出身。本名は駒秀雄。早稲田実業高校時代は野球部に所属(同期に王貞治)。1972年、ジャイアント馬場が日本プロレスを離脱すると馬場に合流し、全日本プロレスの立ち上げに参加。若手の指導を行うようになる。家紋は丸に橘紋。


石井紘基 。1940年11月6日 - 2002年10月25日、 政治家。
東京市世田谷区出身。菅直人田英夫らと社会民主連合を結成。羽田内閣において総務政務次官に就任。自由連合や新党さきがけを経て民主党の結党に参加。国会の爆弾発言男と呼ばれていたが、世田谷区の自宅駐車場で刺殺された。家紋は丸に橘紋


梅若万三郎(3世) 。1941年 - 、 シテ方観世流能楽師。
梅若万三郎 (2世)の長男として出生。本名万紀夫。1997年、大阪文化祭本賞受賞。2001年、三世梅若万三郎を襲名。第一回日本能楽団欧州公演に加わって以来、積極的に海外公演を行っている。家紋は丸に橘紋。画像は品川・海晏寺の梅若家墓所にて撮影。


魁傑將晃 。1948年2月16日 - 、 元大相撲力士。
山口県岩国市に生まれる。本名は西森輝門。日本大学文理学部中退。最高位は大関。引退後は放駒を襲名。日本相撲協会理事長(第11代)。幕内通算成績:367勝304敗4休 勝率.547。幕内最高優勝2回。家紋は丸に橘紋。


山本譲二 。1950年2月1日 -、 演歌歌手。
山口県下関市出身。所属事務所はジョージ・プロモーション。北島三郎ファミリーの旗頭的存在。『みちのくひとり旅』で第23回日本レコード大賞ロング・セラー賞を受賞、さらにNHK紅白歌合戦の初出場も果たした。家紋は丸に橘紋。


三遊亭圓楽(6代) 。1950年2月8日 - 、 落語家。
東京都墨田区出身。本名は會泰通。円楽一門会所属。還暦を迎える2010年2月に師匠の名跡である6代目三遊亭圓楽を襲名。1977年8月から「笑点」の大喜利に出演している。家紋は、圓楽一門の定紋である三ツ組橘。(六代目三遊亭圓生と同じ形)


江川卓 。1955年5月25日 - 、 元プロ野球選手、野球解説者。
福島県いわき市生まれ、栃木県小山市育ち。作新学院高等学校のエースとして、ノーヒットノーラン9回・完全試合2回を記録。六大学野球では、法政大学で、通算47勝は史上2位、完封数17はリーグ記録。プロでは巨人所属で1981年に投手五冠に輝く。


朝潮太郎(4代) 。1955年12月9日 - 、 元大相撲力士。
高知県安芸郡出身。本名は 長岡末弘。近畿大学で2年連続してアマチュア横綱のタイトルを獲得。高砂部屋に入門。最高位は大関。北の湖に強かった。531勝371敗33休。幕内最高優勝1回。現在は7代目高砂親方として横綱・朝青龍を育てた。


夏目雅子 。1957年12月17日 - 1985年9月11日、 女優。
東京都出身。六本木の輸入雑貨商・亀甲屋の娘。旧姓は小幡。本名は、西山雅子。代表出演作はドラマ『西遊記』、映画『瀬戸内少年野球団』など。27歳の若さで突然亡くなる。家紋は丸に橘紋。実家の小幡家の家紋は亀甲に小の文字紋。


徳仁親王妃雅子 。1963年12月9日 - 、 皇太子徳仁親王の妃。
東京都出身。外務省職員の小和田恆・優美子夫妻の長女として外務省職員を経て、1993年6月9日、皇太子徳仁親王との結婚に伴い、皇太子妃となる。2001年12月1日、敬宮愛子内親王を出産。日本赤十字社名誉副総裁を務める。家紋は丸に橘紋。


橋下徹 。1969年6月29日 - 、 政治家、タレント。
東京都渋谷区幡ヶ谷で幼少期を過ごす。テレビ番組「行列のできる法律相談所」でタレント弁護士としての地位を獲得。知名度を利用し政治家に転進。大阪府知事(民選第17代)、大阪市長(第19代)を務める。日本維新の会代表。家紋は丸に橘紋。


友近 。1973年8月2日 - 、 お笑い芸人。
愛媛県松山市出身。本名は、友近由紀子。吉本興業所属。桜田淳子、藤原紀香、工藤静香など、多数のものまねネタを持っている。家紋の丸に橘紋は2012年8月放送の『やりすぎコージー・都市伝説特集』(テレビ東京)にて自分の家紋について告白した。


琴光喜啓司 。1976年4月11日 - 、 元大相撲力士。
愛知県岡崎市出身。本名は田宮啓司。読みは、ことみつきけいじ。佐渡ケ嶽部屋所属。最高位は東大関。通算成績:571勝367敗50休。幕内最高優勝:1回。2010年野球賭博事件で解雇される。敬宮愛子内親王のお気に入り力士としても有名だった。


上松範康 。1978年3月1日 - 、 作曲家、編曲家。
長野県南安曇郡穂高町出身。読みは、あげまつのりやす。数多くのアーティスト、アニメ・ゲーム関連作品に楽曲を提供。水樹奈々の19thシングル『深愛』でウィークリーチャート2位を記録。家紋は丸に橘紋。画像はTwitterで公開した自家墓所の家紋。


北島康介 。1982年9月22日 - 、 競泳選手。
東京都荒川区出身。実家は西日暮里・道灌山通りの精肉店「肉のきたじま」を経営。アテネ五輪北京五輪100m平泳ぎ、200m平泳ぎの金メダリスト。また、100m及び200m平泳ぎの元世界記録保持者。画像は実家・北島商店名物のメンチカツサンドの橘紋。


中川翔子 。1985年5月5日 - 、 女性アイドル、マルチタレント。
東京都中野区出身。本名:中川しょうこ。2002年にミス週刊少年マガジンに選抜。日本武道館ワンマンライブ「中川翔子 超貪欲☆まつり IN 日本武道館」を開催。家紋は丸に橘紋。画像は父親・中川勝彦の墓所(谷中・常在寺)にて撮影。


豪栄道豪太郎 。1986年4月6日 - 、 大相撲力士。
大阪府寝屋川市出身。本名は澤井豪太郎。高校では高校横綱、世界ジュニア相撲選手権大会無差別級優勝など11個の個人タイトルを獲得。小結・両国の境川部屋に入門。高校卒業を待たずに2005年1月場所に初土俵を踏む。最高位は関脇。家紋は丸に橘。


有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)

まさむね





梅紋 -菅原道真の怨霊を封じ込めた紋- 前田利家、岡本太郎、菅直人...

梅紋は菅原道真の象徴である。

平安時代、右大臣にまで上り詰めた道真は、藤原時平の讒言のせいで大宰府に左遷され、そこで亡くなった。

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

かの地で詠んだ有名なこの歌の力で、梅が京都から飛んできたという。
しかし、道真の死後、都では落雷や相次ぐ不幸が重なり、それが道真の怨霊による祟りということになった。
そこで、道真は北野天満宮に「天神様」として奉られ、商売繁盛の神様、学問の神様として現在まで篤い信仰の対象となっている。

したがって、梅紋あるいは、梅鉢紋は、天神信仰と関係があるか、菅原氏の流れを汲む氏族が後に家紋として採用した。
有名なのは加賀の前田の梅鉢紋。元々は利仁流藤原氏の一族とされていたが、後に菅原氏の子孫と自称。
天神信仰が盛んだった加賀地方を治めるために、梅鉢紋を利用したとの見方もある。

優雅なデザインの底に怨霊の魂が眠っている奥深い紋である。

全国では7位。多い地域では、山口県と鹿児島県が3位。広島県、佐賀県、熊本県が4位。
逆に、江戸時代に前田氏が統治した石川県、富山県では少ない。庶民が藩主の紋をはばかったためとのこと。

芸術家が多いのが目立つ。武将としてもどちらかと言えば文化の香りが高い人々が名を連ねている。これは菅原道真とのつながりを意識した振る舞いがあるのか??

梅紋・梅鉢紋の有名人は以下。




金森長近 。1524年 - 1608年9月20日、 武将。
美濃源氏土岐氏の支流。近江国野洲郡金森に居住。豊臣秀吉に仕え飛騨一国を与えられた。関が原では東軍に値し初代高山藩主となる。茶の湯の才にも秀でており秀吉から千利休の嫡男である千道安を匿った。家紋は裏梅紋。


前田利家 。1539年1月15日 - 1599年4月27日、 武将、大名。
尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利昌の四男として生まれる。小姓として織田信長に仕え「槍の又左」の異名をもって怖れられた。信長の死後、秀吉に臣従。豊臣政権の五大老の一人となる。家紋は梅鉢。画像は、文京区吉祥寺の前田家の墓所にて撮影。


筒井順慶 。1549年3月31日 - 1584年9月15日、 戦国時代の大名。
大和国の戦国大名・筒井順昭の子。松永久秀によって居城・筒井城を追われるが、三好三人衆と手を結んで筒井城を奪還。大和国で松永久秀と抗争の上、平定する一方で茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人でもあった。家紋は梅鉢。


紀伊国屋文左衛門 。1669年 - 1734年5月26日、 商人。
紀州湯浅の出身。みかん、材木などの商いで財を成す。幕府から十文銭の鋳造を請け負ったが、質が悪く1年で通用が停止されてしまったという。画像は深川・成等院墓所の親族の墓を撮影。家紋は丸に梅紋。ただし、本人の墓は劣化著しく家紋は確認不能。


平賀源内 。1728年 - 1780年1月24日、 蘭学者、発明家、画家。
讃岐国寒川郡志度浦出身。父は白石茂左衛門。天才、異才と称される。鎖国を行っていた当時の日本で蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。エレキテルを復元したり日本最初の宣伝コピー「本日土用丑の日」を考えたという。


中山みき 。1798年6月2日 - 1887年2月18日、 宗教家。
大和国山辺郡三昧田村の前川半七の家に生まれる。中山善兵衞に嫁ぐ。親神・天理王命が乗移り天理教を開く。天理教教会本部では、「教祖」と書いて「おやさま」と呼称させている。家紋は丸に梅鉢。現在の天理教のマークとなっている。


伊沢蘭軒 。1777年12月10日 - 1829年4月20日、 医師、教育者。
備後福山藩医の子として生まれる。頼山陽大田南畝等とも親交を持ったという。清川玄道、森立之、岡西玄亭、山田椿庭、渋江抽斎等、多くの弟子を育てた。その生涯は森鴎外の史伝『伊沢蘭軒』に詳しい。家紋は梅鉢。画像は麻布長谷寺の墓所にて撮影。


梅田雲浜 。1815年7月13日 - 1859年10月9日、 儒学者。
小浜藩藩士・矢部義比の次男として生まれる。アメリカのペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて幕政を激しく批判したが安政の大獄で摘発、逮捕される。拷問においても何一つ口を割らず、獄中で病死した。家紋は梅鉢。


前田案山子 。1828年4月7日 - 1904年7月20日、 政治家、文人。
細川藩に指南として仕えていたが明治維新に際し農民と共に生きる決意で案山子と改名。自由民権運動の闘士となり干拓農地の免訴運動などに奔走。次女の卓は夏目漱石の「草枕」の那美さんとして登場。家紋は梅鉢紋。画像は平林寺にて撮影。


平野国臣 。1828年5月12日 - 1864年8月21日、 志士。
筑前国出身の福岡藩士。読みは、ひらのくにおみ。西郷隆盛真木和泉清河八郎らと倒幕を進めるが、寺田屋事件に合わせた挙兵に失敗し投獄される。出獄後も倒幕活動を続けるが、禁門の変のどさくさに殺害された。家紋は星梅鉢紋。


副島種臣 。1828年10月17日 - 1905年1月31日、 官僚、政治家。
父は佐賀藩の藩校・弘道館の教授、国学者・枝吉南濠。弘道館で学び尊王攘夷思想に目覚める。江藤新平大木喬任と交わり大隈重信らと脱藩、奔走する。第1次松方正義内閣では内務大臣を務める。家紋は星梅鉢。画像は青山霊園にて撮影。


篠原泰之進 。1828年12月22日 - 1911年6月13日、 志士。
筑後国生葉郡高見村の豪農・石工業者・篠原元助の長男として出生。新選組に加盟するが、御陵衛士結成に伴い、離脱。鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍の一員として戦う。維新後は秦林親と改名。家紋は丸に梅鉢紋。画像は青山霊園にて撮影。


福羽美静 。1831年8月24日 - 1907年8月14日、 国学者、歌人。
津和野藩士・福羽美質の長男。読みは、ふくばびせい。幕末は尊皇攘夷の志士として御所に召され孝明天皇に近侍。八月十八日の政変に際しては七卿と共に西下。維新後は明治天皇の大学御用掛、宮内省歌道文学御用掛となる。家紋は外雪輪に梅紋。


榎本武揚 。1836年10月5日 - 1908年10月26日、 幕臣、政治家。
父・箱田良助(備後福山藩士)が榎本家の株を買い幕臣となる。新政府軍が江戸城を無血開城すると幕府軍艦を率いて蝦夷地に逃走。五稜郭に拠り蝦夷島政府を設立。維新後、新政府に登用され外務大輔、海軍卿等を歴任する。画像は文京区・吉祥寺にて撮影。


中牟田倉之助 。1837年3月30日 - 1916年3月30日、 海軍軍人。
金丸孫七郎の次男だったが、中牟田家の養子となる。佐賀藩主・鍋島直正の推薦で長崎海軍伝習所へ入所。西南戦争でも勲功があったため海軍中将に昇進。海軍大学校長や枢密顧問官も務める。家紋は子持輪に梅鉢紋。画像は青山霊園にて撮影。


清岡公張 。1841年7月10日 - 1901年2月25日、 政治家。
安芸郡田野浦出身の郷士。読みは、きよおかともはる。禁門の変では長州藩と共に参戦するが敗北。維新後は、福島県権知事、白河権知事、二本松県権令などを歴任。元老院議官、貴族院議員として活躍。家紋は梅鉢。画像は護国寺にて撮影。


清水郁太郎 。1857年11月29日 - 1885年2月26日、 医学者。
安芸国吉津村出身。藩校誠之館に入学。初代の東京大学医学部産婦人科学教授。産婦人科にあって臨床診療中心のドイツ産婦人科学を導入。穿頭術、卵巣嚢腫に対する手術も敢行した。家紋は丸に梅鉢紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


寺原長輝 。1855年3月2日 - 1912年12月23日、 内務官僚。
薩摩国伊佐郡出身。読みは、てらはらおさてる。台湾出兵収拾のため渡清した大久保利通に随行。内務官僚として、奈良県知事、茨城県知事、福岡県知事、福岡県知事を歴任。後に貴族院勅選議員に任じられた。家紋は梅鉢紋。画像は青山・長谷寺にて撮影。


杉浦重剛 。1855年4月19日 - 1924年2月13日、 教育者・思想家。
近江国膳所藩の儒者・杉浦重文の次男。読みは、すぎうらじゅうごう。若き日の昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の3兄弟に倫理を進講。後に人格高邁の国士と評され理学宗の世界観を確立。家紋は丸に剣片喰紋と向う梅紋。画像は伝通院にて撮影。


團琢磨 。1858年9月7日 - 1932年3月5日、 工学者、実業家。
筑前国福岡荒戸町出身。福岡藩士馬廻役神尾宅之丞の四男。幼名は駒吉。三井三池炭鉱の経営に成功し、戦前の三井財閥の総帥であったが、血盟団事件で狙撃、暗殺される。作曲家の團伊玖磨は孫(長男の息子)にあたる。画像は護国寺にて撮影。


岡田和一郎 。1864年2月10日 - 1938年5月30日、 医師、医学者。
伊予国新居郡本町に生まれる。帝国大学耳鼻咽喉科学における初代の正教授。耳鼻咽喉学の祖と称えられる。主著は『耳科学纂録』『社会政策と地方衛生機関の大改革』『耳・鼻・咽喉 』。家紋は丸に星梅鉢紋。画像は染井霊園にて撮影。


水島銕也 。1864年6月29日 - 1928年11月2日、 教育者。
豊前国中津藩出身。読みは、みずしまてつや。神戸高等商業学校(神戸大学の前身)の創立者、初代校長。生誕地跡である大分県中津市金谷本町には「水島公園」と記念碑が建てられている。家紋は丸に梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


長岡半太郎 。1865年8月15日 - 1950年12月11日、 物理学者。
長崎県大村市で大村藩藩士長岡治三郎の一人息子。土星型原子モデル提唱などの学問的業績を残した。初代大阪帝国大学総長や日本学士院院長などの要職も歴任。初代文化勲章受章。家紋は珍しい隅切り角に四つ梅鉢紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


金子直吉 。1866年7月24日 - 1944年2月27日、 実業家。
土佐国出身。商家の子。鈴木商店に入社。第一次世界大戦中の好景気の乗り、番頭として鈴木商店を一大コンツェルンに築きあげる。ところが、戦後不況、震災不況により鈴木商店は倒産に追い込まれた。家紋は裏梅紋。画像は高知市の筆山墓地の墓所。


相島虚吼 。1867年11月24日 - 1935年4月4日、 政治家。
常陸国出身。読みは、あいじまきょこう。大阪毎日新聞社で編集主任・副主幹・顧問等を歴任後、「昭和日日新聞」を創刊。のち衆議院議員に当選し、憲政擁護・閥族打破に尽力。また、俳人としても活躍。家紋は梅鉢紋。画像は谷中霊園にて撮影。


小橋一太 。1870年10月25日 - 1939年10月2日、 政治家。
熊本県出身。読みは、こばしいちた。立憲民政党の結成に関わる。浜口内閣の文部大臣であったが越後鉄道にまつわる汚職事件(越後鉄道疑獄)に連座し辞任した(裁判では無罪)。後に東京市市長となる。家紋は梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


土井晩翠 。1871年12月5日 - 1952年10月19日、 詩人、英文学者。
仙台の北鍛治町に、質屋の土井林七の長男として生まれた。本名は林吉。男性的な漢詩調詩風、第一詩集『天地有情』で島崎藤村と併称された。代表作は『荒城の月』『星落秋風五丈原』等。日本心霊科学協会の設立に顧問として関わる。家紋は梅鉢紋。


井上幾太郎 。1872年2月18日 - 1965年5月7日、 陸軍軍人。
山口県出身。農業、井上清蔵の二男。読みは、いのうえいくたろう。日露戦争に第3軍参謀として出征。旅順攻囲戦において坑道掘りによる攻撃を献策。帝国在郷軍人会の最後の会長。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


幣原喜重郎 。1872年9月13日 - 1951年3月10日、 政治家。
大阪府門真一番村の豪農の家に出生。読みは、しではらきじゅうろう。加藤高明内閣を始め4回も外務大臣になる。自由主義体制における国際協調路線は幣原外交と称された。後に第44代内閣総理大臣となる。家紋は鞠挟みに梅鉢紋。画像は染井霊園にて撮影。


久保猪之吉 。1874年12月26日 - 1939年11月12日、 医師、俳人。
福島県本宮町出身。日本の耳鼻咽喉科学の先駆者。コペンハーゲンで開催された第1回万国耳鼻咽喉科学会に日本代表として出席。俳人としてはホトトギス派の高浜虚子に師事し句集に「春潮集」がある。家紋は星梅鉢紋。画像は青山霊園にて撮影。


蒲原有明 。1875年3月15日 - 1952年2月3日、 詩人。
東京麹町隼町に蒲原忠蔵の息子として出生。本名、隼雄。象徴派詩人として薄田泣菫と併称された。『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表。北原白秋三木露風らに影響を与えた。家紋は亀甲に梅鉢紋。画像は麻布・賢崇寺にて撮影。


下村宏 。1875年5月11日 - 1957年12月9日、 官僚、教育家。
和歌山県出身。息子に劇団東演を主宰した演出家下村正夫がいる。玉音放送の際の内閣情報局総裁でありポツダム宣言受諾の実現に尽力した。朝日新聞社副社長、日本放送協会会長、拓殖大学第6代学長を務める。家紋は梅鉢紋。青山霊園の墓所にて撮影。


牧野省三 。1878年9月22日 - 1929年7月25日、 映画監督。
京都府出身。牧野姓は母親の姓。日本最初の職業的映画監督であり日本映画の父と呼ばれた。阪東妻三郎、片岡千恵蔵ら映画俳優や、マキノ雅弘(省三の息子)等の映画監督を多数を育てた。家紋の星梅鉢紋は墓所の写真にて確認。


谷寿夫 。1882年12月23日 - 1947年4月26日、 陸軍軍人。
岡山県の農民出身。読みは、たにひさお。南京攻略戦に参加。戦後、蒋介石による南京軍事法廷で、南京事件の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。最終階級は陸軍中将。家紋は梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


鳴海要吉 。1883年7月9日 - 1959年12月17日、 歌人。
青森県南津軽郡黒石町に生れ。島崎藤村の影響で歌を始める。田山花袋が「早稲田文学」発表した短編『トコヨゴヨミ』のモデルとなっている。代表作は『乳涙集』『TUTI NI KAERE』『土にかへれ』家紋は丸に梅鉢紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


前田夕暮 。1883年7月27日 - 1951年4月20日、 歌人。
神奈川県大住郡南矢名村の豪農の家に出生。『詩歌』復刊。口語自由律短歌を提唱したが定型歌に復帰。代表作『収穫』『陰影』『生くる日に』。代表歌「向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ」家紋は梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


前田多門 。1884年5月11日 - 1962年6月4日、 政治家、実業家。
大阪府出身。読みは、まえだたもん。次女の前夫は井深大。東久邇内閣の文相に就任、教育改革を推進した。東京通信工業(後のソニー)社長に就任。また日本育英会会長、日本ユネスコ国内委員会会長等を歴任。家紋は梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


前田青邨 。1885年1月27日 - 1977年10月27日、 日本画家。
岐阜県中津川市出身。歴史画を得意とし、大和絵の伝統を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。代表作の「洞窟の頼朝」は重要文化財に指定される。出身地の中津川には青邨記念館がある。家紋は加賀梅鉢紋。画像は総持寺にて撮影。


牟田口廉也 。1888年10月7日 - 1966年8月2日、 陸軍軍人。
佐賀県出身。盧溝橋事件を独断で裁断したり、インパール作戦の指揮に失敗したりしたため、大日本帝国陸軍将校の中でも評価は低い。最終階級は陸軍中将。戦後は東京都調布市で余生を送る。家紋は丸に梅鉢紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


水野仙子 。1888年12月3日 - 1919年5月31日、 小説家。
福島県岩瀬郡須賀川町に出生。本名は服部テイ。田山花袋家に寄寓して内弟子となる。後に川波道三と結婚。『青鞜』の社員となる。代表作は『娘』『徒労』『嘘をつく日』。家紋は丸に梅鉢紋。画像は雑司ヶ谷霊園の川浪家の墓所にて撮影。


栗田健男 。1889年4月28日 - 1977年12月19日、 海軍軍人。
茨城県水戸市出身。遥かな祖先は清和源氏に連なるという水戸藩士の家に出生。読みは、くりたたけお。レイテ沖海戦では機動部隊の指揮を取り「謎の反転」をしたことで知られる。最終階級は海軍中将。家紋は丸に加賀梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


高塚竹堂 。1889年5月23日 - 1968年3月30日、 書道家。
静岡県清水市出身。本名は錠二。戍申書道会・泰東書道院・東方書道会の創立に尽力し役員・審査員を経る。国定教科書・台湾教科書を揮毫。松本芳翠と共に書道同文会を創設。書道連盟監事を勤めた。家紋は丸に梅鉢紋。画像は小平霊園にて撮影。


古今亭志ん生(5代) 。1890年6月28日 - 1973年9月21日、 落語家。
東京・神田亀住町の生まれ。本名は美濃部孝蔵。出自は高位の士族。生家は徳川直参旗本の美濃部家で菅原道真の末裔を称する。長男は10代目金原亭馬生、次男は3代目古今亭志ん朝20世紀を代表する名人に数えられる。画像は文京区・還国寺にて撮影。


仁科芳雄 。1890年12月6日 - 1951年1月10日、 物理学者。
岡山県浅口郡里庄町浜中の出身。日本に量子力学の拠点を作ることに尽くした。湯川秀樹朝永振一郎らの後のノーベル賞受賞者たちを育て上げ、「日本の現代物理学の父」とも呼ばれている。死後、仁科記念財団が設立された。画像は多磨霊園にて撮影。


倉田百三 。1891年2月23日 - 1943年2月12日、 劇作家。
広島県庄原市出身。西田天香の一灯園で深い信仰生活を送る。代表作『出家とその弟子』 は鎌倉時代に浄土真宗を創始した親鸞とその弟子唯円との物語を描いた戯曲。発表とともに当時の青年たちに熱狂的に支持される。画像は多磨霊園にて撮影。


栃木山守也 。1892年2月5日 - 1959年10月3日、 大相撲力士。
栃木県下都賀郡赤麻村出身。本名は横田(のち中田)守也。第27代横綱。体重103kgで史上最軽量の横綱だが幕内最高優勝9回。横綱在位中の勝率は.935。引退後、年寄・春日野を襲名。春日野部屋を創立。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


浜田広介 。1893年5月25日 - 1973年11月17日、 童話作家。
山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれる。作品は“ひろすけ童話”と呼ばれ、小学校低学年向けの平易な語り口と純朴で心を打つ内容により、絵本などで親しまれている。代表作は「泣いた赤鬼」「椋鳥の夢」「竜の目の涙」など。画像は春秋苑墓地にて撮影。


芹沢銈介 。1895年5月13日 - 1984年4月5日、 染色工芸家。
静岡市出身。読みは、せりざわけいすけ。静岡市名誉市民。文化功労者。重要無形文化財「型絵染」の保持者(人間国宝)。20世紀日本の代表的な工芸家として内外から高く評価されており、民芸運動の主要な参加者でもあった。家紋は梅鉢紋。


奥むめお 。1895年10月24日 - 1997年7月7日、 婦人運動家。
福井県福井市に和田甚三郎の長女として出生。本名・奥梅尾。日本初の婦人団体である新婦人協会平塚雷鳥、市川房枝と共に理事に就任。主婦連合会を結成し会長に就任。主婦会館設立、初代館長となる。家紋は匂い梅。画像は春秋苑の墓所にて撮影。


赤尾敏 。1899年1月15日 - 1990年2月6日、 保守政治家。
愛知県名古屋市出身。金物商の息子。読みは、あかおびん。戦前は左翼運動に身を投じるが失望し転向。建国会を組織し衆議院議員に当選。戦後は公職追放されるが大日本愛国党を結成し総裁となり各種選挙に立候補した。家紋は丸に梅鉢紋。


池田勇人 。1899年12月3日 - 1965年8月13日、 政治家。
広島県吉名村に造り酒屋を営む池田吾一郎の子として出生。内閣総理大臣時に所得倍増計画を打ち出して、日本の高度経済成長の進展に大きな役割を果たした。「私はウソは申しません」などの発言を残している。画像は青山霊園にて撮影。


梶井基次郎 。1901年2月17日 - 1932年3月24日、 小説家。
大阪府大阪市出身。志賀直哉の影響を受け、簡潔な描写と詩情豊かな小品を残す。死後次第に評価は高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。代表作は「檸檬」「櫻の樹の下には」。家紋は丸に加賀梅鉢紋。画像は常国寺にて撮影。


柳家金語楼 。1901年2月28日 - 1972年10月22日、 俳優、落語家。
東京の芝の葉茶屋「山下園」を営んでいた三遊亭金勝の子。本名は山下敬太郎。吉本興業に所属。NHKテレビ『ジェスチャー』などで大衆的人気を博す。6代目春風亭柳橋等と日本芸術協会を結成。エノケンロッパと並ぶ昭和の三大喜劇人。家紋は裏梅紋。


曽我廼家五郎八 。1902年2月25日 - 1998年1月20日、 芸人。
大阪府大阪市道頓堀の出身。本名は西岡幸一。曾我廼家五郎一座に入り曾我廼家五郎八を襲名。松竹新喜劇で活躍。味のある脇役として一世を風靡。娘は西岡慶子(女優)。タレントの弟子に吉本新喜劇の井上竜夫、菊池大助がいる。家紋は雪輪に梅鉢紋。


美濃部亮吉 。1904年2月5日 - 1984年12月24日、 政治家。
東京府出身。天皇機関説事件により貴族院議員を辞職した美濃部達吉の子。日本社会党を支持基盤とする革新都知事。1971年の都知事選で獲得した361万5299票は2012年に猪瀬直樹が破るまで日本の選挙史上最多得票記録であった。家紋は星梅鉢。


永田雅一 。1906年1月21日 - 1985年10月24日、 実業家。
京都市の染料と友禅の問屋で生れる。『羅生門』でヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞。五社協定締結を主導。大毎オリオンズオーナー。パ・リーグの父と呼ばれた。大言壮語な語り口から「永田ラッパ」と呼ばれた。画像は池上本門寺にて撮影。


伊藤静雄 。1906年12月10日 - 1953年3月12日、 詩人。
長崎県諫早市出身。処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』を発表し一気に名声を高めた。日本浪曼派の代表的な詩人として同時代に多大な影響を与えた。代表詩集は『夏花』『春のいそぎ』等。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は隅切り角に梅鉢紋。


植草甚一 。1908年8月8日 - 1979年12月2日、 評論家。
東京市日本橋区小網町出身。木綿問屋の一人息子。雑誌『ワンダーランド』(のちの「宝島」)の創刊編集者。代表作『ぼくは散歩と雑学が好き』は大きな影響力を持つ。彼の死後そのレコードコレクションはタモリが買い取った。画像は回向院にて撮影。


入江たか子 。1909年2月7日 - 1995年1月12日、 女優。
東京市四谷区に出生。子爵・東坊城家の出身。本名は東坊城英子。高貴な美貌と近代的なスタイルによって大スターとなり、原節子・山田五十鈴とともに日本映画史上の三大美人と言われた。家紋は星梅紋。画像は東坊城家菩提寺の京都・浄福寺にて撮影。


神田山陽(2代) 。1909年8月31日 - 2000年10月30日、 講釈師。
東京都出身。書店・出版社の「大阪屋号書店」の社長の息子として生まれる。本名は浜井弘。1955年に2代目神田山陽を襲名。講談協会会長。神田改メ日向ひまわりなど、現在でも活躍している女性の弟子も多い。家紋は丸に梅鉢紋。


益田喜頓 。1909年9月11日 - 1993年12月1日、 コメディアン。
北海道庁函館区青柳町に、会津藩の武家上がりの土木請負業の家に生れる。本名は木村一。昭和期を代表するコメディアン。川田晴久、芝利英、坊屋三郎とあきれたぼういずを結成。その後、映画、ミュージカルを中心に活躍。家紋は丸に梅鉢紋。


湯浅年子 。1909年12月11日 - 1980年2月1日、 物理学者。
東京都上野に出生。読みは、ゆあさとしこ。パリのコレージュ・ド・フランス原子核化学研究所、CNRS(フランス国立中央化学研究所)で研究し、日本国外で活動した初の日本人女性物理学者といわれている。紫綬褒章が贈られた。家紋は丸に梅鉢紋。


豊田武 。1910年3月9日 - 1980年3月29日、 日本史学者。
東京出身。東京女子高等師範学校教授、文部省図書監修官、東北帝国大学助教授、東京大学名誉教授。法政大学教授。を歴任。代表著作は「武士団と村落」「苗字の歴史」「英雄と伝説」等。家紋は丸に梅鉢紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


岡本太郎 。1911年2月26日 - 1996年1月7日、 芸術家。
神奈川県橘樹郡高津村で、漫画家の岡本一平、歌人で作家・かの子との間に長男として出生。「芸術は爆発だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」などの名言を残した。画像は多磨霊園、太郎と同じ敷地にある岡本かの子の墓にある加賀梅鉢紋。


双葉山定次 。1912年2月9日 - 1968年12月16日、 大相撲力士。
大分県宇佐郡天津村出身。第35代横綱。本場所での通算69連勝、優勝12回、全勝8回などを記録。「双葉の前に双葉無し、双葉の後に双葉無し」の言葉通りの不世出の大横綱であり、名実共に史上最強の横綱とする評は多い。画像は善性寺の墓所にて撮影。


安藝ノ海節男 。1914年5月30日 - 1979年3月25日、 大相撲力士。
広島県広島市に食料品商の家に出生。本名は永田節男。第37代横綱双葉山の70連勝を阻止した一番は世紀の名勝負といわれた。その後、双葉山には9連敗し二度と勝てなかった。幕内最高優勝:1回。金星は双葉山に勝った一番だけ。画像は正覚寺にて撮影。


山田五十鈴 。1917年2月5日 - 2012年7月9日、 女優。
大阪府大阪市中央区出身。本名は、山田美津。昭和期を代表する日本の大女優の一人。女優として初めての文化勲章を受章。代表出演作は『現代人』『蜘蛛巣城』『流れる』『必殺仕事人』等。家紋は中陰光琳梅紋。画像は葬儀時の祭壇。


佐賀ノ花勝巳 。1917年12月5日 - 1975年3月28日、 大相撲力士。
佐賀県佐賀市出身。最高位は大関。本名は北村勝巳。1944年1月場所では13勝2敗の幕内最高優勝を遂げる。八代目・二所ノ関を襲名。親方として初代・若乃花、玉乃海、大鵬、大麒麟を育てた。家紋は丸に梅鉢紋。画像は谷中の宗善寺にて撮影。


山下清 。1922年3月10日 - 1971年7月12日、 画家。
東京府東京市浅草区出身。本名は大橋清治。3歳の頃に重い消化不良になり一命は取りとめたものの後遺症で軽い言語障害、知的障害に進行。戦後は「日本のゴッホ」「裸の大将」と呼ばれ日本中を放浪する。家紋は丸に梅鉢。画像は正覚院にて。


町井久之 。1923年 - 2002年9月18日、 ヤクザ、実業家。
東京生まれ。本名は鄭建永。東声会会長。東亜相互企業株式会社社長。釜関フェリー株式会社会長。在日本大韓民国民団中央本部顧問。若い頃は、「銀座の虎」、「雄牛」と呼ばれた。家紋は丸に梅鉢紋。画像は池上本門寺にて撮影。


栃錦清隆 。1925年2月20日 - 1990年1月10日、 大相撲力士。
東京府南葛飾郡出身。本名、大塚清。第44代横綱。相撲界に戦後屈指の黄金時代「栃・若時代」を築いた。幕内最高優勝 10回。幕内通算成績 513勝203敗1分32休 勝率.716。引退後は年寄・春日野として日本相撲協会理事長もつとめる。


フランキー堺 。1929年2月13日 - 1996年6月10日、 喜劇役者。
鹿児島の士族の家系。本名は堺正俊。曽我廼家五九郎は親戚。「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」を結成しドラマーとしても活躍。代表出演作『私は貝になりたい』『幕末太陽傳』。『写楽』の企画総指揮。葬儀時写真より丸に梅鉢紋と判断。


中村八大 。1931年1月20日 - 1992年6月10日、 作曲家。
中国青島出身。ジョージ川口率いるカルテット「ビッグ4」のメンバー。『黒い花びら』『こんにちは赤ちゃん』で2回、日本レコード大賞を受賞。代表作は『上を向いて歩こう』『明日があるさ』等多数。家紋は梅鉢紋。画像は本門寺にて撮影。


漣健児 。1931年2月4日 - 2005年6月6日、 作詞家、実業家。
東京市牛込区出身。本名は草野昌一。読みは、さざなみけんじ。「ミュージックライフ」の初代編集長。作詞者としての代表作は「可愛いベイビー」、「赤鼻のトナカイ」(新田宣夫名義)など。また日本の音楽出版ビジネスの先駆者でもある。


坂田藤十郎(4代) 。1931年12月31日 -、 歌舞伎役者。
二代目中村鴈治郎の長男。本名は林宏太郎。屋号は山城屋。現代歌舞伎の大看板のひとりでもあり、また上方歌舞伎の復興プロジェクトでも主導的な役目を務める。劇団近松座を結成。日本俳優協会会長。定紋は五つ藤重ね星梅鉢、替紋は向い藤菱。


河内桃子 。1932年3月7日 - 1998年11月5日、 女優。
東京都台東区谷中出身。祖父は理研グループ総帥・大河内正敏。夫は今治松平家末裔でプロデューサーの久松定隆。『ゴジラ』の山根恵美子役に抜擢された後『ありがとう』『渡る世間は鬼ばかり』等に出演。家紋は星梅鉢紋。画像は谷中霊園にて撮影。


遠藤実 。1932年7月6日 - 2008年12月6日、 作曲家。
東京府東京市向島区生まれ。現在に至るまで世に送り出した楽曲は5000曲以上と言われ舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てた。代表作曲『高校三年生』『星影のワルツ』『せんせい』等。家紋は丸に剣梅鉢紋。画像は田無総持寺にて撮影。


筒井康隆 。1934年9月24日 - 、 小説家、劇作家、俳優。
大阪府大阪市住吉区粉浜に出生。日本を代表するSF作家で小松左京星新一と並んで「SF御三家」とも称される。代表作は『七瀬ふたたび』『パプリカ』『虚人たち』『時をかける少女』戦国大名筒井順慶の末裔と伝えられているため梅紋扱いとする。


北の富士勝昭 。1942年3月28日 - 、 大相撲力士。
北海道旭川市出身。本名は、竹澤勝昭。出羽海部屋に入門し、後に九重部屋転属。第52代横綱。幕内最高優勝10回。592勝294敗62休。引退後、千代の富士らを育てる。大鵬の追悼番組に着用していた紋付(画像)にて家紋は丸に梅鉢紋と判断。


中上健次 。1946年8月2日 - 1992年8月12日、 小説家。
和歌山県新宮市に父・鈴木留造と母・木下ちさとの間に出生。紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、ある血族を中心にした「紀州サーガ」とよばれる土着的な作品世界を作り上げた。代表作は、「枯木灘」「軽蔑」など。家紋は丸に梅鉢紋。


堺正章 。1946年8月6日 - 、 歌手、俳優、司会者。
東京都世田谷区出身。本名は栗原正章。父は喜劇俳優の堺駿二。子役で芸能界に入りザ・スパイダースのボーカル、『西遊記』の孫悟空役で人気を博す。『発掘!あるある大事典』『チューボーですよ』等の司会を務める。画像は父親・堺駿二の墓所にて撮影。


菅直人 。1946年10月10日 - 、 政治家。
山口県宇部市に出生(本籍地は岡山県御津郡)。菅原道真の子孫の一派、美作菅家党の流れを汲む。厚生大臣、新党さきがけ副代表、民主党代表を経て、第94代内閣総理大臣に就任。2012年3月11日の東日本大震災の対応にあたった。


中井貴一 。1961年9月18日 - 、 俳優。
東京都世田谷区出身。父の佐田啓二も俳優。父の17回忌の法要の際にスカウトされる。『ふぞろいの林檎たち』で主役。NHK大河ドラマ『武田信玄』では主役の武田信玄を演じた。家紋は父親・佐田啓二の円覚寺の墓所(画像)より星梅紋と判断。


羽生善治 。1970年9月27日 - 、 将棋棋士。
埼玉県所沢市若松町生まれ、東京都八王子市育ち。全7タイトル戦のうち6つで永世称号の資格を保持。通算タイトル獲得数は、大山康晴に次ぎ歴代2位。数々の実績から、将棋史上最強格の棋士の一人に挙げられる。紋付姿の写真より、家紋は亀甲に梅紋と判断。


陣内智則 。1974年2月22日 - 、 お笑い芸人、司会者。
兵庫県加古川市出身。一人コント形式で舞台装置を用いエキストラに演じさせたりCGで制作した映像等の音声や映像に対してツッコミを入れるというスタイル。藤原紀香と結婚したが、離婚。家紋は丸に梅鉢紋であることが結婚式の際の紋付にて判明。


林屋亭どん兵衛 。昭和 - 平成、 落語家。
テレビドラマ「タイガー&ドラゴン」の中の登場人物(西田敏行演)。古典落語にこだわり続ける昔気質の落語家。寄席の客相手に渋い落語を聞かせる通好みの芸人。新しく弟子入りした虎児のことも可愛がる。林屋一門の家紋は丸に覗き梅鉢紋。


丸山陽子 。1922年 - 、 学校教師、主婦。
朝ドラ「おひさま」の登場人物(井上真央演)。東京都に生まれ。10歳の時に長野県安曇野に移住。1941年に国民学校の教師になる。丸山家に嫁ぐ。世界を明るく照らす「太陽の陽子」として笑顔で生きていく。家紋は嫁ぎ先の丸山家の丸に覗き梅紋。


有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)

まさむね





蔦紋 -遊女が好んだ優美な紋- 藤堂高虎、谷崎潤一郎、いかりや長介...

蔦紋は、江戸時代におおいに広まった。
大名では、藤堂、松平、六郷などの諸氏が使用している。一方で、遊郭でも大流行。形が優美で、しかも、纏わりついて繁栄するという蔦の姿が、遊女達の心情を表現していたからであろうか。

石川県(1位)、新潟県(2位)、富山県(4位)、島根県(5位)など、日本海側の各県で使用者が多い。
逆に高知県では24位と断然少ない。また、佐賀県で16位、山梨県、長崎県で15位、青森県、岐阜県、和歌山県で14位と少ない。

使用している有名人は以下である。
何故か、政治家よりも文化人が多いのが目立つ。




松永久秀 。1510年 - 1577年11月19日、 戦国時代の武将。
出身については阿波国・山城国西岡・摂津国五百住の土豪出身など諸説がある。三好三人衆と共に第13代将軍・足利義輝を殺害し畿内を支配した。東大寺大仏殿焼失の首謀者でもある。北条早雲斉藤道三と並んで日本三大梟雄とされる。


藤堂高虎 。1556年2月16日 - 1630年11月9日、 武将・大名。
近江犬上郡藤堂村出身。土豪・藤堂虎高の次男。伊予今治藩主。読みは、とうどうたかとら。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。築城の名手としても知られている。家紋は藤堂蔦。画像は染井墓地の藤堂家の墓所にて撮影。


成富茂安 。1560年 - 1634年、 龍造寺氏次いで鍋島氏の家臣。
肥前国出身。龍造寺隆信龍造寺政家鍋島直茂に仕える。熊本城の築城、筑後川の堤防工事に手腕を振るう。明治天皇に業績を賞賛され従四位を追贈される。家紋は丸に蔦紋。画像は佐賀市本行寺の墓所にて撮影。顔画像は「信長の野望」より。


出雲阿国 。1572年 - 没年不詳、 女性芸能者。
伝説によれば出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘とされる。歌舞伎の創始者。1603年春に北野天満宮に舞台をかけて興行を行ない大変な人気を集めた。江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息がとだえた。画像は出雲大社近くの阿国のものとされる墓。


徳川吉宗 。1684年11月17日 - 1751年7月12日、 将軍。
徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。江戸幕府の第8代将軍に就任し、新田開発、定免法や上米令、目安箱の設置、公事方御定書の制定、江戸町火消しを設置等、いわゆる享保の改革を行う。定紋の三つ葉葵紋の他、蔦紋も使用。


蔦屋重三郎 。1750年2月13日 - 1797年5月31日、 版元。
江戸・吉原生まれ。父(丸山氏)は遊廓の勤め人。喜多川氏の養子になる。蔦屋は喜多川氏の屋号、吉原の茶屋。山東京伝らの黄表紙・洒落本、喜多川歌麿東洲斎写楽の浮世絵の出版をした。家紋は山形に蔦。画像は「蔦屋重三郎展」のポスターより。


山田検校 。1757年6月14日 - 1817年5月25日、 箏曲家。
尾張藩・宝生流能楽師の三田了任の子で山田は母方の姓。本名は斗養一。浄瑠璃の叙事的な要素を導入して語り物的な箏曲の分野を確立した。代表作は「小督の曲」「長恨歌の曲」「葵上」。没年には当道最高位の惣録検校に昇進した。家紋は鬼蔦紋。


頼山陽 。1780年1月21日 - 1832年10月16日、 歴史家、文人。
広島藩城下の袋町に育つ。幼名は久太郎。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は三男。主著『日本外史』が幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響は甚大であった。画像は帆足杏雨筆の頼山陽像。紋付の家紋は丸に蔦紋。定紋は四つ又抱き鹿角紋。


大田垣蓮月 。1791年2月10日 - 1875年12月10日、 歌人・陶芸家。
京都の生まれ。読みは、おおたがきれんげつ。父は伊賀国上野の城代家老・藤堂良聖。自作の焼き物に自詠の和歌を釘彫りで施した作品は蓮月焼と呼ばれる。代表的歌集は『海人の刈藻』。家紋は陰五瓜に陰蔦。蔦は父方・藤堂家の流れを伝える。


瀧山 。1805年 - 1876年1月14日、 大奥御年寄。
御鉄砲百人組・大岡義方の長女。江戸幕府12代将軍徳川家慶・13代家定・14代家茂時代の御年寄を務め江戸開城に伴い大奥の最後の幕引きをした。家紋は丸に大割り蔦紋。家紋画像は川口・錫杖寺にて撮影。顔画像は『篤姫』の稲盛いずみ。


重野安繹 。1827年11月24日 - 1910年12月6日、 歴史家。
薩摩国鹿児島郡出身。読みは、しげのやすつぐ。清代考証学派に範をとる歴史学方法論を主張、これに基づき児島高徳の実在や楠木正成の逸話を否定し「抹殺博士」の異名をとった。養女の尚は大久保利通の長男・利和に嫁ぐ。家紋は丸に蔦紋


古河市兵衛 。1832年4月16日 - 1903年4月5日、 実業家。
京都出身。京都・岡崎で代々庄屋を務める家柄。養子に陸奥宗光の二男をとる。古河財閥の創業者。渋沢栄一から援助を受け、事業を発展させる。事業は後の古河電気工業へと発展していく。家紋は鬼蔦紋。画像は南麻布・光林寺にて撮影。


有村次左衛門 。1839年2月11日 - 1860年3月24日、 尊攘派志士。
薩摩藩士・有村兼善の四男として生まれる。後の貴族院議員・海江田信義は兄。大老・井伊直弼暗殺を水戸藩士らと計画し、江戸城桜田門外で行列を襲撃。のちに正五位が追贈される。家紋は浮線蔦。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


市川左團次(初代) 。1842年11月30日 - 1904年8月7日、 役者。
大坂道頓堀生まれ。父は歌舞伎役者の結髪師・中村清吉。本名は高橋榮三。明治座を新築し、座元(劇場所有者)として近代的な劇場経営を行う。定紋は三升に左の字、替紋は松川菱に鬼蔦。また、肖像写真から中陰鬼蔦も使用と判断。


藤堂平助 。1844年 - 1867年12月13日、 新選組隊士。
武蔵国江戸出身。新選組結成当時からの同志。新選組八番組組長。池田屋事件では、近藤勇土方歳三に次ぐ褒賞金を幕府から下賜される。伊東甲子太郎に従って新選組を離脱し後に油小路事件で暗殺される。家紋は丸に蔦紋。画像は薄桜鬼の藤堂平助。


野村維章 。1844年5月24日 - 1903年5月7日、 志士、司法官。
土佐国小高坂村で土佐藩士、白札格の野村亀四郎の長男として生まれる。海援隊の隊員の一人として活躍。沢村惣之丞の最期にも立ち会った。明治維新後は新政府に出仕し、2代茨城県権令に就任。家紋は丸に蔦紋。画像は青山霊園にて撮影。


中島信行 。1846年10月5日 - 1899年3月26日、 政治家。
土佐国出身。郷士・中島猪三の長男。最初の妻は陸奥宗光の妹。武市半平太土佐勤王党、長州藩の遊撃隊坂本龍馬海援隊に参加した。維新後は新政府に出仕。板垣退助らとともに自由党結成。家紋は鬼蔦紋。画像は大磯・大安寺にて撮影。


森有礼 。1847年8月23日 - 1889年2月12日、 薩摩藩士・政治家。
薩摩国出身。藩士森喜右衛門有恕の五男。読みは、もりありのり。妻は、岩倉具視の五女。明治維新後に福沢諭吉西周中村正直らと共に明六社を結成。初代の文部大臣。英語の国語化を提唱。家紋は頭合わせ三つ鬼蔦。画像は青山霊園にて撮影。


東郷平八郎 。1848年1月27日 - 1934年5月30日、 海軍軍人。
薩摩国鹿児島城下出身。父親は薩摩藩士・東郷実友。日本海軍司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し日本の国際的地位を引き上げた。特にバルチック艦隊を破った日本海海戦での活躍は有名。最終階級は元帥海軍大将。画像は多磨霊園にて撮影。


村山龍平 。1850年5月14日 - 1933年11月24日、 実業家。
伊勢国田丸出身。読みは、むらやまりょうへい。美術蒐集家、数寄者としても有名。朝日新聞の創刊に参加。上野理一と共同経営にあたる。その後、衆議院議員を通算三期務めた。死後、所蔵品を集めた香雪美術館が設立。家紋は美術館HP上の鬼蔦紋。


志田林三郎 。1855年12月25日 - 1892年1月4日、 物理学者。
肥前国出身。日本初の工学士、工学博士となる。電気や通信、磁気や物理など幅広い研究を行ない、天才と称された。隅田川の水面を導体として用いた導電式無線通信実験は、マルコーニの無線実験より9年前に行われたという。家紋は丸に蔦紋。


島村速雄 。1858年10月26日 - 1923年1月8日、 海軍軍人。
土佐国出身。郷士・島村左五平と妻・鹿子の間に生まれる。第四艦隊司令官、海軍兵学校校長、海軍大学校校長、海軍教育本部長、海軍大将を歴任。「天性的に度量のある人物」といわれた。家紋は丸に変り三つ蔓蔦紋。画像は青山霊園にて撮影。


元良勇次郎 。1858年12月5日 - 1912年12月13日、 心理学者。
摂津国三田出身。旧姓は杉田。読みは、もとらゆうじろう。東京英和学校(青山学院の前身)や、正則予備校の設立に参画。帝国大学文科大学教授として日本における近代心理学の礎を築いた。家紋は鬼蔦紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


石渡敏一 。1859年10月 - 1937年11月18日、 官僚、政治家。
江戸出身。読みは、いしわたりびんいち。政治家・石渡荘太郎の父。大審院検事、民事局長、司法次官を経て第一次西園寺公望内閣の内閣書記官長を務めた。学校法人日本大学第一学園の創立の功労者。家紋の七宝に蔦紋は多磨霊園の墓所にて撮影。


高田早苗 。1860年4月4日 - 1938年12月3日、 政治家、教育家。
東京深川生まれ。東京専門学校(現在の早稲田大学)の設立に参加。第1回衆議院議員総選挙に全国最年少で当選。衆議院議員、貴族院議員、早稲田大学総長、文部大臣などを歴任した。家紋は大割り蔦紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


本野一郎 。1862年3月23日 - 1918年9月17日、 外交官、政治家。
肥前国出身。父は読売新聞創業者の本野盛亨。弟に化学者・早稲田大学教授の本野英吉郎がいる。外務省に入りフランス公使、ベルギー公使を歴任。寺内正毅内閣で外務大臣となる。妻は野村靖の娘。家紋は丸に蔦紋。画像は青山霊園にて撮影。


柴田家門 。1863年2月6日 - 1919年8月25日、 政治家。
長門国出身。萩城下平安古に柴田英佐の長男として出生。第2次山縣内閣の内務省地方局長を務める。後に勅撰の貴族院議員となり、第3次内閣の文部大臣に就任。退任後も臨時教育会議の委員を務める。家紋は丸に三つ寄せ蔦紋。画像は青山霊園にて撮影。


田中義一 。1864年7月25日 - 1929年9月29日、 政治家。
長門国出身。萩藩士・田中信祐の三男。最高階級は陸軍大将原敬内閣、第2次山本内閣で陸軍大臣を務める。第26代内閣総理大臣在任中に張作霖爆殺事件が起き、昭和天皇に強く叱責されたため内閣総辞職した。家紋は鬼蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


石塚英蔵 。1866年10月31日 - 1942年7月28日、 官僚、政治家。
会津藩出身。藩士・石塚和三郎の長男。読みは、いしづかえいぞう。台湾総督、貴族院議員、枢密顧問官を歴任。台湾総督時代に霧社事件(最大規模の抗日暴動事件)が起こり、辞職している。家紋は丸に二つ中陰蔦紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


幸田露伴 。1867年8月22日 - 1947年7月30日、 小説家。
江戸下谷三枚橋横町に生まれる。『五重塔』『運命』などの作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。第1回文化勲章受章。娘の文も随筆家、後に小説も書いた。家紋は蔦紋。画像は池上本門寺の墓所にて撮影。


山路一善 。1869年4月24日 - 1963年3月13日、 海軍軍人。
愛媛県松山市に松山藩士山路一審の三男として生まれる。明治から大正の大日本帝国海軍の海軍中将。日本海軍での航空兵力の導入、整備に尽力し、海軍航空の生みの親と呼ばれる。家紋は丸に大割り蔦紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


池貝庄太郎 。1869年11月13日 - 1934年7月28日、 実業家。
東京出身。旧安房国安房勝山藩士の長男。読みは、いけがいしょうたろう。数々の工作機械、産業機械、エンジンを開発し、特許を取得。池貝鉄工所(現在の池貝)を創業。日本近代産業史に大きな功績を残す。家紋は丸に蔦紋。画像は青山霊園にて撮影。


宮崎滔天 。1871年1月23日 - 1922年12月6日、 革命家、浪曲師。
肥後国玉名郡荒尾村出身。読みは、みやざきとうてん。孫文と知り合い、以後中国大陸における革命運動を援助。革命運動団体中国同盟会を結成。一方で、桃中軒雲右衛門に弟子入りして浪曲師となる。家紋は丸に蔦紋。宮崎生家の看板写真にて確認。


中島久万吉 。1873年7月24日 - 1960年4月25日、 政治家。
神奈川県横浜市出身。読みは、なかむらくまきち。俳句同人雑誌「倦鳥」に寄稿していた「足利尊氏論」が元で生じた混乱を鎮めるため、斎藤実内閣の商工大臣を辞任。家紋は父。中島信行が鬼蔦紋なのに対して、中陰鬼蔦紋。画像は谷中霊園にて撮影。


尾上柴舟 。1876年8月20日 - 1957年1月13日、 詩人、歌人。
岡山県苫田郡津山町出身。本名は尾上八郎。読みは、おのえしばふね。元津山藩士・北郷直衛の三男として生まれ同藩士・尾上動の養子となる。「叙景詩」を刊行し浪漫主義に対抗して叙景詩運動を推し進めた。家紋は三つ蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


植原悦二郎 。1877年5月15日 - 1962年12月2日、 政治家。
長野県南安曇郡明盛村出身。国民主権論を大胆に主張するなど急進的な大正デモクラットとして言論活動を展開した。戦後、日本自由党の結成に参画し第1次吉田茂内閣の国務大臣として入閣する。改造後は内務大臣。家紋は蔦紋。画像は青山霊園にて撮影。


佐藤義亮 。1878年2月18日 - 1951年8月18日、 実業家。
秋田県仙北郡角館町に佐藤為吉の四男として出生。読みは、さとうよしすけ。耐乏生活の末、1896年に新声社(後の新潮社)を立上げて雑誌『新声』を創刊。その後、雑誌『新潮』を創刊した。家紋は丸に蔦紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


松岡映丘 。1881年7月9日 - 1938年3月2日、 日本画家。
兵庫県神崎郡の旧家・松岡家に産まれ。本名は輝夫。読みは、まつおかえいきゅう。兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、民族学者、言語学者の松岡静雄がいた。家紋は大割蔦紋。父親の羽織より。


早川徳次 。1881年10月15日 - 1942年11月29日、 実業家。
山梨県東八代郡御代咲村に生まれる。東京地下鉄道(後、帝都高速度交通営団→東京地下鉄)の創業者。日本に地下鉄を紹介・導入し、「地下鉄の父」と呼ばれる。『帝都物語』にも登場する。家紋は丸に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


土肥原賢二 。1883年8月8日 - 1948年12月23日、 陸軍軍人。
岡山県岡山市出身。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で活躍。「満州のローレンス」と呼ばれていた。終戦後、特に中国からの主張によりA級戦犯として絞首刑となる。最終階級は陸軍大将。家紋は鬼蔦紋。画像は護国寺にて撮影。


長谷川伸 。1884年3月15日 - 1963年6月11日、 小説家、劇作家。
神奈川県横浜市の土木業の家に生れる。「講談倶楽部」や「都新聞」に山野芋作のペンネームで小説を発表。文学学校「新鷹会」を主宰。門下生に山岡荘八平岩弓枝池波正太郎、西村京太郎達がいる。代表作「関の弥太っぺ」「股旅草鞋」等。


小松原道太郎 。1886年7月20日 - 1940年10月6日、 陸軍軍人。
神奈川県出身。海軍工廠技師・小松原五良の長男。読みは、こまつばらみちたろう。歩兵第57連隊長、関東軍司令部付を歴任。ノモンハン事件のきっかけを作る打電をする。最終階級は陸軍中将。家紋は丸に蔦紋。画像は護国寺共葬墓地にて撮影。


谷崎潤一郎 。1886年7月24日 - 1965年7月30日、 小説家。
東京市日本橋区出身。耽美主義とされる作風で『痴人の愛』『細雪』など多くの秀作を残し文豪と称された。『文章読本』で自ら主張するような含蓄のある文体で日本的な美、性や官能を耽美的に描いた。家紋は丸に蔦紋。画像は巣鴨・慈眼寺にて撮影。


秋山徳蔵 。1888年8月30日 - 1974年7月14日、 料理人。
福井県南条郡武生町出身。華族会館、駐日ブラジル公使館、築地精養軒の料理長を歴任。フランスに料理修行後、宮内省大膳職主厨長を務め天皇の料理番と通称される。フランス料理アカデミー名誉会員。家紋は丸に蔦紋。画像は青山霊園にて撮影。


額田六福 。1890年10月2日 - 12月21日、 劇作家。
岡山県勝南郡勝田村出身。本来の名前はむつとみ。読みは、ぬかだ ろっぷく。翻訳家、額田やえ子の父。岡本綺堂の高弟。代表作は『お役者文三江戸捕物帖』『川中島』『世界の花』など。家紋は丸に利休蔦紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


福留繁 。1891年2月1日 - 1971年2月6日、 海軍軍人。
鳥取県西伯郡所子村の農家に生まれた。読みは、ふくとめしげる。太平洋戦争中に軍令部第一部長、連合艦隊参謀長などの要職を務め、太平洋戦争中に、日本海軍の作戦の中枢にあった。最終階級は海軍中将。家紋は菱に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


野田高梧 。1893年11月19日 - 1968年9月23日、 脚本家。
北海道函館市出身。長崎県、愛知県で育つ。小津安二郎とは公私共に良きパートナー。共作という形で『晩春』から『秋刀魚の味』までの全作品を手がける。日本脚本家協会の初代会長を務めた。家紋は八曜に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


松下幸之助 。1894年11月27日 - 1989年4月27日、 実業家。
和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木に、小地主松下政楠・とく枝の三男として出生。松下電気器具製作所を創業。世界的企業・パナソニックに育て上げる。経営の神様と称される。晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。家紋は丸に蔦紋。


大塚敬節 。1900年2月25日 - 1980年10月15日、 医師。
高知県高知市に生まれる。読みは、おおつかよしのり。大塚家は産婦人科・大塚修琴堂医院。昭和期の漢方復権に尽力。東洋医学の発展に貢献した業績により日本医師会より最高優功賞を受賞。家紋は丸に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


松山金嶺 。1900年5月17日 - 1953年12月20日、 撞球技選手。
京都府出身。本名は松山為俊。読みは、まつやまきんれい。大正から昭和にかけて活躍し「名人」と呼ばれた。日本にスリークッションを広めたパイオニアとして知られ「日本スリークッションの父」と称される。家紋は蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


戸坂潤 。1900年9月27日 - 1945年8月9日、 哲学者。
東京市出身。京都帝国大学のマルクス主義研究者。西田左派に属し唯物論研究会を創始。治安維持法によって特別高等警察に捕らえられ栄養失調により、敗戦の直前に長野刑務所で獄死。家紋は丸に知り合わせ三つ蔦。画像は多磨霊園にて撮影。


下山定則 。1901年7月23日 - 1949年7月6日、 鉄道官僚。
兵庫県出身。日本国有鉄道が発足して初代総裁に就任した。総裁として職員約10万人の解雇を決定し第一次整理の3万700人を通告したが直後、消息を絶ち轢死体となって発見された(下山事件)。家紋は丸に蔦紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


柳家三亀松 。1901年9月1日 - 1968年1月20日、 三味線漫談家。
東京の木場の材木職人の家に生まれる。本名は伊藤亀太郎。にお色気の音曲漫談では『アハァ~ん』や『イヤァ~ん』等の女性の鼻の掛かった名文句で売り出す。余りに過激すぎて寄席で禁止令が出る程だった。芸術祭奨励賞を受賞。家紋は中陰鬼蔦紋。


富田常雄 。1904年1月1日 - 1967年10月16日、 小説家。
東京府出身。父は柔道家・富田常次郎。読みは、とみたつねお。『姿三四郎』で流行作家となる。戦後、『刺青』、『面』で直木賞を受賞。また、NHKの連続ドラマ『武蔵坊弁慶』(1986年)の原作。家紋は陰丸輪に蔦紋。画像は谷中・信行寺にて撮影。


黒崎義介 。1905年3月25日 - 1984年8月12日、 童画画家。
長崎県平戸市出身。醤油醸造業を営む黒崎源三郎・フミ夫妻の六男。読みは、くろさきよしすけ。「コドモノクニ」「キンダーブック」などに挿絵を描く。著作には「なかよしどうぶつ」「花のこども」がある。画像は藤沢市大庭台墓園にて撮影。


円地文子 。1905年10月2日 - 1986年11月12日、 小説家。
東京府東京市浅草出身。本名は富美ふみ。劇作家として小山内薫の薫陶を受ける。女性の心理を露にした新時代的小説と源氏物語の現代語訳に代表される古典文学の両輪により高く評価され文化勲章を受章するまでに至った。画像は谷中霊園にて撮影。


愛知揆一 。1907年10月10日 - 1973年11月23日、 政治家。
宮城県仙台市出身。祖父・信元は徳川慶喜の小姓であった。法務大臣、文部大臣及び科学技術庁長官、内閣官房長官、外務大臣、大蔵大臣を歴任。環境庁長官、防衛庁長官の愛知和男は女婿で後継者。家紋は七宝に蔦紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


長谷川一夫 。1908年2月27日 - 1984年4月6日、 俳優。
京都伏見出身。芝居小屋の子として生まれる。戦前、戦後の長きに渡って日本を代表する二枚目役者として映画界に君臨。代表作は『雪之丞変化』『沓掛時次郎』『忠臣蔵』『銭形平次シリーズ』など。家紋は丸に鬼蔦紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


ライオン野口 。1908年6月2日 - 1961年5月8日、 プロボクサー。
東京市本郷区根津出身。日本ウェルター級チャンピオン。本名は野口進。日本フライ級チャンピオンの野口恭は次男、キックボクシング創始者の野口修は長男。引退後は愛国社の同人となり、民政党総裁・若槻礼次郎を襲撃した。家紋は丸に鬼蔦紋。


佐分利信 。1909年2月12日 - 1982年9月22日)、 俳優。
北海道空知郡歌志内村出身。炭鉱夫の家に生まれる。上原謙、佐野周二と松竹三羽烏を結成し三人で主演した「婚約三羽烏」が大ヒット。代表出演作は「お茶漬けの味」「あゝ青春」「華麗なる一族」など。家紋は丸に蔦紋。画像は小平霊園にて撮影。


麻生三郎 。1913年3月23日 - 2000年4月5日、 画家。
東京都中央区に生まれる。渡欧、独立美術協会入選後、新人画会を結成。戦後 自由美術協会に参加。武蔵野美術学校教授。日本国際美術展優秀賞、芸術選奨文部大臣賞、自由美術協会退会後無所属。家紋は丸に蔦紋。画像は、春秋苑の墓所にて撮影。


芝木好子 。1914年5月7日 - 1991年8月25日、 小説家。
東京・浅草出身。経済学者の大島清と結婚し本姓を芝木から大島へと変える。『青果の市』で第14回芥川賞受賞。戦後に書いた『湯葉』『隅田川』『丸の内八号館』の3作品は自伝三部作と言われている。家紋は丸に蔦紋。画像は青山霊園にて撮影。


殿山泰司 。1915年10月17日 - 1989年4月30日、 俳優。
兵庫県神戸市出身。父親は広島県生口島出身。娯楽映画、教育映画、ポルノに至るまで名脇役として活躍。代表出演作品は『裸の島』『愛のコリーダ』『キューポラのある街』など。家紋は折敷に蔦紋。画像は青山長谷寺の父親の墓所にて撮影。


串田孫一 。1915年11月12日 - 2005年7月8日、 詩人、随筆家。
東京出身。東京帝国大学哲学科卒。文芸誌『アルプ』を創刊、終刊するまで責任編集者を務める。FMラジオ番組「音楽の絵本」でパーソナリティを務めた。主著は詩集『羊飼の時計』『山のパンセ』。家紋は丸に蔦紋。画像は谷中霊園にて撮影。


森光子 。1920年5月9日 - 2012年11月10日、 女優、歌手。
京都府京都市出身。本名は村上美津。読みは、もりみつこ。芸術座公演『放浪記』は生涯通算で2017回を数える主演代表作。戦後を代表する女優の一人として、国民栄誉賞、紫綬褒章、文化勲章などを受ける。家紋は鬼蔦紋。墓所の写真にて確認。


竹下登 。1924年2月26日 - 2000年6月19日、 政治家。
島根県飯石郡掛合村に竹下勇造・唯子の長男として生まれる。生家の竹下家は江戸時代には庄屋を務め幕末から現在まで代々造り酒屋を営む素封家。内閣総理大臣(第74代)、衆議院議員(14期)を務めた。ミュージシャンのDAIGOが孫にあたる。


吉行淳之介 。1924年4月13日 - 1994年7月26日、 小説家。
岡山県岡山市出身。父・吉行エイスケ(詩人)、母・あぐり(美容師)、妹・和子(女優)。『驟雨』で芥川賞を受賞し遠藤周作、安岡章太郎達と第三の新人と言われる。代表作は『驟雨』『原色の街』『暗室』等。本妻の他にも複数の愛人がいた。


谷村昌彦 。1927年2月25日 - 2000年8月6日、 俳優。
山形県山形市出身。本名は武田忠。浅草六区で俳優としての活動を始める。田舎訛りのキャラクターで活躍。日本喜劇人協会の理事も務めた。代表出演作は『どですかでん』『人生劇場』『必殺仕掛人』。家紋は蔦紋。画像は南池袋・玄静寺の墓所。


阿佐田哲也 。1929年3月28日 - 1989年4月10日、 小説家、雀士。
東京都新宿区出身。本名は色川武大。色川名義の作品も多かった。代表作は「怪しい来客簿」「離婚」(直木賞受賞作品)「狂人日記」「麻雀放浪記」「次郎長放浪記」。雀聖と呼ばれた。家紋は中陰対い蔦蝶。画像は谷中墓地にて撮影。


小松左京 。1931年1月28日 - 2011年7月26日、 小説家。
大阪府出身。本名は、小松実。星新一筒井康隆と共に「SF御三家」と呼ばれる、日本SF界を代表するSF作家。代表作は、『復活の日』『日本沈没』『さよならジュピター』等。家紋は丸に蔦紋。大阪府箕面市の瀧安寺の墓所の写真より判断。


いかりや長介 。1931年11月1日 - 2004年3月20日、 芸人、俳優。
東京市本所区出身。本名は碇矢長一。父・碇矢一郎は築地の魚河岸で運搬の仕事に従事していた。『8時だョ!全員集合』『ドリフ大爆笑』で一世を風靡。『踊る大捜査線』の和久平八郎役で俳優としても認められる。画像は蓮昌寺にて撮影。


江藤淳 。1932年12月25日 - 1999年7月21日、 文芸評論家。
東京府豊多摩郡出身。20代より文芸時評をはじめ、特に日本の近代的自我に対する批判を描き出した『奴隷の思想を排す』は大きな影響を与えた。代表作は『夏目漱石』『自由と禁忌』。家紋は蔦紋。叔父・江頭豊氏の葬儀の祭壇の紋より判断。


池内淳子 。1933年11月4日 - 2010年9月26日、 女優。
東京市本所区東両国出身。久保菜穂子、三ツ矢歌子と共に「新東宝現代劇の女優三羽烏」として脚光を浴びる。1960年代から1980年代まで、テレビドラマの女王として君臨した。代表出演作は『新妻鏡』『日日の背信』『東芝 日曜劇場』等。家紋は蔦紋。


児玉清 。1933年12月26日 - 2011年5月16日、 俳優、司会者。
東京市滝野川区(現・東京都北区)出身。本名・北川清。『パネルクイズ アタック25』の司会者となり、30年以上にわたり司会を行っていた。俳優としては「ありがとう」「HERO」「龍馬伝」などに出演。家紋は葬儀時の祭壇より蔦紋と判断。


黒川紀章 。1934年4月8日 - 2007年10月12日、 建築家、思想家。
愛知県海部郡蟹江町出身。夫人は女優の若尾文子。弟は建築家の黒川雅之。代表作は『中銀カプセルタワービル』『広島市現代美術館』等。東京都知事選挙、参院選に出馬するも落選。家紋は丸に蔦紋(暫定判断)。梅窓院の黒川家の墓所にて撮影。


野村秋介 。1935年2月14日 - 1993年10月20日、 右翼活動家。
東京出身。若い頃は出口辰夫の舎弟。五・一五事件の三上卓の影響により右翼となる。戦後新右翼の代表的な論客として憂国道志会を結成。河野一郎邸焼き討ち事件で12年、経団連会館襲撃事件で6年服役。朝日新聞東京本社の社長室にて拳銃自決。


阿久悠 。1937年2月7日 - 2007年8月1日、 作詞家。
兵庫県津名郡出身。本名は、深田公之。読みは、あくゆう。生涯、作詞した曲は5,000曲以上。ヒット曲は、「また逢う日まで」「北の宿から」「勝手にしやがれ」「UFO」 「青春時代」など多数。小説家としても『瀬戸内少年野球団』などを手掛けた。


林家木久扇 。1937年10月19日 - 、 落語家。
東京市日本橋区出身。東京大空襲で実家の雑貨問屋が全焼し、廃業。 1960年、落語界入り。「笑点」のレギュラーとなる。現在のメンバーで一番連続出演期間が長い。「全国ラーメン党」を結成し、木久蔵ラーメンを開店。家紋は光琳の蔭蔦紋。


石ノ森章太郎 。1938年1月25日 - 1998年1月28日、 漫画家。
宮城県登米郡石森町出身。代表作は『サイボーグ009』『HOTEL』『仮面ライダー』など。500巻770作品におよぶ個人全集『石ノ森章太郎萬画大全集』は一人の著者による最も多い漫画出版の記録としてギネス認定された。画像は祥雲寺にて撮影。


ロッキー青木 。1938年10月9日 - 2008年7月10日、 実業家。
東京都中野区出身。父親はBENIHANA創業者の青木湯之助(画像家紋は湯之助氏の墓所)。青木家は江戸時代は紀州徳川直参の旗本の旧家。アメリカ合衆国で鉄板焼き一大レストランチェーン「BENIHANA」を成功させ、アメリカン・ドリームを実現。


琴櫻傑將 。1940年11月26日 - 2007年8月14日、 大相撲力士。
鳥取県東伯郡倉吉町出身。本名は鎌谷紀雄。佐渡ヶ嶽部屋所属。のど輪で一気に攻める押し相撲を得意とし、「猛牛」との異名を取った。第53代横綱。幕内成績:553勝345敗77休 勝率.616。幕内最高優勝:5回。葬儀時の画像より蔦紋と判断。


稲川淳二 。1947年8月21日 - 、 タレント。
東京都渋谷区恵比寿出身。本名は稲川良彦。読みは、いながわじゅんじ。テレビ番組のリポーターやリアクション芸人、霊感タレントとして活動。家紋は丸に蔦紋。稲川淳二グッズの「手ぬぐい2012」に稲川家家紋として、描かれている。


輪島大士 。1948年1月11日 - 、 大相撲力士。
石川県七尾市出身。本名は輪島博。花籠部屋所属。全日本プロレス所属の元プロレスラー。第54代横綱。日大時代、学生横綱など14個のタイトルを獲得し入門。初土俵から3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ史上初の学士横綱となる。


笹野高史 。1948年6月22日 - 、 俳優。
兵庫県津名郡一宮町出身。造り酒屋に四男であった。山田監督の『武士の一分』で第30回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。代表出演作は『母べえ』『おくりびと』『天地人』等。2009年暮れのMacCafeのCMの紋付姿より鬼蔦紋と判断。


中川昭一 。1953年7月19日 ‐ 2009年10月3日、 政治家。
東京都渋谷区出身。本籍地は北海道広尾郡広尾町。父親は政治家の中川一郎。農水大臣、経産大臣、財務大臣を歴任。また、自民党内では党三役では自民党政務調査会長を務めた。家紋は丸に蔦。画像は新宿・諦聴寺の中川家の墓所にて撮影。


春風亭小朝 。1955年3月6日 - 、 落語家、俳優。
東京都北区出身。本名は花岡宏行。初代・林家三平の次女泰葉の元夫。キャッチフレーズは『横丁の若様』。1980年に真打昇進。36人抜きで話題となる。『篤姫』(NHK大河ドラマ)では近衛忠煕役として出演した。家紋は光琳の蔭蔦。


水島広子 。1968年3月21日 - 、 精神科医、政治家。
東京都出身。読みは、みずしまひろこ。2000年の総選挙で、民主党所属として栃木1区から出馬し、当選。選択的夫婦別姓制度導入のための活動を行う。政界引退後、総務省顧問も務めた。家紋は丸に鬼蔦紋。画像は多磨霊園の水島家の墓所にて撮影。


谷佳知 。1973年2月9日 - 、 プロ野球選手。
大阪府東大阪市出身。2003年のオリックス時代にはパ・リーグ最多安打のタイトルを獲得。2007年により読売ジャイアンツに移籍。夫人は、元柔道選手・民主党参議院議員の谷亮子。家紋は丸に蔦紋。結婚式披露宴時の紋付より丸に蔦紋と判断。


一青窈 。1976年9月20日 - 、 歌手。
台湾出身。父は台湾人、母は日本人(石川県出身)。中国語の漢字名は顏窈(イエン・ヤオ)。「顏」は父親の姓。「一青」は母親の姓。「もらい泣き」でブレイク。代表作「もらい泣き」「ハナミズキ」「はじめて」等。母方(一青姓)の家紋は蔦紋。


内田慶 。1981年2月11日 - 2008年9月11日、 競輪選手。
東京都中央区出身。読みは、うちだけい。2003年に全日本プロ選手権自転車競技大会の4km個人追い抜きで優勝。以後同大会同種目において2008年まで6連覇を達成したがレース中の事故が原因で死亡。通算戦績421戦82勝、優勝17回。家紋は蔦紋。


琴欧洲勝紀 。1983年2月19日 - 、 大相撲力士。
ブルガリア出身。佐渡ヶ嶽部屋所属の現役力士(2014年1月現在)。最高位は大関。身長202cm、体重155kg。長身と懐の深さ、抜群の格闘技センスで番付を上がり、初土俵から所要11場所で入幕。家紋の丸に蔦紋は先代の佐渡ケ獄親方の紋を継承。


有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)

まさむね





桐紋 -日本を象徴する紋- 豊臣秀吉、板垣退助、芥川龍之介...

鎌倉時代後期より、皇室の紋所として使用される。五三の桐、五七の桐がある。
その後、皇室から功のあった臣下に下賜され、さらに、家来に下賜されることによって広まる。

有名なところでは、後醍醐天皇から足利尊氏へ、足利義輝から織田信長へ、正親町天皇から豊臣秀吉へ下賜されている。

一般に織田信長と言えば、織田木瓜、揚羽蝶が有名であるが、長興寺にある一番有名な肖像画には五三桐の紋付を着ている信長が描かれている。
ちなみに、木瓜紋は、織田氏同様、越前の守護・斯波氏の家臣であった朝倉氏も使用しているが、両氏の関係は不明だ。
元々、織田氏は藤原氏からの流れと言われていたが、信長が天下を意識し始めた頃から、その出自を平氏と創作。
その際に、平氏の代表紋である揚羽蝶も使用したのではないだろうか。

信長はリアリストであったので、出自や家紋など、出世のために使えるものは何でも使おうとしたのであろう。
一方、秀吉は、己の出自にコンプレックスを持っていたため、桐紋を下賜されると、それを最大限に活用した。
寺社などの建物、大判・小判など、人目に触れるところにも桐紋を入れさせ、価値を高めようとしたのである。

特に、太閤紋というオリジナルデザイン紋を作らせ、日用品や調度品にも入れさせたという。

その後、徳川家康は朝廷からの桐紋下賜を断り、葵紋にこだわった。この紋に、既に秀吉のイメージが染み付いていたからであろう。
江戸時代は、葵紋以外の家紋に関する規制がなかったため、庶民の間にもこの紋は広まる。

明治時代になると、日本国政府の慣例的な紋章となり、例えば、パスポートのデザインや、総理大臣、外務大臣の演台に取り付けられるプレートに使われている。
昨年、放送された木村拓也主演の総理大臣ドラマ「CHANGE」のオープニングにも桐紋旗がはためいていたので覚えていらっしゃる方もいるのではないか。
最近は、形がオーソドックスで人気があるため、貸衣装屋の紋付では一番品揃えがあるらしい。
全国の分布では、西日本に多い。広島県では一番多い家紋である。

また、有名人でこの紋を使用する人も多い。



豊臣秀吉 。1537年3月17日 - 1598年9月18日、 武将・戦国大名。
尾張国出身。百姓の生まれ。はじめ木下氏を名字とし・羽柴氏に改める。織田信長に仕え、数々の戦いで功を挙げ、出世を重ねる。信長死後、日本全土を制圧。刀狩検地、朝鮮出兵を行う。桐紋を信長、朝廷から下賜される。太閤桐はオリジナル。


吉良義央 。1641年10月5日 - 1703年1月31日、 高家肝煎。
江戸鍛冶橋出身。高家旗本・吉良義冬と酒井忠勝の姪の嫡男。読みは、きらよしひさ。吉良上野介と呼ばれることが多い。元禄赤穂事件の一方の当事者。創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる。家紋は丸に二つ引・五三桐。


本居宣長 。1730年6月21日 - 1801年11月5日、 国学者、医師。
伊勢国松坂出身。木綿商である小津家の次男。(小津安二郎は一族の末裔)。少年時代から習字を習い、漢籍も学んだ。主著は、『古事記伝』『源氏物語年紀考』『玉勝間』等。画像は谷中霊園の本居家の墓所にて撮影の中蔭五三桐紋。


円山応挙 。1733年6月12日 - 1795年8月31日、 絵師。
丹波国桑田郡穴太村出身。農家の次男。読みは、まるやまおうきょ。近世の日本の画家のなかでも際立って写生を重視した人物として知られている。代表作は『大乗寺障壁画』『写生図鑑』『雪松図屏風』等。画像は大乗寺の彫像の五七の桐紋。


鹿津部真顔 。1753年 - 1829年7月6日、 狂歌師・戯作者。
通称は北川嘉兵衛。読みは、しかつべのまがお。家業は江戸数寄屋橋河岸の汁粉屋。狂歌の四天王の一人で狂歌師を職業化し狂歌という名称を俳諧歌と改めた。代表作は狂歌撰集「類題俳諧歌集」等。家紋は五三桐紋。墓所は小石川の光円寺。


式亭三馬 。1776年 - 1822年2月27日、 戯作者、浮世絵師。
江戸浅草出身。本名は菊地久徳。読みは、しきていさんば。平賀源内に憧れ当時の人気戯作者・山東京伝に多大な影響を受けた。戯作のモデルとした人足とのトラブルで手鎖の処分を受けた。代表作は「浮世風呂」「浮世床」など。家紋は五三桐。


幾島 。1808年7月11日 - 1870年5月26日、 女中。
薩摩藩出身。父は御側用人の朝倉孫十郎景矩。読みは、いくしま。江戸幕府13代将軍徳川家定の正室篤姫(天璋院)付きの御年寄となり江戸城と薩摩藩との情報連絡役として活動。大河ドラマ「篤姫」で松坂慶子(画像)が演じて有名になる。


海江田信義 。1832年3月13 - 1906年10月27日、 武士、政治家。
薩摩藩出身。藩士・有村仁左衛門兼善の長男。生麦事件を起こす。戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀として活動するが大村益次郎と事あるごとに対立した。維新後は元老院議官、貴族院議員等を務める。長女は東郷平八郎に嫁ぐ。画像は青山霊園にて。


金原明善 。1832年7月4日 - 1923年1月14日、 実業家。
遠江国長上郡安間村(現浜松市東区安間町)出身。読みは、きんばらめいぜん。天竜川の治水、植林事業・北海道の開拓・植林事業(金原農場の開拓)など近代日本の発展に活躍した。家紋は五三桐(五七桐?)。残された肖像写真より判断。


板垣退助 。1837年5月21日 - 1919年7月16日、 土佐藩士、政治家。
高知城下出身。土佐藩上士・乾栄六正成の長男。戊辰戦争では東山道先鋒総督府参謀として活躍。明治以後は自由民権運動の主導者となる。50銭、100円札にその肖像が用いられた。三女は写真家の小川一真の妻。家紋は土佐桐紋。画像は品川神社にて。


跡見花蹊 。1840年5月10日 - 1926年1月10日、 教育者。
摂津国西成郡木津村出身。読みは、あとみかけい。東京・神田に跡見女学校を開校。これが後の跡見学園となる。書家としても活躍。跡見流といわれる書風を築き上げた。跡見家の家紋は重ね釘抜紋。文京区・光円寺の墓所には乱れ桐紋との合成紋がある。


香川敬三 。1841年12月27日 - 1915年3月18日、 勤王志士。
水戸藩出身。郷士蓮田重右衛門孝定・袖の三男。攘夷の志士と交わり中岡慎太郎率いる陸援隊の副隊長格となる。戊辰戦争で官軍として活躍。維新後は枢密顧問官、皇太后宮大夫など宮内官僚として要職を歴任。家紋は五七桐紋。青山霊園の墓所にて撮影。


小沢武雄 。1844年12月19日 - 1926年1月29日、 陸軍軍人。
小倉藩出身。藩士・小沢義房の長男。第二次長州征伐において軍議役兼陣場奉行を勤める。西南戦争に征討総督本営参謀として出征。最終階級は陸軍中将。貴族院議員に在任し日本赤十字社副社長も勤めた。家紋は五七鬼桐紋。画像は青山霊園にて。


三好退蔵 。1845年6月16日 - 1908年8月20日、 検事総長。
日向国出身。高鍋藩士の家に生まれる。読みは、みよしたいぞう。伊藤博文の憲法調査に同行してドイツなどを視察。大津事件では、大逆罪を外国の皇族への傷害についても適用すべきだと主張した。退官後は弁護士となる。画像は青山霊園にて撮影。


橋本左内 。1845年7月24日 - 1909年2月18日、 医師、尊王家。
越前国出身。河内源氏の名門・足利氏の連枝・桃井氏(もものいし)の後胤。一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開。井伊直弼が発令した安政の大獄のために、小塚原刑場にて斬首された。画像は、青山の長谷寺にある弟・橋本綱常の墓にて撮影。


中村覚 。1854年3月18日 - 1925年1月29日、 陸軍軍人。
彦根藩出身。藩士、中村千太夫の二男。読みは、なかむらさとる。西南戦争、日清戦争、日露戦争に出征。東京衛戍総督など陸軍の要職や、関東都督、侍従武官長を歴任した。最終階級は陸軍大将。家紋は五三桐。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


賀古鶴所 。1855年2月18日 - 1931年1月1日、 医師、歌人。
遠江国の出身。父は、浜松藩の藩医賀古公斎。読みはかこつると。日本陸軍軍医で日本に耳鼻咽喉科学をもたらした。歌人として常盤会を開催する。森鴎外の『舞姫』に登場する相澤謙吉は賀古がモデルと言われている。家紋は五三桐紋


頭山満 。1855年5月27日 - 1944年10月5日、 国家主義者。
筑前国出身。読みは、とうやまみつる。玄洋社の総帥として孫文、蒋介石、ラス・ビハリ・ボースら日本に亡命した革命運動家に援助を行う。アジア主義の立場で活動し日韓併合の際、奔走するが植民地化の状態には幻滅したという。画像は青山霊園にて。


波多野伝三郎 。1856年9月20日 - 1907年2月13日、 政治家。
越後国長岡藩出身。東京横浜毎日新聞に入社。立憲改進党結成とともに入党。衆院議員選挙に当選し第2次松方内閣時代に福井県知事就任したが、当時自由党が大勢を占めた県議会に不信任案を可決される。家紋は丸に五三紋。画像は青山霊園にて撮影。


池上四郎 。1857年5月11日 - 1929年4月4日、 警察官僚、政治家。
陸奥国耶麻郡出身。会津藩士池上武輔の四男。11歳の時、白虎隊少年隊員として会津若松城に篭城した。維新後は警視局に入局。千葉県警察部長、兵庫県警察部長を務めた。後に大阪市長、朝鮮総督府政務総監も務めた。家紋は一引に五三桐紋。


福本日南 。1857年6月14日 - 1921年9月2日、 ジャーナリスト。
福岡出身。福岡藩士福本泰風の長男。本名は福本誠。読みは、ふくもとにちなん。陸羯南古島一雄らと新聞『日本』を創刊した。また、主著の『元禄快挙録』で現在の忠臣蔵のスタイル・評価を確立する。家紋は五三桐紋。画像は青山霊園にて撮影。


村上鬼城 。1865年6月10日 - 1938年9月17日、 俳人。
江戸出身。鳥取藩士・小原平之進の長男。母方の村上家の養子となる。本名は村上荘太郎。読みは、むらかみきじょう。司法書士の傍ら『ホトトギス』の同人として活躍。心耳の詠み人と呼ばれる。家紋は五三桐紋。画像は高崎市・龍広寺にて撮影。


望月圭介 。1867年4月1日 - 1941年1月1日、 政治家。
広島県大崎上島出身。生家は廻船問屋。衆議院議員に13回連続当選。初当選時には自由党、後に立憲政友会に所属し、原敬内閣時に幹事長に就任。逓信大臣、内務大臣を歴任。門下より池田勇人宮澤喜一という二人の総理大臣を輩出。画像は多磨霊園。


岸清一 。1867年8月3日 - 1933年10月29日、 IOC委員。
出雲国松江雑賀町出身。藩の下級武士岸伴平の次男。法曹界の重鎮であり特に民事訴訟法の権威であった。国際オリンピック委員会委員に就任し死ぬまで務めた。東京都渋谷区の岸記念体育会館にその名を残す。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


麻田駒之助 。1869年10月14日 - 1948年11月24日、 編集者。
京都出身。中央公論社初代社長。西本願寺内局に勤務し『反省雑誌』の編集に携わり後に『中央公論』と改称。また築地本願寺の財政面に参与する『勘定』として尽力。旧邸は登録文化財となっている。家紋は五七桐紋。画像は本願寺・和田堀廟所にて撮影。


平山周 。1870年3月 - 1940年4月21日、 アジア主義者。
筑前国夜須郡出身。宮崎滔天の同志としてアジアの反植民地民族運動を支援した。戊戌政変に際しては梁啓超に同行して彼の日本亡命を助ける。南京国民政府から陸海空軍総司令部顧問に迎えられる。家紋は五三桐紋。画像は多磨霊園にて撮影。


下村観山 。1873年4月10日 - 1930年5月10日、 日本画家。
和歌山県和歌山市出身。狩野芳崖橋本雅邦らに師事する。東京美術学校を第一期生として卒業後、同校で教授となる。岡倉天心が野に下った時に行動を共にし横山大観菱田春草と共に日本美術院を創設。家紋は五七桐。画像は多磨霊園にて撮影。


桐生悠々 。1873年5月20日 - 1941年9月10日、 評論家。
石川県出身。金沢市にて、貧しい旧加賀藩士の三男として出生。本名は政次。読みは、きりゅうゆうゆう。信濃毎日新聞主筆。徳田秋声と親友。明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論をくり広げた。家紋は五七桐紋。画像は多磨霊園にて撮影。


岡麓 。1877年3月3日 - 1951年9月7日、 歌人、書家。
東京市出身。本名は三郎。名前の読みは、おかふもと。正岡子規に入門。「馬酔木」編集同人、『アララギ』で歌を発表。代表歌集は『庭苔』『朝雲』『小笹生』。また書家としても多くの書を残す。家紋は五七の桐紋。画像は文京区高林寺にて撮影。


多門二郎 。1878年9月10日 - 1934年2月15日、 陸軍軍人。
静岡県出身。医師・多門信夫の二男として出生。読みは、たもんじろう。義兄は松川敏胤(陸軍大将)。第2師団長に親補され満州に駐屯、満州事変が勃発し諸作戦に従軍した。最終階級は陸軍中将。家紋は五三桐紋。画像は多磨霊園にて撮影。


長谷川時雨 。1879年10月1日 - 1941年8月22日、 小説家。
東京市日本橋区出身。父は弁護士。本名は長谷川康子。読みは、はせがわしぐれ。坪内逍遥に弟子入りし『女人藝術』を創刊し宮本百合子佐多稲子などの女性作家の発表場所を確保。代表作は『旧聞日本橋』『日本美人伝』。画像は総持寺にて。


安田善三郎 。1880年10月10日 - 1930年1月9日、 安田銀行総裁。
宇和島国出身。旧名は伊臣貞太郎。安田財閥の祖・安田善次郎の婿養子となる。元々、安田家の家紋は丸に木瓜であったが善次郎の代に釜敷梅鉢紋に変更。ただし、多磨霊園の善三郎の墓所にはこの桐紋がある。前衛芸術家オノ・ヨーコの祖父。


五島慶太 。1882年4月18日 - 1959年8月14日、 日本の実業家。
長野県小県郡出身。東急電鉄の事実上の創業者。会社買収の強引さから強盗慶太の異名をとる。鉄道経営者として阪急の小林一三と並び西の小林・東の五島と称された。死後、五島美術館が創立された。政治家・曽祢益の岳父。画像は九品仏浄真寺。


高村光太郎 。1883年3月13日 - 1956年4月2日、 彫刻家、詩人。
東京市出身。読みは、たかむらこうたろう。妻・智恵子の実家が破産し、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり後に統合失調症を発病。 智恵子と死別した後、詩集『智恵子抄』を出版。家紋は変り片喰桐紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


山下奉文 。1885年11月8日 - 1946年2月23日、 陸軍軍人。
高知県長岡郡大杉村出身。読みは、やましたともゆき。太平洋戦争の劈頭において第25軍司令官としてマレー作戦を指揮してシンガポールを占領。「マレーの虎」と呼ばれた。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に五七の桐紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


藤田嗣治 。1886年11月27日 - 1968年1月29日、 洋画家。
東京都出身。読みは、ふじたつぐはる。日本画の技法を油彩画に取り入れる。フランスにおいて最も有名な日本人画家。エコール・ド・パリの代表的な画家でもある。猫と女を得意な画題とした。家紋の五三桐紋は多磨霊園の兄嗣雄の墓所にて撮影。


大川周明 。1886年12月6日 - 1957年12月24日、 思想家。
山形県酒田市出身。東亜経済調査局に勤務。その思想は近代日本の西洋化に対決し精神面では日本主義内政面では社会主義、外交面ではアジア主義を唱道。終戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴され東京裁判に出廷。画像は滝泉寺にて撮影。


白鳥敏夫 。1887年6月8日 - 1949年6月3日、 外交官、政治家。
千葉県出身。東洋史学者・白鳥庫吉、外務大臣・石井菊次郎は叔父。満州事変当時、国際的批判に対抗。また、日独伊三国同盟の推進を図る。終戦後、東京裁判にて終身禁固刑の判決を受ける。家紋は五三桐紋。家紋画像は雑司ヶ谷霊園の庫吉の墓所にて。


山本有三 。1887年7月27日 - 1974年1月1日、 小説家。
栃木県栃木市出身。呉服商の子。一高時代に同級だった近衛文麿とは親友。代表作は『女の一生』『真実一路』『路傍の石』。戦後、貴族院勅選議員、参議院議員などを歴任。「新潮日本文学アルバム」掲載のお見合い写真より家紋は五三桐紋と判断。


夢野久作 。1889年1月4日 - 1936年3月11日、 小説家。
福岡県福岡市出身。父は玄洋社の杉山茂丸。日本探偵小説三大奇書の一つ『ドグラ・マグラ』は名高い。他の代表作は『少女地獄』『人間腸詰』等。御子孫・杉山満丸氏のfacebookのコメントにより、杉山家の家紋は乱れ桐紋、裏紋は日足紋。


太田耕造 。1889年12月15日 - 1981年11月26日、 教育者。
福島県出身。読みは、おおたこうぞう。興亜専門学校(後の亜細亜大学)設立の中心人物の一人で後に学長。鈴木貫太郎内閣で文部大臣となる。終戦後、戦犯容疑に問われ巣鴨刑務所拘留後、不起訴となり出所。家紋は五三桐紋。画像は多磨霊園にて撮影。


吉岡安直 。1890年11月1日 - 1947年11月30日、 陸軍軍人
大分県出身。農業・川内清作の五男としてに生れ貿易商・吉岡又吉の養子となる。読みは、よしおかやすなお。満州国で皇帝溥儀の御用掛を務め、溥儀を意のままに操ろうと企む黒幕的存在の一人と言われた。家紋は五三紋。画像は多磨霊園にて撮影。


芥川龍之介 。1892年3月1日 - 1927年7月24日、 小説家。
東京市京橋区出身。「羅生門」「鼻」「芋粥」「歯車」等代表作多数。友人にあてた遺書に「唯ぼんやりした不安」との理由を残し服毒自殺。死後、芥川の業績を記念して菊池寛が創設した芥川賞は直木賞と並ぶ文学賞となる。画像は巣鴨・慈眼寺にて撮影。


左卜全 。1894年2月20日 - 1971年5月26日、 俳優。
埼玉県入間郡小手指村出身。小学校校長の次男。本名は三ヶ島一郎。三ヶ島家は代々、氷川神社の神官。読みは、ひだりぼくぜん。とぼけた脇役として活躍。代表出演作「七人の侍」「三匹の侍」等多数。「老人と子供のポルカ」が大ヒット。


宮城道雄 。1894年4月7日 - 1956年6月25日、 箏曲家。
兵庫県神戸市出身。クラシック音楽の影響を受けた作曲を行う。「春の海」が代表曲。作家の内田百閒とは親友同士。交友も深く、双方の随筆でたびたび言及。十七弦の発明者としても知られる。家紋は五三桐紋。画像は谷中霊園の墓所の門にて撮影。


秋葉安太郎 。1895年 - 1969年、 教育家、文学研究者。
千葉県出身。文学博士。日本大学名誉教授。大鏡の研究者として知られる。主著は『国語概説』『大鏡本文』『大鏡の研究』など。日本大学学長となり日本大学三島キャンパス開設に尽力。家紋は丸に五三桐。画像は家紋、肖像ともに多磨霊園にて撮影。


里見甫 。1896年1月22日 - 1965年3月21日、 実業家。
秋田県山本郡能代町出身。読みは、さとみはじめ。父親は元海軍軍医の里見乙三郎。中国の地下組織や関東軍との太い人脈を生かしアヘン取引組織を作り阿片王と呼ばれた。A級戦犯容疑者として逮捕されるが、後に釈放される。家紋は松葉菱に五三桐紋。


東郷青児 。1897年4月28日 - 1978年4月25日、 日本の洋画家。
鹿児島市出身。本名は東郷鉄春。独特な女性像で有名。東京・西新宿に東郷青児美術館がある。この桐紋は、桐の一部をデフォルメしたもので、おそらく東郷青児氏がオリジナルで作ったもの。「東郷桐」と言われている。画像は雑司ヶ谷霊園。


清水かつら 。1898年7月1日 - 1951年7月4日、 男性詩人。
東京市深川出身。本名は桂。読みは、しみずかつら。中西屋書店で「小学画報」の編集をする傍ら童謡の作詞を行う。代表作は『靴が鳴る』『叱られて』『あした』『みどりのそよ風』など。家紋は五七の桐紋。画像は文京区吉祥寺にて撮影。


杉原千畝 。1900年1月1日 - 1986年7月31日、 外交官。
岐阜県加茂郡八百津町出身。ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。外務省からの訓令に反して、大量のビザを発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。家紋は五三桐紋。


二村定一 。1900年6月13日 - 1948年9月12日、 歌手・俳優。
山口県下関市の出身。本名・林貞一。読みは、ふたむらていいち。榎本健一と二人座長で立ち上げたピエル・ブリアントが浅草の人気を独占。「どんぐり頓兵衛」「ちゃっきり金太」等の映画がヒット。歌手としても「君恋し」「浪花小唄」等を残す。


北村小松 。1901年1月4日 - 1964年4月27日、 小説家、脚本家。
青森県三戸郡八戸町出身。松竹キネマ蒲田研究所に入社し『マダムと女房』など多くの映画シナリオを執筆。戦後はユーモア小説作家に転じ「人物のゐる街の風景」「燃ゆる大空」などを著す。小松左京が、SF作家を志すきっかけになった小説家。


岡田時彦 。1903年2月18日 - 1934年1月16日、 俳優。
東京神田区宮本町出身。本名は高橋英一。大正・昭和初期の俳優。無声映画時代を代表する二枚目俳優。溝口健二監督の『紙人形春の囁き』や小津安二郎監督の『東京の合唱』などに出演している。娘は女優の岡田茉莉子。家紋は丸に五三桐紋。


玉錦三右エ門 。1903年12月15日 - 1938年12月4日、 大相撲力士。
高知県高知市出身。農家の長男。本名は西ノ内彌寿喜。第32代横綱。昭和初期に一時代を築く。308勝92敗3痛分17休。優勝回数は9回。引退後、二所ノ関部屋を師匠として大部屋へのしあげた。家紋は五三紋。画像は吾妻橋・清龍寺の西ノ内家墓所にて撮影。


林芙美子 。1903年12月31日 - 1951年6月28日、 小説家。
山口県下関市出身。行商を営んでいた宮田麻太郎と林キクの間の婚外子。本名はフミ子。「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の句は有名。代表作は『放浪記』『めし』など。家紋は丸に五三桐。画像は中野区・万昌院功運寺にて撮影。


関屋敏子 。1904年3月12日 - 1941年11月23日、 声楽家、作曲家。
東京市小石川区出身。父・関屋祐之介(実業家)、母・愛子の娘。読みは、せきやとしこ。父方の家系は二本松藩の御殿医。オペラ「お夏狂乱」、歌曲「野いばら」「浜唄」などを作曲した。後年、ゾルゲ事件関与の容疑をかけられた。家紋は五七桐紋。


新田新作 。1904年4月1日 - 1956年6月25日、 実業家。
福井県出身。読みは、にったしんさく。終戦直後、土木作業請負でのし上がる。国粋会系「新田組」組長。新田建設社長。明治座の社長。力道山の後援者として日本プロレスリング協会を設立し理事長となる。家紋は五三桐紋。画像は寛永寺霊園にて撮影。


高村象平 。1905年8月2日 - 1989年5月11日、 経済史学者。
東京市本所区出身。読みは、たかむらしょうへい。ハンザの研究でドイツ留学。経済人類学研究者、ハンザ史研究者として著名。慶應義塾塾長、中央教育審議会会長、日本学士院会員、交詢社理事長等を歴任。家紋は五七桐紋。画像は多磨霊園にて撮影。


清水幾太郎 。1907年7月9日 - 1988年8月10日、 社会学者。
東京市日本橋区出身。竹屋の息子。戦後の平和運動において大きな役割を果たした。主著に『社會學批判序説』『社会学入門』『倫理学ノート』等。学習院大学教授時代に在学していた皇太子時代の明仁親王に単位を与えなかったという。家紋は五三桐紋。


東野英治郎 。1907年9月17日 - 1994年9月8日、 俳優。
滋賀県蒲生郡東桜谷村鳥居平出身。実家は日野商人の家系。読みは、とうのえいじろう。長寿番組『水戸黄門』で黄門を14年間、全381回にわたって演じた。代表出演作は『東京物語』『七人の侍』等。俳優の東野英心は息子。画像は多磨霊園にて。


鈴木俊一 。1910年11月6日 - 2010年5月14日、 政治家、官僚。
山形県出身。読みは、すずきしゅんいち。内閣官房副長官(第2次岸内閣)、東京都副知事、東京都知事(第9・10・11・12代)等を歴任。石原慎太郎からも「地方自治の巨星」と高く評価された。家紋は丸に五三桐紋。画像は西立川・寶積寺にて撮影。


今井正 。1912年1月8日 - 1991年11月22日、 映画監督。
東京都渋谷出身。寺の住職の子。読みは、いまいただし。社会派映画を手掛け、戦後日本映画の左翼ヒューマニズムを代表する名匠として活躍。代表作は『青い山脈』『武士道残酷物語』『ひめゆりの塔』など。家紋は丸に五三桐紋。


宮内寒弥 。1912年2月18日 - 1983年3月5日、 小説家。
岡山県出身。本名は、池上子郎。読みは、みやうちかんや。1908年の七里ヶ浜遭難事件のことを描いた『七里ヶ浜』で平林たい子文学賞を受賞したことで一躍話題となった。家紋は井桁に五七桐紋。画像は大庭台霊園の墓所にて撮影。


大宮敏充 。1913年4月13日 - 1976年12月23日、 コメディアン。
東京都浅草出身。本名は恒川登志夫。自身が演じたキャラクター「デン助」は戦後浅草喜劇界やテレビで一世を風靡。北海道の当麻町の名物「でんすけすいか」は彼の名前からとられた。家紋は変り五三桐。画像は新宿区・月桂寺の墓所にて撮影。


木村政彦 。1917年9月10日 - 1993年4月18日、 柔道家。
熊本県飽託郡川尻町出身。全日本選手権13年連続保持、15年間不敗のまま引退した。史上最強の柔道家と称されることも多い。家紋は花鬼桐の丸紋。画像は熊本市・大慈禅寺の墓所の家紋。徒然なか話(とぜんなかはなし)様よりご提供頂きました。


加太こうじ 。1918年1月11日 - 1998年3月13日、 紙芝居作家。
東京都浅草出身。本名は加太一松。読みは、かたこうじ。『黄金バット』などの作・画、興行に従事した。日本福祉大学教授。思想の科学社社長も務める。神戸時代の水木しげるに紙芝居作家としての道をつける。画像は新宿原町・幸国寺にて撮影。


盛田昭夫 。1921年1月26日 - 1999年10月3日、 技術者、実業家。
愛知県知多郡小鈴谷村出身。代々続いた造り酒屋の子。井深大らとソニーの前身・東京通信工業を設立。トランジスタラジオ、ウォークマンを世界に売り込み、井深大とともにソニーを世界企業に育て上げる。画像は青山・長谷寺の墓所にて撮影。


東富士欽壹 。1921年10月28日 - 1973年7月31日、 大相撲力士。
東京市下谷区出身。本名は、井上謹一。第40代横綱。横綱土俵入りは迫力と貫禄に満ち、「鼻息が桟敷まで聞こえる」と言われた。幕内最高優勝:6回、幕内通算成績:261勝104敗1分1預54休 勝率.715。引退後、プロレスラーに転向したが伸び悩んだ。


池波正太郎 。1923年1月25日 - 1990年5月3日、 歴史小説作家。
東京市浅草区聖天町出身。父・富治郎は日本橋の錦糸問屋に勤める通い番頭。母鈴は浅草の錺職今井教三の長女で正太郎は長男。美食家としても知られる。 代表作は『鬼平犯科帳』 『仕掛人・藤枝梅安』 『真田太平記』等。画像は西光寺にて。


田村隆一 。1923年3月18日 - 1998年8月26日、 詩人、随筆家。
東京府北豊島郡巣鴨村出身。生家は祖父の代から鳥料理店「鈴むら」を経営。鮎川信夫らと詩誌『荒地』を創刊し戦後詩に大きな影響を与えた。晩年は萩原朔太郎賞の選考委員を務めた。代表詩集は『奴隷の歓び』『ハミングバード』等。家紋は五三桐紋。


石本美由紀 。1924年2月3日 - 2009年5月27日、 作詞家。
広島県大竹市出身。本名は石本美幸。上原げんと、古賀政男、船村徹、市川昭介らの作曲家とコンビを組み、美空ひばり、島倉千代子、都はるみらの楽曲を手がける。代表詞は『港町十三番地』『悲しい酒』『憧れのハワイ航路』等。家紋は丸に五三桐紋。


力道山 。1924年11月14日 - 1963年12月15日、 プロレスラー。
北朝鮮出身。長崎県大村市の農家・百田家の養子となる。読みは、りきどうざん。力士となり関脇に昇進するが突然に廃業。日本プロレスを設立。インターナショナル・ヘビー級王者。日本プロレス界の父と呼ばれている。画像は池上本門寺にて撮影。


胡桃沢耕史 。1925年4月26日 - 1994年3月22日、 作家。
東京市向島区出身。本名は清水正二郎。海外を舞台にした冒険小説や、ユーモア推理小説で人気を博した。『黒パン俘虜記』で念願だった第89回直木賞受賞。代表作『旅人よ』『僕の小さな祖国』『BG残酷物語』『天山を越えて』等。


織井茂子 。1926年1月10日 - 1996年1月23日、 歌手。
東京都目黒区出身。本名は伊東茂子。読みは、おりいしげこ。大村能章歌謡学院の門下となり都能子の芸名歌手デビュー。芸名を織井茂子に戻して『安南夜船』で再デビュー。連続放送劇『君の名は』の主題歌を歌い大ヒットを記録。画像は小平霊園にて。


三宅久之 。1930年1月10日 - 2012年11月15日、 政治評論家。
東京府豊多摩郡杉並町出身。毎日新聞社で記者を経て、フリーランスの政治評論家となる。「ビートたけしのTVタックル」「たかじんのそこまで言って委員会」などに出演。家紋は丸に抱き茗荷紋と丸に五三桐紋。画像は三宅久之の小言辛兵衛より。


実相寺昭雄 。1937年3月29日 - 2006年11月29日、 演出家。
東京都出身。読みは、じっそうじあきお。『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の演出で名を上げる。日本テレビドラマ『波の盆』で文化庁芸術祭大賞を受賞。FIAPF公認の国際映画祭の最高賞を獲得。家紋は五三の桐紋。画像は染井霊園にて撮影。


桂枝雀(2代) 。1939年8月13日 - 1999年4月19日、 落語家。
兵庫県神戸市出身。本名は前田達。読みは、かつらしじゃく。超人的努力と空前絶後の天才的センスにより、客を大爆笑させる独特のスタイルを開拓する。落語家としての定紋は桂米朝一門の結三柏であるが、前田家の墓には丸に五三桐紋がついている。


植村直己 。1941年2月12日 - 1984年2月13日、 登山家・冒険家。
兵庫県城崎郡日高町出身。実家は農家。読みは、うえむらなおみ。世界初五大陸最高峰登頂成功、北極点単独行等を果たす。著書は、『北極点グリーンランド単独行』『冒険』『植村直己の冒険学校』など。国民栄誉賞を受賞。


太地喜和子 。1943年12月2日 - 1992年10月13日、 女優。
和歌山県東牟婁郡太地町出身。三國連太郎、中村勘三郎尾上菊五郎とのロマンスが取り沙汰される。文学座の大女優・杉村春子の後継者、実力派として活躍。代表出演作品は『火まつり』。家紋は五三の桐。画像は巣鴨・勝林寺にて撮影。


舟木一夫 。1944年12月12日 - 、 歌手。
愛知県一宮市出身。本名は上田成幸。読みは、ふなきかずお。橋幸夫、西郷輝彦とともに“御三家”と呼ばれる。中でも学園ソングとよばれるジャンルでは第一人者。学生服と八重歯がトレードマーク。代表曲は『高校三年生』。家紋は五三割り鬼桐紋。


大受久晃 。1950年3月19日 - 、 元大相撲力士。
北海道瀬棚郡瀬棚町出身。本名は堺谷利秋。生涯戦歴は462勝388敗31休。最高位は大関だが、大関在位は5場所に終わり短命記録を作ってしまう。現在は年寄・朝日山を襲名し朝日山部屋を継承。審判委員を務めている。家紋は丸に五三桐紋。


滝田栄 。1950年12月5日 - 、 俳優。
千葉県印西市出身。第24代横綱・鳳谷太郎は大叔父。文学座の養成所を経て劇団四季で活躍。NHK大河ドラマ『徳川家康』では主役を演じる。『料理バンザイ!』の司会。家紋は桐車。画像は谷中・延寿寺の鳳谷太郎(滝田明)の墓所にて撮影。


沖雅也 。1952年6月12日 - 1983年6月28日、 俳優。
大分県別府市出身。本名は日景城児。『おやじ、涅槃でまってる』という遺言を残して新宿京王プラザホテルの最上階より飛び降り自殺。代表出演作『金メダルへのターン!』『必殺仕置人』『太陽にほえろ!』等。画像は青山・長谷寺にて。


曙太郎 。1969年5月8日 - 、 大相撲力士。
アメリカ、ハワイ州オアフ島出身。東関部屋の元大相撲力士。第64代横綱。1996年に日本に帰化。幕内優勝:11回。通算成績:654勝232敗181休 勝率.738 。引退後は、格闘家、プロレスラーとして活躍。家紋は現役横綱時代の化粧回しのデザインから判断。


中村獅童(2代) 。1972年9月14日 -、 歌舞伎役者、俳優。
東京都出身。歌舞伎の名門・小川家(旧播磨屋、現・萬屋)の生まれ。本名は小川幹弘。代表出演映画「ピンポン」「いま、会いにゆきます」「男たちの大和/YAMATO」「レッドクリフ」など。萬屋錦之介、中村嘉葎達の萬屋の役者も同様に桐蝶紋。


千代大海龍二 。1976年4月29日 -、 元大相撲力士。
大分県大分市出身。本名は須藤龍二。旧姓:廣嶋。中学校時代は大変な悪童として有名であったという。九重部屋所属。1999年1月場所で初優勝を果たし、大関に昇進。優勝3回、殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞3回。現在は、年寄・佐ノ山。


上地雄輔 。1979年4月18日 - 、 俳優、タレント、歌手。
神奈川県横須賀市出身。読みは、かみじゆうすけ。父・克明は横須賀市議会議員。『クイズ!ヘキサゴン』でブレイク。同時期に出演していたつるの剛士、野久保直樹と羞恥心を結成し歌手デビュー。顔画像はブログで公開した五三桐入りスーツ姿。


朝青龍明徳 。1980年9月27日 - 、 大相撲力士。
モンゴル国出身。明徳義塾高校に相撲留学。第68代横綱。優勝23回。連勝:35連勝。連覇:7連覇などの記録を持つ。2009年初場所での優勝パレード、節分の豆まきで着用した紋付は桐だった。その他、桜(相撲協会の紋)などの紋付の場合もある。


後藤真希 。1985年9月23日 - 、 歌手、タレント。
東京都江戸川区出身。元モーニング娘。のメンバー。デビューの「LOVEマシーン」ではいきなりセンターを任される。「プッチモニ」としてもデビュー。現在はエイベックス・エンタテインメントに所属。家紋は葬儀のときの紋付より桐紋と判断。


有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)

まさむね





藤紋 -藤原氏に憧れた地方武士の紋- 大久保利通、渥美清、美空ひばり...

藤紋といえば、藤原氏の紋という印象があるが、公家・藤原氏では、牡丹紋の方が優勢だった。

中央で出世の道が塞がれた藤原氏が多く、地方に下り武士化した際に、この優美な藤紋を家紋として採用した。
おそらく、自家と藤原氏の関係を後世まで誇示したかったのだろう。爆発的に広まった。

元々、藤という植物は、他の木に依存して延びる植物である。
その植物の名前を冠した平安時代の藤原氏も、その名の通り、天皇家に依存(寄生)して権勢を拡大した。

もしかしたら、この藤紋の広まりと日本人の依存心の強さ、あるいは権威主義はどこか通底しているのかもしれない。

実際は、片喰、木瓜、鷹の羽、柏についで、5位の使用数である。
全国分布では、岐阜県が1位、静岡県、香川県で2位、岩手県、宮城県、神奈川県、山梨県、愛知県、岡山県、山口県で3位全国くまなく多い。ただ、一見多そうな近畿地方は少ない。京都府、滋賀県は8位、大阪府は10位、和歌山県、兵庫県で12位。

藤紋を使用している有名人は以下の通り。



小寺政職 。1517年 - 1582年、 武将。
播磨御着城主・小寺則職の子として誕生。読みは、こでらまさもと。黒田孝高の進言を受け織田信長に従ったが、後に毛利家に呼応して織田家に反旗を翻す。家紋は藤橘巴紋。顔画像はNHK大河ドラマ「黒田勘兵衛」で小寺政職を演じた片岡鶴太郎。


黒田孝高 。1546年12月22日 - 1604年4月19日、 武将・大名。
黒田職隆の嫡男として姫路に生まれる。近江国伊香郡黒田村の武家出身。諱で通称の「官兵衛」並びに出家後の「如水」の号で有名である。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。家紋は左三つ藤。画像は青山霊園にて撮影。


後藤基次 。1560年5月5日 - 1615年6月2日、 武将。
姫路近郊の神東郡山田村出身。黒田如水豊臣秀頼の家臣。通称は又兵衞。「黒田二十四騎」や「黒田八虎」の一人に数えられた。関ケ原の戦いでは東軍に与し武功で大隈城1万6千石の所領を与えられたが大坂夏の陣では豊臣方につき討死。家紋は下り藤。


加藤嘉明 。1563年 - 1631年10月7日、 武将・大名。
三河国の徳川家康の家臣である加藤教明の長男として出生。羽柴秀吉に見出され、その小姓として仕えるようになる。賤ヶ岳の戦いで活躍し賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた。伊予松山藩主、のち陸奥会津藩初代藩主となる。水口藩加藤家初代。


大久保主水 。江戸時代初期、 江戸水道開設者、菓子職人。
元々三河武士であったが負傷以降、餅菓子を作る特技を生かして家康に菓子を献じる。家康に用水事業を命じられ井の頭池、善福寺池を源に江戸城並びに市中の引水に成功。これが神田上水といわれるわが国の水道の先駆けとなる。家紋は上り藤に大の字。


中江藤樹 。1608年4月21日 - 1648年10月11日、 陽明学者。
近江国に農業・中江吉次の長男として誕生。朱子学に傾倒するが次第に陽明学の影響を受け、格物致知論を究明するようになる。身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商工人まで広く浸透し「近江聖人」と呼ばれた。家紋は藤巴。


安藤昌益 。1703年 - 1762年11月29日、 思想家。
秋田比内二井田村出身。生家は農家。医師としての修行をして、陸奥国八戸の櫓横丁に居住し開業医となった。その著書『自然真営道』において、身分・階級差別を否定して、全ての者が労働に携わるべきであると主張した。家紋は下り藤紋。


長谷川平蔵 。1746年 - 1795年6月26日、 旗本。
400石の旗本・長谷川宣雄の嫡男。本名は長谷川宣以。平蔵は通称。23歳の時に江戸幕府10代将軍・徳川家治に御目見えし長谷川家の家督相続人となる。火付盗賊改役を務めた。池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公として知られている。家紋は藤巴。


谷文晁 。1763年10月15日 - 1841年1月6日、 画家。
江戸下谷根岸の生れ。江戸南画の大成者。その画業は上方の円山応挙狩野探幽と共に「徳川時代の三大家」に数えられる。代表作は『日本名山図譜』 『写山楼画本』等。渡辺崋山立原杏所等の門人を擁した。家紋は下り藤に花菱。画像は浅草源空寺。


藤田東湖 。1806年5月4日 - 1855年11月11日、 政治家、学者。
常陸国東茨城郡水戸城下の藤田家屋敷に生まれる。父は水戸学者藤田幽谷。遠祖は平安時代前期の政治家・小野篁に遡ると言われる。東湖神社・祭神。徳川斉昭の腹心。斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し江戸屋敷に幽閉。家紋は下り葉出バラ藤紋。


大久保一翁 。1818年1月5日 - 1888年7月31日、 政治家。
旗本の大久保忠尚の子として出生。勝海舟の能力を見出し阿部正弘に推挙。蕃書調所頭取・駿河奉行・京都町奉行等を歴任。勝海舟山岡鉄舟らと共に江戸幕府の無血開城に貢献。明治維新後は東京府知事を務める。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


元田永孚 。1818年10月30日 - 1891年1月22日、 武士、儒学者。
熊本藩士・元田三左衛門の子として生まれる。54歳にして宮内省に出仕し明治天皇の侍読となる。枢密顧問官として、『教育勅語』の起草への参加。儒教による天皇制国家思想の形成を推進した。家紋は隅立て角に上り藤紋。青山霊園の墓所にて撮影。


安藤信正 。1820年1月10日 - 1871年11月20日、 老中。
江戸出身。陸奥磐城平藩の第4代藩主・安藤信由の嫡男。読みは、あんどうのぶまさ。陸奥国磐城平藩の第5代藩主。幕末に若年寄、次いで老中を務め、孝明天皇の妹・和宮と第14代将軍・徳川家茂の結婚という公武合体を実現。家紋は上り藤紋。


狩野芳崖 。1828年2月27日 - 1888年11月5日、 日本画家。
下関の狩野派の絵師の家に生まれる。米国人の美術史家フェノロサと出会い西洋絵画の写実や空間表現を作品に取り入れ名作「悲母観音」を描く。東京美術学校の教官に任命されたが同校の開学を待たずに死去。家紋は藤輪。画像は谷中・長安寺にて。


安藤則命 。1828年3月 - 1909年11月23日、 官僚。
薩摩鹿児島藩士。読みは、あんどうのりなが。薩摩派閥の官僚として東京府市中取締隊長、警視庁中警視を歴任するが贋札事件を追及し上層部の干渉によって罷免される。後に元老院議官をへて貴族院議員となる。家紋は下り散藤紋。青山霊園にて撮影。


大久保利通 。1830年9月26日 - 1878年5月14日、 政治家。
薩摩国鹿児島城下高麗町に下級藩士として誕生。西郷隆盛木戸孝允と並んで「維新の三傑」と呼ばれる。維新後は内務省を設置し自ら初代内務卿として実権を握ると地租改正、徴兵令、殖産興業政策を推進。家紋は三つ藤巴。画像は青山霊園にて撮影。


清河八郎 。1830年11月24日 - 1863年5月30日、 浪士組の幹部。
出羽国庄内藩領清川村の郷士の斉藤豪寿の子。桜田門外の変後、尊王攘夷の思想を強め、清河塾に憂国の士を集める。新選組の前身、浪士組を結成するが、後に近藤勇土方歳三芹沢鴨等と対立する。家紋は三つ藤巴。画像は小石川・伝通院にて撮影。


三吉慎蔵 。1831年11月14日 - 1901年2月16日、 長府藩士。
長府藩の今枝流剣術師範・小坂土佐九郎の次男として生まれる。読みは、みよししんぞう。田辺惣左衛門の養子、後に長府藩士・三吉十蔵の養子となる。坂本龍馬の知遇を得て、一緒に京都まで同行。寺田屋事件では坂本龍馬を助けた。家紋は上り藤紋。


中村正直 。1832年6月24日 - 1891年6月7日、 啓蒙思想家。
江戸で幕臣の家に生まれる。サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』の邦題で出版、100万部以上を発行。同人社創立者。興亜会会員。福沢諭吉森有礼西周らと明六社を結成。家紋は下り藤に違い鷹の羽紋。画像は谷中霊園にて撮影。


江藤新平 。1834年3月18日 - 1874年4月13日、 佐賀藩士、政治家。
江藤家は肥前小城郡晴気保の地頭千葉常胤の末裔を称する。明治新政府では近代的な集権国家と四民平等を説き国法会議や民法会議を